第107話

 スピンフォワード兄弟の家の地下で、サリナはローガンから託された奥義書とにらめっこをしていた。
「むむむ……」
 奥義書は難解な文書ではなかった。むしろ拍子抜けするほど簡潔な言葉で、ファンロン流の極意が記されてあった。
「これだけ読んでも、よくわからないなあ……」
 何度目を通しても、サリナには理解出来なかった。そこには抽象的な言葉で、奥義を体得する者への心構えが記されていた。
「相手の動きをよく見よ……力の流れ、怒りの行方、昂ぶる心の所作……うーん」
 具体的な技の修得については、何も書かれていない。ファンロン流はその力を揮う際の心持ちをとても重視する武術である。その奥義ともなれば、修得にはそれ相応の精神面での円熟が求められるのだろう。
 とはいえ――
「師匠ももうちょっと、教えてくれてもいいのになあ」
 唇を尖らせて、サリナは恩師に毒づいた。
 尋ねたシドが不在とわかり、サリナたちはスピンフォワード兄弟の家に来ていた。飛空艇は確認出来なかった。ハロルドによると、完成に近づいた飛空艇の試運転に、シドは出てしまったとのことだった。
 それ自体は喜ばしいことだった。サリナたちも色めき立った。飛空艇が、間もなく完成する。だがそれを自分たちの目で見ることが出来なかったのは、残念としか言いようが無かった。
 サリナたちはスピンフォワード家の掃除をひととおり行って、ひと晩を過ごした。カインとフェリオにとっては久しぶりの我が家だったが、いかんせん食料が何も無かった。街の店で食材を買い込み、セリオルとサリナが食事を作った。セリオルがエル・ラーダ料理を完璧な精度で再現し、仲間たちを驚嘆させた。
 そしてその夜からひと晩明けて今も、サリナたちは地下室でそれぞれの力を高めるべく、トレーニングを行っていた。
 サリナは奥義書やダリウの指南書と向き合って首を捻り、アーネスは守りの力を高めるべく風水術の強化に努めた。カインはレナの魔物生態図鑑をめくって獣使いの技を磨き、クロイスはダリウから授かったマナの指南書を使って独自の戦い方を開発し、シスララはソレイユと共に訓練を行った。セリオルは地上階の部屋でエレノアから託されたハーブの冊子を研究し、フェリオはカインナイトを銃に組み込む作業を行っていた。
 だがセリオルとフェリオは、今朝から港のドックへ赴いていた。
 セリオルによると、次なる目的地は砂漠の大陸、カラ=ハンにあるローラン自治区らしい。そこへたどり着くには、“早掻の海”を渡らなければならない。閑掻の海の北、波が荒く海難事故の多い海だ。今のリンドブルムでは、そのための力が足りないのだという。
 そこでセリオルとフェリオのふたりがロックウェルの技術者たちの力を借りて、リンドブルムを改造するということだった。そのためにもシドの力が借りたいところだったが、いないものは仕方が無い。ふたりはリンドブルムの蒸気機関を強化するため、カインナイトの鉱石を持って出かけて行った。
 サリナが首を捻って呻いていると背後で笑い声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこにはシスララがいた。
「あ、シスララ」
 名を呼ばれて、シスララはにこりと微笑んだ。そして彼女は床に座ったままのサリナの隣りに立った。
「ローガンさんも会得出来なかったとおっしゃっていたのだから、お教え出来なくても仕方が無いわ」
「あ、そっかあ。そうだね」
 シスララに促され、サリナは立ち上がった。今はこれ以上ここで悩んでいても何も進展しないように思えた。
「そろそろお昼だから、一度上がってみましょう?」
 そう言いながら、シスララはサリナの視線が仲間たちへ向くように振り返った。そこには訓練を終えて立ち上がり、いつもの他愛の無いやりとりを始めてアーネスの手刀を脳天に食らう、カインとクロイスの姿があった。

「おおおおおおおーーーー!!」
 カインの興奮した声に、ロックウェルの技術者たちは胸を張った。そこにはハロルドら、シドの弟子たちの姿もあった。
 ロックウェルの海に浮かび、海陽の船リンドブルムは、その名の通り海の青と太陽の光とに讃えられているかのように、その身を輝かせていた。
 以前よりも外輪が大きくなっていた。舳先は朱色に塗られた金属で強化され、今は見えないが船底にも同じ金属での強化がされているとのことだった。船尾にも海を掻くためのスクリュー状の装置が取り付けられていた。ロックウェルの技術力が結集された、美しくも力強いフォルムだった。リヴァイアサンの胸像も、生まれ変わった船の誇らしさに胸を張っているようだった。
