第122話

 朝の柔らかな光の差し込むその部屋で、彼はゆったりとした法衣を纏い、侍女の淹れた紅茶のカップを傾けている。ゆらりとした湯気が心地良い温かみを与えてくれる。アールグレイの香りが鼻腔をくすぐる。
 傍らのサイドテーブルには、チョコレート菓子の盛られた皿が置かれている。クッキー生地にチョコレートをコーティングしただけのシンプルな菓子だが、素材に良いものを使っているのか、味は格別だった。紅茶とも実に良く合う。
 彼はその報を伝えに来た部下を下がらせた。良い報せだった。
 湯気の向こうには窓がある。その外に広がるのは、400年の永きに亘って栄えてきた都。この美しく輝き、生命の力に溢れた世界、エリュス・イリア。その支配者として君臨し、富を蓄え、比類なき王者となった都、イリアス。その人口は100万を超え、なお増大を続けている。人々は平和を謳歌し、世界の中心であるこの都に暮らすことを誇る。
 だが、イリアス一族の築いたこの煌びやかな都が、今や彼の手中にある。
 彼は服従を求めはしなかった。ただ彼の力を披露したに過ぎない。事は簡単だった。たった1時間で、王都イリアスは彼によって陥落した。
 彼は窓から眺める。無残に崩れた王城の尖塔を。彼が命じ、彼の忠実な僕が放った一撃が、王国の栄華の象徴であるあの尖塔をへし折った。
 幸い、人命の被害は無かった。彼もそれを望んではいなかった。彼は徒に命を奪うことを好まない。その行為には明確な意図と、気高い目的が無ければならない。それ無くしてひとの命を消すことに、彼は憎悪すら覚える。
「……ふふ」
 笑いが込み上げる。今頃、彼らはどんな気持ちだろう。またひとつ、目的を達成したことで高揚しているだろうか。それとも早く次の目的地へと、焦燥感を覚えているだろうか。いずれにせよ、彼にとっては歓迎すべきことだ。
「ふふ……どんな感覚だった? 僕にも教えておくれよ。一体どんな感じなんだい? 自分の中に入ってくるっていうのはさ……意識、それも世界樹の。ねえ……サリナ」
 彼はカップを上げる。繊細な装飾の施された、上品なカップ。植物を模したその柄は美しく、彼の心に潤いをもたらしてくれる。だが、今日の知らせはそれよりも遥かに価値ある喜びを運んでくれた。
「その調子だよ、サリナ……もっともっと、強くなるんだ。待ってるよ――」
 呟き、彼は紅茶をひと口飲む。芳醇で甘美な、幸福の味。カップを戻し、彼は後ろに控える侍女を振り返った。質素な侍女服を身に付け、ただ静かにそこに控える彼女の顔には、何の表情も浮かんではいなかった。その栗色の髪と同じ色の瞳には、何の光も宿ってはいなかった。
「――ねえ、アルタナ」
 そう呼ばれた侍女は、ただ静かに、ゆっくりと頷いた。

 ファーティマ大陸東の沿岸に、リンドブルムが停泊している。大陸からは浅瀬が広がっていたため、リンドブルムでは接岸することは出来なかった。ハロルドは見事な舵捌きで嵐を乗り越え、この地点で船を安定させた。
 天候は晴れ。海面が凪ぐことは無いが、碇を下ろして停泊するには十分だった。雲の動きも緩やかだ。一時的に停まっておくには絶好のポイントだった。
「じゃあハロルド、行ってくるね。いつもごめんね、留守番ばっかりで」
「いえ、大丈夫です! もし嵐が来たら動かしますが、この座標に戻ってきますから安心して下さい」
 申し訳無さそうに言ったサリナに、ハロルドはそう言って胸を張る。彼はリンドブルムを任されることに誇りを感じているようだった。尊敬する兄弟子、フェリオの頼みということもあっただろう。彼はサリナたちの留守の間には船をきちんとメンテナンスし、次の出航を万全の状態で迎えることを徹底していた。
 サリナたちはチョコボを伴い、小型艇でファーティマ大陸に上陸した。
 そこはエル・ラーダ自治区の北東に当たる場所だった。ユーフラテスという名の大河を境にして、ファーティマ大陸の自治区は分割されている。
 ここはドノ・フィウメ自治区。広い平原と豊かな大河そして峻険な岩山を擁する自治区である。
「どーよクロイス、故郷に帰ってきた気持ちは」
 高い空を見上げ、カインはルカの背の上で深呼吸する。清々しい空気が肺を満たす。心地良い風が吹き抜ける。その隣で、クロイスは困ったような顔をした。
