第104話

 カインナイトの採掘を無事に終えたサリナたちは、疲れた身体を引きずるようにして、フェイロンへと急いだ。山や森の動物や草木は、戻った暖かさに目を覚ましたかのように活動を再開していた。戻ったマナに生気を取り戻し、樹木はその葉の緑を鮮やかに潤わせていた。魔物もまるで気が鎮まったかのように、あの苛烈なまでの凶暴さは鳴りを潜め、フェイロンの森は元の静かな森に戻っていた。
 蒼霜の洞窟へ向かう道程の過酷さが嘘のように、サリナたちは労せずに村への道を進むことが出来た。防寒着はもはや不要だった。魔物たちもあえてサリナたちを襲いはせず、戻ったマナの平穏さにまどろんでいるようだった。
「なんだ、拍子抜けだな」
 カインは不服そうだった。しかし彼の不満は、彼の仲間たちには一切届かなかった。フェリオは目を逸らし、クロイスは溜め息をつき、アーネスは無言で、セリオルはただ眼鏡の位置を直しただけだった。
「はっはっは。俺にはもう、君たちしかいないようだ」
 そう言ってカインはサリナとシスララを見た。サリナは少し困ったように笑い、シスララはにこりと微笑んでいた。
「カインさん、私、ちょっと疲れたから、戦いは無いほうがいいです」
「そうですよ、せっかく平和になったのですから、のんびり帰りませんか?」
「おう、そおか。まあそれもいいな」
 そう言って、カインは足元に落ちていた枝を拾い上げた。腕の長さほどのそれを、彼はぶんぶんと振り回しながら歩く。
 フェイロンへと続く小川は水量も元に戻り、澄んだ水の豊かな、静かな川に戻っていた。水に棲む生き物たちは勘が鋭く、行動も早い。川には魚たちの泳ぐ姿が見られ、彼らは取り戻された優しいマナの中に寛いでいるようだった。
 サリナは、本来の姿を取り戻した自然に安堵していた。この森はフェイロンの人々がその暮らしを営む上で欠かせない森だ。多くの生命の恵みをもらい、村人たちは健康を維持している。
「腹へったなー」
 川を泳ぐ魚を見て、クロイスが腹を手で押さえた。洞窟へ向かう道中でスモークディアを何度も食べたはずだが、彼はまだ若い。激しい戦闘の後では、それも致し方無いことだった。
 ふと、サリナは思い立った。必要なものは、全てデブチョコボのところに置いてある。フェイロンの自然を、皆に味わってもらうのも悪くない。彼女自身はさほど空腹ではなかったが、時刻もちょうど良い頃である。
「あの、みんな」
 立ち止まって、彼女は提案した。嬉しそうに微笑みながら。
「良かったら、ここでお昼にしませんか?」

 フェイロンの村は歓喜に包まれていた。ダリウやエレノアらは、サリナたちの帰還を心から喜んだ。暖かさが回復したことに気づいて家から出ていた村人たちが口々にサリナたちを讃える中、ステラやユリエ、マリカはサリナを囲み、どんなことがあったかを仔細に聞き出そうとした。
 サリナは話すと長くなるからまた夜にね、とかわそうとしたが、3人娘は彼女を逃がしはせず、そのまま自宅に押しかけようとした。しかしマリカがオラヴィに掴まり、彼女は父親と共に狩りに出かけることになった。
「今夜は宴を開くってハヴェルのおっさんが言うもんだからよ、わりいな!」
 愉快そうに笑いながらそう言って、オラヴィは嫌がる娘の首根っこを掴んで引きずっていった。マリカはあれで、優秀な猟師だ。多くの獲物を得なければ、宴の準備は出来ないのだろう。自分の名を呼びながら村の中を引きずられていく親友を、サリナは困り顔で見送った。
「ほらほらサリナ、早くサリナんち行こうよ!」
 そんなサリナの背中を押すのはステラだった。彼女はよほどサリナと話したいのか、セリオルや他の仲間たちへの言葉もおざなりなままでサリナを急かした。
「え? ええ? ちょっとステラ、そんなに急がなくっても――」
「だーめ! あんまり時間無いんだから。今夜もそんなに夜更かしは出来ないんでしょ? 話したいこといっぱいあるんだから! ほら早く!」
「ちょ、ちょっと、もう、ユリエも何とか言ってよー」
「ごめんねサリナ、私もステラに賛成なの」
「ええーーー」
 3人できゃいきゃいとかしましい娘たちに、セリオルは苦笑した。彼ももちろんステラたちのことはよく知っていた。狩りに連れて行かれたマリカも含めて、幼い頃からのサリナの親友たちだ。特に物静かだがしっかり者のユリエには、彼が不在の折にはサリナのことを頼むこともあった。
