第103話
蒼霜の洞窟のマナが平穏さを取り戻した。荒々しく乱れていた光は収まり、穏やかな紺碧の光が満ちる。マナの粒はゆったりと軽やかに舞い、冷たくも温かな、優しさに満ちた水の力が生まれる。滋養に満ちた水を湧かせる氷の台座は、ただ静かにシヴァの恵みを湛えている。 「やれやれ……大変な相手でしたね」 大きく息をついて、セリオルは額の汗を拭った。あれだけ寒かった洞窟で、彼らは防寒着の下に多量の汗をかいていた。激しい戦いだった。 「でも、良かったですね。この洞窟が、平和を取り戻して」 改めて美しい氷の洞窟を見渡して、シスララがほっとしたようにそう言った。フェリオがそれに頷く。 「ああ。安心したよ」 「そうだね。フェリオにとっても、大切な洞窟だもんね」 サリナはそう言ったが、仲間たちはわかっていた。誰よりも安堵しているのは、サリナだった。これで故郷が危機から救われた。彼女の家族や友人たちに恩師、多くの大切な人々が暮らす、フェイロンの村が。 小さく震えるサリナの肩に、アーネスが手を置いた。サリナは顔を上げることが出来なかった。アーネスは、防寒着でもこもこしたサリナの小さな身体を、優しく抱き締めてやった。嗚咽が漏れる。 「……んじゃ、面倒ごとが丸く収まったとこで」 サリナの涙が止まり、ようやく顔を上げられるようになった時、カインが切り出した。彼は頭の後ろで手を組み、にやにやしながらクロイスを見た。 「話してもらおーか、クロイス君」 「……何をだよ」 反射的にぶっきらぼうな口調で、クロイスは問い返した。答えがわかっているはずのクロイスの態度に、カインはにやにや笑いを止めない。素直じゃないやつめ。 「決まってんだろ、シヴァだよシヴァ! どうやって口説いた?」 カインはそっぽを向いたままのクロイスに無理矢理肩を組み、顔を近づけて尋問した。クロイスは嫌がって逃げようとするが、カインがそれを許すはずはなかった。 「あら、私も興味あるわ」 アーネスの声も意地悪だった。彼女は腕を組み、カインのものとよく似たにやにや顔でクロイスを見ていた。 「うっせーなあ。なんだっていいだろ! 仲間んなったんだからよ!」 「いーから話せよ、ほれほれほれ〜」 「そうよ、私たちにも知っておく義務があるんだから。あなたの仲間として」 自分の功績を顔を赤くして語ろうとしないクロイスを、カインとアーネスのふたりが攻め立てる。カインは嫌がらせ攻撃、アーネスは論理攻撃を仕掛けてくるので、クロイスは鬱陶しがりながらもついに音を上げる。 「ああああもううっせーなあ! なんっでお前らはいっつもそーなんだよ!」 しかし彼が怒鳴ったところで、カインとアーネスのふたりはにやにやと笑うだけである。他の仲間たちは苦笑したり困った顔をしたりしているが、決して攻撃側のふたりを止めようとはしない。 「いいじゃないですか、クロイス。君が考えた作戦が功を奏したのですから、それについて皆に話してあげても」 そしてついに、セリオルまでが攻撃側に回った。クロイスはついに肩を落として観念した。セリオルにだけは、抵抗するだけ無駄だと彼も知っていた。 「……わーったよ。ったく」 そう言って、クロイスはリストレインを取り出した。リバレートを終え、光を失っていた幻獣のクリスタルは、少しだけその力を回復したようだった。ぼんやりとしたほのかな光を、その内部に宿している。 「シヴァ、出てこれるか?」 少年の呼びかけに、新たなクリスタルが僅かに光を強めた。氷の女王は紺碧の光と共に、蒼霜の洞窟に姿を現した。その身に纏うマナの光が、やはり弱まっている。 「なあに、クロイス。まだ寝ていたいんだけど」 その美貌に眠そうな表情を浮かべ、シヴァはやや気だるげな声だった。人間と同じように呼吸をしているのかどうかはわからないが、あくびをするような仕草を、シヴァはした。 「……ラムウといいシヴァといい、なんだか随分人間くさいわね、瑪瑙の座の幻獣は」 「そうですね。楽しくって、私は好きです」 呆れたような様子のアーネスに、サリナは笑顔を向けた。その楽しそうな様子に、アーネスは苦笑する。 「私も、瑪瑙の座の幻獣に会いたいな……」 クロイスとシヴァを見つめるサリナの言葉には、その字面上だけではない何かが篭っているように、アーネスは感じた。それは神晶碑を守りたいという意志か、あるいは更なる力への欲求か。あるいは、その両方か。 「……そうね」 前を向いて、シヴァを見た。