「いや……まあ、このへんのことはあんま知らねーしな」
「そりゃそうか」
 自分で振っておいて、カインはあっさりと笑う。
「それで、目的地は……“聖なる滝”、だった? どこにあるのかしら」
 オラツィオの背の上で、アーネスはそう言いながらぐっと伸びをした。彼女は騎士の鎧を外していた。クロイスから、ドノ・フィウメは閉鎖的で王国に対する警戒心が高いと聞かされていたからだ。まずは情報を得なければならない。自治区民からの警戒は避けるべきだった。
「滝っていうことは、河のところだよね、きっと」
 サリナの言葉に、シスララが頷く。
「ええ。でも私も、ユーフラテス大河に滝があるということは聞いたことがないわ」
「うーん……そっかあ」
 セリオルがクリプトの書から得ていた最後の手がかり。それはこのドノ・フィウメ自治区に存在するという“聖なる滝”だった。その名の通り聖なるマナの集まる滝であると、セリオルは書から読み取った。
「一応、クロイスに心当たりがあるそうです」
 セリオルのその言葉に、フェリオは首を傾げた。
「一応?」
「ええ、一応」
「あんま自信ねーんだよ。気にしてなかったし」
 ぶっきらぼうにそう言って、クロイスは頭を掻いた。
 クロイスはこう言った。ドノ・フィウメ自治区の首都、山岳の街ドノ・フィウメ。ユーフラテス大河の上流に位置し、険しい山の中に建設されたその街では、ガラス細工が盛んだという。その美しい細工の原料となるものが生まれる場所を、街の大人たちは“滝”と呼んでいた。
 だが、世界地図やドノ・フィウメの地形図を見ても、滝と呼ばれるような場所の記載は無い。クロイスも日常的に聞いていた言葉ではなく、実際にどのような場所を指すものかを確認したわけでもないので、それが本当に滝なのか、自信が持てないのだ。
「ですが他に手がかりも無いことですし、ひとまずはドノ・フィウメへ向かいましょう」
 口々に返事をし、サリナたちはチョコボを走らせた。首都ドノ・フィウメは岸から北西に存在する山の中だ。
 チョコボの足には、その道のりはさほどの労を要するものではなかった。サリナたちは午後に差しかかろうという頃、山の麓に到着した。
 麓には、ドノ・フィウメへの案内所が存在した。旅人たちに登山前の憩いと登山のための道具を提供する施設で、家族経営だというその施設の若い主人から、サリナたちはチョコボ用の登山靴を購入した。それは鋭い棘のついた蹄鉄のようなもので、チョコボたちが傾斜の厳しい山で十分に踏ん張ることが出来るようにする道具だった。
 山の中にあるとはいえ自治区の首都、そこへ至るための登山道は十分に整備されていた。多くのひとは騎鳥車で麓と首都を行き来し、物好きな登山家は自らの足で進むようだった。サリナたちは各々のチョコボに蹄鉄を装備させ、登山道へ入った。
 登山は順調だった。美しい自然に彩られたその道を、クロイスは懐かしい思いで眺めた。4年前、両親や兄弟たちと共に、ここを下った。あの時は、今の状況を想像することさえ無かった。彼は戦う力など持たない、幼い少年だった。彼は遠い場所へ家族と旅に出かけることに胸を躍らせ、その先にあるまだ見ぬ世界を心待ちにする、ただの少年だった。
 だが、運命は彼をただの少年のままにはしておかなかった。彼は家族を失い、家族を守り、戦いと逃走の中へ身を投じて暮らした。抜け出せない暗闇の中、もがき続けなければならないことを呪った。温かい家庭を、豊かな貴族や騎士を妬んだ。悪事に手を染め、騙し、騙されて、生きた。
 山の美しい緑を、クロイスは見つめる。その先に見える青い空を。そして彼は、語りかける。亡き両親へと。
 親父、お袋、俺は帰ってきたよ。俺を救ってくれた、仲間と一緒に――
「危ねえ!」
 鋭く、カインの声が飛んだ。クロイスは即座に反応し、イロを跳躍させた。
 轟音と共に、巨大な魔物が現われた。それはどうやら、山の上から降ってきたようだった。いや、この山道へ飛び降りてきたというべきか。いずにせよ、魔物は徒歩で山を登る登山家の前に立ちはだかり、鋭利な棘のついた太い触手を振り上げていた。
「なんだあいつ!」
 クロイスはイロから飛び降りた。見たことの無い魔物だった。利口なイロは、すでに状況を理解していた。チョコボに乗った人間に、魔物は興味を示さない。だから彼女の主人は地面に降りた。魔物の注意が、自分にも向くように。
