第121話

 早掻の海の荒い波を掻き分けて、リンドブルムは西への航路を進む。
 悪天である。暗い空には稲妻が走り、時折鋭い雷鳴が轟く。波は荒れ、まるで海陽の船の進むのを妨げようとするかのようだった。
 揺れる船内。フェリオはその扉の前で、ローラン港を発った時のことを思い返していた。

 抜けるような青空が、まるでサリナたちの旅立ちを祝福しているかのようだった。潮の香りと砂漠の風が混ざるこの熱砂の港で、サリナたちは最後の食事を摂った。
 見送りはささやかだった。アリスとクレメンテ、そしてクラリタ、そしてレオナルド。地位の面で言えば――レオナルドを除いて――豪華この上ないが、クレメンテとクラリタは周囲に気づかれないよう、顔の上手く隠れる帽子をかぶっていた。それは砂漠の民の服装としてはごく自然だったので、誰も彼らのことを窺おうとはしなかった。
 クラリタの体調は急速に回復していた。彼女の病状は、自らのマナの不調。サリナはヴァルファーレにマナを奪われた時のことを連想した。全身から力が抜け落ちていくような感覚。あの現象が、クラリタには日常的に起こっていたと言うのだ。
 タイタンが朽ちた砂牢とローランを繋ぐマナの道を拓いたことで、ローランには豊かな地のマナが満ちた。その力が、クラリタのマナ変異症と呼ばれる病を治したのだった。見た目には何も変わらなかったが、その声は力を帯び、動きは以前よりも機敏さを見せた。
 食事の最中、ローランの領主夫妻は、改めてそのことをサリナたちに感謝した。クラリタはローランの賢人と呼ばれながら、街から出ることが叶わず、ろくな研究も進められていなかった。そこにやってきたマナの充実と、そしてクリプトの書とが、彼女の新たな生きる活力となっていた。
 リンドブルムで待ちくたびれた様子のハロルドを労いながら、サリナたちはローラン港を出発した。出発の直前、アリスがシスララを呼び止めた。仲間たちは先に乗船したが、シスララはその声に振り返った。
「あの、さ……」
 アリスはやや顔を俯け、小さな声で言葉を発した。どこか言いにくそうだった。日に焼けた褐色の肌が、僅かに赤らんでいるようにも見えた。
「はい?」
 シスララは小首を傾げた。そしてアリスの言葉を待った。
「いや、その……なんていうかさ……」
 頭を掻き、アリスは口ごもった。そして咳払いをした。喉の奥の、出てくるのに抵抗するものを、押し出そうとしているような仕草だった。
「はい」
 荷物を身体の前で両手で持ち、シスララは待った。肩のソレイユが小さな声を出した。主人とアリスの両方を気遣うような声だった。その飛竜の顎を指先で撫でてやり、シスララはアリスに視線を戻した。
「その……わ、悪かった……よ」
 ようやく、その言葉はアリスの口から、砂漠の港の大気へ伝えられた。それは晴天の下、乾いた熱い空気を震わせ、シスララの耳へと届いた。砂漠の姫君、誇り高き熱砂の戦士。その人物からの謝罪の言葉が、シスララの胸に届いた。
「あたしは、あんたを軽蔑してた……いや、妬んでたって言うほうが正しいね。同じ自治区領主の娘であるあんたが、世界会議に参加することを、妬んでた。あたしには、それは出来なかったから」
 言葉を切り、アリスは息を吐き出した。顔を上げることは出来なかった。相手が自分を、どんな顔で見ているのかを確かめるのが、怖かった。
「あたしは……世界会議なんて出るものじゃないって、自分に言い聞かせてたんだ。自治区を守る役を負ってる自分が、そんなとこに行ってる時間なんて無いってね。けど、あんたたちと一緒に戦って、気づいたよ。あたしは……あたしはそう思うことで、目を逸らしてたんだ。魔物との戦いと世界会議、両方をこなすことが出来ない自分を、そう思い込むことで、騙してたんだ」
 アリスの足元、彼女のつま先の近くを、砂漠の蟻が歩いていた。蟻は食料を巣穴へ運ぼうとしている。だが、彼の前には彼の身体の数倍は大きな石ころが横たわっていた。巣穴へ戻るために、蟻は食料を抱えたままで石ころを登ろうとする。迂回すれば何の問題も無いのに、蟻は石の上へよじ登ろうと、懸命に努力していた。
「……あたしは、決めたよ。これからは、両方を出来るようになる。砂漠での戦いも、世界会議で自治区の待遇を良くすることも。あたしには、その両方が必要だからね。このローランを、あたしの故郷を、これからも守るために」
