第132話

 白き竜の長、ラフ・ケトゥは不思議な力を持っていた。永く聖なる滝に棲んだために身に付いたのだというその力は、サリナたちの消費されたマナを回復した。驚くべきことに、潤沢な集局点のマナを使うのだというその力は、クリスタルに秘められた幻獣たちの力をも満たした。
 アシミレイトを解除し、サリナたちと滝の竜たちは、方針を相談していた。
「道案内はファ・ラクが務めよう」
 ラフ・ケトゥがそう言うと、カインやクロイスはあからさまに厭そうな顔をした。それを隠すように素早く前に出て、サリナはやや大きな声で言った。
「あ、ありがとうございます! あの、心強いです!」
 ぺこりと頭を下げるサリナに、白き戦士ファ・ラクは、まるで苦笑でもしたかのようなくぐもった声を出した。竜の表情を読むのは難しかったが、サリナにはそれが実に人間的な仕草に思えた。
「よろしく頼む。小さく強き戦士たちよ」
 ファ・ラクの言葉に、ソレイユが高い声で応えた。戦士は頭を垂れる。
「はい、よろしくお願い致します」
 シスララはにこりと微笑み、頭を下げた。彼女の心は誇らしさでいっぱいだった。ソレイユにあのような秘密があったことには心底驚いた。だがそれ以上に、ソレイユがこの屈強な戦士たち、そして頑固な古き竜を、一瞬にして従わせたことが誇らしかった。それになにより、さきほどのソレイユは、格好良かった。
「聖霊様の御座は広い場所ではない。我等も同行したいところだが、行ったところで邪魔になるだけだろう」
 口惜しそうに、ラフ・ケトゥはそう言った。
「邪魔に……?」
 その言葉が気になって、フェリオは小さく口にした。何の邪魔になると、この竜の長は言うのだろう。
 だがそれを訊ねる前に、セリオルが質問を始めていた。
「ラフ・ケトゥ、教えて下さい。セラフィウムは今、どこにいるのです? 人間が“汚した”とはどういう意味なのです」
 その質問に、ラフ・ケトゥは溜め息を漏らした。それは彼の絶望であり、そして憎悪だった。
「聖霊様は、御座においでだ。お前たちが下りてきた“光砂”の道を上った先。そこで聖霊様は……眠っておられる」
「……眠っている?」
 やはりあの“ドラゴンホルン”の台座には竜にとって重要な意味があった。その事実に納得しつつ、竜の意外な言葉に、セリオルは鸚鵡返しをした。
「寝てんのかい。なんだそりゃ」
 呆れたような声のカインの脇腹に、アーネスの肘が軽くめり込む。ぐえと鳴いて、カインは静かになった。
「ただ眠っているだけでは、ないのでしょう?」
 セリオルの後を継ぐかたちで問いかけたシスララに、ラフ・ケトゥは頷いた。
「意識を奪われ、力を吸われ、眠らされておるのだ……異形の者に」
「……どういうことです?」
 胸を締め付けるような不愉快な感情。そんなことをするのは、出来るのはセリオルの知る限り、ひとりしかいない。かつて道と志を共にし、王都の研究所で研鑽を積んだ友。いや、セリオルがそう思っていただけだったのか。いまや彼は、世界を脅かす敵となった。
「幻魔、か?」
 蒼霜の洞窟で戦った大烏賊の幻魔を思い出し、クロイスは不快感を顕わにする。
「たぶんな」
 幻獣の力を奪い、眠らせる異形。幻魔か、あるいは別の何かか。いずれにせよ、厄介な敵がいることは間違い無さそうだ。そう考え、フェリオは合点がいった。ラフ・ケトゥは、自分たちはその戦いの邪魔になると言ったのだ。間違い無く起こる、自分たちと敵との戦いの。
 ラフ・ケトゥは鼻を鳴らし、話し始めた。
「少し前、お前たちと同じようにこの滝を訪れた人間がいた。白き装束に白き髪、赤き瞳の異様なる男だった」
「ゼノア、ですね……」
 胸に握った手を当て、サリナはぽつりと言った。王都で目にした、あの薄ら笑いが浮かぶ。ざわつく心を鎮めようと、サリナは深呼吸をした。
「その者は硝子職人を名乗り、いつものように“光砂”を分けてほしいと言った。“ドラゴンホルン”を手にしていたのを確認した我らは、その者を疑いはしなかった」
「だからあの台座まで案内し、“ドラゴンホルン”を置かせたんですね」
 頷きながら、ラフ・ケトゥは続ける。
「あの者は、初めから聖霊様の居場所を知っていたのだろう。“光砂”が固まり、道となった途端、監視の者を襲ったのだ」
「……一緒に、黒い鎧を纏った者はいませんでしたか?」
