第102話

 クラーケンのマナが限界まで膨れ上がった。カインを中心とした攻撃が雨のように幻魔に降り注いだが、蒼霜の洞窟内に満ちた水のマナを吸収するクラーケンを止めるには至らなかった。
「このイカ野郎……いい加減大人しくしたらどうだ!」
 焦る気持ちをなんとか押しとどめ、カインはラムウの力でクラーケンに攻撃を浴びせかける。彼の振るう鞭は雷の大蛇となって紺碧の幻魔を打ち据える。雷のマナには弱いはずのクラーケンは、その攻撃の瞬間には苦悶の声を上げる。しかしすぐに、吸収したマナでその傷を癒すのだった。サリナが破壊した触手も、既に再生されていた。
「どうしたらいいの……間に合わない!」
 サラマンダーの力が完全に無効化されるため、サリナは己自身のマナをアシミレイトを利用して増幅し、輝く鳳龍棍に乗せて放出していた。だが、彼女の引き出せるマナにも限界がある。この広い洞窟、いやそれどころか、山の麓に存在するフェイロン村にまで影響を及ぼしたマナである。敵がその力とするマナは、圧倒的な量だった。
「これだけ増幅させても、通じないのか!」
 フェリオはアシュラウルの銃で、カインやサリナ、セリオルのマナを増幅させる。恐るべき破壊力を持つはずの雷の銃も、クラーケンの身体の一部を一時的には破壊するものの、すぐに回復されてしまっていた。フェリオは悔しさに歯を食いしばる。自分たちの力が、明らかに不足している。
「はははは……そんなものか、幻獣の力は」
 何度も何度も破壊されては回復を繰り返し、もはやクラーケンの身体は不気味な体液のようなものでぬらぬらと光る、おぞましい化け物の様相を呈していた。そうでありながら、しかし水の幻魔は不敵に笑う。彼は勝利を確信していた。雷帝ラムウの力を得たというあの赤毛の男の力すら、蒼霜の洞窟に君臨する彼の前では、無意味だった。
 サリナと同じく雷のマナでの攻撃方法を持たないアーネスとシスララは、それでも少しでもクラーケンにダメージを与えようと、あらん限りの力で攻撃を行っていた。巨大な岩の塊や土の槍、ほうき星のような光の粒や聖なる光の波動などが放たれ、クラーケンに襲いかかる。
「じり貧ね、これじゃ」
「はい……でも」
 焦燥を浮かべるアーネスの表情とは対照的に、シスララには何か確信めいた自信が窺えた。隣りに立つその純白の竜騎士の顔を見て、アーネスは意外そうな顔をした。それに気づき、シスララは額に汗を浮かべながら微笑む。
「きっと、上手くいきます」
「え?」
 シスララの目線の先を、アーネスは追った。そこには巻き起こるマナの風に長い黒髪を煽られながら、翠緑の光を纏って黒魔法を放つ、セリオルの姿があった。
「カイン」
 その激しいマナの嵐の中で、セリオルがカインの名を呼んだ。その声は沈着で、カインは意外さを持って魔導師の顔を見た。若き天才黒魔導師の目は、静かに不気味な敵を見据えていた。
「間もなく、クラーケンは全てのマナを放出して、最大の攻撃に出るでしょう」
「ああ。どうやって止める? ラムウの力でも止まらねえ。リバレートでもしてみるか?」
「ええ、お願いします」
 セリオルの返答に、カインは驚いた。この状況でラムウのリバレートを使ったとしても、クラーケンのマナを奪い尽くすことが出来ないのは明白だった。それを分かっていて、カインは冗談を口にしたつもりだった。
「いや、おいおい、マジか?」
「ええ、大マジです」
 セリオルはそう言って、毒消しと水のマナストーンを調合し、仲間たちに水のマナに対する守りを与えた。そして戸惑うカインに向けて、こう続けた。
「ただし、私がタイミングを測ります。声を掛けますから、その時に全力でお願いします」
「……わかった」