アーネスは、それ以上は何も言わなかった。 「初めまして、幻獣様。私、シスララ・フォン・ブルムフローラと申します」 いつの間にかシヴァの前に立って、シスララは深々とお辞儀をしていた。シヴァはいきなりの丁寧な挨拶に面食らったようだった。仲間たちは、それ以上に面食らった。 「あ、え、ええ、よろしくね」 やや戸惑いながらも、シヴァはシスララにそう言葉を返した。シスララは顔を上げ、にこりと微笑んだ。 「シ、シスララ……」 「やはり凄いですね、彼女は……」 言葉を失って、フェリオとセリオルは生唾を飲み込んだ。言い知れぬ畏怖のようなものを、彼らはシスララに対して感じていた。 「よお、女王サマ。あんた、クロイスに口説かれたのか?」 神を神とも思わぬ不遜な言葉遣いでありながら、カインはシヴァの不興は買わなかったようだった。彼の持つ独特の雰囲気がそうさせるのか、シヴァはカインに向かってごく自然に答えていた。 「ええ。クロイスが私にね、熱く語りかけるの。あんなに心の篭った口説き文句、初めてだったわ」 「や、ややややめろよ! なに言ってんだシヴァ! おい!」 「うひゃひゃひゃひゃ! やるねえークロイス君! 年上好みだったとはなあー!」 「だああああああ! バカかてめーこのバカ! アホ!」 「ひゃひゃひゃひゃ!」 「あらあら。気をつけたほうがいいわよ、シヴァ。クロイスにはもうひとり、オーロラっていう女があるんだから」 「ま。そういえばそうね。私とオーロラが、恋敵になるなんてね……」 「やーめーろーーーーーー!」 顔を赤くして叫ぶクロイスを、仲間たちが愉快そうに笑う。クロイスは怒鳴り疲れて息を切らせていた。 「俺、もう嫌だ。こんなやつら」 「まあまあ、クロイスさん。皆さん、クロイスさんのことが好きなだけですよ」 背中を向けるクロイスに、シスララが優しい声でそう言った。その言葉に、クロイスは勢い良く身体ごと振り返る。 「だからそういうのをやめてくれってんだよー!」 「あらあら、まあまあ。どうしてお怒りなのです?」 「あははは。クロイス、可愛いなあ」 そんな混沌の様相を呈し始めた仲間たちを、本筋に戻したのはやはりセリオルだった。彼は眼鏡の位置を直し、穏やかな口調で言った。 「さあ、クロイス。皆に話してあげてもらえますか?」 「……わかったよ」 答えて、クロイスはシヴァのほうを向いた。シヴァは黙って頷いた。 「まず、シヴァはこれ以上、俺たちの力を試す必要は無いって判断してくれた。だからラムウの時みたいな試練は無しだ」 「あのイカを倒してもらったんだから、それで十分よ」 シヴァは語った。水の幻魔クラーケンは、静かに忍び寄ってきたのだと。彼女ですらクラーケンのマナには気づかなかった。幻魔は、どうやら自らのマナを気取られないようにする能力もあるらしい。そういう意味では恐るべき相手だ。気づいた時には、もう遅かった。シヴァはクラーケンの不意打ちを受け、意識を乗っ取られた。 「ハイナンの人間たちには申し訳ないことをしたわ。私の力を悪用されたばかりに」 「いいえ。悪いのはクラーケン……それに、ゼノアです」 その少女は、シヴァの目を引いた。さきほどから、いや戦闘の最中から、彼女の存在はシヴァの目に、特別なものとして映った。可愛らしい帽子と手袋を着けた、小柄な少女だ。しかしその小さな身体の奥底に、底知れぬマナが存在するのを、シヴァは感じた。 「あなた……」 その視線を感じて、サリナはシヴァを顧みた。氷の女王は、その美しい顔立ちの眉間に僅かに皺を寄せ、彼女を見つめていた。 「え? あの……」 「……あなた、自分の中のマナを引き出すことは出来る?」 「へ?」 シヴァの唐突な質問に、サリナは間の抜けた声を出してしまった。それに気づいて彼女は慌てたが、シヴァはそんなことは気にもしていないようだった。 「あの……はい、一応」 「そう……」 それ以上、シヴァは何も言わなかった。ぽかんとして口を開けるサリナに、カインが笑う。 「サリナのマナに気づくたあ、やっぱすげえな! ラムウとかも気づいてたのか?」 「さあ、どうでしょうね」 セリオルはその点について、あまり興味は無いようだった。幻獣ならばそういったことに鋭くても不思議は無いと、カインはひとりで納得した。仲間たちも、特にそれについて疑問を持ちはしていないようだった。 「とにかく、私はあなたたちに危機を救ってもらったわ。