「すげえ! かっこいいじゃねえかー!」
「もっと鉄でゴテゴテとやんのかと思ったけどなー」
 興奮するカインの隣りで、クロイスも驚きを隠さなかった。確かにこれなら、荒れる海でも渡れそうな気がする。
「すごい……たった数時間でこれを?」
 唖然とした様子で、アーネスが誰にともなく呟いた。それに答えたのは、そばにいたハロルドだった。
「昨日フェリオさんから連絡があって、皆で急いで仕上げたんです。ほんと、人使い粗いですよ」
「そう言ってハロルド、楽しんでたじゃないか」
 フェリオは意地の悪い口調でそう言った。ハロルドは兄弟子からの指摘に屈託の無い笑顔を向け、大きく頷いた。
「はい。フェリオさんとセリオルさんの発想と設計には、ほんとに驚かされました。しかもこれだけの性能の強化をするのに、作業効率がとんでもなく良いんです」
「そのへんの効率化はセリオルの仕事だよ。あのひとはほんと、とんでもない」
 腕を組んで、フェリオは作業をしてくれたロックウェルの技師たちを労うセリオルを見た。そんな様子はおくびにも出さないが、フェイロンにいたあたりかそれよりもっと前から、この改造のことを考えていたのだろう。
 クリプトの書の解読にリンドブルムの改造に、しかも昨夜はハーブの研究も行っていたようだった。一体どんな頭の構造をしているのかと、フェリオは素直に舌を巻く。
「はい。僕もそう思います」
 接した時間は短くとも、ロックウェルの技師たちのセリオルに対する信頼感は、既に完成されていた。普段は学者連中はお高く留まっていると煙たがる技師たちも、セリオルには心底脱帽した様子だった。セリオルは打ち解けやすい雰囲気作りにまで心を配り、彼らに気持ち良く仕事をさせた。
「でしょでしょ。セリオルさんはすごいんだよ」
 自分のことのように嬉しそうに、サリナはえへんと胸を張った。これまでにも何度も聞かされたその言葉に、ハロルドは大きく頷いたが、フェリオは苦笑した。
「なんで笑うのよー」
 そう言って唇を尖らせるサリナに、フェリオは何でもないよと答えた。しかしサリナは納得しないらしく、頬を膨らませた。
「フェリオさんやセリオルさんと旅が出来るなんて、僕も嬉しいです。同い年のクロイス君もいますし」
 ハロルドは素直な少年だった。フェリオの頼みで、彼はリンドブルムの操縦士として同行することになった。いつもセリオルが操縦していると、重要な局面で困ることがあるからだった。
 ハロルドはその頼みを快諾してくれた。いずれ飛空艇が完成すれば、その操縦も彼がすることになるかもしれないからだ。シドは彼がサリナたちに同行することについて、大いに歓迎するだろうと思われた。
「セリオルさん」
 技師たちとの話を終えたセリオルに、シスララが話しかける。セリオルが返事をしてシスララを見ると、シスララはぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。これは父も喜びそうです」
 壮麗に生まれ変わったリンドブルムを、シスララはそう言ってもう一度振り返った。燦々とした陽の光を浴び、リンドブルムは静かに海を見つめている。
「いえ。お父上からお預かりした船を勝手に改造することになって、申し訳ありません」
 胸に手を当て、セリオルは謝罪した。ラッセルは怒りはしないだろうが、出て行った時と違う姿で船が戻った時、どう思うだろうかと彼は想像した。しかしそれは上手くいかなかった。ラッセルがどう思うかはわからなかったが、しかしカラ=ハン大陸へ行くにはこれしか手が無かった。
「とんでもありません。むしろ嬉しいくらいです。こんなに美しく、たくましい姿にして頂いて」
 朱色の舳先は力強く海を掻き分けるだろう。大きな外輪はしっかりと海を掴み、進むだろう。真新しいスクリューは海を砕き、大きな推進力を生むだろう。そうして強靭な力で海を往くリンドブルムの姿を想像し、シスララは微笑んだ。
「そう言って頂けると、なによりです」
 荷物の積み込みは容易かった。新たに増えたものは少なく、あったとしても小さなものばかりだった。
 その中にフェリオが抱える工具箱のようなものがあるのを発見し、サリナはリンドブルムへ乗り込むタラップの上で若き技師に話しかけた。
「ねえねえ、それどうするの?」
「ん? これか」
 その工具箱を見るフェリオの目は、愛に溢れていた。そんな目を見たことが無かったサリナは、少し驚いた。