 そんな友人たちに背中を押されて困っているサリナに、彼は言った。
「構いませんよ、サリナ。久しぶりにゆっくり話せる機会なんですから」
「あ、はい! ありがとうございます。またあとで! おじいちゃんおばあちゃん、先帰ってるね!」
 ステラに背中を押されて首だけで振り返って、サリナはそれだけを言って自宅へ戻って行った。
「いやー、サリナも女の子してんだなー」
 手を目の上に翳して、カインは楽しそうだった。
「なんだそりゃ?」
 クロイスはカインの言葉の意味がわからず、聞き返した。カインはそれに、にやにやしながら答える。
「なーんか女の子って感じのやり取りだったじゃん。女はおしゃべりが好きだからなー」
「……そういうもんか」
 クロイスはサリナたちを見送りながら、妹のことを思い出していた。ソフィーもあと何年かすれば、ああいうやかましい会話を友だちとすることになるのだろうか。クロイスはそれを上手く想像することが出来なかったが、いずれにせよ重要なのは、ソフィーがそういう他愛の無い会話が出来る友だちを作り、何の不安も無く暮らしていける世界を取り戻すことだった。
 クロイスはフェイロンの村を見回した。辺境の島のなだらかな丘陵地帯に存在する、小さな村。彼の目には不思議に映る、大陸とは異なる文化が発達した世界。しかしそこに暮らすのは、大陸の人々と何ら変わらない、普通の村人たちである。
 この村を旅立った時、サリナはどんな思いだったのだろう。彼はそれを考え、頭を振った。世界をどうこうしようなどという考えは無かっただろう。ただ、彼女は自分の肉親を、実の父親を助け出そうと誓ったのだ。今ではそれがゼノアを止め、世界のマナを取り戻す闘いとなった。しかしサリナから感じる、彼女の信念は変わっていないはずだ。
 ゼノアを止めて、エルンストを解放する。そのために、サリナは毎日を全力で生きている。
 彼女はどんどん強くなっている。新たな力、新たな技、新たな魔法。いくつもの戦うための力を身に付けていくサリナは、しかしクロイスよりもたったふたつ、年上なだけだ。心優しく、争いを好みはしない少女だ。そんな彼女が抱えるものを、それと同じだけ重いものを、自分は背負って来れただろうか。
 ニルス、ソフィー、ロニ。彼の弟と妹たち。自分が今その身を投じているのは、彼らが安心して暮らせる世界を取り戻すための闘いだ。そして彼にとってのニルスたちと同じように、互いを思い合う家族たちが世界中に存在している。
 クロイスは気づいた。なぜサリナの心が、あんなにも強いのかに。彼女は知っていたのだ。自分にとって大切な家族がいるように、世界中の人々にも、大切な家族がいる。その思いを知っているから、彼女は強いのだ。
 自分もいつまでも、甘えているわけにはいかない。
 サリナたちの姿が見えなくなった。クロイスはその視線を、セリオルと何か話しているダリウに向けた。
 サリナの祖父。サリナの白魔法の師であり、彼女にマナの扱い方を叩き込んだ人物。好々爺然とした姿だが、彼が持つマナの技術や知識は、相当なものであるはずだ。だから彼は、ダリウに声を掛けた。
「あの……爺さん」
「……ほ? わしか?」
 あまり掛けられない言葉に、自分が呼ばれたとはすぐに認識できず、ダリウは少し時間を置いて振り返った。そこには、サリナの仲間の少年がいた。なぜかやや恥ずかしそうにしている。
「わしに何か用か、クロイス君?」
「その……」
 言い淀むクロイスに、ダリウは不思議そうな顔をする。その後ろで、セリオルはクロイスの様子を見ていた。クロイスがダリウに何を言おうとしているか、彼には想像がついた。良いことだと、彼は思った。
「えーと、なんじゃね?」
 言い出しにくいことなのか、まごつくクロイスをダリウは促した。クロイスは息を吸い込み、ようやく決意して口を開いた。
「……俺に、マナの扱い方を教えてくれ!」
 その突然の依頼に、ダリウはほんの一瞬、戸惑った。考えもしなかったことだった。傍らでエレノアが、まあと漏らして口に手を当てている。カインやフェリオも驚いたようだった。
「まあ、それは構わんが……」
 状況がよくわからず、ダリウはセリオルを振り返った。セリオルは嬉しそうな顔で、大きく頷いた。頭を掻きながら、ダリウはクロイスに向き直る。
「白魔法を覚えたいのかの?」
