第1話
サリナ・ハートメイヤーは今、白い絨毯と白い壁で囲まれ、白い布で装飾された部屋にいた。脚を肩幅まで開いて直立し、目を閉じていた。彼女から3メートルほど離れた位置で老人がひとり、じっと彼女を見据えて対峙していた。 白の修法塾。そう呼ばれる場所に彼らはいる。 精神を集中させたサリナを淡い光が覆い、彼女の周りにいくつかの白い幾何学的な紋様が浮かび上がる。それらが回転して円形の陣となった。 目を開き、サリナが唱える。 「幻視せよ。汝に私は映らない――インビジ」 陣が一瞬開いたかと思うと収束し、彼女の身に溶け込んだ。その直後、彼女の姿は老人の前から消えていた。 そのまましばしの時が流れ――老人が告げる。 「オッケー! いい感じじゃん!」 修法塾から嬉々として駆け出してきた孫娘に、エレノア・ハートメイヤーは微笑んだ。 「合格したのね?」 「うん! ようやく初級認定だよ〜」 疲れた様子でテーブルに突っ伏す孫娘の前に、エレノアは温かい紅茶と焼きたてのシフォンケーキを出してやった。疲れた時には甘いものを、が彼女の持論である。そしてサリナは祖母の作るお菓子はこの世の至宝だと確信している。 「はっはっは。サリナはのんびり屋だと思っていたが、なかなかどうして白魔法にかけては要領が良いわい」 「なによー」 ケーキにかぶりうきながらむくれる孫娘に、ダリウ・ハートメイヤーは自分の印を捺した賞状を差し出した。初級白魔法修法証書――フェイロン村白の修法塾塾長ダリウ・ハートメイヤー。400年前の統一戦争でイリアス王国がエリュス・イリアを統一して以来、エリュス・イリア全土で効力を発揮するようになった技能証明書である。 「ふふふ。これで夢の宮仕えへの階段を1段上ったのね」 王都イリアスで役人として働くのがサリナの夢である。登用試験には白魔法、黒魔法、時魔法のいずれかの初級術の修法が必須とされている。 「登用試験の勉強は進んどるのか?」 「うう。聞こえない」 夫の意地悪な口調に頭を抱えて足をばたつかせる孫娘に、エレノアは優しく声を掛けた。 「サリナ、休憩したらでいいんだけど、暗くならないうちにセリオルのところにお遣いを頼まれてくれない?」 辺境の村フェイロンは、山林と田園に囲まれた自然豊かな集落である。夕刻、元気よく村の中を走り回る子どもたちの声を聞きながら、セリオル・ラックスターは自分の店で客の応対をしていた。 「症状から推測すると、おそらく蛇に噛まれて神経毒を受けてしまったんでしょう。この麻痺治しが良く効くと思いますよ」 やんちゃ盛りの息子がぐったりとして動かないと血相を変えて駆け込んできた女に、彼は丁寧に応じた。女がおぶってきた息子の足首には蛇に噛まれた痕があり、診察は容易だった。 少年に薬を飲ませて休ませると、しばらくして血色が良くなり、足首の傷痕から小さな牙のようなものが2本、ぽろりと押し出されるようにして落下した。毒蛇の牙だ。セリオルは眼鏡を掛け直し、ふっと息を吐いた。 「牙が抜けましたね。もう大丈夫ですよ」 ありがとうございました、と深々と頭を下げて礼を述べ、代金を支払って親子は帰って行った。あの蛇に噛まれた者は大抵気味悪がって残された牙を放置していくが、この牙がさっきの薬の材料になっているという事実は、告げない方が良いと彼は考えていた。 蛇の牙を材料をしまう棚に収めたところで、聞き慣れた声が彼の名を呼んだ。 「セーリオールさーん」 「サリナ」 「おばあちゃんのお遣いで来ましたあ。ジャスミンとナツメグくださーい」 なぜだか疲れた様子でサリナが店先に出してある薬品の棚に顎を載せ、口をとがらせてそんなことを言っている。彼女はこの店の中に入ってくるのが苦手だ。軒に吊るして干してあるトカゲやらコウモリやらが怖いのだ。 「初級修法はうまくできましたか?」 