 蟻は大きな食料を抱えたまま、石の上へ到達した。彼の視界には、素晴らしく広く、素晴らしく美しい砂漠の港の光景が、陽の光と美しい空に祝福された、力強き砂漠の港が広がっていた。
 アリスは顔を上げた。シスララは、彼女を見ていた。静かに沈黙し、そしてその口元に、あの優しい微笑を浮かべて。
「……はい、アリスさん」
 シスララは1歩前へ出た。そして彼女は、アリスの両手を取った。自分の両手で、砂漠の戦士の手を包んだ。戸惑うアリスの顔を、彼女は見つめた。
「頑張りましょう、アリスさん。私たちの自治区を、そしてエリュス・イリアを、より良い世界にするために――」
 シスララはアリスを引き寄せた。そして彼女は、自分よりもやや背の高いアリスを、抱き締めた。
「――力を合わせ、共に」
「……ああ、そうだね」
 エル・ラーダとローラン、色の異なるふたつの自治区のふたりの姫の心が通じた瞬間だった。
 船の甲板で、フェリオは仲間たちと共にその様子を見ていた。仲間たちは皆、嬉しそうだった。サリナとカインは笑い、アーネスは微笑んでいた。クロイスは、ふたりの抱き合う姿を見ていられないのか、顔を逸らしてなぜか口笛を吹いた。そしてセリオルは――
 セリオルはまだ、乗船していなかった。彼はアリスの後ろで、彼女の両親と共にその光景を見つめていた。それはまるで、別れを惜しむ親友同士のようだった。ふたりがそこまで互いの理解を深め合ったことを、クレメンテとクラリタも歓迎していた。
「本当にありがとう、セリオル」
 娘を見つめたまま、クレメンテはそう言った。セリオルはかぶりを振る。
「いいえ、私は何もしていません。頑張ったのはあのシスララとアーネス、そして自ら成長したのは、アリスですよ」
「……ありがとう」
 感謝の言葉を述べた夫の脇から、クラリタが進み出た。彼女は1冊の書物を持っていた。首を傾げるセリオルの高い位置にある目にも見えやすいように、クラリタはその書物をやや高めに掲げた。
「これ、どうぞ、持って行って」
「これは?」
 受け取って、セリオルはその表紙を見つめた。重厚な装丁。古びてはいるが、大切にされ、受け継がれてきたものであることがわかる。そこには、金色の装飾文字でこう記されていた。
「……上級黒魔法、その発祥と発展」
「私が愛用してた指南書。あなたにあげるわ。面白いものを貸してくれるお礼よ」
「ありがとうございます。こんな、素晴らしいものを」
 その指南書を、セリオルは胸に抱いた。新たな力。ますます厳しくなる戦いに、それは大きな光となるだろう。そして彼はこう続けた。
「クリプトの書のこと、よろしくお願いします。かすれて解読は難しいと思いますが……あれには、“魔神”についての記述があるはずなんです」
「ええ、了解よ。任せて」
 クラリタは片目を閉じてみせた。この実年齢よりもかなり若く見える賢人に、セリオルは尊敬の念を抱く。彼女になら、自分には時間がかかりすぎて難しい解読も任せられる。いずれまたこの地を訪れ、クラリタから解読の結果を聞こう。
 フェリオは見ていた。仲間は船室へ向かったが、彼はひとり甲板に残った。彼はセリオルを見ていた。セリオルがクラリタと会話するのを見ていた。

 扉を、フェリオはノックした。返事があった。遠くで雷鳴が聞こえる。フェリオは扉を開く。部屋の中へと。彼は、そこにいた。机へ向かい、座っている。その身を半分、こちらへ向けている。椅子を引いている。
 ゆったりとした法衣。長い黒髪。黒縁の眼鏡。その奥に煌く、知性の光。眼鏡の位置を直し、彼は口を開く。
「どうしました、フェリオ」
 サリナが兄と慕い、カインが親友と誇り、アーネスが屈指の実力者と認める。史上最年少で竜王褒章を受章し、国王からの覚えも明るい。あらゆる分野に豊富な知識を持ち、黒魔法や薬術に長け、フェリオたち一行を導く者。彼らの中で唯一、ゼノア・ジークムンドのことを知り、そして彼らの中の誰よりも、その凶行を止めようと努力を続ける者。
 無くてはならない存在。その点において、誰もが首を縦に振るだろう。彼無くして、この旅は成り立たない。彼無くして、この旅は先行かない。
 一行のリーダー。頼れる知の宝庫。豊かな魔力を誇る、希代の天才。
 その名は、セリオル・ラックスター。
「話があるんだ」
 だからこそ、フェリオは彼の部屋を訪れた。彼を詰問し、明らかにしなければならないことがある。
