第109話

「ヘイヘイアントちゃん! あんまり暴れないでくれよお!」
 レオナルドはサントスを避難させるべく回頭させ、戦闘の場を離れた。アントリオンは狙いの獲物を逃すまいと追おうとしたが、その前にサリナたちが立ちはだかった。
 アントリオンはそれほど力が強いわけでも、動きが俊敏なわけでもない魔物だった。ただ、その触手は鋭く、甲殻は強靭だった。長い口で攻撃されれば痛手を被るし、的確に攻撃しなければ決定打を与えることは出来ないと思われた。
「もうっ。やりにくいなあ」
 そして何よりもサリナを悩ませたのは、その生態だった。大砂漠に棲息する巨大蟻地獄は、いとも簡単にその砂に潜り、そして唐突に砂を突き破って現れた。砂の動きを観察すればおおまかな位置の把握は可能だったが、こちらも慣れない足場での戦闘に気を取られることが多く、サリナも幾度か敵を見失った。
「ほら、そこだよ! 気を付けな!」
 幸いにしてアリスが上手くフォローしてくれた。この特異な魔物の相手をするには、その生態をよく把握していることが必須だった。その点で、アリスが同行してくれたのはサリナたちにとって大きな助けだった。
「捕縛せよ。自由を奪う毒蛾の燐粉――パライズ!」
 アリスが予告した場所に砂を撒き散らして出現したアントリオンに、セリオルが捕縛の魔法を詠唱する。この厄介なヒット・アンド・アウェイを封じようという狙いだった。
「セリオル、ナイス! ……ありゃ」
 しかしセリオルの黒魔法は、アントリオンの黒い甲殻によって阻まれた。どういう仕組みになっているのか、その甲殻は猛毒や捕縛などの弱体系黒魔法を弾くようだった。
「やれやれ……どうしたものでしょうね、これは」
 フェリオの弾丸やクロイスの矢が届くよりも早く、アントリオンは再び砂に潜った。砂漠の分厚い砂の大地は弾丸や矢の威力を殺し、その下の敵にはどうにも達しない。フェリオが苛立ちに舌打ちをする。
「これじゃあの殻の隙間も狙えやしないな」
 一方、クロイスのほうはそれほど悩んではいなかった。
「へへへ……なるほどな」
 彼は己の放った矢が何の意味も為さずに砂の大地に横たわったのを見て、鼻をこすった。その頬に、僅かに笑みが浮かぶ。
「クロイスさん、何か作戦がおありですか?」
 さきほどからソレイユと連携を取った攻撃を仕掛けようとしながらも、すぐに姿を隠してしまう敵にあまり効果を上げられていないシスララが、険しい表情のままで訊ねた。クロイスはにやりとしてみせる。
「まあ見てろって」
 シスララが頷いたものかと悩んでいると、再びアントリオンが地中から姿を現した。
「そこだ! あんただよ!」
 アリスの警告が飛ぶ。狙われたのはセリオルだった。長身の黒魔導師はかろうじて身体を捻り、地中からの鋭い攻撃を回避したかに思えた。
「なにっ!?」
 だがアントリオンの攻撃はそれで終わりではなかった。ずっと地中に隠したままだった、身体の下半分での攻撃を繰り出してきたのだ。節の入った鋭く尖った脚が伸び、セリオルの眼前に迫る。セリオルは一度大きく回避行動を取っていたため、体重移動を即座には行えなかった。砂の地面に足が取られる。
「セリオルさん!」
 駆け付けようとサリナが地面を蹴る。いつもなら難なく間に合う距離だ。彼女は速さには自信がある。
 だが、今日の戦闘は砂の大地の上だった。マキナで、砂漠での戦闘もこなせるようになったと思っていた。だがカラ=ハンの砂はマキナのものよりもさらに粒子が細かく、その分サリナの体重を見事に分散させてしまった。
 結果として、彼女は地面を上手く蹴ることが出来ず、加速が遅れた。
 セリオルは目前に迫った敵の攻撃から身を守ろうと、顔の前に腕を掲げた。仲間たちの声が聞こえる。大きな痛手は避けられそうもない。彼は覚悟を決めた。
「私を忘れていないかしら?」
 その声と共に、セリオルの前に立った影があった。蒼穹に煌めく盾を掲げ、彼女は叫んだ。
「蒼穹の盾よ! 逞しき大地のマナで我らを守りなさい!」