「俺の大事な道具たちさ。前に出発した時は、こんな長旅になると思わなかったから置いてきたんだけどな。これがあれば、色々と出来ることが増える」
「へえ〜。例えばどんなこと?」
 フェリオの嬉しそうな口調に自分も嬉しくなって、サリナは勢い込んだ。フェリオは歩きながら指を折って数えるような仕草をした。
「銃の改造が出来る。色んな道具を造れる。雷帝の館みたいに機械の敵がもし出たら、分解も出来る」
「ええ! 分解って!」
 動き回る機械の敵と一緒に動きながら細かな分解作業をするフェリオを想像して、サリナは頭を振った。さすがにそれは無いだろう。
「たぶん想像してるのとは、ちょっと違うぞ」
「だ、だよね〜……」
 ロックウェルの技師たちと船乗りたちは、リンドブルムの出航を大いに賑やかに見送ってくれた。サリナたちは甲板で手を振り、男気溢れるロックウェルに別れを告げた。

 航海は順調だった。リンドブルムはこれまでよりも速く進んだ。アクアボルトからハイナンへ来た時のルートを戻る形で、リンドブルムはセルジューク群島大陸の南の海を東へ進んだ。
 途中、セレスティア州の南へかかり、クロイスにリプトバーグへ寄らなくていいのかと仲間たちから質問があった。弟たちの様子が気になっているはずだったからだ。
 しかしクロイスは、その必要は無いと答えた。特別な用も無いのに、中途半端なところで戻りたくはないと。
「でも、ニルスくんたちも心配してるんじゃない?」
「んー……まあ、それはそうだな」
 そう言って鼻の頭を掻くクロイスに、セリオルは苦笑する。
「少しなら構いませんよ。顔を見せるくらいはしてもいいでしょう」
「んー……」
 どうにも歯切れの悪いクロイスに、指摘したのはカインだった。彼はいつもの意地悪な顔と意地悪な声で、肘でクロイスを突きながら言った。
「戻るとニルスたちのことがもっと気になっちまうからか? え? なあなあ?」
「なんだようるせーな。そんなんじゃねーよ」
「ほんとかー? クロイスくんは優しいお兄ちゃんだもんなあ」
「だーーーーーもううるっせーなてめーは!」
  それが図星だったのか、クロイスは怒鳴りながらカインの脛を短剣の柄で殴った。カインは大きな悲鳴を上げ、船室の床でのた打ち回った。
 結局、リプトバーグに寄ることは無かった。エメリのところでならニルスたちは安心だという確信があったことと、やはりクロイスが、一度戻ってしまうと再び旅立つための決意が鈍ってはいけないからと話したためだった。
 考えてみれば、一行の中でクロイスが最も、家族として抱えているものが多いのだ。彼だけが唯一、保護者の立場を持っているのだから。まだ幼い弟たちのことで心が揺らぐ予感を抱くのも、無理は無かった。
 リンドブルムでの航海の中、ハロルドはすぐに一行と打ち解けた。その素直さと聡明さで、クロイスと同い年とは思えないとカインが散々に言うので、クロイスがすぐに怒って騒ぎになった。そのたびにアーネスが鉄拳を以って騒ぎを鎮め、仲間たちの笑いを誘った。
 やがてリンドブルムはセルジュークとマキナの海峡を北上して抜け、サリナたちはその視界にカラ=ハン大陸を見止めるに至った。しかし大陸の南側に上陸可能な場所は無く、カラ=ハンへ上がるためには西側へ迂回しなければならなかった。
「ぐええええ……」
 改造後のリンドブルムは揺れも少なく、カインの船酔いは起きていなかった。しかし早掻の海へ入るとそうはいかず、うっかり酔い止めを飲み忘れたカインが使い物にならなった。
「また飲み忘れたの? バカね」
「うう。そう言わずに薬をくれ……」
 甲板でその場から動けなくなったカインに溜め息をつきながら、アーネスはセリオルを呼んだ。自室にいたセリオルはそれに応じ、荷物の中から紙の袋を取り出してそこから薬を必要な量、紙に包んだ。
「あれ? それって……」
 アーネスはその袋を見たことがあった。と言うより、とても馴染み深い袋だった。騎士団の野営などの際、それを彼女も使った。普段ほとんど料理をすることの無いアーネスだが、さすがにそれは知っていた。
「ええ、そうですよ」
 セリオルは愉快そうににやりとして、その袋をアーネスの顔の前に出した。
 そこには、“薄力粉”と書かれていた。
「……小麦粉、だったの?」
「ええ」
 呆然とするアーネスを尻目に、セリオルは実に愉快そうだった。これまで何度もカインの船酔いを治してきた酔い止めの正体が、実は単なる小麦粉だったとは。あまりのことに、アーネスはしばらく口を開けたままだった。