 これまでの旅を、フェリオは回顧する。セリオルは常に、一行の行く先を示してきた。今、どう行動すべきか。次に向かうべき場所はどこか。攻略すべき人物は誰か。倒すべき敵は何か。フェリオはそれに従った。彼の判断正しいと、フェリオは信じていた。
 その根拠は、たったひとつだった。セリオルは、サリナにとって不利益なことはしない。底の見えない考えを示されても、目的のわからない指針を出されても、そのたったひとつの真実が、フェリオの足を前へ向けさせた。
 その確信は、揺らいではいない。セリオルはあらゆる敵から、サリナを全力で守るだろう。そしてゼノアを止め、エルンストを救出するために行動するだろう。そのことについて、フェリオは何の疑問も抱かない。
 だがそう思うからこそ、彼はセリオルに訊ねなくてはならなかった。
「……どうぞ、そこへ」
 眼鏡を外し、セリオルは目頭を揉んだ。集中して何かを読んでいたらしい。机の上には、クラリタから譲り受けた書物があった。上級黒魔法を会得するための書だと、彼はそれを仲間に紹介した。
 示された椅子に、フェリオは腰掛けた。セリオルは静かに、こちらを見ていた。
「来るだろうとは、思っていました」
 先に切り出したのはセリオルだった。フェリオは黙って頷いた。
「教えてほしいんだ」
 セリオルの言葉は示していた。彼が、フェリオの聞きたいことが何であるのかを理解していることを。フェリオはただそれだけを口にした。それ以上のことを、言うつもりは無かった。
 セリオルは目を閉じた。彼は沈黙した。時間にして、あまり長いものではなかった。だがフェリオには、その沈黙が永遠に続くものではないかと思えた。
 雨が甲板に打ちつける音が響いてくる。雷鳴が聞こえる。ハロルドは今、必死で舵を操っているだろう。誰か近くにいてやっているだろうか。そんなことが気にかかる。舵を握る少年の手に、彼ら全員の命が懸かっている、そんな重圧がのしかかってはいないだろうか。
 いや、そんな心配はいらない。きっとサリナかカインか、あるいはクロイスか、誰かが操舵室にいる。理由も無くそういうことを他人任せにする者はいない。
 頭の片隅でそんなことを思いながら、セリオルは目を開いた。自分と部屋の扉との間に座る、フェリオの目を見る。
「サリナの、ことですね」
「ああ」
 フェリオは短く答えた。セリオルを責めるつもりは無かった。言葉の端にそんな調子が出てしまうことに気をつけながら、彼は続けた。
「俺は、こう理解してるんだ」
 朽ちた砂牢、地下の大空洞。そこに巣食っていた、ブラッド・レディバグに侵食されたアントリオン。不気味な力を使い、地の集局点のマナを吸い尽くそうとした、邪悪なる魔物。ゼノアの手先。ローランの敵。その強力な魔物を前にした時の、あのサリナに起こった異変。
「あの時、あなたは俺にサリナを任せた。それは、俺がサリナの異変の原因を突き止めると考えたからだ」
 言葉を切って、フェリオはセリオルを見た。長髪の魔導師は、じっとこちらを見つめている。その目からは、何の感情も読み取れない。フェリオは続けた。
「そしてあなたは、その先のことも考えたはずだ。原因を知った俺が、あなたに事の真相を確かめようとすると。そこまで読んだ上で、あなたはあの時、俺を行かせた。違うか?」
 フェリオは仲間たちに、サリナに起きたことの全てを話してはいなかった。セリオルに確かめた上でと思ったからだ。今はまだ、仲間たちはサリナの異変は、ブラッド・アントリオンの異常なマナに、サリナのマナが影響を受けたのが原因だと思っている。
 だが、その話で全てを収めるわけにはいかなかった。アーネスは、だったらサリナが敵のマナの影響を受けないようにしないと、と言った。そのために原因を究明し、対策を立てることを彼女は求めた。なぜならこの先も、ブラッド・アントリオンに侵された魔物が立ちはだかることは十分にあり得るからだ。
 フェリオは、仲間の貴重な時間を無駄なことに割くつもりは無かった。やるならば、真実の原因を突き止め、それへの対策を立てる。そのために、彼は知らなければならなかった。セリオルが知っているはずの、サリナの秘密を。
「教えてくれ、セリオル。サリナは……」
 彼は言い淀んだ。そのことを口にするのが憚られた。何かとんでもなくひどいことを言ってしまうような気がした。だが、言わないわけにはいかない。息を吸い込み、彼は意を決して口を開いた。