 それはまるで、大気が彼女に味方をしたようだった。風水術と騎士の力を操り、アーネスはそれらをひとつとした。ブルーティッシュボルトに地のマナが宿る。セリオルは目の前で起こったその現象を、信じられない思いで見つめていた。
 もはや騎士の盾は、守るだけの力ではなかった。セリオルのマナを吸おうと伸びたアントリオンの触手は輝く光の盾によって完全に防がれた。その上、地のマナによる反撃を受けた。琥珀色のマナは鋭い矢となって飛び、触手を傷つけた。その痛みに、アントリオンが悲鳴を上げて触手を引っ込める。
「おら食らいやがれ! 弓技・影縫い!」
 クロイスの声が聞こえると同時に、彼の手元から矢が放たれた。セリオルには、その矢がマナを纏っているように見えた。
 灼熱の太陽が照りつける中、クロイスの矢は乾いた空気を切り裂き、正確に狙いを貫いた。アントリオンの動きがぴたりと止まる。身動きが出来ない奇妙さに、蟻地獄はその口をキチキチと鳴らした。
 クロイスの矢は、アントリオンの影を射抜いていた。マナを宿したその矢は、影と砂の大地とを強固に結んでいた。
「弓技……あれが、ダリウさんから学んだマナですか。なんて素晴らしい……」
 思わずセリオルの口から、そんな言葉が漏れる。マナの力で敵の動きを奪うのは、何も魔法や攻撃だけではなかったのだ。トリッキーで奇妙だが効果的な、実にクロイスらしいマナの使い方だった。
「おいおいクロイス! お前すげえじゃねえか!」
「うんうん! すっごいこと思いついたねえ!」
 カインとサリナのふたりも興奮していた。戦闘そっちのけで駆け寄ろうとするふたりに、クロイスは一瞬照れたような表情を見せたが、すぐに厳しい声を発した。
「このバカ! まだ終わってねーだろ!」
「おおおう」
「あああ、そうだった」
 慌てて敵を振り返ったふたりの前で、既に仲間たちによる次の攻撃が始まっていた。
 フェリオは銃を素早く組み替えた。それは一見、二丁拳銃のようだった。接近戦や素早い敵との戦いでよくフェリオが使うその武器が、しかし今日は少し様子が違っていた。見慣れたものよりも、ひと回り以上大きい。
「あれ? フェリオ――」
 しかしサリナが問いかけるよりも早く、フェリオはトリガーを引いていた。
 凄まじい数の弾丸が目にも止まらぬ速さで発射された。砂漠の大気を叩き割るような激しい銃声。ガンナーの手元では、カインナイトの涼やかな輝きが生まれている。高性能火薬の威力も相まって、その恐るべき機関銃が放った無数の弾丸の威力は驚異的なものとなっていた。
「せっかくのチャンスだ。無駄にするなよ」
 銃口が硝煙を上げる機関銃をさっと振ったフェリオの声は落ち着いていた。だがそれとは対照的に、アントリオンの甲殻が受けた被害は壊滅的なものだった。
 分厚い殻は砕かれ、中の肉が現れていた。粉々に砕け散った甲殻が熱い砂の上に散乱している。魔物はあまりの痛手に声も出ない。
「すげえ……」
 我が弟ながら、とカインは舌を巻く。銃の改造は目覚ましい効果を上げた。フェリオの攻撃力は格段に向上していた。
「花天の舞・オーラジグ!」
 シスララがマナの舞で攻撃力を上昇させる。マナの粒が彼女と、彼女の飛竜を祝福する。
 シスララが合図を出すと、ソレイユは天高く上昇した。そして空中で大きく円を描くように後方へ回転し、主人の背後から滑空を開始した。シスララはそれが見えてでもいるかのように絶妙のタイミングで、渾身の力を込めてオベリスクランスを投擲した。
 放たれた槍は文字通り空を切り裂いて飛んだ。その恐るべき鋭さを誇るオベリスクランスは、滑空によって加速したソレイユと、空中でひとつとなった。ソレイユの咆哮が響く。
 飛竜の槍は、露出したアントリオンの身体を貫いた。反対側の甲殻を突き破り、空色の竜槍は高く舞い上がった。
「やべえ!」
 その美しい連携攻撃をぽかんと眺めていたカインが、我に返って叫んだ。彼は慌てて獣ノ鎖を取り出し、アントリオンへ向けて放った。伸縮自在の鞭は巨大蟻地獄に絡みつき、その身体を青白い炎へと変えた。
「ふー……焦ったぜ」
