第137話

 ラフ・ケトゥはファ・ラクの報告を聞き、サリナたちに感謝の言葉を述べた。そしてソレイユとセラフィウムの力を手に入れたシスララに向かって、やはり先刻のファ・ラク同様、恭順の意を示そうとした。
 しかしそれを、ファ・ラクが制止した。
「おやめください、ラフ・ケトゥ。あれはただの人間の娘。心身ともに強く、尊敬すべき戦士ではありますが、我らが頂に立つ者ではありませぬ」
「ファ・ラク、貴様!」
 激昂しかける長を、ファ・ラクは宥めた。そして自分がシスララから言われたことを、彼は自分の意見を加えて、古き竜へ伝えた。
「長よ、恥ずかしいことに私は、あの娘に諭されたのです」
「なに……?」
 ラフ・ケトゥの訝しがる声に、ファ・ラクは頷いて続けた。
「我ら聖竜の一族は、永い時を生きてきました。聖霊様の庇護の下、また聖竜王様のお導きの下で、偉大なるその御言葉に従って。ですが――」
 言葉を切り、ファ・ラクはひざまずき、垂れていた顔を上げた。ラフ・ケトゥの巨躯は威圧的だった。その老いたる竜は強く、賢かった。彼はその力と知恵とで、一族の長となった。永きに亘り、その座は揺るがなかった。揺るがそうと考える者も無かった。
 彼は聖霊の言葉を聞き、それを一族へ伝えた。そうして聖竜の一族はその永き命を営んできた。変化は無かった。聖なる滝のマナは豊潤で、その聖なるマナによって彼らは力を得た。時折訪れる人間の硝子職人には、“光砂”を分け与えた。そも聖霊の言葉によることだった。
 彼らは、考えもしなかった。“光砂”を使って、人間がどれほど高度なマナ製品を造っているのかということなど。ファ・ラクは今、思う。あの“ドラゴンホルン”にしても、大した道具だ。人間と竜の、異なる言葉を一時的にせよ、通じさせてしまうのだから。
 あの魔法の笛“ドラゴンホルン”は、かなり以前から――と言っても竜の寿命からすればごく最近のことだが――存在している。その後も、人間たちの技術は進歩しているだろう。なにせ、あれほど若い、まだ子どもにも見える少年が、あの笛を完成させたと言うのだ。
 世界は変わる。人間は変わる。だが、彼らは変わらなかった。変わることを知らなかった。考えも、思いつきもしなかった。ただ静かに、聖霊と王の言葉に従い、生きていただけだった。
 ……目的も無く。
「あの、聖霊様を汚した忌むべき者。彼奴はこの世界に牙を剥く人間だといいます。そして彼ら、その敵へ立ち向かい、幻獣様と共に戦う彼らもまた、人間です」
「……何が言いたい、ファ・ラク」
 人間たちは、ただ黙して対峙する彼らを見つめている。一族の他の竜たちも同様だった。ただ“光砂”の流れる、さらさらという心地良い音だけが響く。
 しばしの沈黙の後、竜の戦士は口を開いた。
「人間は、変わります。それも、我らには想像もつかない速さで。善き方向へも、悪しき方向へも。人間は今や世界に満遍なく存在し、まるでこのエリュス・イリアは人間のものであるかのようです」
「ふむ……?」
 その言葉は人間を非難するかのようだったが、ファ・ラクの声は静かだった。ラフ・ケトゥはその後に続くはずの、戦士の声を待った。ファ・ラクは大きく息を吸い込んだ。そして口を開き、彼は一息に言った。
「人間が変われば、世界も変わりましょう! それは避けがたい事実。人間の進化は速い。それだけ、世界の変化も速い――我らは、このままで良いのでしょうか、長よ! いつまた、悪しき人間の手によってこの聖なる地が、汚されるやもしれません。我らはもっと、世界のことを、人間のことを知らねばならないのではないでしょうか。もっと外のことを知らねばならない! 我らも……変わらねばならないのです! いつまでも停滞し、考えることを知らなければ、これから先の世界を生き抜くことは、出来ない!」