「サリナは……何者なんだ?」
 大きな雷鳴が轟いた。大気が震え、船にそれが伝わってくる。遠くで誰かが叫んでいる。あれは、サリナの声だ。純粋に、真っ直ぐに、前へ進もうとする少女。父のために、仲間のために、世界のために、自らの持つ大きな力を制御し、戸惑いながらも前へ進もうとする少女。
 サリナだって不安なはずだと、フェリオは思う。時折起こる、自分の異変。これまでに何度かあった、無意識状態でのマナの暴走。クロフィールで引き出された、自らに眠る膨大な量のマナ。砂牢で世界樹の意識を傍受し、自分の意識を奪われてしまったこと。この先、自分にはどんなことが待ち受けているんだろう。マナの共鳴度が高い、というだけの理由では納得出来ないことが、起こっている。そのことに、サリナも気づいているはずだ。
 そしてその答えは、セリオルが持っている。フェリオはそう考えていた。これまでのことを振り返っても、セリオルは誰よりも落ち着いていた。それはただ年長者だからとか、マナのことをよく知っているからとかの理由だけではないと、フェリオは考える。なぜならサリナに起こったことは、これまでエリュス・イリアでも例を見ないことばかりのはずだからだ。
 セリオルは答えない。ただ静かに、彼はフェリオを見ていた。
「答えてくれ、セリオル。それはきっと俺たちに――いや、サリナにとって、重要なことであるはずだ」
 サリナがマナに関して敏感であることは、ずっと前にわかっていた。王都イリアスの王城地下、幻獣アーサーが構築した試練の迷宮で、それは明らかだった。サリナはアーサーのマナを感じ取り、カインやアーネスを目的地まで導いた。それはその時には、サリナにしか出来なかったことだった。
 旅を続け、多くの強敵と戦う中で、仲間たちもマナを感じ取ることに慣れてきた。マナを感じ、マナを操って戦うことが出来るようになった。だが、その時サリナは既に、マナに関して更に先に進んでいた。
 自らの内に眠るマナを引き出し、操る。アシミレイト時に幻獣の力を更に引き出すことも、その技術のおかげで可能になった。サリナの力は図抜けている。それを、仲間の誰もが感じていた。瑪瑙の座の力を手に入れたカインたちでも、サラマンダーの力を借りたサリナに敵わないかもしれない。そう感じさせるだけのものが、サリナにはある。
 そして朽ちた砂牢で、あれが起こった。マナを吸う魔物に対して、必要以上に怯えるサリナ。あれは尋常では無かった。ローラン港出発してすぐ、仲間はサリナのあの異変に、対策を立てなければと話し合ったのだ。だが、答えは出なかった――いや、出さなかった。
 セリオルは再び目を閉じた。そしてフェリオに向かって、頭を下げた。
「申し訳ありません、フェリオ」
 それは、フェリオの予想しなかったことだった。彼はセリオルに、謝罪の言葉を求めてはいなかった。彼が欲したのは、ただひとつの答えだ。セリオルが知る、サリナについてのこと。
 だが、その思いは届かなかった。
「その質問には、答えられません。今は、まだ」
「……なぜだ」
 セリオルの口ぶりは語っていた。やはり彼は、サリナについて何か知っている。だが、それはもうわかり切っていたことだ。そんなことには、フェリオは気づいていた。その先が知りたかった。でなければこの先、ブラッド・レディバグの魔物に対抗出来なくなるかもしれない。
「俺は、俺たちはあなたを信じてる。いや、信じてきた。その信頼を裏切るのか、あんたは!」
 フェリオは立ち上がった。感情が昂ぶるのを抑えるのは難しかった。彼は願った。どうかこの嵐の音が、自分の怒声をかき消してくれますように。
「だったらこの先、俺は何を信じて戦えばいいんだ。俺たちはブラッド・レディバグやゼノアに、どう対抗するんだ! また世界樹の意思がサリナに流れ込んで、取り返しのつかないことになったらどうする! その時サリナを、あいつを守れるのは誰なんだ! 俺たちじゃないのか!」
 フェリオが詰め寄るのを、セリオルは避けなかった。胸倉を掴まれ、揺さぶられても、彼は抵抗しなかった。それはまるで、自分の罪に対する罰を甘んじて受ける者のようだった。
「その通りです、フェリオ。サリナのことは、私が守ります。そのための手段も、私が考えます」
「……あんたは!」
