第124話

 ドノ・フィウメの長老。それがアンリの言った、“じいちゃん”だった。ジルベールと名乗った長老は、ドノ・フィウメの街と、広いドノ・フィウメ自治区を治める存在だった。つまり彼は領主であり、イリアス王国から伯爵の爵位を賜った貴族である。
「申し訳ないことじゃが、わしに伯爵を意味する敬称は付けんでくれ」
 だが、彼はそう言った。その言葉が王国に対する彼の姿勢を表していた。彼は街と自治区の代表であり、そして街と自治区の性質の代表でもあった。
 ジルベールの家は、これまで訪れた自治区領主たちの家とは随分趣が異なっていた。屋敷や館、あるいは白と呼べるような大きな建物ではなく、他の民家よりも多少広いだけの、ごく普通の住まいだった。それもおそらく、ジルベールの主義なのだろう。彼は貴族ではなく、あくまでドノ・フィウメの長老なのだ。
 ジルベールは見るからに高齢の、老人だった。だがその眼光は鋭く、年齢に比して声は力強かった。次期統治者とされている息子にもまだその座を渡さない理由が、その風貌から理解できる、そういう人物だった。長い白髪に、同じ色の長い髭。杖をついてはいるが、身体はまだまだ健康そうだった。
 アンリと共に自宅を訪れたサリナたちを、彼は警戒を隠さない目で見た。竜を撃退した者として感謝の言葉を向けつつも、彼は得たいが知れない上、竜を退けるほどの力を持つサリナたちが何者であるのか、計りかねていた。
 クロイスは、サリナたちを友人だと紹介した。だがジルベールはその言葉だけで、サリナたちを信用しはしないようだった。彼は慎重な目でサリナたちを観察し、その口から発される声を聞き分けようとしていた。その様子に、クロイスは苛立ちを隠さなかった。
「詳しく経緯は聞かんが、クロイス、無事でなによりじゃ」
 ジルベールは、クロイスには温厚な表情を向けた。彼にとって、街の子どもたちは皆孫のようなものだった。子どもだちは長老を慕い、無垢な笑顔を向けた。それは街の大人たちから、彼が信頼を集めている証だった。
「ああ」
 だがクロイスは、やや冷淡な態度を取った。少年の心はざわついていた。久しぶりに再会したジルベールに、昔のように無邪気にじゃれることが憚られた。4年の月日は、クロイスの心に大きな変化をもたらしていた。それは子どもが大人へと成長する過渡期の、重要な変化だった。
「エミルとメリッサは……気の毒なことじゃ」
 両目を伏せ、ジルベールは長い溜め息を吐いた。彼の脳裏に、幸せそうだったクルート家が浮かんだ。街の行事の日には、家族揃って参加していた。父エミルはよく笑い、母メリッサはよく叱った。そのふたりが何の因果も無い者によって命を奪われ、子どもたちはリプトバーグで必死に生き抜いていた。悲しみと怒りとに、彼の固く握った拳が震える。
 ジルベール・フォン・ル・テリエ。それがジルベールの名だった。だが、その名はクロイスから聞かされたもので、ジルベール本人は自らの姓を正確には述べなかった。彼は貴族であることを示す“フォン”の詞を付けることを避けた。
 その一貫した反王国の姿勢に、セリオルはこれまでの事情の仔細を語ることを躊躇した。幻獣研究所は王都イリアスの施設である。ゼノアのことを話せば、ジルベールはますます王国に対して反感を覚えるかもしれなかった。そうなるとクロイスが今後も闘いを続けることに反対するかもしれない。
 自己紹介をする時、セリオルは自分たちを単なる旅人だとした。リプトバーグで知り合い、それぞれに研究や武者修行という目的はあるが、世界を巡るという点において目的が一致した仲間だと。今回はクロイスの故郷ということで、偶然ドノ・フィウメに寄ったのだと。真実を明かすのは、ジルベールの心の障壁が取り除かれてからだ。ジルベールもアンリも、セリオルの話した内容を疑いはしなかった。
「まずは襲来した竜を撃退してくれたこと、礼を言おう。この街を助けてくれてありがとう」
「いいえ、私たちはそんなに大したことはしていません」
 セリオルがそう言ったのは真実だからだが、ジルベールはそれを謙遜と受け取ったようだった。サリナはシスララの膝で休むソレイユを見た。まだ完全に回復してはいないようだった。ジルベールが外のことに興味を持たない人物でよかったと、サリナは安堵する。ブルムフローラ伯爵家の飛竜のことを彼が知らないのは幸運だった。
「じいちゃん、なんであんなことが起こったんだ?」
 クロイスがそう切り出した。ジルベールはその問いかけに、低く唸った。