 恐るべき力を持つ、黒騎士。今も時折頭をかすめるあの姿。ゼノアが竜を襲ったのだとすれば、あの黒騎士を使ったのではないかとセリオルは考えた。
 だが、竜の長の答えは予想したものではなかった。
「いいや。そのような者がおれば、我らとて容易に信用したりはせぬ」
「……確かに」
 相槌を打ちながら、しかしセリオルはやや混乱した。黒騎士はいなかった。だとすればゼノアは、一体どうやって竜を襲い、そして退けたのか。ファ・ラクほどの手練ではなくとも、竜は強い。ゼノアに、単独でその力を破るだけの能力があるというのか。昔はそんなことはなかったはずだが……
 同じことを想像したのだろう。仲間たちは、深刻な表情で沈黙した。おそらく、自分も同じような顔をしているのだろうと、セリオルは不思議と客観的な目線で考えていた。
「妙な術を使ったということだ。詳細はわからぬが、ともかく彼の者は我らの監視を退け、聖霊様の御座へ進んだ。そして……」
 言葉を切り、ラフ・ケトゥは息を長く吐き出した。ごく僅かだが、その息に炎が混じった。怒っている。それをサリナは感じた。やはりこの老竜は、ゼノアに対して並々ならぬ怒りを抱いている。
「監視の者がなんとか戻り、事態を報せた時には遅かった。御座へ急行した我らが目にしたのは、力を奪われて虚ろに眠る聖霊様の姿だった。彼の者は、既に姿を消していた」
 沈黙が流れた。セリオルの頭の中を、いくつもの疑問が駆け巡る。なぜガルーダのように、セラフィウムは連れ去られなかったのか。ゼノアはどうやってその場から姿を消したのか。だがここで考えても答えが出ないのはわかりきっていた。頭を振って、セリオルは顔を上げる。
「では、今もそのままの状態なのですね、セラフィウムは」
「そうだ。何度かお目覚めになられるよう近づこうとしたが、その度に目に見えぬ何かが攻撃を仕掛けてきてどうにもならぬ」
「目に見えない、力……?」
 竜の戦士たちが手をこまねく力。間違いないと、サリナたちは確信した。敵は幻魔か、それと同等の力を持つ者だ。だが、目に見えないとはどういうことなのか。
「へっ。行って確かめるしかねえな、こいつぁ」
「同感」
 カインとクロイスは、早々に考えるのを諦めたようだった。だが、この場合はそれで正解だとセリオルも考えた。どんな相手かわからないのだ。奇襲の可能性があるが、それに注意するということ以外、対策など練りようが無い。
「要するに、いつもどおりってことだな」
 短い嘆息と共に、フェリオがそう言った。これまでもずっとそうだった。敵の手の内がわかっていたことなど無いのだ。
「とにかく、行きましょう! セラフィウム、助けてあげないと!」
 サリナが号令をかけた。仲間たちが頷く。ファ・ラクが先頭に立ち、一行はセラフィウムの御座へと向かう。
 セリオルはひとり、懸念していた。ゼノアが来ている。幻魔と思われる者がいる。ゼノア本人が来てはいなかった、シヴァの時とは違う。状況はガルーダの時に近い。ゼフィール城。あの古き城でのことが脳裏をかすめる。
 ……神晶碑は、無事なのか?

 ファ・ラクが同行しているとあって、さすがに洞窟の魔物たちは襲ってはこなかった。アンリは心底ほっとした様子だったが、長い上り坂には閉口した。
「しっかりしろよ! 硝子職人だって体力勝負の仕事だろ?」
 そんなことを言いながら背中を叩いてくるクロイスに、アンリは咳き込みながら白い目を向ける。
「た、体力勝負、っていっても、ひい、使う、体力の、質が、ふう、違うんだよ」
「はっはっは。情けないな〜アンリくん! いかんよーそんなことでは。モテないぞ」
「モテるモテないをあんたが語るわけ?」
「ばかばか。俺ぁこれでけっこうモテんだぞ」
「世の中物好きが多いのね。私には理解できないわ」
「なぬ! ……まじ?」
「ばーかお前なに本気でへこみかけてんだよ」
「う、うっさい! へこみかけてなんかないぞ! ばか!」
「はいはい」
「あ、お前信じてないなクロイス。よーしいいだろう。ならば決闘だ!」
「なんでそうなるんだ……」
 カイン、アーネス、クロイス、フェリオの4人による下らない寸劇に、アンリは苦笑する。ファ・ラクはそんなやりとりをしている人間たちに、小さく溜め息をついた。
「……俺はこんなやつらに勝てなかったのか」
「はは。まあ、私たちは人間ですから。息抜きも必要なんですよ」
「そういうものか」