 ファ・ラクの力強い声が、聖なる滝の大瀑布に響き渡った。誰も、何も言わなかった。その場に集った聖竜の一族は皆、長の言葉を待っていた。戦士の言葉を受け、竜の長は目を閉じた。激昂も、非難も無かった。
 戦士は待った。サリナたちと共に戦い、シスララの姿から学んだことが、一族のあり方を変えられるか。ここで変わることが出来なければ、一族には繁栄の未来はやってこないだろう。進化を続ける人間たち。その中の悪しき者によって、いずれこの地は蹂躙されてしまうだろう。
 外の世界を知らなければならない。自ら考え、行動しなければならない。既存の価値観だけで判断してはならない。他者を理解し、他者の世界を理解しなければならない。
 それが出来ていれば、ゼノアの横暴を止めることも出来たかもしれないのだ。彼らに足りなかったのは、知識と対策だった。
「……ファ・ラクよ」
 長い沈黙の末、ラフ・ケトゥは目を開いた。彼の呼びかけに、若き戦士が答える。
「はい」
「これから先、我らはどうなる? 我らと聖霊様とは、どのような関係になるとお前は考える?」
 その問いに、ファ・ラクは考えた。だがそれは、ほんの一瞬のことだった。彼の中で、既に答えは決まっていた。彼は長の目を見て、口を開いた。
「聖霊様は、我らの神。そのことはこれから先も、永劫変わることはありますまい。ですが我らは、もはや聖霊様にすべてを委ねてはならなぬのです」
 ファ・ラクは身体を起こした。そして、その背の翼を勢い良く広げた。ばさりと音がして、彼の重厚な、大きな翼が陽の光を受けて輝く。
「我らはこの翼で、世界の空を飛ばねばならない! 聖霊様は、その庇護で我らを守ってくださいましょう。そのことに感謝を捧げつつ、我らは自らの翼で世界を知り、迫る危機を打ち払うのです!」
 ラフ・ケトゥは黙ってその言葉を聴いていた。ファ・ラクの姿は美しかった。白き竜の戦士は、集局点の聖なるマナと太陽の光を浴び、きらきらとその身を煌かせていた。彼の身体には力が漲り、その心には未来への決意が輝いていた。
 ラフ・ケトゥは笑った。はじめは小さく、しかしその笑い声は次第に大きくなった。竜たちは戸惑った。だが彼らの長は、構わずに笑い続けた。
 やがて笑いを収め、ラフ・ケトゥは口を開いた。そして、彼は告げた。
「……今この時より、我ら聖竜の一族の長は、ファ・ラクである!」
 彼の声は弾んでいた。まるで若い竜のように、その声は活き活きとしていた。
 サリナたちは歓声を上げた。竜たちの間には、僅かにどよめきが走った。だがすぐに、それは喝采へと変わった。鬨の声が上がる。竜たちが、ファ・ラクの名を呼ぶ。
 ファ・ラクは戸惑った。だが自分の顔をじっと見つめるラフ・ケトゥから、彼は視線を逸らしはしなかった。偉大なる長の重大な決断を、彼は内心では狼狽しながらも、正面から受け止めようと努力した。
「ファ・ラクよ」
 ラフ・ケトゥは、突然のことに混乱している様子の若き竜の名を呼んだ。戦士は短く返事をした。
「お前の言葉は正しい。我ら古き竜の時代は、終わったようだ」
「ラフ・ケトゥ……」
 自らの名を呼ぶ若き後継者に、ラフ・ケトゥは頷いた。
「一族の未来を頼む。お前は強く、そして賢い。お前になら、安心して任せられるというものだ」
「……承知しました。我が身のと我が力の全てを懸けて、務めましょう」
「うむ。皆、新たな長の誕生だ! 盛大に讃えよ!」
 ラフ・ケトゥの声に、竜たちが再び喝采を上げる。サリナたちも、めいめいに祝いの言葉を贈った。
「おめでとう、ファ・ラクさん!」
「あなたなら、立派に一族を導けますよ」
「ふふ。なんだか私も、嬉しいです」
 シスララの肩で、ソレイユが高く啼いた。その声に、竜たちは頭を垂れる。ソレイユの声はまるで歌のように美しく、大きな青空に響いた。
 そして純白の光が生まれる。シスララのリストレイン、それはセラフィウムのクリスタルだった。聖霊は光とともに、その美しい姿を、彼女の民の前へ現した。