「いや、そうじゃねーんだ」
 クロイスはかぶりを振った。ダリウは首を捻る。
「サリナにマナの扱い方を教えたのはあんただろ? 俺も、マナを操った戦いが出来るようにならねーといけねーんだ」
 クロイスの目は真剣だった。彼の意図はわからなかったが、彼が本気でマナを操れるようになりたいと考えていることは、ダリウにも理解出来た。
 ダリウはもう一度、セリオルを振り返った。黒髪の青年は、やはり大きく頷いた。一緒にいる彼の仲間たちも、ダリウにクロイスを任せたいようだった。彼らの表情が、そう語っていた。
「教えてあげたら?」
 聞こえたのはエレノアの声だった。妻はいつもの優しい微笑で、彼を見ていた。
「……そうじゃな、いいじゃろ」
「ほんとか!」
 ダリウの承諾がよほど嬉しいのか、クロイスは勢い込んだ。そして直後、ダリウの背後にいるスピンフォワード兄弟のにやにやに気づき、誤魔化そうとしたが当然失敗に終わった。
「あいつもあいつなりに、色々考えてるんだな」
 ダリウとふたりでサリナの家へ――正確には白の修法塾へ歩いて行ったクロイスの背中を見つめながら、フェリオがそう呟いた。その嬉しそうな顔に、アーネスは訊ねる。
「あいつなりに、ってどういうこと?」
「いや……あいつ、初めて会った時はしょうがないやつだったからさ」
 そう言ったフェリオは、クロイスとの出会いを思い返しているようだった。話だけは、アーネスやシスララも聞いていた。以前のクロイスの荒んだ暮らしと、荒れた心のことを。その時からの変化を、フェリオは喜んでいるようだった。
「あいつ、変わったよなあ」
 もうひとり、歓迎を口にした者がいた。カインだった。リプトバーグで直接クロイスをのしたのは彼だったと、アーネスとシスララは聞いていた。
「強さを求めていらっしゃるところが、ですか?」
 そう訊ねたシスララに、スピンフォワード兄弟は揃って首を横に振った。
「他人のために強くなろうとしてるとこが、だな」
 頭の後ろで手を組むカインの顔には、心の底から嬉しそうな表情があった。
 とその時、背後からどすどすと大きな足音が聞こえて、カインは振り返った。
「皆さん、ご無事でしたかーーーー」
 そこにはチョコボたちを引き連れてどすどす走る、坊主頭のダグ・ドルジの姿があった。彼はカインたちのところへ来ると、ぜえぜえと息を切らせてまくしたてた。
「いやあ、ご無事で何よりですぜ! このとおり、皆さんのチョコボはこのダグがしっかり守っていやした! いやーみんな元気で、良いチョコボですなあ! なんべんもつっつかれやしたが、まあこのダグにとっちゃあくすぐられたようなもんで……おや、ところで寒さはもう収まったんですかい?」
「お前、ほんっと身体おかしいんじゃねえ?」
 聞くまでもなく肌で感じるはずのことを訊ねてくるダグに、カインもさすがに白い目を向けた。村人たちも驚いている。しかしダグはそんなことを一切気にすることなく、ただ豪快に笑っていた。

 宴は村の広場で、遅くまで続いた。村人たちは厚い衣類を脱ぎ捨て、涼やかな服装に身を包んでいた。サリナは狩りから戻ったマリカも含め、ステラとユリエと合計4人で、楽しい時間を過ごした。
 結局彼女はあの後、自室でステラとユリエに待っていてもらい、風呂に入った。そして部屋に戻ったのだが、耐え切れずに眠ってしまったのだった。そのため、ステラとユリエが所望していたおしゃべりのための時間は、ほとんど設けられなかった。
「それでそれで、あのフェリオって子とはどうなのよ、ねえねえねえ」
 酒も入り、ステラは胡乱な目つきでサリナの腕をぐいぐいと肘でつついてくる。ユリエとマリカも楽しそうに笑っているだけで、ステラを止めようとはしなかった。
「べ、別に、なんでもないってば」
「嘘つきなさいよー! 見てればわかるんだからね!」
 実に嬉しそうにそう言ったステラの視線の先には、フェリオの姿があった。彼は酒の入ったグラスを手に持ち、大きな篝火の前で陽気な村人たちにダグと共に混じって踊る兄の姿に苦笑していた。
「な、何がわかるの! 何もないって!」
「またまたあ。ねえ姉さん、何とか言ってやってくださいよ」
「サリナ、私はあなたをそんな子に育てた覚えはありませんよ」
 ステラに言われてそんなことを口にして、ユリエは静かに飲み物を口に運ぶ。彼女は酒豪である。ものすごく酒には強い。