 ファ・ラクとセリオルがそう話しているのを、サリナは後ろで楽しく聞いていた。味方になってみれば、ファ・ラクは頼もしい存在だった。翼の傷は、サリナが白魔法で治療した。戦士は彼女に、礼儀正しく感謝を述べた。
 竜はサリナたちの歩く速度に合わせてくれていた。道中、サリナたちはファ・ラクから、これまでのセラフィウムの様子を聞いた。
 セラフィウムは聖の幻獣、瑪瑙の座。限りなき慈悲で白き竜の一族を庇護する存在。竜がドノ・フィウメに“光砂”を与えたのも、セラフィウムによる指示だったと言う。
「……なんとしても、助けねーとな」
「ああ」
 クロイスとアンリはそれを聞いて、気を引き締めた。ドノ・フィウメを支える硝子工芸の生命線が、セラフィウムによってもたらされていたのだ。街の恩は計り知れない。
 セラフィウムは、眠っているように見えるという。幻獣特有のマナの光は、どうやら今は無いようだった。シヴァの時とよく似ている。もしも幻魔が取り憑いているのだとしたら、憑依状態のままで襲いかかってくる可能性もある。マナを使って引きずり出すしか無い。
 “光砂”の道は長い。だが当然、終わりがある。“ドラゴンホルン”の台座を通過し、サリナたちはようやく、その場所へ到着した。
 洞窟の出口に、結界のようなものが張られていた。敵はその気になれば破れるのかもしれなかったが、これまでにそれが試されたことは無いとのファ・ラクの弁だった。ファ・ラクが進み出て、結界を解除した。
 美しい場所だった。草花が咲き、大小のオパリオスが林立していた。エリュス・イリアにおけるセラフィウムの御座に相応しい、清らかで神秘的な景色だった。
 その中心に、聖霊はいた。僅かに宙に浮いている。人間の女性と似た姿。風も無いのに揺れる白い衣。大きく広がった金色の長い髪。額には赤い十字の紋様。そしてその背に、3対の美しい、純白の翼。汚れなど知らぬ、美しい天の使者。
「あれが……セラフィウム様」
 呟いたのはシスララだった。潜む邪悪を退け、彼女がその力を手にしなければならない。セリオルは語った。風の王国と呼ばれたゼフィール、現在のマキナ島の遺跡で、彼らは瑪瑙の座の幻獣が連れ去られた痕跡を見たと言う。犯人はゼノア。瑪瑙の座の幻獣を滅さずに捕獲するなどということをやってのける力に、彼らは戦いた。
 幸い、と言って良いものかどうか、シスララにはわからなかった。ゼノアにはその力があるのに、今回はそれを実行していない。そこにどのような意味があるのか、彼女は計りかねた。いずれにせよ、セラフィウムは目の前にいる。
「聖霊様……おいたわしい」
 口惜しそうに、ファ・ラクは呟いた。その胸中はいかばかりか。同じ聖の幻獣を守護神として崇めてきた民として、シスララは共感した。カーバンクルを捕らえていた、あの蜥蜴の魔導師。その存在が知られていれば、そしてその犯人も判明していたとすれば、エル・ラーダは疑わしき者を攻撃しただろう。
 叶うならば、自分たちの手で守護神を救いたい。それが白き竜の民の願いだろう。自分たちの知識と力の不足を、戦士の一族がどれがけ嘆いたことか。それを想像し、シスララは胸を痛めた。
「……お助けしましょう、幻獣様を。共に、力を合わせて」
 聖竜王となったソレイユを従える、か弱き人間の娘。手合わせの中で、ファ・ラクはその力を知っていた。飛竜と見事な連携を見せ、人間にして宙を飛びまわって戦う者。それは信頼に値する力だった。聖竜王としての覚醒で若干不調そうだったソレイユも、今や万全だ。
「ああ。よろしく頼む」
 そう言ったファ・ラクに、シスララたちは頷いた。ソレイユも高い声で応える。彼らは眠るセラフィウムに向き直り、足を踏み出した。
 ――ザグ。
 そんな音に聞こえた。異変はすぐに認識された。
 叫び声が上がった。白き竜、ファ・ラクのものだった。
 攻撃。その場から、サリナたちは素早く散開した。何も見えなかった。だが、ファ・ラクはその翼に大きな傷を負っていた。鮮血が噴き出している。突然のことに、誰も声すら出なかった。
「下がるんです!」
 声はセリオルだった。見えない攻撃。白き竜が語ったそれが、既に開始されていた。自らの迂闊さに、セリオルは舌打ちをする。ファ・ラクの傷は致命的なものではない。だが、ダメージは大きい。その場からすぐに動けるようなものではない。