 この暑い中で冷や汗を拭い、カインはアントリオンを収めた獣ノ箱を腰にぶらさげた。危うく、貴重な魔物が命を失うところだった。全く、強くなったのはいいが、少しはそのあたりの加減も考えてもらわなくては。
「すごい……みんな、すごい!」
 サリナは感動すら覚えていた。アーネスの守りの術、クロイスの弓技、フェリオの機関銃、シスララの連携攻撃。仲間たちがどんどん強くなっていく。ひとつの戦いを終えるごとに、彼らは新しい力を手に入れていく。
 自分も負けてはいられない。新たな魔法、新たな力。早く手に入れなければ。
 そう思って、サリナは気付いた。皆、そう思っていたのだ。マナの解放を学んでその戦闘能力を突出させた自分が、仲間たちにそう思わせたのだ。ちょうど今の自分と同じように。アーネスも言っていた。マナを解放する方法を教えてほしいと。結局それは難しいようだったが、そんなことをせずとも、アーネスは十分に素晴らしい力を手に入れていた。
 それぞれに素晴らしい戦士なのだ。サリナは改めて、戦闘を終えてひと息ついている仲間たちを見てそう思った。身近に強い存在がいれば、それに追いつき、追い抜きたいと願う。また、仲間の役に立ちたい、足を引っ張りたくないと考える。そういう思いが、彼らの中にあるのだ。そう、自分と同じように。
 それが嬉しくて、サリナはにこりと微笑んだ。だが、その時だった。
 背後で爆発音のようなものが響いた。自分に覆いかぶさる影が見えて、サリナは驚いて振り返った。仲間たちの狼狽した声が聞こえる。
 自分の瞳に映ったその姿に、サリナは驚愕した。アントリオンだった。さきほど倒したばかりの魔物が、もう1匹潜んでいた。それに気付かなかった。完全に油断していた。触手が素早く迫る。反応が遅れる。砂に足がもつれる。
 だがそのサリナに迫ろうとした触手の、のこぎりのようにギザギザした棘に絡みついた剣があった。2本の触手に、その剣はがっちりと嵌った。
 その信じられない光景を、サリナは呆然として見送った。何もせず、何も出来なかった。
 アリスが両手に1本ずつ握った剣は、アントリオンの触手を引っ張った。魔物は砂の中から飛び出したままの勢いで、アリスに砂の上へと引きずり出された。まるで武術の投げ技のように、アントリオンは文字通り砂の上へ投げ出された。
 人間よりも大きな身体の蟻地獄が、砂の上でのたうちまわる。だがそれもほんの僅かな瞬間でしかなかった。
 アリスは手元に戻した剣を逆手に持ち、アントリオンの胸部の節目を狙って鋭く、全体重を乗せて振り下ろした。剣は見事に魔物の甲殻の隙間に突き刺さった。アントリオンが悲鳴を上げる。アリスはそのまま腕を捻った。
 そこがアントリオンの急所だったのか、魔物は途端に動かなくなった。全身の力が抜け、四肢がぱたりと砂の上に落ちる。戦場は一瞬にして静かになった。
「アントリオンとやる時のポイントはふたつだ。どうやって動きを奪うかと、どうやって留めを刺すか」
 手慣れた作業を終えただけ、という風に、アリスはこともなげに言ってのけた。
「ま、それを知らなかったのによく倒したよ。お前らの強さは本物だな」
 2本の剣を柄に戻して、アリスはサリナたちを見回した。そこには驚くべき強さの戦士が揃っていたが、一様に口をぽかんと開けて固まっていた。

「ったくよー。あんな簡単に倒せんだったら最初っから教えてくれてもいいのによ。つーか倒しちまうし。捕まえたかったのによー」
 サントスの背の上でぶつぶつと不満を止めないカインを、サリナがなだめている。しかし言われているアリス本人は、何も気にしてはいないようだった。
「だからさっき言っただろ。お前らの強さを見たかったんだよ」
「んなこと言って俺たちがもし弱かったらどうすんだよー」
「そん時ゃあたしが出ればいいだけだろ」
「くっそー。なーんか納得できねえ」
「まあまあカインさん、私も危ないところを助けてもらったので、ここはなんとか」
「ちぇっちぇ。ぶーぶー」
「はーははははー。カインっつったか? あんなことぐらいで怒ってたら、アリスちゃんとは付き合えねーぜ!」
「おいレオナルド、今なんつった?]