セリオルがこだわって扱っている薬効に優れたハーブ類を、エレノアは高く評価していた。セリオルはそれが嬉しく、最近ではエレノアが料理にお菓子にお茶に使うハーブを作るのに力を入れている。 「うん、合格したよ! へとへとなのにお遣いでへとへと」 「ははは。大変ですね――じゃ、行きましょうか」 「へ?」 「ちょうど私からもエレノアさんにお渡ししたいものがあるんですよ」 サリナの家に向かう途中、セリオルは荷物が重いふりをして出来るだけゆっくりと歩いた。昔から妹のように可愛がってきたサリナも大きくなったものだと、彼を急かして背中を押す手を感じながらそう実感する。実際にはサリナは小柄だし掌も小さいが、そう思わずにはいられなかった。 ことさらゆっくりと歩いたため、サリナの家に着いた頃には日も落ちていた。サリナがセリオルの前に出て玄関のドアを押す。 「ハッピーバースデー、サリナ!」 「えっ!?」 驚いて立ち尽くすサリナを拍手が包んだ。祖父、祖母、セリオル、そして友人たち。お遣いの間に最後の仕上げが整った、あたたかなサプライズ・パーティだった。 数時間の楽しいひとときが過ぎ、エレノアの淹れたお茶でほっと一息ついたころ。サリナ、ダリウ、セリオルの3人がテーブルについていた。エレノアはキッチンで洗い物をしている。賑やかなさざめきの後のゆったりとした時間。食器が洗われるカチャカチャという音だけが室内に響く。 ジャスミンのお茶をごくりと飲み干し、口を開いたのはセリオルだった。お茶を飲んだばかりだというのに、喉が渇くのを彼は感じていた。 「さて……サリナ」 「へ?」 気の抜けた返事をするサリナに、セリオルは真剣な眼差しを投げかけた。サリナが椅子に座り直す。ダリウは湯飲みを持ったままテーブルの一点を見つめている。一瞬、食器の音が止んだ。 「な、なに……?」 「君は今日、18歳になりました。いよいよこの時が来ました――この話をする時が」 「え……なに、何の話?」 セリオルとダリウを交互に見るサリナ。ダリウは黙ったままだ。ひとつ息を吐き出して、セリオルは続けた。 「これまで、お父さんのことを考えたことはありますか?」 「え、お父さん? 私がちっちゃいころに山で亡くなったって――」 「それはね、サリナ、嘘なんです」 サリナは混乱した。目の前のこの展開の何にどう反応すればいいのかがわからなかった。それに彼女は違和感を感じてもいた。なぜこの話をセリオルがするのだ? 兄のように慕っているとはいえ、なぜ祖父や祖母ではなく、セリオルが? 「君のお父さんは、王都イリアスの幻獣研究所というところにいます。より正確に言うならば、幽閉されている」 「サリナ、マジな話じゃ」 あまりのことに狼狽する孫娘に、ダリウがきっぱりと告げる。そこへエレノアがやって来た。いつの間にか洗い物は終わり、その手には厳重に封のされた箱を持っている。テーブルに置かれた箱を開封したのは、やはりセリオルだった。 赤い光とともに熱気が立ち込める。勢い良く燃え盛る炎のような熱気。それは箱の中から放たれていた。 「これはリストレイン。君のお父さんが研究していた代物です」 それは赤く輝く金属だった。外見は腕を守る防具、もしくは拳に装備して武器とするような形状に見えた。 「もうひとつあるぞ――クリスタルじゃ」 ダリウが懐から取り出し、ことりと音を立ててテーブルに置いた赤色を帯びた丸い水晶のような物を見て、セリオルは驚いたようだった。リストレインには円形の穴が3つ開いている。左端の穴に、ダリウはクリスタルを嵌め込んだ。熱波の勢いが増し、陽炎の中に小さなドラゴンの影が浮かんだ。サリナはその鳴き声も聞いた気がした。 「あやつも抜け目が無いわ」 愉快そうにダリウが呟く。そしてセリオルがサリナに告げる。 「サリナ。私と共に、お父さんを助け出す気はありませんか?」 |