 カインは頷いた。セリオルには何か計略があるらしい。その目と表情がそう語っていた。カインはそれを信じることにした。これまで、セリオルの作戦通りに行動して、失敗したことなど無かった。
「頼むぜ、セリオル! 頼りにしてっからよ!」
「ええ。任せてください」
 セリオルはその時を待った。クラーケンが洞窟のマナを吸い上げ、自分の中で練り上げたマナと融合させて放つ、その瞬間を。
 彼は敵をじっと観察していた。クラーケンの力は強い。ゼノアが自らの力とするために生み出したのだから、それも当然だった。しかしそのクラーケンでも、この蒼霜の洞窟に満ちる全てのマナを吸収し尽くすことは、どうやら不可能なようだった。
 水の幻獣、瑪瑙の座。凍える氷の女王、シヴァの御座。遥か昔からハイナン島の水に恵みをもたらしてきたこの洞窟のマナは、幻魔によって吸い尽くされるほど、貧相なものではなかった。
「さあ、準備は整ったぞ!」
 不快な濁流のような声が、哄笑を伴って洞窟に響く。それはリバレーターたちのマナの嵐の中、明確な敵意を持って彼らに届いた。
「ゼノア様に歯向かう、愚かな屑ども! そしてそれに従い、神の誇りすら失った幻獣どもよ! 貴様らの息の根は、ここでこのクラーケンが止めてくれるわ!」
 勝利を確信し、クラーケンはその身に吸収したマナを放出した。それは不気味な濁流の、いくつもの頭を持つ巨大な龍のような姿となって現われた。
「リモソクエ・マナ・フロミネ!」
 荒々しく叫び、クラーケンのマナは暴虐なる水の力の奔流となって放たれた。濁りの龍は怒りと憎悪の化身となって、サリナたちに襲い掛かった。
「カイン、今です!」
 その恐怖に満ちた攻撃に耐えようと身構えたサリナたちの間を、セリオルの凛とした声が通った。雷の戦士は、それに即座に応えた。
「リバレート・ラムウ! 裁きの雷!」
 紫紺の神々しい光が膨れ上がる。クラーケンが瞬間、怯むような声を上げる。しかし濁流の龍は止まらない。
 美しい雷の光の中でクリスタルがカインのリストレインから分離し、雷帝ラムウがその姿を現した。黒衣を纏いし雷の神は、その手に持つ錫杖を振り上げる。カインの声が響く。それに応え、雷帝は凄まじい雷の嵐を巻き起こした。
 その力に、サリナは畏れすら抱いた。雷帝の館で戦った時のラムウの力よりも、更に強力なように思えた。共鳴を高めたリバレーターが放つ幻獣の力は、こんなにも強い。眩い閃光と轟く雷鳴が無数に舞い、紺碧の洞窟を紫紺の光が支配した。
 カインのアシミレイトは解除された。雷帝はその力を使い果たし、クリスタルへと戻ってカインのリストレインに収まった。一瞬の静寂が広がる。
 だが。
「……ぐふ。ぐははははは……貴様らの、負けだああああ!」
 濁りの龍はその力を失ってはいなかった。
 その身を削られ、多くのマナが奪われていた。しかし幻魔は、集めた水のマナの力を守り切った。不気味な錫杖を掲げ、クラーケンは再び濁流を集めて龍と成した。
「そんな……」
 アーネスの心に、暗き闇が触手を伸ばした。彼女の傍らで、カインは地面に座り、茫然としておぞましい龍を見上げている。紫紺のマナは散ってしまった。あの龍を止める術が、他にあるだろうか。
 だが下を向いたアーネスの前に、真紅の風が舞い込んだ。
「リバレート・サラマンダー! フレイムボール!」
 真紅の光が膨れ上がる。誇り高き炎の幻獣、サラマンダーの姿が現われる。炎の龍は、濁流の龍と比べると頼りなく思えるほどに小さい。しかし、真紅の身体にエメラルドの瞳を持つその神は、恐ろしい力を持った敵の前で躊躇い無く火球となった。
「まだ、やれることがあるはずです!」