「おお、聖霊様!」
 ラフ・ケトゥは声を上げる。竜たちがかしずく。セラフィウムは、その福音の唄のような清浄な声で、竜たちに語りかけた。
「聖なる竜の一族よ、ラフ・ケトゥ、そしてファ・ラクよ。よくぞ申しました」
 広げられた3対の翼。その穢れ無き翼は、光とマナとによって輝いていた。聖霊と聖竜の対話。それは夢のように美しく、神話の世界のように神々しかった。
「わたくしは、この地を離れなければなりません。彼らと、シスララと共に、悪しき者を討つために。そのことであなたたちが心配でしたが……もう、大丈夫なようですね」
 セラフィウムは、頭を垂れる竜たちに、顔を上げるように命じた。竜たちが、ゆっくりと面を上げる。
「ありがとう、私の竜たち。あなたたちのお陰で、わたくしは危機から救われ、世界に迫る邪悪の存在を知ることが出来ました。本当にありがとう。そして、彼らから学んだ強き心を持って、この地で生き、この地を守ってください」
「……畏まりました、聖霊様」
 ファ・ラクが、一族を代表して答えた。セラフィウムは微笑み、頷いた。そして美しき聖霊は光を放ち、再びクリスタルとなってシスララの許へと飛んだ。
「人間たちよ」
 聖竜一族の新たなる長、戦士ファ・ラクは、改めてサリナたちに向き直った。
「改めて礼を言わせてくれ、強き戦士たちよ」
 聖地の危機を救った人間の英雄たちに、竜たちから感謝の言葉が飛ぶ。アンリは万感の思いに胸が震えるのを感じた。これまでの人間と白き竜族との歴史の中で、今日ほど両者がその距離を縮めた日は無かっただろう。それはドノ・フィウメにとっても、明るい未来を象徴する光景だった。
「はっはっは! いーってことよ、あんくらいのこと!」
「だからあんたは寝てただけでしょ」
「ばっ……! 俺が切り込んでなきゃ、あのデブの隙はこじ開けらんなかっただろ!」
「で、隙突いたらすぐに油断してやられちゃったわけだけどね〜」
「くっ……!」
 両手を挙げて呆れた、というポーズをしてみせるアーネスに、カインはどこからか取り出したハンカチを噛んだ。
「フェリオ……あたし、くやしい!」
「やめろよ……」
 兄の恥ずかしい姿にフェリオは頭を抱える。サリナたちの笑いが起こる。竜たちも笑っていた。
 ただ、アーネスは笑わなかった。彼女は腕を組み、カインを見据えて言った。
「……油断は、慢心の証。仲間を守りたいなら、それくらいは心得なさい」
「……おう」
 カインは頭を掻いた。何も反論出来なかった。アーネスの言うとおりだった。そして、彼は理解していた。アーネスの言葉は、彼だけに向けられたものではなかった。盾となって仲間を守ることを自らの役割としているのは、誰ならぬアーネスなのだ。
「我らから、感謝の証として受け取ってほしいものがある」
 ファ・ラクの後ろで、ラフ・ケトゥがその巨体を動かしてこちらを向いた。顔を見合わせるサリナたちの前で、ラフ・ケトゥはその両腕を高く上げ、その両手を勢い良く合わせた。ドシンと大きな音。
 聖なる滝のマナか、あるいは聖竜たちのマナか。ラフ・ケトゥの両手に、多くのマナが集まっていった。きらきらと光る美しいマナの粒が、吸い寄せられるようにして集結していく。古き竜は、その合わせた手を離し、徐々に広げていった。
「すごい……」
 思わず呟き、サリナはそれを見つめた。仲間たちからも感嘆の声が上がる。
 その空間に生まれたのは、不思議な物体だった。まるで鏡のように光を反射する、乳白色の物体。滑らかなその表面は、聖なる滝に居並ぶ竜たちや、サリナたちの顔を映している。
「さあ、受け取ってくれ」
 ラフ・ケトゥはその物体を押し出すように手を動かした。実際に触れはしなかったが、物体は空中を滑るように移動し、サリナの前まで来た。