「おうのー。口が滑っちまった。許しておくれよアリスちゃん!」
「てめえわざとだろ? 絶対わざとだろ。なあ」
「おーまいがー!」
「うふふ。楽しいおふたりですねえ」
「……あれは楽しいのか?」
「さーな」
 アリスとレオナルドのやり取りに微笑むシスララと、そのコメントに驚くフェリオ、そして呆れるクロイス。なんだかどこかで見たような光景だと思いながら、サリナは笑っていた。
 ほどなくして、サントスはローランの街に到着した。熱砂の街、ローラン。かつて砂漠のオアシスを中心にして栄え、30年前の大枯渇で壊滅した都市。その入口は、まるで廃墟のようだった。旅人を迎える準備は無く、グリングランの乗り場や旅支度のための店も無い。まるで砂漠の太陽と風に命を奪われたように、そのローラン自治区首都は静まっていた。
「ここ……ですか?」
 驚きを隠しきれず、サリナは誰にともなく訊ねた。本当にここが、自治区の首都なのか。人影も無く、声も聞こえない。エル・ラーダやアクアボルトには、それぞれに自治区首都としての活気や勢いが見えた。これでは、ローラン港のほうがよほど栄えている。
「中心部にひとが住んでる。外縁にはほとんどいないね」
 初めて訪れる者のこうした反応には慣れているのか、アリスは気にもしていないようだった。サントスから降り、サリナたちにも降りるように促した。
 実際、ローラン港にいた多くの人々がここを訪れるのだ。そういう意味では、ひとがいるという中心部はそれなりに栄えているのかもしれない。そう思って、サリナはサントスから降りた。レオナルドは陽気な歌を口ずさみながら、サントスを手近な日陰に誘導した。
 街の中心にはオアシスがあった。いや、正確にはかつてオアシスだった、干上がった池があった。今はその地下水を引いて、なんとか利用しているということだった。
 確かに、入口よりは人影があった。店舗も並び、宿や飲食店も見えた。しかし、本当にここが自治区首都なのかという疑問を拭い去るには至らなかった。辺境の村、フェイロンでもここよりは人口が多いかもしれない。そう思わせるくらい、熱砂の街は寂れていた。
「復興が上手く進んでないんだよ。みんな頑張ってるんだけどね、マナが回復しないことにゃどうしようもない」
 アリスはそれについて特に気にしてはいないようだった。悲しみも寂しさも感じさせない口調で話しながら、アリスはサリナたちを案内した。
「大枯渇からの復興には骨が折れるとは聞きますが、これほどとは……」
 街の中心部を歩きながら、セリオルは唖然として呟いた。やはりこれにも、マナバランスの崩壊が影響しているのか。いや、大枯渇が起きたのは30年前だ。ゼノアの暗躍が始まったのはせいぜいがここ10年。神晶碑の破壊に至っては僅か半年前である。それまで顕在化していなかったマナバランスの狂いが、ここまでこの街、この大陸に影響しているものだろうか。
 セリオルは首を捻った。他に何か原因があるのだろうか。だとしたらそれは何だろう。地の集局点や神晶碑とも何らかの関連があるのだろうか。
 だが、今ここで考えたところで答えが出るはずは無かった。研究者らしく見えるような会話をそれとなくしながら、彼は頭の中でそう結論付けた。
「さて、あたしの案内はここまでだけど、これからどうするんだい? とりあえず宿を取るかい?」
 アリスは顔が広いらしく、街の人々からいちいち声を掛けられては適当な受け答えをしていた。今も彼女の名を呼んだ男の顔を見もせずに手だけを振って、彼女はそうサリナたちに訊ねた。
「そうですね。どこかいい宿はありますか? それと、少々込み入った調査をしたいので、念のために領主の方の許可を頂きに伺いたいのですが……」
「……そんなもんいらねーよ」
 表面的には、それまでと何も変わらない口調だった。だがサリナは、そう答えたアリスの声に、僅かな警戒の色が混じるのを感じた。領主に会わせたくないのだろうか。彼女にとって、それが何か不利益を生むことであるようには思えなかった。アリスが警戒する理由がわからず、サリナは黙っていた。
「そうですか? しかし念のため――」
「見てのとおり、ここはほとんど住民たちだけでなんとかやってる街だ。領主の許可なんていらねーから、好きにしな。街に迷惑さえかけなきゃ何してもいいんだ、ここは」
「……そういうものですか」
 アリスに気取られぬよう注意しながら、セリオルはアーネスとシスララを見た。ふたりなら、この自治区の領主とも面識がある可能性があった。しかしふたりは他の話題で会話していて、セリオルのほうを見てはいなかった。
「では、もしよかったら宿の紹介をお願いできますか?」
「ああ、いいよ」
 アリスが案内してくれたのは、”砂塵の風紋亭”という名の宿だった。外観はまるで切り出しの一枚岩を加工したかのような建物で、いかにも武骨な印象を受ける。
 宿の受付で顔を利かせて割引をさせてくれたアリスに礼を言ってそこで別れ、サリナたちはそれぞれの部屋へ入った。
 女性3人の部屋で荷物を置き、アーネスはすぐに口を開いた。
「何気ない風に聞いて」
 その言葉はさらりと流れ出すようにして発言された。サリナもシスララも、それに驚きはしなかった。アーネスが言いたいことは、既にふたりにもわかっていた。
「気づいてると思うけど……監視されてる」
 すぐ近くのふたりにだけ聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの声。ごく普通の日常的な会話をしているかのような口調と素振り。サリナとシスララは、それがアーネスの言った冗談ででもあったかのように、くすりと可笑しそうに笑って頷いた。心の中の、混乱と狼狽をひた隠しにして。