第10話

 晴天である。
 太陽がこれでもかとばかりに渾身の力で燦々と光を注いでいる。無尽蔵に降り注ぐ輝きは海原に照りかえり、波の動きに千々と散りながらも、その紺碧とのコントラストを織りなしている。海鳥が甲高い声で鳴きながら飛んでいる。潮風はサリナの髪をなびかせ、彼女の首筋を心地よくくすぐっていった。
「気持ちいいなあ。海」
 船旅は快適だった。生まれて初めての船という乗り物に、サリナは内心かなりの興奮を覚えていた。カインにからかわれそうだったので外には出さないように努めたが、いざ乗船しようという際に甲板に足を着けた時、笑っていた膝が崩れかけた。
 乗ってみると、船とは意外にも速く進む乗り物だった。海というものも船というものも、これまでサリナにとっては、絵などで見るだけのものだった。海の広さはなんとなく想像がついた。しかしその美しさには心底仰天した。住むなら絶対に海の見える街がいいと、サリナは胸に深く刻み込むのだった。一方、絵の中の船は当然のことながら常に静止していた。波の割れる絵から力強そうだとの印象はあったものの、悠然と歩むように進むものとばかり思っていた。
 ざあざあと海原をかき分けて突き進む速度は、チョコボに乗った時くらい出ているのではとサリナには思われた。波に応じて揺れるのも、彼女にはたまらなく楽しい経験だった。
 一方、その揺れによって地獄を見ているのはカインだった。船旅に慣れているはずの彼は、どうやっても船酔いを克服することができないのだった。
 今、サリナたち4人はセルジューク群島大陸インフェリア州のロックウェルへと向かう大型漁船の甲板上にいた。蒸気機関を搭載した漁船は、彼らを数日かけて大陸へ運ぶということだった。潮の流れにもよるが、2,3日を目安に考えれば良いと船長は言っていた。
 ユンランを出発したのは昼を回ってからだった。サリナが泥のように眠っていて起きなかったからだ。これまで健康そのものの生活をしていたサリナには、ここ数日の寝不足は堪えていたようだった。
 その日の午前中、自警団は獅子奮迅の活躍を見せていた。彼らはセリオルから聞いた野盗の砦から、迅速に宝物類や強奪された金品等を回収していた。大半は持ち主不明だったが、回収された物の中からあの老夫婦の路銀も返還された。自警団詰所で返還に立ち会ったセリオルは、再び涙する夫婦から感謝の言葉を大いに受け取ったという。
 図らずもユンランの英雄となってしまった4人は、村人たちから盛大な見送りを受けて出発したのだった。
 大陸に戻るところだった老夫婦も同乗した。船長は頑なに断ったが、老夫婦はほとんど無理やり乗船料を押しつけていた。
「サリナちゃん」
 声を掛けながら老夫婦が甲板へやって来た。にこにこと笑顔である。入れ替わりで、セリオルが船室へと入って行った。
 サリナたち4人と老夫婦は乗船してすぐ、船室で改めて自己紹介をした。夫はロベルト・ウッドマン、妻はリズ・ウッドマンと名乗った。偶然にも、彼らの住まいはロックウェルにあるのだという。スピンフォワード兄弟は自分たちの家には戻らず、直接フェリオの師のもとへ報告に行くと言うので、ウッドマン夫妻がサリナとセリオルのロックウェル案内を買って出てくれた。
 サリナとウッドマン夫妻が談笑する傍らで、カインは顔面蒼白で唸る元気も無く、甲板の縁にもたれかかっていた。甲板にいて船室よりも船酔いが楽になるわけではなかったが、風に当たると多少は気分が晴れるのと、誰にも遠慮せずに思うさま嘔吐できるのがメリットだった。
「やれやれだ……いつんなったら慣れるんだ、俺ぁ」
「船酔いですか」
 隣に腰を下ろしたのはセリオルだった。いつの間にか再び甲板に出たらしい。
「情けねえよなあ。フェリオは涼しい顔だってのに」
 反対側の甲板で、フェリオは腰かけたまま海を眺めている。頬杖をついて、珍しく機嫌が良さそうに見えた。ロックウェルでの学会発表が、やはり楽しみなのだろう。