 目の前で見て、サリナはその大きさに驚いた。ひと抱えほどはある。巨躯を誇るラフ・ケトゥの前では小さく見えた。空中にふわふわと浮くその物体に、サリナは触れた。
「わっ!?」
 閃光が走った。まるでその物体が、サリナに反応したようだった。瞬間、サリナは意識が遠くへ飛んだような気がした。それは心地良い感覚だった。快感と言っても良かった。その感覚はすぐに終わった。サリナの意識は戻り、目の前には不思議な光沢を持つ物体があった。
「――ナ! サリナ!」
 弾かれたように、サリナは顔を上げた。なぜか気づかなかった。どうやらずっと、彼女はフェリオに、その肩を揺さぶられていた。
「へっ? え、なになに?」
 サリナのその反応に、フェリオは大きく息を吐いた。安堵の声が漏れる。
「へっ、じゃないよ。どうしたんだいきなり」
「え?」
 ぽかんと口を開けて、サリナは仲間たちを振り返った。さきほどの一瞬のうちに、何かあったのだろうか。サリナには、その自覚は無かった。
「あれ、サリナ、目が……」
 その真紅に染まった瞳を、アンリは指差した。セラフィウムの御座で戦うサリナの姿を、彼は見た。その時、信じられない動きをしていたサリナの目は、今と同じように真紅に染まっていた。
「え……?」
 だがサリナが数度瞬きをすると、瞳は元の、栗色に戻っていた。そうなると別段、サリナに変わったところは無いように見えた。
 だが、アンリは聞いた。ついさっき、サリナが口にした言葉を。傍らを見ると、クロイスも同じのようだった。アンリの幻聴ではなかった。
「どういう意味だ……?」
 クロイスはじっと、サリナを見つめていた。サリナは宙に浮いたままの物体を腕で抱えればいいのかそうしてはいけないのかが判断出来ないのか、おろおろとしている。だが誰も、その姿を笑いはしなかった。皆が何も反応しないことに、サリナはますます混乱する。
「あ、あの、これ、えっと、どうしたら……?」
 受け取るにも浮いたままの物体にどう対処したものかと、サリナはセリオルの顔を見る。だが兄の顔は、妙に強張っていた。すぐ傍のフェリオも、その隣のアーネスも同様だった。仲間たちの意外な反応に、サリナは首を傾げる。
 セリオルは考えていた。サリナが口にした言葉。その声は、確かにサリナだった。だがその口調は、明らかに違った。サリナでは、なかった。
 あの物体に触れた瞬間、サリナの全身から光が放たれた。そして彼女は、こう言った。
『南の森の深き処、その暗き穴蔵に囚われし、強きマナの子を救出せよ――お願い、助けて』

「うわあ〜! すごいすごい! こわいきれいすごい!」
 しっかりと背中の突起に掴まって、サリナは歓声を上げる。隣に顔を向ける。やや離れたところで、カインが楽しそうな笑顔で、サリナと同じように歓声を上げていた。反対では、クロイスとアンリが揃って、青い顔で必死にしがみついている。サリナは笑った。たまらなく可笑しかった。そして、楽しかった。
 風を切って、竜たちは空を飛んだ。眼下の景色はどんどん変わった。ラフ・ケトゥは言った。竜の飛ぶ速度なら、ドノ・フィウメまではすぐだと。その驚くべき提案を、セリオルを受け入れた。つまり、竜たちの背に乗って、ドノ・フィウメまで戻るという提案を。
 ファ・ラクに乗って、初めて、空を飛んだ。それはまさに、夢のような体験だった。生身の竜の背に乗って空を飛ぶなど、経験した者はそうそういないだろう。これは是非手紙に書いて、故郷の祖父母に知らせなければ。
 ちなみにカインは酔うことを心配していたが、セリオルに薬をもらったので平気なようだった。
「ひゃっほー! 行け行け行けー!」
「ははっ。確かに楽しいな、これは」
「向こうは大変なようですよ」
 風を切る音に負けじと大声で、カインとフェリオとセリオルは言葉を交わした。セリオルが指差したのは、クロイスとアンリだった。ふたりの少年は目を閉じ、しっかと突起に抱きついている。
