第138話

 それは美しい光景だった。燦々と陽の光の降り注ぐ山間の街で、その二者はお互いの手を握り、信頼と友好の誓いを立てたのだった。
 一方は、人間の老人。そしてもう一方は、全身を白き鱗に覆われた雄々しき竜だった。
 ドノ・フィウメ自治区の長、ジルベール・フォン・ル・テリエは、無量の思いに胸を震わせた。まるで胸の中を、暖かな春の訪れを告げる風が吹き抜けるようだった。長きに亘る協力体制――それは竜の側からすれば、単なる施しに過ぎないものだっただろう。それが今、人と竜、両者にとって重要な意味を持つものへと姿を変えた。
 聖なる滝に棲む白き竜の新しい長、竜の戦士ファ・ラクは、人間たちによってもたらされ、人間たちによって導かれた新たな関係を、不思議な思いで見つめていた。
 この数日で、竜と人の関係は一変した。多くの誤解が解け、多くの理解が生まれた。彼の一族がこの先も栄えるために、その理解は無くてはならぬものだということが、聖なる滝の竜たちの認識となった。
 竜たちの突然の来訪と、アンリたちの帰還に、ドノ・フィウメの人々は驚いた。だが、それはすぐに、安堵の溜め息と喝采の声に変わった。“ドラゴンホルン”をアンリが吹き鳴らし、人と竜の言葉が交わされたのだ。
 ジルベールと竜の会話が、ドノ・フィウメを熱気に包んだ。そして同時に、反省と悔恨の沈黙ももたらした。
 竜は人に、世界の情報を求めた。聖霊セラフィウムを汚した者のような危険な人間や兵器が聖なる滝を侵さぬよう、彼らの聖地を守るために、ドノ・フィウメがその防御線となることを求めた。そしてその見返りとして、これまで以上の量の“光砂”を分け与えることを約束したのだった。
 ジルベールはもちろん、この申し出を快く承諾した。彼らにとっても、聖なる滝は重要な場所なのだ。そこを守るための仕事に、彼らが労を惜しむはずはなかった。ジルベールはファ・ラクに謝罪した。ゼノアの横暴を疑いもせず、それを防ぐことを思いもしなかったことを。そして自らと、ドノ・フィウメの閉鎖的で排他的な性質を恥じた。竜たちの考えを推し量ろうともせず、ただ敵対するに過ぎなかったことを。
 だがそれは、ファ・ラクの側も同じだった。彼らは、ジルベールよりも深く謝罪の言葉を口にした。一方的にドノ・フィウメを攻め、“ドラゴンホルン”まで破壊して、言葉を交わす機会すら潰したのは彼らだったからだ。自分たちこそ視野が狭く、考えが乏しすぎたと、彼は人間に対して頭を下げた。
 そうして人と竜の関係は、新たな段階へと進んだ。
 その夜、盛大な宴が開かれた。サリナたちは街と滝の危機を救った英雄として歓待され、次から次へと運ばれてくる料理と酒を堪能した。毎度のことながら、カインとクロイスが酒に酔って大騒ぎをし、人間と同じ酒も好んで飲んだファ・ラクもそれに混じって、意味不明な罵り合いと、上を下へのてんやわんや、訳のわからぬ追いかけっこが演じられて皆を笑いの渦に叩き込んだ。
 そんな賑やかな宴を、アンリはたまらなく嬉しい思いで見つめていた。彼はジルベールをはじめ、街の人々や硝子職人仲間の男たちから、最大限の賛辞を向けられた。帰還の時、クロイスが彼に向けた言葉が、人々を感動させた。アンリの勇気と謙虚さを、彼らは心から讃えたのだった。
「頑張ろう……もっともっと、腕を磨こう」
 酒の入った硝子のコップを手に、アンリは呟いた。そしてそれをぐっと飲み干し、彼は大騒ぎを続ける一団に参加すべく立ち上がり、走り出した。

 翌日、フェリオは硝子工房の建築現場へ来ていた。竜たちが破壊した工房を、街の大工たちや硝子職人たち、それに竜たちで協力して再建しようということで、酒の抜けた午後から、大掛かりな作業が始まっていた。何か手伝えることは無いかと、フェリオは軽装に工具箱を持ってやって来たのだった。
「――何を、考えてるの?」
 振り返ると、アーネスがいた。彼女も動きやすそうな軽装に身を包んでいる。フェリオと同じく、作業を手伝うつもりなのだろう。今朝、彼女がいつものようにカインとクロイスにエメリドリンク改良版を飲ませ、凄まじい絶叫を引き起こしたのを思い出して、フェリオは少し笑った。