 少女の姿は小さかった。真紅のマナを纏うサリナの背中は、アーネスよりもずっと小さかった。華奢なその身体の、どこにそれだけの力があるのか。いつもアーネスは、サリナの戦いを見てそう思った。
 そしてその度、アーネスは痛感した。サリナの力の源は、いつも同じだった。
 それは、心の強さだった。どんな危機も、どれだけの強敵も、サリナは心の力で乗り越えてきた。仲間を信じ、必ず勝てると信じて、守るべきもの、救うべきもののために、彼女は立ち向かった。
 少女は跳躍した。サラマンダーの火球の中へと。
 濁流の龍が迫る。敵は瑪瑙の座の幻獣と同等の力を持ち、横溢する水の集局点のマナを集めた幻魔。水の力に弱い炎の幻獣の力が、敵うはずはない。クラーケンの高笑いが響く。
 巨大な火球が、正面から濁りの龍と激突する。勝敗は明らかだった。サラマンダーの力は、みるみるうちにしぼんでいった。
「リバレート・アシュラウル! ドライヴ・ラッシュ!」
 銀灰の狼が、神々しき光と共に現われた。その気高き神狼の背に、フェリオは飛び乗った。
「今行くからな、サリナ!」
 力のマナの塊となって、少年と狼は飛んだ。消えかかった火球の許へ。2柱の幻獣の力は濁りの龍の前でひとつとなり、炎が息を吹き返す。
「無駄だ無駄だ! 碧玉の座の幻獣の力など、通用するものか!」
 勝ち誇ったクラーケンの声。真紅と銀灰の光の中から、サリナとフェリオの声が聞こえる。ふたりは歯を食いしばり、持てる全ての力を使って、圧倒的な魔力を誇る敵にぶつかっていた。
「アーネスさん」
 彼女の名を呼ぶ声があった。純白の光を纏う、美しき竜の騎士。その肩で啼くソレイユも、今は神の光をその身に宿していた。
 アーネスは上を向いた。荒れ狂うマナの嵐の中、彼女は高らかに叫んだ。
「リバレート・アーサー! ソイル・エンゲージメント!」
 琥珀の光が膨れ上がる。額のクリスタルが分離する。美しい毛並みとたてがみ、そして翼を持った神なる獅子。地の幻獣、碧玉の座、雄々しき咆哮と共に大地を駆ける幻の獣、アーサーが現われる。
 光の中、アーネスはこぼれた涙を拭おうとはしなかった。
 アーサーは高く吠え、大地の怒りにも似た土の津波にその姿を変えた。全てを呑み込む土の力が、濁りの龍と戦うサリナとフェリオの許へと飛ぶ。
 シスララはソレイユの額を撫でた。状況は絶望的だ。だが、彼女の心は穏やかだった。
 故郷、エル・ラーダの人々を救うのが、彼女の使命だ。世界のマナを占有しようとしているという、ゼノアという男。彼を止めることで、エリュス・イリアは本来の、美しく健やかなマナに祝福された世界に戻るという。
 そのために、彼女は旅立った。全てを信じられる仲間と共に。彼らと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。そう信じることが出来た。
 シスララはカーバンクルのマナを高めた。純白の光が膨張する。その清らかな光は、誇り高く小さき飛竜、ソレイユの身体も包み込んだ。温かなマナの力に、ソレイユが甲高い声で啼く。
 セリオルの顔を、シスララは見た。サリナたちを見上げる魔導師は、彼女に頷きかけた。それに応えてシスララも頷き、そして彼女は高く跳躍した。
 セリオルは待っていた。サリナたちは、上空で必死に粘っている。濁流の龍の侵攻を食い止めようと、自らと幻獣、全ての力を出し尽くして。シスララも、カーバンクルのマナを纏ったソレイユと一体となって、その防衛に参加した。
 気が逸る。サリナたちの力が尽きる前に、その時を迎えなくてはならなかった。クラーケンはもはや己の勝利を疑わず、目の前で抗うサリナたちを罵倒する言葉を吐いている。腹立たしさに、セリオルは拳を握る。