「わはははは! なんだクロイス、こえーのかー!」
「う、うううるせー! 黙ればか! あほ!」
 いつもの悪態も、目を閉じて震える声では威力は半減だった。カインはますます笑い、怯えるクロイスに野次を飛ばす。
「やめなさいって」
 言いながらアーネスは、どこに持っていたのか、拳大の石を投げた。石はすぐ近くを飛んでいたカインの竜の少し前に投擲された。そしてカインは、その場に留まろうとする石に、見事に顔面から突っ込んだ。
「いでっ!? えええええええおいおいおいおい!?」
 突然の衝撃に、思わず手が離れる。竜の背を転げ落ちそうになり、カインは必死で別の突起を掴んだ。だがそれは竜にとってはくすぐったいポイントだったようで、彼の乗る竜が身をよじって笑い出す。カインは慌てふためき、なんとかかんとか背中に戻った時には、クロイスたち以上に青い顔になっていた。
「し、し、信じらんねえ……本気で殺す気か、あいつ」
 そんなことをしながら、サリナたちは竜に乗って空を飛び、ドノ・フィウメに到着した。
 近くへ来た時から、サリナはその音に気づいていた。一度聞いた音だった。竜の接近を街に知らせる、警鐘の音。
「私、いきます!」
「え?」
 だからサリナは、仲間たちよりひと足先に地上へ降りた。皆の制止の声は、遅かった。サリナはファ・ラクの背から飛び降りたのだ。
 仲間たちが自分の名を呼んでいる。サリナはそれに、空中で姿勢を制御し、空を向いて腕を上げることで答えた。
「輝け、私のアシミレイト!」
 ドノ・フィウメの空に、真紅の光が膨れ上がった。街の人々が驚きの声を上げる。サリナはそのまま、強化されたマナの力で炎を放出した。炎の勢いが落下の速度を弱める。
 それでも衝撃は大きかった。だが、サリナは無事に着地した。ドノ・フィウメの街の中心だった。ジルベールが慌てて飛び出して来ていた。素早く、サリナはアシミレイトを解除した。
「サリナ! これは一体……?」
 警鐘、空に浮かぶ竜たちの影、そして目の前に現われたサリナの姿。ジルベールは状況が呑み込めず、混乱の声を上げた。マナの名残の残る空気を払うように腕を振って、サリナは笑顔を向ける。
「ジルベールさん、大丈夫です! “滝”の竜たちは、協力してくますよ!」
「ほ、本当か!?」
 驚くジルベールに、サリナは満面の笑顔を向ける。そして彼女は空を向いた。
「おーいみんなー! 降りてきてー!」
 サリナのその呼びかけに、ドノ・フィウメの民からどよめきが起こる。不安と混乱の入り混じった声だった。ジルベールも、まだ半信半疑であるようだった。
 竜たちの大きな影が、降下を始めた。人々はその姿に恐怖した。工房を破壊し、その後も街を襲撃した竜たちは、ドノ・フィウメにとってもはや恐怖の象徴だった。
「みな、静まれ! 静まらぬか!」
 さすがは自治区の長というべきか、ジルベールはしかし、冷静さをすぐに取り戻していた。サリナが戻った。そしてそのサリナが、なんの警戒も無しに竜を呼んだのだ。にわかには信じがたかったが、ジルベールは頭を切り替えることにした。出発の時の、サリナのあの力を秘めた目を、彼は思い返していた。
 次々に、竜たちはドノ・フィウメに降り立った。そしてその背から、人間の姿が現われたことに、街の人々は驚いた。その中にいた少年の姿が、特に彼らを驚かせた。
「アンリ! 無事だったか!」
 ジルベールが駆け寄る。アンリは気恥ずかしそうに頷いた。ジルベールは心底安堵した様子で、村の少年の帰還を喜んだ。傍らのクロイスにも、彼は同じ言葉を贈った。
「ジルベールさん」
 進み出たのはセリオルだった。ジルベールは居並ぶ竜たちを警戒しながらも、セリオルの顔を見て安心した様子だった。ようやく、竜との対話が上手くいったのだということが、理解出来た。