「まあ、乗り物酔いはどうしようも無いですからね。体質ですから。三半規管なんかは鍛えるのも大変ですし」
 言いながら、セリオルはカインの前に薬包をひとつと水筒を差し出した。青い顔で目も半開きのカインは、それが何であるか瞬時には理解できなかった。
「なんだ、薬?」
「乗り物酔いの薬を調合しました。飲んでみてください」
「おおう、マジで? サンキュー」
「まあ、本来酔い止めは酔う前に飲むものですからね。効くかどうか」
 セリオルはそう言ったが、飲んでから5分としないうちにカインの顔色はみるみる良くなった。生き返ったように立ち上がり、伸びをし、側転をし、宙返りをし、ヒャッホウと叫び、サイコーだと吼え、元の位置に座ってセリオルに抱きついた。
「俺はもうあんたがいないと生きていけない」
「勘弁して下さい」
 真剣な口調で言うカインに、セリオルは苦笑した。その様子にサリナとウッドマン夫妻が楽しげに笑い、フェリオはやれやれと言いながらも小さな笑みを浮かべるのだった。

 工業の街、ロックウェル。その名の通り、世界中で最も工業の発達した街である。中でも蒸気機関の技術は進歩が目覚ましく、今では馬力の必要な機械はほとんどが蒸気機関を搭載している。ロックウェルには蒸気機関を始めとする様々な分野の技師たちが集まっている。街の主産業を支える彼らへの支援のために、街には公共の蒸気機関式ベルトコンベアが縦横無尽に敷設されている。それらは地面にではなく、空中に架かる橋のように建物と建物の間に設置されているのだった。ベルトコンベアは金属製の長大なコンテナによって覆われているので、ロックウェルの街並みは四角い建物を角ばった金属の筒が繋ぎ合わせるという、一種奇怪な様相を呈していた。
「うわあ……なんか、すごい。この街」
 ロックウェル港に接岸した船の甲板から身を乗り出して街の風景を眺め、サリナが唖然としてそう漏らした。
「行きますよ、サリナ」
「あ、はい!」
 港に降り立ってみると、そこは潮と機械油の匂い、そして蒸気の独特な香りが立ち込める不思議な空間だった。サリナは村の規模を超えた初めての大きな街の活気に圧倒された。歩き回るどの人も活力に溢れ、躍動的だった。
「ようこそ、ロックウェルへ」
 スピンフォワード兄弟、そしてウッドマン夫妻がサリナとセリオルを振り返った。最も嬉しそうなのはフェリオだった。彼は機械油と蒸気の匂いを吸い込むように、大きく深呼吸をした。
 一行はそれぞれの目的地へ向けて歩き出した。カインとセリオルが別れの握手を交わした。ウッドマン夫妻がセリオルと行き先について話し始め、カインはフェリオが来るのを待った。サリナもカインに別れの挨拶をしようと、少々の悲しみを連れて足を踏み出した。
「サリナ」
 第一歩目を踏み出し終える前に、名を呼ぶ声があった。振り返るとフェリオだった。これまでフェリオから名前を呼ばれたことの無かったサリナは、やや驚いた。
「はい?」
 フェリオは真剣な目でサリナを見つめていた。その眼差しは、以前のような冷たく鋭いものではなかった。真摯な光を帯びた瞳だった。
「悪かった」
「……え?」
「ユンランでのこと。君の実力も知らないまま、俺は君を軽んじてしまった。悪かった。助けられたのは俺だったのに、礼も言えずに」
 まっすぐに自分を見つめてそう言うフェリオに、サリナは驚きを隠せなかった。そして同時に、心の底から嬉しく思った。
 数日の間だったが、サリナはフェリオやカインと共に過ごした時間が楽しかった。その中で、フェリオとの関係があまり上手くいかなかったことに後悔の念を抱いていた。とはいえ彼女は、フェリオと言葉で関係作りはできないと感じていた。だからフェリオが自分のことを認めてくれていたことが、そしてそれを自分に伝えてくれたことが嬉しかった。
 気がつくと、両目から涙が流れていた。溢れ出るとは言わないくらいの、静かな涙だった。
「お、おいおい。泣くなよ」
「ごめんなさい、私、嬉しくて」