 その時。セリオルの視界の端で、紺碧の光が生まれた。セリオルの唇の端が、僅かに引き上げられた。
「リバレート・ヴァルファーレ! シューティング・レイ!」
 翠緑の光が膨れ上がる。それは押し負けそうになっているサリナたちの助けとなる、風の幻獣ヴァルファーレの光だった。虹色の巨鳥ヴァルファーレが、リストレインから分離したクリスタルから現われる。甲高く美しい幻獣の声に続いて、大気中から光の粒が集められる。それはヴァルファーレの開かれた嘴に収束し、そして一気に放たれた。
 黄金の光となった風の力は、無数の光線となって飛んだ。それは猛威を振るう濁りの龍に激突する。炎、力、地、聖、風、5つのマナが濁った水のマナを削り取る。
「奔れ、俺のアシミレイト!」
 立ち上がって叫んだ男がいた。赤毛の獣使いは、イクシオンとの融合を果たした。慣れ親しんだ神馬のマナ。紫紺の光とともに、新たなマナを得たカインは更に叫ぶ。
「リバレート・イクシオン! トール・ハンマー!」
 豊かな雷のマナが放出される。嘶くイクシオンの鉤型の角から、大量の雷が放たれる。雷は束となり、ひとつの巨大な槌となった。雷の槌は宙を飛び、サリナたちに加わって濁流を削る。
「無駄だと言うのに、わからん奴らよ」
 クラーケンは悪あがきを続ける人間たちを嘲笑った。彼が放った龍は、瑪瑙の座の幻獣でも止めることの叶わぬ代物だ。集局点に凝集されたマナを集め、彼が練り上げたマナだ。それも、通常の集局点ではない。彼がシヴァを操り、マナを暴力的なまでに高めた集局点のものだ。ラムウの脅威が去った今、碧玉の座の幻獣が束になったところで、その力を削ぎ切ることなど出来るはずがない。
 だが実際のところ、放った時よりも龍の身体は随分削り取られていた。その点に関しては、彼も人間たちの努力を認めていた。ここまで、よく持ちこたえたと言うべきだろう。この場所での戦いでなければ、彼も敗れていたかもしれない。
 だが、この場所以外でこの者たちと戦うことなどあり得なかった。それは彼の役割ではないし、ゼノアもそんなことを望まなかっただろう。
 なぜなら、彼はゼノアにとって大切な戦力なのだから。アシミレイト能力が無かったため、彼は正規の幻魔としてゼノアからは認められなかった。しかし彼の戦闘能力を、ゼノアは高く評価した。ゼノアの邪魔をするサリナたちを止めることを、彼は直々に仰せつかったのだ。それが、ゼノアが彼を信頼している何よりの証だった。
「ゼノア様……私が、私がこやつらを潰します。この私が、このクラーケンが!」
 そして彼は、未だ空中で激突し、濁流の龍とマナを削り合っているサリナたちに留めを刺すべく、更なるマナを注ごうと、錫杖を掲げた。まだ洞窟には、有り余るだけのマナが満ちているのだ。
 だが、その時だった。
 眩く輝く、美しい紺碧の光がサリナたちの後ろで膨れ上がった。
「リバレート・オーロラ! アクアスパイク!」
 それは碧玉の座の幻獣、オーロラの姿だった。銀色のイルカは紺碧の光の中に現われ、美しい清流のせせらぎのような声で啼いた。
 クラーケンは鼻を鳴らした。また碧玉の座の幻獣か。一体それが何になると言うのだ。つまらぬ悪あがきだ……ひと思いに捻り潰してやろう。
 クラーケンはマナを集めた。この蒼霜の洞窟に満ちる、水のマナを。元はシヴァのものだった、この洞窟のマナを。今やそれは、全て彼のものだった。彼が意のままに操り、支配出来るものだった。さあ来い、水のマナよ。シヴァから奪い取った、我が力よ。この愚かな人間どもに、鉄槌を下すのだ!
「……む?」
 おかしい。いくら集めようとしても、マナが集まってこない。なぜだ。先ほどはあんなに簡単に集めることが出来たというのに。さあ来い。来ないか! なぜだ、なぜ来ない!