「セリオル、ありがとう。上手くいったんじゃな」
「ええ。ですが、私は何もしていません。頑張ったのはシスララとクロイス、それにアンリですよ」
「……そうか、ありがとう」
 それでも感謝の言葉を述べて、ジルベールは振り返った。クロイスと、アンリ。街から“滝”へ向かったふたりの少年が、無事に戻って来た。もう自分と変わらぬ背丈に成長した村の息子たちを、ジルベールは抱き締めた。
「ありがとう、クロイス、アンリ。お前たちのお陰で、街は救われた」
「へへっ。大したことなかったぜ。なあアンリ」
「……いや、俺は何もしてないよ」
 得意げに鼻をこするクロイスとは対照的に、アンリは顔を俯かせていた。意外そうな顔をするジルベールに顔を向けず、アンリはぽつりぽつりと語った。
「俺は、ただついてっただけだよ。何もしてない。ただついてって、事の成り行きを見てただけだ。やってくれたのは、クロイスやシスララや、みんなだよ」
 アンリは拳を握っていた。その手は白く、必要以上の力が篭っているのが明らかだった。ジルベールは何も言わなかった。帰還したばかりの少年に、かける言葉が無かった。
「だめですよ、アンリさん。そんな嘘を言っては」
 そう言ったのは、シスララだった。彼女はアンリの後ろにいた。だがアンリは振り向かなかった。ただ、悔しかった。何の力も持たない自分が、故郷のために命を懸けて戦うことの出来なかった自分が、悔しかった。
「そうだぞ、アンリ。嘘はよくねえな」
 カインの声だった。彼は頭の後ろで手を組み、ごく軽い調子でそう言った。その声に、アンリは顔を上げた。嘘なんてついてない。そう主張しようとした。
 だが、彼は胸倉を掴まれ、言葉を発することを妨げられた。
「ふざけんじゃねえぞ!」
 怒声だった。凄まじい怒りが篭った声だった。眼前に、鋭い目があった。親友の目。クロイスだった。
「え……?」
 混乱し、アンリはただ呆然と、怒る親友の顔を見た。なぜクロイスが怒っているのか、彼にはわからなかった。
「お前が誰よりも頑張っただろうが! お前がこの場の誰よりも、命懸けてただろうが!」
「な、何言ってんだよ、クロイス。俺は何も――」
「あそこで!」
 クロイスは怒りに舌がもつれそうになるのを、懸命に制御した。ぶちまけたい言葉が溢れ出そうだった。支離滅裂になりそうで、彼はなんとかそれをこらえようとした。息を吸い込む。そして口を開く。
「あそこで、一番命の危険があったのは誰だ! 戦う力も無くて、逃げることも出来なくて、誰よりもめえの命を危険に晒してたのは、誰だ! それでも勇気を持って前に進んで、諦めずに道を拓いて、セラフィウムのとこまで行けるようにしたのは、誰なんだ! 言ってみろよ、アンリ!」
 クロイスの声は震えていた。どこにぶつければいいのかわからない感情で、彼の声は震えていた。
 だがそれは、紛れも無くアンリに向けられた感情だった。アンリへの感謝と尊敬の気持ちだった。激しい奔流のようにぶつけられるその感情に、アンリはたまらなくなった。
 彼は、そんなつもりではなかった。ただ自分が造った“ドラゴンホルン”がちゃんと働くか、それがクロイスたちや街の役に、ちゃんと立つのか、それが知りたかった。そして街の未来に関わることを、自分の目で見届けたかった。ただそれだけだった。
 だがそれを、クロイスは勇気と呼んだ。命の危険があっても、救うべきもののために前に進もうとする力だと呼んだ。アンリは自問する。俺は勇気があったからそうしたのか? わからなかった。わからなかったが、彼は顔を上げた。クロイスは、もう怒りを向けてはいなかった。
「お前が必死で造った“ドラゴンホルン”が無けりゃ、何も始まらなかったんだ……何もしてないなんて、言うんじゃねーよ」
「……ああ」
 短く、アンリは答えた。知らないうちに頬を伝っていたのは、熱い涙だった。