「オチューだ! 気をつけろ、馬鹿力だぞ!」
 自分に続いてそれぞれのチョコボから降りた仲間たちへ、カインは警告する。厄介な魔物が現われた。彼は舌打ちをした。本来はもっと樹木の多い、森の奥深くなどに棲息する植物の魔物だ。巨大な丸い体躯に何本もの触手を生やし、それを凄まじい力で振り回して攻撃してくる。守りも堅く、一筋縄ではいかない。
 サリナが守りの魔法を連続で詠唱した。何色もの光が仲間たちを包む。登山客たちは恐怖に戦き、尻餅をついてしまっている。魔物はその頭上に、触手を振り上げる。
 だがそれが振り下ろされるより早く、フェリオの銃が火を噴いた。カインナイトで強化された銃は、凄まじい速度の弾丸を発射した。それが魔物の背中に命中し、悲鳴を上げさせた。
 魔物が振り返る。丸い目に大きな口。口には無数の鋭く長い牙が生えている。腹を空かせているのか、食事を邪魔された魔物は怒りの咆哮を上げる。
 サリナが魔物の後ろへ飛び込んだ。彼女は素早さを活かし、まずは登山客を避難させることを優先した。ガタガタと震える数人の登山客に、彼女は声を掛ける。
「大丈夫です。あの魔物は私たちが何とかしますから、ほら、逃げましょう!」
「な、なな、なんとかするって、あんた!」
 中年の男が、震える手で魔物を指差した。彼の言いたいことはすぐにわかった。あんたたちで何とかなるわけないじゃないか。そう言いたいのだ。サリナは男を安心させようと、微笑んだ。
「大丈夫です。ほら、見てください」
 振り返り、彼女は仲間たちの戦う様子を男に見させた。
 フェリオの機関銃が吠え、無数の弾丸を撃ち込む。弾丸はオチューの触手を切断し、悲鳴を上げさせる。そこへシスララが流星となって降下した。オベリスクランスの強烈な一撃が、魔物に大打撃を与える。火炎の魔法が火柱を立ち昇らせ、炎のマナを纏った矢が追い討ちをかける。熱線が放たれ、再び機関銃が火を噴く。
「ね?」
 あまりの光景に、登山客の男は口をぱくぱくとさせた。彼は仲間と共に、なんとか立ち上がった。もつれる舌を制御して、彼は訊ねた。
「あ、あああんたたち、一体、何者なんだ」
「えっと……通りすがりの、旅人です」
 サリナがそう答えると、登山客たちは混乱した声を上げながらも逃げ出した。魔物は道の下にいる。必然、彼らは上へ向かった。上り坂を走らせるのは申し訳無かったが、ここにいるよりはいいだろう。
「よし!」
 男たちの姿が見えなくなったのを確認して、サリナは仲間たちの許へ走った。
 状況は一方的だった。こちらの火力に、オチューは完全に押されていた。魔物の表皮は厚く、その防御力は大したものだった。だが、こちらの攻撃力はそれを凌いでいた。
 サリナはその攻撃に参加すべく、地を蹴った。鳳龍棍を構え、全身のバネに力を漲らせる。走りながら、彼女は回転を始めた。自分に足りない腕力や体重を補い、力を与えてくれる遠心力。その力で、あの魔物に攻撃を仕掛ける。
 だが、あと1歩のところで彼女はその場から吹き飛ばされてしまった。
「えっ!?」
 彼女を吹き飛ばしたのは、魔物の咆哮だった。それは単なる音ではなく、力を持つ攻撃だった。周囲の植物もなぎ倒す威力を持つ、音の波。自らを攻撃する者に対する、それはオチューの怒りの反撃だった。
 吹き飛ばされ、しかしサリナはすぐに態勢を立て直した。棍を握り、すぐに魔物へ接近を試みる。視界に仲間たちの姿が入る。魔物の向こうで、その近くにいたカインやシスララが倒れている。アーネスは咄嗟に身を守ったようだが、突然の反撃に仲間にまでは手が回らなかったようだ。
 倒れているとは言っても、サリナはさほど心配はしていなかった。自分のダメージも大きくはない。カインとシスララもすぐに立ち上がるだろう。それに、さきほどまで仲間たちが敵に与えていたダメージは甚大だ。勝負は時間の問題だろう。
 そう踏んだサリナの視界の外から、強烈な一撃が飛んできた。それはサリナの胴を強かに打った。肺から空気が絞り出されるのを感じながら、サリナは地面を転がった。
 攻撃してきたのは、オチューの強靭な触手だった。それが地面を潜り、背後からサリナを襲ったのだ。