「無駄だ、バーカ」
 その声は、眼下から聞こえた。吹き荒れるマナの嵐を貫いて、彼に届いた。
 小さな身体で、彼を見上げている者がいた。紺碧の鎧を纏った少年。見たところ、水のリバレーターだ。さきほどオーロラの技を放った者だろう。間もなく解ける幻獣の鎧で、精一杯の虚勢を張っているのか。
 だが、その少年の背後に立つ者の姿が視界に入り、クラーケンは度肝を抜かれた。思わず身体が後ずさる。そうか。そういうことか。だからマナが集まらないのか。
 そこにいたのは、冷厳なる氷の力を司りし、美しき女王。水の幻獣、瑪瑙の座。妖しき美貌で見る者を魅了し、その心を奪い去って凍りつかせる偉大なる女神、シヴァだった。
「な、な、なにいいいいいいい!?」
 濁流の龍がその力を失いかけている。オーロラのマナは、蒼霜の洞窟とシヴァのマナを得て、勢いづいていた。通常よりも遥かに巨大な水の矢となって、オーロラは飛んだ。その力は強かった。
 濁った龍は、オーロラによって削り取られた。サリナたちが少しずつ削ぎ落とした身体に、紺碧の矢が突き刺さった。水の矢は見る間に龍の身を散らした。クロイスの声が響く。オーロラの声が響く。龍は顔を歪め、自らの力を奪う者に恨めしげな目を向けた。オーロラのマナが高まる。水の矢が濁流を貫く。
 そして、マナの嵐は収まった。
 サリナ、フェリオ、シスララが、アシミレイトを解除されて落下する。3人は力の入らない身体で、かろうじて着地した。クラーケンから目を離さず、3人はなんとかクロイスたちのいる場所まで退いた。クラーケンは攻撃してこなかった。
 いや、攻撃することが出来なかった。
「クロイス!」
 仲間たちが自分を呼ぶ声に、クロイスは答えた。全員が幻獣のマナを放出し尽くし、アシミレイトを解除されている。カインに至っては息も荒く、声を出すことも出来ないようだった。ラムウとイクシオン、2柱の幻獣を連続して使役し、リバレートまで行ったのだから、無理も無かった。
「すまねえ。遅くなった」
 事情を知るセリオルとシスララのふたりを除いて、仲間たちは驚いていた。それはあのクラーケンの攻撃をしのぎ切ることが出来たからか、あるいは彼の後ろに立つ、紺碧の光を纏う美しい女王のためか。
「クロイス、あの……」
 サリナが呆然とした様子で、クロイスとシヴァを見比べていた。状況が呑み込めないのだろう。
「ああ、シヴァだ」
「はじめまして。よろしくね」
「え? え? ……ええ?」
「おいおい、どういうこった?」
 あたふたし始めるサリナとカインの肩に、セリオルが手を置く。それだけで、サリナは少し落ち着いた。カインは首を捻っている。
「わりい、事情は後で話す。今はとりあえず、あいつをぶっ飛ばす」
「ええ。お願いします」
 セリオルはクロイスを送り出した。あまりのことに驚愕し、動けないでいる幻魔の許へ。その背中は決して大きくはない。しかし今、その少年はいつもよりも、随分と大きく見えた。
「行くぜ、シヴァ。力を貸してくれ」
「ええ」
 シヴァが光を放ち、小さなクリスタルとなった。紺碧の美しいクリスタルは、クロイスのリストレインに涼やかな音を立てて収まった。クロイスはその短剣型のリストレインを掲げ、叫んだ。
「弾けろ、俺のアシミレイト!」
 神々しく輝く光が溢れ出す。氷の女王の、美しい紺碧の光。その膨大な光の中でリストレインが変形し、クロイスの新たな鎧となった。オーロラのものよりも、身体のより多くの面積を覆う鎧。気高き紺碧のマナに祝福されし、シヴァの鎧だ。
「そんな馬鹿な……シヴァのマナは俺が奪い尽くしたはずだ……」
 信じられないといった様子で、クラーケンは首を振る。光を纏う小さき者が、彼に向かって歩いてくる。
「だからてめーはバカだってんだよ。お前がマナを奪えるなら、幻獣はマナを与えることが出来てもおかしくねーだろ」
「なに……?」
 クラーケンは考えた。マナを与える? 幻獣が、幻獣に。水の幻獣……オーロラが、シヴァにマナを与えて助けたと言うのか?