あなたたちの力も、十分わかったつもりよ。試す必要が無いくらいにはね」 「それはありがたいが、俺としてはクロイスの口説き文句が気になるな」 まぜっかえしたのはフェリオだった。彼は兄に勝るとも劣らない意地悪な表情で、クロイスを見ていた。クロイスはむきになって肩を怒らせる。 「口説いたんじゃねーよ! ただ、クラーケンを倒すにはシヴァの力が要ると思ったんだ。あいつはこの洞窟のマナを吸収してたから、シヴァなら取り返せると思ってさ。だからオーロラのマナで起こして、手伝ってくれって頼んだんだよ」 「それをクラーケンが私たちへの攻撃に夢中になっている間に行うというのが、クロイスの作戦だったんです」 セリオルの補足に、シスララが頷いた。彼女はその後を継ぐように口を開く。 「私がクラーケンの攻撃を受けてセリオルさんが助けに来てくださった時に、クロイスさんもいらして、その時に決めたのです」 「なるほどなあ。あいつ馬鹿だったもんな。猪突猛進っつーか」 「まあ、生まれてまだ間もないんだろうし、戦い方をそんなに知らなくても不思議じゃないわね」 アーネスの口調は、クラーケンにやや同情的だった。その感情は、仲間たちにも理解出来た。あれは、敵ながら哀れな存在だった。 「クロイス、かっこよかったよ」 そう言ったサリナを見て、すぐにクロイスは顔を逸らした。褒められるのは、やはり慣れない。 「……そーかよ」 「またまたあ、照れちゃって! クロイス君ったら!」 カインは嬉しそうな様子で、クロイスの頭を脇に抱えた。クロイスがカインを罵倒しながら暴れるが、カインは呵々と笑って腕を外そうとはしなかった。実際、カインは嬉しく思っていた。マナを扱うのが苦手だとあれだけ言っていたクロイスが、ああも巧みにマナを操ってみせたことが。 「じゃあ、神晶碑の結界、張るか?」 じゃれ合う兄とクロイスに苦笑しながら、フェリオが提案した。カインが、おうと答えてクロイスの頭を離す。クロイスは悪態をついてカインの脛を蹴り、悶絶させた。 「モグ、呼ぶね」 サリナがモグチョコを取り出し、美しい音色を鳴らした。旋律の渦の中から眩い光が現われ、そこから小さなマナの妖精が飛び出してくる。 「クッポポ〜! クポ!」 今回は素早く地面に急降下し、モグはかっこよくポーズを決めた。しかし如何ともしがたい身体の小ささなので、その動きは笑いを誘う結果となった。 「クポ?」 サリナたちの笑い声は全く気にしない様子で、モグは自分がどこに呼び出されたのかを確認しようと、あたりを見回した。そこは紺碧の光の宿る洞窟だった。豊かな水をマナに包まれ、モグは小さな身体で大きく伸びをした。 「クポ〜。ここはとっても気持ちがい……クポポポー!」 その目に飛び込んできたのは、紺碧の光を纏う幻獣だった。氷の女王、シヴァ。水の幻獣、瑪瑙の座。大いなる水の恵みを与える、厳しくも優しき幻獣。 「こんにちは、モーグリさん」 「シ、シヴァクポ〜。どうしたのクポ〜」 前回は突然ラムウの前に呼び出され、今回はシヴァだ。モグは混乱し、サリナたちを見回した。サリナがしゃがみこみ、あたふたするモグの頭を撫でる。 「突然ごめんね。また神晶碑の封印、お願いしたいんだ」 「クポ。神晶碑クポ」 ラムウの時のことで、モグは学習していた。サリナたちが神晶碑の結界を張るために、彼が封印を解いて神晶碑をサリナたちの前に出現させなければならないのだ。人間に見えないようにと神晶碑に施された封印を、彼には解くという使命がある。 「任せるクポ〜!」 すっかり元気を取り戻した様子で、モグは再びポーズを決めた。やる気に満ち溢れた声だった。ただ、やはりそれもモグの小さなぬいぐるみのような身体では、可愛らしいものでしかなかった。 「神晶碑はあそこよ」 モグに微笑みながらシヴァが指差したのは、小川の源泉である水を湧出する、あの氷の台座だった。 「あんな目の前にあったんだ……」 呆然とした様子のサリナに、仲間たちも賛同した。見えないだけでなく、触れることも出来ないということなのだろう。さきほど台座を調べた時、誰ひとりとして気づかなかった。 「アシミレイトは大丈夫なのか?」 フェリオの指摘に、クロイスはわからないという風に肩をすくめた。さきほどリバレートを発動したばかりだ。通常、丸1日は空けないと再度アシミレイトすることは出来ない。クラーケンを倒すための致し方無い行動だったが、神晶碑の結界が張れないというのも困る。 