 静かに答えるセリオルの瞳には、光が見えなかった。それがフェリオを苛立たせた。
「あんたは、俺たちを信用してないのか? 俺たちからゼノアに、情報が漏れるとでも思ってるのか? だから話さないのか? なあ、どうなんだ!」
「いいえ、フェリオ、そうではないんです」
 セリオルはあくまで冷静だった。フェリオが激昂することも予想していたのだろう。彼は変わらぬ調子の声で続けた。
「私は君たちを、世界の誰よりも信頼している。君たちとなら、必ずゼノアに勝利できると確信している。でなければ、私はサリナを連れて、とうに姿を消しています」
 フェリオはセリオルから手を離した。確かに、セリオルの言うとおりだった。もし自分たちが信用できないのなら、彼は消えただろう。それでもやり遂げようという覚悟が、彼にはある。元々、彼はサリナとふたりだけで旅立ったのだ。
「今の状態でこう言うのは、おこがましいかもしれない。ですがフェリオ、敢えて言います」
 セリオルは立ち上がった。そして自分よりも8歳も若く、まだ少年と呼んでも差し支えない年齢のフェリオに向かって、頭を下げた。腰を折り、深々と。
「私を信じてください。話すことが出来る時が――いえ、話すべき時が来れば、必ず全てを話します。ですがまだ、私はそのことについて口にすることは出来ない。その理由を明かすことも出来ない。ですが……私には、私とサリナには、君たちが必要です。手前勝手は承知の上で、お願いします。私を、信じてください!」
 返す言葉を、フェリオは持たなかった。セリオルの言葉には魂があった。真実の響きがあった。彼がここまで、他者に対して何かを懇願するところを、フェリオは見たことが無かった。国王の前でも、自治区領主の前でも、彼は常に冷静に考え、策を練り、相手からの承諾を引き出した。
 だが今、セリオルには何も無かった。フェリオを納得させるための理論も、策も、状況の操作も、何も無かった。ただ彼はフェリオに向かって、頭を下げた。そして自分の気持ちを口にした。自分を信じてほしい。今、真実を語ることが出来ないことを許してほしい。その上で、共に戦ってほしいと。
 頭の片隅で、別の考えが首をもたげてくる。もしかしたらこのやり方が、セリオルの策なのかもしれない。何も語らず、フェリオを納得させるための。
 いいや。フェリオはその考えを自分で否定した。セリオルはそんなことをしない。そのことに自分が気づくことを、予見しないはずがない。それに、これまでの旅が、セリオルがどんな人間であるかをフェリオに伝えていた。彼は信頼すべき男だ。そして尊敬すべき人物だ。裏を読めば切りが無い。フェリオは決断した。自分自身の考えに基づいて。
「……わかった」
 沈黙の末、彼は答えた。セリオルは、ゆっくりと顔を上げた。そしてもう一度、彼は言った。
「……すみません、フェリオ」
 その胸中がいかばかりかと、フェリオは想像した。きっと嵐が吹いているのだろう。セリオルとて、その秘密をひとりで抱えるのは辛いはずだ。誰かに打ち明け、相談し、行き先を共に決めたいはずだ。だが、彼はそれをしない。それはきっと、サリナのためだろう。セリオルが自分に負担させるのは、いつもそのことだ。
 今話せば、サリナにとって不利益なのだ。あるいは彼女を傷付けることになるのだ。だからセリオルは口をつぐむ。それがどれだけ辛いことであっても、彼はサリナのために、口をつぐむのだ。
「でも、セリオル、覚えておいてくれ」
 セリオルに背を向け、部屋の扉に手を掛けて、フェリオは最後の言葉を口にした。
「もしあんたのその判断が間違ってたことがわかったら、その時はあんたをぶっ飛ばす」
「……心得ました」
 フェリオは部屋を出た。操舵室へ行ってやらなければ。ハロルドが混乱して舵を誤ってはいけない。彼を補佐してやらなくては。
 走りかけた彼の前に、ひとつの人影があった。暗い船内で、フェリオは目を凝らした。そこに立っていたのは、彼の兄だった。カインは口元ににやりとした笑みを浮かべ、弟の肩に手を置いた。
「心配すんな、フェリオ。あいつは賢い。俺たちを騙そうとするほど、馬鹿じゃないさ」
「……ああ、そうだな」
 兄弟は揃って操舵室へ向かった。船は荒波を掻き分け、西へ進む。クリプトの書が導いた最後の手がかり。それはファーティマ大陸の自治区のひとつ、ドノ・フィウメ自治区だった。