 そして信じがたいことに、それはさきほどフェリオが切断したはずの触手だった。実際、切り飛ばされた断片のほうは、サリナのすぐ近くに落ちている。考えたくないことだが、この短時間で再生したというのか。
「……一気に決めないと!」
 魔物のその自己回復能力に背中を粟立たせながら、サリナは立ち上がる。攻撃を仕掛けておきながら、オチューはセリオルたちのほうを向いている。カインとシスララは立ち上がっていた。向こうのほうが攻撃力としての脅威が大きいと、魔物は判断したらしい。
「足跡を辿るならば目を凝らせ――スニーク!」
 オチューは目を持っているが、植物の魔物だ。恐らくさきほどの攻撃も、音を感知して仕掛けてきたはず。そう考え、サリナは自らの足音を消した。
 それを確認し、フェリオは機関銃のトリガーを引く。こちらで盛大に音を出して、敵の注意を引きつけるのだ。機関銃の弾丸が与えるダメージも、オチューはすぐに回復してしまうかもしれない。だが構わない。目的は、一行の最高火力を敵にぶつけることなのだ。
「火柱よ。怒れる火竜の逆鱗の、荒塵へと帰す猛襲の炎――ファイラ!」
「ソレイユ、いい? クロススケア!」
「弓技・乱れ撃ち!」
 様々な攻撃が放たれる。オチューは何本もの触手を、嵐のように振り回す。その口から酸性の液も飛ばした。それを回避し、カインは印を結ぶ。
「青魔法の参・マスタードボム!」
 熱線が飛ぶ。身体を灼く熱に、オチューが苦悶の声を上げる。だがその火傷も、恐るべき修復力で魔物は回復してしまう。アーネスが風水術を放ち、フェリオが機関銃を撃つ。攻撃は全て命中する。オチュー本体の動きは素早くはない。だが激痛に悲鳴を上げながらも、魔物は怯まない。その程度ならすぐに回復できることを知っているのだ。
 そして再び、あの力を持つ咆哮が放たれた。音は圧力の波となってセリオルたちを襲う。カイン、シスララ、アーネスの3人はそれを察知し、素早く後方へ跳んだ。ダメージをゼロにすることは出来なかったが、さきほどほどの痛手は無かった。
 そしてそれが終わった時、オチューの背後で炎が立ち昇る。
「いけ、サリナ!」
 フェリオは叫んだ。サリナが隙を突いた。マナが開放された。陽炎となって立ち昇る力。サリナの声が響く。真紅に輝く鳳龍棍の光が尾を引く。サリナは跳躍した。オチューが気づく。だが遅かった。瞳を真紅に染めたサリナは、回転しながら降下した。鳳龍棍が輝きを増す。ファンロン流武術とマナの力が融合する。
 裂帛の気合。サリナはその身の全ての力を、棍に込めた。鳳龍棍はマナの槍となり、魔物に振り下ろされた。マナが棍を伝わり、1点を貫く力となって放たれる。
 オチューは断末魔すら上げなかった。その前に、魔物の身体は消滅していた。
「……ふうー」
 着地し、サリナは汗を拭った。魔物は消えた。
「よくやりましたね、サリナ」
 労いの言葉を、セリオルがかけてくれた。照れたように、サリナは笑う。
「えへへ。みんなのお陰です」
「はっはっは。まあな!」
 カインが腰に手を当てて笑う。だが仲間たちがそうして安堵の息を吐く中、ひとりクロイスだけは深刻な表情を浮かべていた。
「クロイス、どうしたの?」
 気づいたアーネスが声を掛ける。顔を上げ、クロイスは言った。
「いや……やっぱマナバランスの影響なのかと思ってさ。前はあんな危ないやつは、いなかった」
 だが、彼は落ち着いていた。冷静に状況を分析し、受け入れていた。それにアーネスは、やや驚いた。故郷に危機が迫った時、サリナは、ローランのアリスは、焦燥に駆られていた。一刻でも早く原因の源へと急いでいた。だが、今のクロイスはそうではなかった。
 それはクロイスの精神的な成長の結果なのか、あるいは仲間と一緒なら大丈夫という信頼の証か。いずれにせよ、アーネスはクロイスの表情を見て、安堵した。少年の顔には、勇気があった。困難に立ち向かう戦士の風格があった。
 オラツィオを呼び、アーネスは騎乗した。仲間たちも続いた。急がなければならないことに変わりは無かった。オチューが出たことを、ドノ・フィウメにも知らせてやらなければ。安全への対策が必要なはずだ。
「……お、これいただき」
 そんな中、カインはそれを拾っていた。それはあの強靭な、オチューの触手だった。それを持っていこうとするカインに、仲間たちは声を揃えてうげえと言った。