「シヴァ、どうだ?」 クロイスは新たな幻獣に訊ねた。氷の女王は頬に手を当て、首を傾げた。 「戦闘となると厳しいけれど、結界くらいなら大丈夫だと思うわ。私の力を注ぎ込むわけではないから」 「あら、そうなのですか」 そう言ったシスララだけでなく、他の面々も意外そうだった。だがセリオルやフェリオは、その仕組みにすぐに気づいたようだった。 「幻獣のマナを使うなら、幻獣が張ればいいってことか」 フェリオのその言葉に、シヴァは頷いた。彼女は人間たちに伝わるように説明した。 「あなたたちのマナを、私たちが加工して張るという言い方がわかりやすいかしら。だから私たちのマナが尽きかけていても大丈夫よ」 「なるほど。カインはあまり自覚していなかったようですが」 「俺ぁ細かいことは気にしない主義だ」 「大事なことに気づかない性質とも言うわね」 「うっせえし。いいからちゃちゃっとやっちゃえよ」 「ちゃちゃっとって。重要なことなんだぞ」 「おう。じゃあビシッとやっちゃえよ」 「うっせーなあ。わかってるっての」 クロイスはリストレインを掲げた。シヴァが光に包まれ、クリスタルへと戻る。紺碧のクリスタルはリストレインに収まり、クロイスは叫んだ。 「弾けろ、俺のアシミレイト!」 紺碧の光が溢れる。それはいつもほど眩く輝きはしなかったが、気高さと優しさを感じさせる光だった。リストレインは鎧へと変形し、クロイスの身体を包んだ。さきほどの戦いでは感じる余裕の無かったシヴァのマナが全身に行き渡るのを、クロイスは感じた。 「モグ、頼む」 「クポ! 任せるクポ〜!」 クロイスに張り切って返事をし、モグはとことこと氷の台座へ向かった。そしてその手前でぴたりと止まり、おもむろに腕を振り上げた。 「クポ!」 そしてその腕が振り下ろされると、氷の台座の上の空間で、ガラスが割れるようなガシャンという大きな音が起きた。そして空間が砕けるような不思議な現象が発生し、元に戻った空間には、紺碧の光を放つ巨大なクリスタルが存在していた。 「クポ!」 その結果に満足感と誇らしさでいっぱいなのか、胸を張るモグ。それとは対照的に、セリオルは頭を抱えていた。 「うう……やはりああも簡単に封印が解かれるのが、納得出来ない……」 「まあまあ。世の中、理屈で割り切れないこともありますから」 なぜかシスララに背中をさすられているセリオルの姿は、まるで食べ物を喉に詰まらせた時のおじいちゃんのようだとサリナは思い、自分のその発想があまりに失礼であることを申し訳無く感じて、彼女はひとり反省した。 「どした、サリナ」 「な、なんでもないです……」 不思議そうなカインと目を合わせることが出来ず、サリナは黙ってクロイスを見つめた。 クロイスは神晶碑の前に立った。自分の姿をいくつも映す多面体。台座の上に浮かぶその神秘的なクリスタルが、世界のマナバランスを保つ重要な碑である。それを思い、クロイスは大きく深呼吸をした。シヴァの指示が頭の中に響く。クロイスは両手を神晶碑に翳した。 「清らかな恵水のマナ宿らせし、エリュス・イリアの守り手たらん瑪瑙の座、氷妃シヴァの御名により、千古不易の神域たれ!」 神晶碑が目も眩むほどの光を放つ。クロイスの手からは無数の光線が生まれ、折れ曲がりながら神晶碑を包む。光線は空中でぶつかり合って面を形成し、神晶碑の外殻ともいうべき、もうひとつの巨大なクリスタルのようなものが形作られた。 アシミレイトが解除された。力が抜けたように、クロイスは膝を折った。シヴァの声はもう聞こえない。さすがの瑪瑙の座の幻獣も、疲労困憊のようだった。 「これでようやくふたつめか」 「まだまだ先はなげえな」 スピンフォワード兄弟は、この先に待ち受ける多くの幻獣との出会いに思いを馳せた。試練は多いだろう。しかし彼らは、それを乗り越えなければならない。瑪瑙の座の幻獣はあと5柱。うち風のガルーダはゼノアに囚われ、神晶碑は破壊されている。守るべき神晶碑は、あと4つだ。 「クロイス、お疲れ様」 「……ああ」 差し出されたサリナの手を取って、クロイスは立ち上がった。マナを操る感覚が、まだ手に残っていた。 「ここの水を少し頂いて、帰りましょうか」 戦闘が終わってしばらく経ち、身体もさすがに冷えてきた。マナの恵み豊かな水を少し飲んで、サリナたちは帰路に就くことにした。フェイロンについてくると張り切るモグだけが、ただひとり元気に踊っていた。 |