「それがわからんのじゃ。少し前に、今日のような襲撃が突然あってな。それ以来、何度か襲われておるんじゃ」
「突然、ですか……」
 心配そうに呟いたのはシスララだった。ソレイユの額を撫でてやりながら、彼女は物憂げだった。やはり竜に関しては、彼女は人並み以上に関心が強いのだろう。さきほどのソレイユの不思議な行動も気がかりだった。
「何回かって……そん時はどうやって追い払ったんだよ。自警団か?」
「うむ。今日ほどの多数での襲撃ではなかったのでな。自警団の力でなんとかなっておった」
 だが今日のようなことが今後も続けば……と、ジルベールは懸念をあらわにした。サリナたちがいなければ、今日の襲撃でも自警団では対応し切れなかっただろう。
「まだ怪我人が出ておらぬのが、不幸中の幸いじゃがのう……」
 深々と溜め息を吐いて、ジルベールはかぶりを振る。その眉間には溜め息と同じくらい深いしわが刻まれている。
「あの、ル・テリエ様」
 遠慮がちな声で、シスララが呼びかける。その呼び方に驚いたような顔で、ジルベールは彼女を見た。そして僅かに口元に笑みを浮かべ、答える。
「ジルベールで構わんよ、お嬢さん。それに“様”も要らん」
「はい、ジルベールさん」
 言い直して、シスララは懐からある物を取り出した。それはあまり上等ではない紙の、封筒だった。きちんと封がされ、表には宛名書きがある。それはジルベールへ宛てられたものだった。
 シスララから封筒を受け取り、ジルベールは怪訝そうな表情を浮かべた。初対面の者から、突然渡されるものではない。
「これは?」
 封を切る前に、ジルベールは訊ねた。当然の質問だったが、シスララはそれには答えなかった。
「お開けになってください。中に、おそらく……大切なことが書かれていると思います」
 やや警戒した様子で、しかしジルベールから見てもシスララが何かを企んでいるようには思えず、彼は封を切った。中には便箋が数枚、入っていた。かさかさとした紙を開く。
 美しい文字ではなかった。いや、むしろ汚い文字だった。しかも所々、表記を誤っている。文字を書き慣れていない、あるいは永い間、書くという行為をしていなかった。そんな風に思わせる、それは長い手紙だった。
 サリナはジルベールをじっと見つめた。彼女は、いや彼女と彼女の仲間たちは、あの手紙の正体を知っている。それを読んで、ジルベールがどんな反応をするか。不安にさえなる心持で、彼女はジルベールを見つめる。
 静かに文字を追うジルベールの、その手紙を持つ手に変化が起こる。はじめはごく小さく、そして徐々に大きく。彼の手は、震え始めた。
「お、おい、クロイス……」
 アンリが狼狽した声を出す。だがクロイスは彼の顔を見て、ただかぶりを振った。黙ってろと、その表情が語っていた。
 手紙が破れるのではと思えるほど強く、やがてジルベールは手紙を持つ手に力を篭める。手紙にしわが入る。そしてそこに、数滴の雫がこぼれた。嗚咽が漏れる。
 それは、ジルベールの涙だった。彼はクロイスの、アンリの、サリナたちの前で、抑えることの出来ぬ涙を流していた。それは後悔の、安堵の、歓喜の、そして懺悔の涙だった。
「……ありがとう」
 時間をかけて、彼は手紙を封筒に戻した。そして深々と、サリナたちに向かって頭を下げた。それは床に額をこすりつけんばかりの、感謝と、謝罪の行為だった。
「な、なあ、どうなんってんだよ。あれ誰からの手紙なんだ?」
 アンリが混乱を口にする。長老の突然の変化に、彼は驚いていた。まさかクロイスたちがジルベールに危害を加えたということはあるまいが、何が起こったのかを彼は知りたかった。
「……あれ、ドノ・フィウメで生まれた、あるひとからの手紙なの。私たちが、預かったの」
 サリナは説明した。かつてドノ・フィウメで生まれた、人並みはずれた大きな身体の子どものことを。彼は周囲から“怪児”と呼ばれ、迫害を受けた。家族や両親からも見放され、彼はたった10歳で、この街を出た。その10年間で、誰も味わわないだけの苦痛の、悲しみと、憎悪をその身に蓄積させて。
 その男の名は、ダグ。今はハイナン島の港町、ユンランでウェイターとして働く、ダグ・ドルジだった。
「“怪児ダグ”からの、手紙……」
 クロイスが知っていたように、アンリもその名を知っていた。彼の心に、ダグの名は深く刻まれていた。その名はドノ・フィウメで、伝説のように語られている。主に街の反省と、祈りの対象として。