 狼狽し、困ったように頭を掻いたフェリオは、ポケットからハンカチを取り出し、サリナに渡した。礼を述べて涙を拭い、サリナは笑顔を作った。
「ありがとうございます、フェリオさん。楽しかったです」
「――ああ、俺も」
「それじゃあ、私行きますね」
「ああ」
 笑顔で背を向け、歩き出そうとしたサリナに、再度フェリオから声がかかる。
「あ、そうだ、サリナ」
「はい?」
 振り返るサリナに、フェリオはやや照れたように口ごもりつつ、こう言った。
「歳も一緒なんだしさ。呼び捨てでいいし、敬語じゃなくていい」
 もう会わないかもしれないけど、と言いかけてやめたフェリオに、サリナはやはり笑顔だった。
「――うん、わかった、フェリオ!」
 こうしてサリナとセリオルは、スピンフォワード兄弟と別れた。笑って手を振りながら雑踏の中へ消えていく兄弟を見送って、ふたりはウッドマン夫妻に案内を頼んだ。
「それで、どこに行きたいんだい?」
「ある人物を探したいんです。名は、ルーカス・オーバーヤード」
 その名を聞いて、ウッドマン夫妻は揃って顔を曇らせた。セリオルが怪訝そうな顔をする。サリナは誰だかわからないのでぽかんとしていた。
「セリオル、言いにくいことだが――ルーカスは、亡くなったんだよ」
「もう、8年も前になるわ」
 夫妻の言葉がよほどの衝撃だったのか、セリオルは目と口を見開いたまま固まってしまった。声にならない声を絞り出しているので、息が出来なくなったのかとサリナは慌ててしまった。
「い、一体、どうして?」
「職場で事故があったと聞いたよ。夫婦でしていた重要な実験の最中に、機械が暴走したと」
「そんな、まさか、ルーカスさんとレナさんが――」
 呟いた後、セリオルは額に手を当てて目を泳がせた。ルーカスという人物がセリオルにとって、極めて重要な位置を占めていたのだとサリナは推測した。これほど狼狽するセリオルは、彼女の記憶の中にはいなかった。
「セリオルさん、大丈夫?」
 覗き込んだサリナと目が合い、セリオルは我に返った。サリナの前でうろたえてしまったことを、彼は密かに恥じた。
「え、ええ。大丈夫です。少し驚いただけですから」
 顔を上げ、セリオルはロベルトに向き直った。深呼吸をして額の汗をぬぐい、落ち着きを取り戻した彼はロベルトの目をしっかりと見つめた。
「確か、ルーカスさんにはかつて師事した教授がいらっしゃったはずです。彼もこのロックウェルで隠遁生活を送っていると聞いたのですが、ご存じありませんか?」
「どうだろうな……名前はわかるかい?」
「はい。その教授の名は、シド。シド・ユリシアスです」

 ウッドマン夫妻に案内されたのは、ロックウェルの奇怪な家々の中でも特に奇々怪々なる建物だった。外からは不安定な鉄パイプのバラックの上に乗っかっただけに見える。外壁からはベルトコンベアのコンテナだけでなく、折れ曲がった金属の煙突や正体不明のレバーなどがいくつも突き出している。家の中では蒸気機関が動いているのだろう、組まれた鉄パイプがみしみしと軋むほど家自体が小刻みに震えている。その動きと連動して煙突から蒸気が噴き出し、レバーがガチャガチャと動いている。
「蒸気機関搭載住宅」
「まさに」
 サリナとセリオルはぽかんとして口が閉じなくなってしまった。その様子を笑いながら、ウッドマン夫妻は鉄パイプ製にスチールメッシュを渡しただけの階段を上って、玄関をノックした。
「おーい、シドさん! お客さんじゃよ! おーい!」
 中から聞こえてくる蒸気機関の音に負けないように、ロベルトは大声で呼び、玄関の引き戸を殴る。しばらくそれを繰り返しても返事は無かった。明らかに無人ではないはずだが、呼び声が聞こえないのだろうか。
 ぜえぜえと息を切らすロベルトを見かねて、セリオルが交代を申し出た。そして彼が息を吸い込み、ノックのために腕を振り上げたその時だった。
「はいはいはいはい何だよ誰だよ、忙しいんだよこっちゃ――あ?」
 ガラリと開かれた引き戸から覗いたカイン・スピンフォワードの顔面に、セリオルのノックが炸裂した。

挿絵