「てめーが調子こいてあの気味のわりい龍をなんだかんだやってる間に、シヴァを復活させたんだよ」
 敵のマナが高まっている。クラーケンは後ずさりした。あの小さな身体に、蒼霜の洞窟のマナが集まっている。それも、恐るべき速度で。本来の主であるシヴァの許へ、マナが収束している。
 認めたくはなかった。だが、認めざるを得なかった。この身を包む感情を。生まれて初めて、彼はそれを感じた。
 それは、恐怖だった。
「戦う時は、もっと周りを見ろ。それが俺からの助言だ。ま、もう使うことはねーだろーけどな」
「だ……黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 愚かな人間風情が!」
 クラーケンは、ゆっくりと歩いて近づいてくる人間に、ありったけのマナを放った。洞窟のマナが無くとも、彼の本来持つマナも強いのだ。瑪瑙の座と同等の力を、彼は持っているのだ。だから不意打ちだったとはいえ、シヴァを支配することが出来たのだ。この実力で、勝てばいい。それだけのことだ。何を恐れることがある。
 だが、彼の攻撃はことごとく回避された。いや、敵に当たらなかったわけではない。むしろ、敵は自ら彼の放ったマナに手を伸ばした。そして弾き飛ばした。信じがたいことだった。彼のマナは、人間の手に触れて、弾き飛ばされた。
「無駄だ。洞窟のマナを全部味方につけた。てめー程度のマナじゃ、もうビクともしねーよ」
 静かに、クロイスは告げた。目の前の醜悪な化け物に、宣告した。お前の敗北は、確定した。
 恐れを抱いた幻魔は、彼の敵ではなかった。シヴァは蒼霜の洞窟の清らかなマナを集め、クロイスの力に変換した。逆に、クラーケンはそのマナを減少させた。シヴァの力に抗えず、マナを奪われていた。
 クロイスは地を蹴り、両手に短剣を逆手にして構え、クラーケンに迫った。彼の振るう刃はシヴァの氷によって祝福され、クラーケンの不気味な身体を切り裂いた。そのたびに大きなマナが幻魔から剥ぎ取られた。クラーケンは必死にその身を守ろうとしたが、シヴァの怒りも篭った攻撃の前に、その防御すら無意味だった。
「そんな……そんな……ここでもお役に立てなければ、俺は、俺は!」
 クラーケンは混乱していた。クロイスは、そんな幻魔に哀れみを覚えた。ゼノアの手によって生み出され、捨て駒のように利用された化け物。それでも創造主であるゼノアを慕い、クラーケンは戦ったのだ。その行動は許すべきものではなく、その存在を容認することも出来ない。しかし、クロイスはかつて、社会から見捨てられたようにして生きてきた自分と、この哀れな存在を重ねていた。
「俺は、一体どうやってゼノア様に尽くせば良いのだ! 一体、いったい、どうすれば!」
「うるせえよ!」
 クロイスは怒鳴った。やり場の無い怒りが込み上げていた。どうにもならないその感情に、彼はいつの間にか涙をこぼしていた。ゼノアが憎かった。こんなみじめな存在を創り出し、利己的で傲慢な行動ばかりを取るあの男に、はらわたが煮えくり返るようだった。
 目の前で怯える幻魔に、彼は短剣を向けた。
「……今、楽にしてやるよ。あの世で見てな。お前らの弔いは、俺たちがする」
 クラーケンは声にならない声を上げた。クロイスはシヴァの力を解放する。
「リバレート・シヴァ! ダイヤモンドダスト!」
 紺碧の光が膨れ上がる。シヴァのクリスタルがリストレインの鎧から分離し、美しい女王の姿へと変わる。シヴァは両腕を広げ、膨大な量のマナを集めた。そして彼女はそれを腰のあたりに溜め、両腕を突き出して一気に放った。集められた水のマナは、荒れ狂う吹雪の力となってクラーケンに襲い掛かった。その凄まじい清らかなマナの乱舞に、クラーケンは為す術も無くマナを奪われた。幻魔の悲鳴が上がる。
 その最期には自らの創造主の名を呼ぶ幻魔の声と、力を失ったクラーケンがその身を変えた、美しく宙を舞うマナの粒だけが残った。