 アンリからそう聞かされて、サリナは思った。ダグはいつか、この街に戻って来るだろうか。いや、ユンランでの様子では、それは無いかもしれない。彼は“海原の鯨亭”のマスターをはじめ、ユンランの人々に感謝していた。そしてユンランで働き、人々の役に立つことに喜びと誇りを感じていた。
 だが、もしもいつか、彼がここへ戻ったとしても。この街は彼を受け入れるだおろう。そしてかつての彼に対する残酷な仕打ちを謝罪し、彼に共に暮らしてほしいと請うだろう。この街のどこかにいるはずのダグの家族が、まずそうするはずだ。
 顔を上げたジルベールに、もはや警戒の色は無かった。彼は強い力を宿した目で、サリナたちを見た。
「クロイス、そしてお連れの皆さん、疑って申し訳無かった。わしは街の恩人に対して、無礼な態度を取ってしまったようじゃ。どうか、許して欲しい」
 再び、ジルベールは頭を下げた。その長老に向かって、セリオルが口を開く。
「ジルベールさん、どうか顔を上げてください。私たちはただ縁あってダグと出会い、このドノ・フィウメへ来ることがあれば渡してほしいと、その手紙を預かっただけなのですから」
「いいや」
 答え、ジルベールは顔を上げた。まだ涙の湿りの残った瞳が、セリオルに向けられる。ジルベールの心に火が灯ったようだった。力の入った声で、彼は言った。
「ダグは、あんた方に心から感謝しておるようじゃ。闇の底にいた自分を、救ってくれたと。野盗団の首領となった自分に、光の下で生きる希望を与えてくれたと」
 言葉を切り、ジルベールは大きく深呼吸をした。そして今一度、彼は言った。
「ありがとう! クロイスのご友人たちよ。そしてクロイス、わしはお前がこの方々と共にあることを誇りに思うぞ」
「……いやまあ、俺ぁそんな大したことはしてねーよ。やったのはサリナたちだ」
 頭を掻きながら、クロイスはそう言ってセリオルを見た。そのこそばゆそうな顔に、セリオルが微笑む。その笑みに、クロイスは焦って顔を背けた。まずい顔を見せてしまった。
「はっはっは。まーな、じいさん。いいってことよ。ダグが言ってるのは、まあ主に俺のことだと思うけどな。はっはっは。いいんだいいんだ、礼なんてよ。俺ぁただ当然のことをしたまでだからよ。はっはっはゴフッッ」
 やけに上機嫌になったカインの鳩尾に、アーネスの鋭い手刀がめり込んだ。カインは声を無くし、被弾箇所を両手で押さえて体を折り曲げ、悶絶した。ジルベールとアンリはぽかんとしてその様子を見ていた。フェリオが頭を抱える。サリナとシスララが苦笑する。
「気にしないでください。いつものことなので」
「あ、ああ……そうか」
 落ち着いたセリオルの声に、ジルベールは咳払いをひとつして続けた。
「この街を訪れられた理由があろう? ドノ・フィウメはおぬしらに協力を約束しよう。何でも言うてくれ」
 隣で、サリナは感じた。セリオルの纏う雰囲気が変わった。本題に切り込もうとしている。この排他的な長老から、協力するという言葉を引き出す。それがセリオルの狙いだった。
 眼鏡の位置を直し、彼は言った。
「さきほど申し上げたとおり、私は魔導師です。マナの研究をしています。私が知りたいのは、この街に点在するオパリオス。その成り立ちと、組成についてです」
「ふむ。オパリオス、か……」
 髭に手をやって、ジルベールは考え込んだようだった。彼が何について頭を巡らせているか、セリオルは理解していた。
 しばらく時間をおいて、ジルベールは口を開いた。
「解明されたわけではないんじゃが、あれはこの地に染み込んだ、ユーフラテスの水によって生まれると言われておる」
「ユーフラテスの水、ですか」
 脳を回転させながら、セリオルはオウム返しをした。ユーフラテスの水。つまり、ファーティマ大陸を流れる大河がその源。だがあれは、明らかに何らかのマナが関係している物質だ。そしてそのマナはまず間違いなく、“聖なる滝”のものだろう。付近にある強いマナが、この地に影響を及ぼしているのだ。
「うむ。見たじゃろう、この街の谷川を。あれはやがてユーフラテスへ注ぐ支流じゃ。あの川の水で、わしらは暮らしているわけじゃが……あの川に含まれておるマナが、どうもこの街の地下に染み込んでおるようなのじゃ」
「つまり、あの川のマナがオパリオスの組成を促している、と」
「そのとおりじゃ」
 そう言って、ジルベールは腕を組んだ。顔をしかめている。その理由を、セリオルは推測する。彼は確信している。これまでの話を頭の中で整理し、総合すると、答えはひとつだった。
「……“滝”、ですね」
 ひと言、セリオルはそう言った。弾かれたように、ジルベールは顔を上げた。
「なぜそれを?」
 驚きを帯びた声の長老に、セリオルは頷いた。