「幻魔のことを考えてた」
「ああ」
 フェリオの言葉に短く相槌を打って、アーネスはその場で髪を束ね始めた。長い金髪を掴み、ぐっと持ち上げる。
 フェリオは、嘘をついた。本当に考えていたのは、別のことだった。
『南の森の深き処、その暗き穴蔵に囚われし、強きマナの子を救出せよ――』
 ラフ・ケトゥが竜閃鉱と呼んだあの鉱石に触れて、サリナがうわごとのように口にした言葉。セリオルと、まだそのことで話せていない。恐らく彼なら、なんらかの解釈を持っているだろう。そしてそれがどんな解釈であるにせよ、彼らの次の目的地は、その“南の森”になるはずだ。
 だが今、この場でそのことを話す気にはなれなかった。フェリオは言ってから、幻魔のことを考えた。その疑問も、まだ解けていなかった。
「あのキュクレインって幻魔は、“実験”って言ってた。一体何の実験だったんだろう、ってさ」
「あら。あなたにも、見当は付かないの?」
 髪を束ね終え、こちらを見るアーネスの目は挑戦的だ。自分より少しだけ背の低い、しかし戦闘の場になると誰よりも大きく見えるこの騎士隊長は、そう言いながら言外にそれを否定しているのだ。わかってるんでしょ、話しなさいよ。そう、彼女の目が言っていた。フェリオは苦笑し、目を前に戻す。
「たぶん、瑪瑙の座のマナを吸収することで、幻魔がどれだけ強くなるのかの実験、だろうな。瑪瑙の座の中でも、特にゼノアに――黒騎士にとって危険になるはずの、聖のマナを」
「へえ?」
 少し首をかしげて、アーネスは先を促す。それだけでフェリオの推測が止まっているはずがないことを、彼女は知っていた。
「幻魔は……やっぱりゼノアにとっては、残酷な言い方だけど、捨て駒なんだろうな」
「それは、間違いないわね」
 水のクラーケン、聖のキュクレイン。相まみえた2体の幻魔のことを、アーネスは思った。いずれも、ゼノアへの深い忠誠と敬愛を持っていた。ゼノアからの命を果たせなくなることを、あの2体は悲しんでいた。人間だったら涙を流していたかもしれない。そんな幻魔を、まるで替えの利く駒のように使うゼノアに、彼女はどうしようもない怒りを感じる。
「クラーケンが消えたことを、ゼノアが知らないはずはないもの。キュクレインだって強かったけど、私たちに勝てるかどうかはわからなかったはず。それでもキュクレインをあの場所に残して、ゼノアは自分だけ帰った」
「俺たちが来ることは、見越してただろうな。キュクレインが俺たちと戦って勝てるならそれで良し、負けたら負けたで構わない。そう考えたんだ、あいつは。キュクレインは“実験”を続けることに懸命だったけど、ゼノアにとってはもう、必要な結果は出ていたのかもな」
「まったく……ムカつくわね」
「ああ」
 フェリオは腕を上げた。ふたりに気づいた男たちが、こちらに挨拶をしてきたのだ。それに応えながら、フェリオは続ける。
「でもそう考えると、気にしないといけないことが出てくる」
「うん?」
 その言葉は、アーネスも予想していなかった。話が終わったと思い、足を踏み出そうとしたところだったので、彼女は慌てて足を止めた。18歳にして竜王褒章を受けた天才の顔を、彼女は見つめた。フェリオは働く男たちと竜たちに視線を向けたままで続ける。
「ゼノアはセラフィウムが俺たちにつくことも、予想してただろうってことだ」
「こちらの戦力が増しても構わないと考えてる……ってこと?」
 フェリオは頷いた。そして視線を、アーネスに移す。
「セラフィウムは、黒騎士にとって最も脅威になる幻獣の1柱だ。聖の幻獣、瑪瑙の座。闇の力に最も有効な力だ。その力を持つセラフィウムを、ガルーダみたいに捕らえるんじゃなくて、集局点に置いたままにした。俺たちがその力を手に入れる可能性も予想した上で」
 す、っとフェリオの目が厳しくなる。さきほどまでの、爽やかな山間の空気を楽しんでいた少年とは、まるで別人だった。アーネスは嫌な予感に、首筋が冷えるのを感じた。