「前にユンランからロックウェルへ向かう船の上で、初めてカインの船酔いを見たんですけどね。その時に小麦粉を酔い止めと称して飲ませてみたら、見事に効いたんですよ」
「あいつ……ただの気のせいなんじゃないの?」
 やれやれ、とかぶりを振って、アーネスはそう言った。
「まあ、病は気からと言いますからね」
「それにしたって、よ」
「もしかしたらこれが小麦粉だとわかったら、船酔いが治るかもしれませんね。実は気のせいだったんだ、って」
「大いにありうるわ」
 とはいえそれを告げて小麦粉が効かなくなるという事態も考えられたので、結局ふたりはそれをカインには言わなかった。しかし人知れずカインの回復を心の中で楽しんでいたセリオルに、アーネスは計り知れないものを感じていた。
 魔物の襲撃も何度かあった。しかしハロルドは冷静に舵を切り、そのおかげでサリナたちは安心して戦うことが出来た。船を傷付けないように戦うのは難しかったが、それほど強力な魔物は現われなかった。
 そうして早掻の海を進み、リンドブルムはついにその港へ到着した。
「暑い……」
 強烈な太陽の光。肌を刺すようなその陽光が地面を熱し、その港は陽炎に包まれていた。サリナは噴き出す汗を拭い、その砂に覆われた大地へ降り立った。
 ローラン港。世界地図の北東部、3大陸の中で最も小さな大陸、カラ=ハンをその領土とするローラン自治区の玄関口だ。
 一般に、カラ=ハン大陸は砂の大陸として知られている。かつて起きた大枯渇の影響が拭い去れず、その際に誕生した砂漠が大陸全土を覆ってしまった。マナ枯渇の影響は大きく、その暑さはマキナの砂漠を凌ぐ。雨はほとんど無く、人々は地下水を汲み上げて生活している。
 知識として、そう知ってはいた。しかし実際に訪れてみて、サリナはそのあまりの荒涼とした様に驚いていた。
「ひでえな……」
 カインも顔をしかめた。その砂に覆われた様子は、とても人間の暮らせる世界とは思えなかった。
「なあ、ほんとにこんなとこに神晶碑があんのか? マナ、枯れてんだろ?」
 クロイスの指摘はもっともだった。神晶碑はマナの集局点、それも瑪瑙の座の集局点に存在するのだ。集局点とは、マナのきわめて豊かな場所のことである。大枯渇によってマナを奪い去られたようなこのローラン自治区に、そんな場所があるようには思えなかった。
「セリオル、クリプトの書にはなんてあったんだ?」
 汗を拭い、フェリオがそう訊ねた。セリオルは眼鏡を外して汗を拭き、掛け直したところだった。
「私も詳細な場所について確信しているわけではないのですが……少し説明します。ひとまずどこかへ入りましょう」
 この炎天下は耐え難い。セリオルの提案に、仲間たちは黙って頷いた。チョコボたちとハロルドを船に残してきて正解だった。これでは体調を崩してしまうだろう。
 意外にも、港で働く人々は元気だった。暑さに慣れているためだろう。肌を黒く焼いている人々は、エル・ラーダの民にも似ていた。
 ここでは地元の者以外は肌を隠したほうがいいと、船乗りのひとりが教えてくれた。極端な日焼けで肌を傷めてしまうのだという。サリナたち、特に女性陣は急いで日陰に避難した。
 港に設けられた食堂らしき建物に、サリナたちは近づいた。方向性を決めたら服を買おう。サリナはそう心に決めた。
 そしてその食堂に入ろうと、カインが扉に手をかけようとした時だった。
 開けようとした扉が勢い良く開き、男が飛び出して来た。しかも走り出てきたわけではなく、何かに吹き飛ばされて扉に激突し、そのまま外へ出たという様子だった。
「のああああああ!?」
 仲間たちは見事に回避し、カインは男の体重を受けたまま地面に倒れた。男は気を失っているようだった。
「いってえな……何なんだ一体」
「カインさん、大丈夫ですか?」
 男を押しのけ、立ち上がろうとしたカインにサリナが手を貸した。
「ふざけんじゃねえぞてめえら! ぶっ殺されてえか!」
 カインが立ち上がるより前に、店の中からその野蛮な声が聞こえ、セリオルは頭を抱えた。どうしてこう、行く先々で何らかの騒動が起こっているのだろう。
 考えて答えが出るはずもなく、ひとまず彼は視線を店の中に向けた。どうやらいかにもならず者といった風体の男たちが何人か、店の中で暴れている。
「やれやれ」
 同様にうんざりした声でフェリオが呟き、立ち上がったカインだけがなぜか目を輝かせ、彼らはその騒動の中へ入っていった。