「あの竜が来た時、アンリが言いました。あれは“滝”の竜だと。私も長くマナの研究をしていますから、このあたりに“集局点”と呼ばれる、マナの濃い場所があることは突き止めています。ですがその場所がわからなかった」
 セリオルは腕を上げ、傍らのクロイスを示した。ジルベールの視線が移る。
「一方、ここへ来る前の山道で、クロイスから“滝”と呼ばれる場所があると聞いていました。この街の硝子工業の原料となるものが採れる場所、だそうですね。アンリが言った“滝”と、クロイスが言った“滝”。このふたつは一致していると、私は考えました。そしてその“滝”に、あの竜たちが棲んでいる。つまりオパリオスのことを知りたくても、現在“滝”を調べるのは至難。そういうことでしょうか」
「……その通りじゃ」
 セリオルの立て板に水の口上を、ジルベールは驚きを持って聞いた。この青年は、全て理解した上で言ったのだ。オパリオスのことを知りたいと。その頭脳の明晰さに、彼は舌を巻いた。
「そういうわけなのじゃ。ついさっき協力すると言っておいて、心苦しいことじゃが……今はどうしようもない」
「“滝”を調べるための障害は、何でしょうか。竜でしょうか」
 そう言ったのは、セリオルではなくフェリオだった。自己紹介の後は黙っていた彼に、ジルベールは目を向ける。
「そうじゃ」
「では、竜という障害を取り除く方法は何でしょうか」
「……なんじゃと?」
 続いたフェリオの言葉に、ジルベールは耳を疑った。あの青年は何と言った? 竜を、取り除くだと?
「簡単な話です。戦って退けるか、もしくは話し合って和解するか。そのどちからです。竜は知能の高い生物。これまでも“滝”の原料を調達出来ていたということは、意思の疎通可能なのではないですか?」
「そうじゃな……これまでであれば、そうじゃった」
「でも今は、意思疎通の手段が無い。だから一方的に襲われる理由もわからない。そうですね?」
 まるで狐にでもつままれたような心地で、ジルベールはフェリオを見ていた。セリオルだけではなかった。あのクロイスとさほど年齢も違わぬように見える青年も、相当な切れ者だった。これまでの話と今日の状況から、全てを読み解いていた。
「いやはや、驚いたのう。そこまでわかっておるとは……じゃがそれであれば、手段がひとつしか残されておらんこともわかるじゃろう?」
「いえ、まだ和解の道を諦めるには早い」
 怪訝そうな顔のジルベールの目をじっと見つめて、フェリオは続ける。
「竜と意思疎通をする手段は何ですか? そしてそれが失われた理由は?」
「……なるほど」
 フェリオの言いたいことを、ジルベールは理解した。その方法を復活させれば、竜と話し合うことが出来る。まずはそれを考えるべきだ、と彼は言っているのだ。
「“ドラゴンホルン”というものがあってな。この街の硝子で作る工芸品じゃ。それが竜と話すための道具じゃったんじゃが……最初の襲撃で破壊された」
 そう言って、ジルベールは溜め息を吐く。彼は続けた。
「原料は、今は調達出来ぬ“滝”にある。そして作ることの出来た職人も、もはやおらん」
「どんなものが原料なんですか?」
 間髪を入れず、フェリオは食い下がった。ジルベールが諦めと共に吐き出した言葉は、フェリオに同じ感情を抱かせはしなかった。今日何度目かと思う驚きを味わいながら、ドノ・フィウメの長老はアッシュブロンドの青年を見た。その目は、全く力を失ってはいなかった。
「……聖なるマナを宿した珪砂じゃよ。“光砂”と呼ばれておる」
「マナを宿していない珪砂は、まだありますか?」
「ああ、それならばな」
「この街に、聖のマナストーンの備蓄はありませんか?」
「ああ、あるにはあるが……」
 立て続けに向けられる質問に、ジルベールは答えた。だが彼は、この質問に答える意義を見出せてはいなかった。だが力無い声のジルベールに、フェリオは会心の笑みを浮かべて頷いた。そしてフェリオは、セリオルへ目を向ける。
「だってさ、セリオル」
「ええ。やってみましょう」
 そのやり取りだけで、ふたりだけではない、一行全員が何かを理解したようだった。状況がつかめないジルベールを余所に、クロイスがアンリへ顔を向ける。
「アンリ、お前硝子職人の修行は?」
「え? ああ、一応修了したけど……え? 俺?」
 突然話を向けられてぽかんとしていると、クロイスたち全員が自分の顔を見て頷いた。その事実が信じられず、何か大変な役割を与えられてしまったらしい気配だけはひしひしと感じられ、アンリはただ呆然とした。