 こんなに遠くまでその攻撃が飛んでくるとは思わなかった。セリオルは反省する。どこから放たれた、どんな攻撃だったのか。ファ・ラクの傷は、何かに切られたかのようだった。とすると、金属質の刃状のものが飛来したのか。あるいは魔法の力か。放ったのはセラフィウムに憑依する幻魔なのか。それとも別の魔物か。それはどこにいるのか。どうすればあの攻撃を防げるのか。
 混乱する自分の脳に、セリオルは歯噛みする。思考が追いつかない。
「天の光、降り注ぐ地の生命を、あまねく潤す恵緑の陽よ――ケアルラ!」
「天空の守りの盾を授からん――プロテス!」
「守護の鎖。我等に加護を、マナの精霊――シェル!」
「古の戦を制せしかの城の、世界に冠たる堅固なる壁――ストンスキン!」
「愚者よ見よ、その目が映すは我の残り香――ブリンク!」
 立て続けに、サリナが魔法を詠唱していた。ファ・ラクの傷を癒し、仲間たちを守る術を。アンリを素早く洞窟の中へ戻し、サリナは仲間を守ろうと行動を開始していた。
「私が行く!」
 走り出したのはアーネスだった。彼女はリストレインを掲げた。
「轟け、私のアシミレイト!」
 琥珀の光が膨張する。偉大なる大地の王、タイタンの力。大いなる力と、大いなる守り。剣を握り、盾を構え、琥珀の騎士はセラフィウムへと突進する。
「蒼穹の盾よ! 逞しき大地のマナで我らを守りなさい!」
 ブルーティッシュボルトが光の盾となり、地のマナがその守りを更に増強する。最大限の守りの力。
「我も行こう!」
 ファ・ラクが続く。サリナの魔法の効果を、彼は直感的に理解していた。そしてその術者の意図をも。
「……そうか。見えない攻撃がどこから放たれるのかは、その瞬間を見なければわからない、ということですか」
「はい」
 セリオルの言葉に、サリナが頷く。彼女もリストレインを掲げ、サラマンダーの力を呼び出す。
「輝け、私のアシミレイト!」
 膨れ上がる真紅の光。燃え盛る炎の戦士。その神々しいマナの光に、セリオルは目を細める。サリナの瞬間的な判断は、正しい。自分が瞬時に導くことが出来なかった結論を、妹が出していたことに、セリオルは感動に似たものを感じていた。
 やや危険だが、守りに長けた者が、一定のダメージを相殺してくれる堅守の魔法を纏って囮になる。それがサリナの詠唱の意味だった。幻魔の攻撃であれば、マナを使っている可能性が高い。だから防御の魔法だけでなく、守護の魔法も詠唱した。反射的にサリナが導き出したのは、そんな作戦だった。
 眼鏡の位置を直し、セリオルはリストレインを掲げる。
「渦巻け、私のアシミレイト!」
 ヴァルファーレのマナが膨張する。翠緑の光が彼を包み、魔法の鎧が彼を覆う。渦巻く風のマナ。気高い風が彼を守る。
「皆、アシミレイトして、攻撃です! 先行したふたりに当たらぬよう、遠距離攻撃で――セラフィウムを!」
 指示に従い、即座に4色の光が煌く。紫紺、銀灰、紺碧、純白。セリオルの言葉の意味を、彼らは理解していた。
 火炎が、風の刃が、雷撃が、マナ弾が、氷の矢が、放たれた。アーネスとファ・ラクは、既にセラフィウムに肉迫している。攻撃は幾度もふたりと襲っていた。だがふたりは、その強固な守りで耐えていた。ふたりを避け、放たれた攻撃が飛ぶ。マナの攻撃は、容易く迎撃された。
 だがその瞬間、マナの大きな波動で揺らめいた空間に、それが見えた。
 鎌のようだった。鎌のようであり、腕のようでもあった。それが振るわれ、マナの刃が生まれていた。光を持たない不可視の刃が、揺らめく波動の中を飛び、サリナたちの攻撃を迎撃した。
「ソレイユ!」
 シスララは跳躍した。ソレイユはそれを助け、彼女を天高く舞い上がらせた。
「ピュリファイジャンプ!」
 輝く純白のマナが、オベリスクランスを包む。美しい光を纏い、竜騎士は流星となった。
 鋭く、流星は宙を貫いてセラフィウムの背後の地を撃った。聖のマナが持つ、浄化の力。それが大きな波となって、セラフィウムを呑み込んだ。
 巨大なマナの爆発が起きる。いや、爆発というより、それは奔出だった。純白の光の柱が天へ向かって伸びた。アーネスとファ・ラクは、素早く退避した。
 おぞましい咆哮が上がった。光の柱の中で、セラフィウムはその閉じていた目を開いた。血に濡れたような、毒々しい赤い目だった。響いたのは悪魔の賛歌のような、不気味な声。その汚らわしいマナの源は、邪悪に侵された聖なる幻獣、セラフィウムだった。