「そーよそーよ、教えなさいよーねえねえねえ」
 すっかり酔っ払った様子なのはマリカだ。彼女は酒に弱い。しかし酒が好きなので始末が悪い。しかも絡み酒である。こうなったマリカは、誰にも止められないのだ。
「ううー……」
 答えに窮して、サリナも自分の酒をひと口飲んだ。だって何も無いのだ。どう答えればいいのだ。困ってサリナは、フェリオを見つめる。そんなに言われるような妙な雰囲気だっただろうか。
 するとその視線に気づいたかのように、フェリオが振り返った。驚いて、サリナは思わず姿勢を正す。フェリオはその動きに笑い、こちらに手を振った。
「ほ、ほらー! ほらほらほらほら、ねえねえ!」
「間違いない! 間違いないねこれは!」
 興奮したのはステラとマリカだった。ステラはさほど酔っていないのでほとんど正気だが、マリカはもはやそれが本当にマリカなのかどうかも怪しい状態だった。しかしその興奮だけは本物だった。
「もう吐いちゃいなよ、サリナ。ねーってばねえ」
「ゆ、ゆりえ、なんとかしてえ」
 ついにマリカに肩を組まれ、サリナはユリエに助けを求めた。ステラは笑っている。
 しかしユリエは、まっすぐ前を向いて酒を飲んでいるだけだった。
「観念なさい」
「そんなあー!」
 かくしてサリナは、友人3人から執拗で粘着な追及を受け、酒を飲まされ、真偽も定かでないことをあれこれ喋らされ決め付けられ、散々な目に遭ったのだった。前ではカインがクロイスを引っ張り出し、無理矢理ダグと踊らさせて笑いを誘っていた。

 完全にふらふらになって、サリナは寝巻きに着替えて自室のベッドに倒れ込んだ。宴そのものは良いものだった。セリオルは久方ぶりに会う村人たちと談笑し、カインとクロイスとダグは焚き火の前でめちゃくちゃな踊りを披露し、フェリオはそれを見て笑っていた。アーネスやシスララも、村人たちと楽しそうに話していた。しかしサリナ自身は、親友たちからひどい目に遭わされた。
 だがまあ、それも楽しい宴のひとだったとも言えた。なんだか自分では本意でないと思っていることをあれこれ言わされた気がするが、いかんせん脳が酒でとろけていて記憶がはっきりしない。まあいいや、と呟いて、彼女は眠りに落ちようとした。
 明日は出発だ。もっとゆっくりしていきたいが、彼女は一刻も早く次の神晶碑の許へ行かなければならない。その場所は、セリオルが既に見当をつけているようだった。早く眠らなければ、明日の身体がもたない。
 そうしてサリナは、まどろみの中へ落ちていこうとした。すぐに意識がぼやけ始める。眠りに落ちる瞬間のこのなんとも言えない浮遊感が、彼女は好きだった。しかも今夜は酒が入っているので、その感覚が更に強い。心地良い眠りの世界が、彼女を招き入れた――
「……じまったようです」
 ふと、その声が睡眠に落ちかけたサリナの意識を引っ張り戻した。小さな声だった。明かりを消して眠るところだったため、その声はぎりぎりでサリナの耳に滑り込んだ。それはサリナにとって、温かく、優しく、どんな時でも耳にすれば安心出来る、そんな声だった。
 セリオルは、階下でダリウやエレノアと話しているようだった。
「そうか……。ではゼノア……ナを取りも……ってはこないか?」
「おそらく……しかしサリナはまだ……はいま……」
 耳に届くのは会話の切れ端だけだった。耳を澄まそうとするが、酒にやられた頭が言うことを聞かない。セリオルさんは、おじいちゃんと何を話しているんだろう。気にはなるものの、サリナの意識は既に消えかかっていた。
「……世界樹との……できては……」
「しかしマナを……きます。覚醒は……」
「では……」
「……んの存在が……」
 いずれにせよ、ダリウもセリオルも、サリナがこのエリュス・イリアで最も信頼する者たちだ。ふたりが話しているのは、今後の旅もことか、あるいはこれまでの報告だろう。幻獣や神晶碑、第二の世界樹、王都でのことなど、いくらでも話すべき内容はあるのだ。サリナはまだ、ダリウにそれらについて詳細に伝えられれはいなかった。セリオルが話しておいてくれるなら、安心だ。
「……デンだと」
「そのための……タナは……」
 もはや、ふたりの声はその輪郭すらぼやけていた。明日からまた厳しい旅に出るのだ。サリナは、その身を眠りの世界に落ちていくのに任せた。睡魔はすぐに彼女を迎え入れ、サリナの意識は途切れた。