「ゼノアにはハデスがついてる。ハデスはセラフィウムの力なんてものともしないのかもしれない。でも、俺たち全体の力が上がることは、確実にあいつの脅威になるはずだ。なのにあいつは、セラフィウムを放置した」
 胸の中に不快なもやが広がるのを、アーネスは感じた。フェリオは再び前を向いた。恐ろしいことを、彼は想像しているのかもしれない。それを聞くことが、アーネスは嫌だった。だが、耳を塞ぐわけにはいかない。彼の想像は推測であり、そしてそれは恐らく、事実を捉えている。
「もしかしたらゼノアは――」
 その先を口にすることをためらうように、フェリオは言葉を切った。空は高く、晴天である。鷲か鷹か、猛禽が大きな翼を広げて悠々と、ドノ・フィウメの空を舞っている。切れ切れの雲はゆったりと流れる。街を囲む森の木々が風に揺れ、耳に心地良い葉鳴りの音が聞こえてくる。街の男たちが竜たちと協力し合い、笑い合いながら工房の建築を進めている。
 その清々しい光景がもたらしてくる心地良い感情が、アーネスの中でしぼんでいく。そして次にフェリオが口にした言葉によって、彼女の胸は吐き気を催すほどの、どす黒い怒りと恐怖とによって支配されることになった。息を吸い、フェリオは言った。
「――ゼノアは、奪おうとしてるのかもしれない……玉髄の座の、幻獣を」

 セリオルはクロイスの家で、マナ・シンセサイザーを操作していた。聖なる滝でラフ・ケトゥから受け取った不思議な石、竜閃鉱。乳白色の鏡のようなその奇妙な鉱石は、実に不思議な特性を持っていた。硬度はきわめて高く、並みの鉄鉱など比較にならない。だというのに粘度もかなりあり、またまるで硝子のように、その内部の微細な結晶が絶えず動いている。これほど不思議な物体を、セリオルは見たことが無かった。
 恐らく、売却すれば破格の値が付くだろう。王都が正常に機能していれば、時折開催される貴族や騎士向けのオークションに出品するのもいいかもしれない。あるいはフェリオの褒章授与の時に会ったバーナード・アダムソン氏――鉱物学の権威である彼に相談し、使い道を探るのも悪くない。もしかしたらイリアス王国にとって、大きな役割を担う物質となるかもしれないのだ。
 そんな考えを、セリオルは自嘲するような苦い笑いと共に掻き消した。あまりにも夢に満ちすぎた話だ。新たな発見に対して湧いてくる自分の考えを、セリオルは斬り捨てた。王都は機能していない。ゼノアの監視の下、どんな状態になっているのかもわからないのだ。
 甘い幻想を捨て、セリオルは竜閃鉱に大きなのみを打ち込んだ。キン、と甲高い音がして、乳白色の鉱石が割れる。幾度かそれを繰り返し、適度な大きさになった鉱石を、マナ・シンセサイザーの釜に投入する。
 床には、アーネスのルーンブレイド、クロイスのバタフライエッジ、そしてセリオルのウィザードロッドが並べられていた。アイゼンベルクで手に入れた天狼玉を使って製作して以来、それぞれの使用者によって愛用されてきた品だった。だがさすがに、傷みも出てきていた。このあたりで修復を兼ね、更に苛烈になっていく戦いへの備えとしようと、セリオルは考えた。
 作業は、クロイスが手伝った。ハイナンでダリウからマナのことを教わってから、彼のマナに対する興味は昂進し、理解は深まる一方だった。さすがにマナ・シンセサイザーの仕組みは高度すぎて理解出来なかったが、それでもクロイスは、幻獣たちのクリスタルと人間の技術が織り成す、摩訶不思議なその魔法の機械が動くのを食い入るように見つめた。
 アーネスの剣が完成し、セリオルによってディフェンダーという銘が与えられた。天狼玉の銀灰色に輝く刀身に、竜の尾のような力強い乳白色の模様が浮かび上がっている。王国の、そして彼らリバレーターの守りの要となる者が持つに相応しい、凄まじい硬度と切れ味を持つ剣が生まれた。
 次にバタフライエッジが、シンセサイザーの釜に入れられた。自分の武器がどんな進化を遂げるのか、クロイスは興味津々で釜の覗き窓から中を見つめる。
 マナ・シンセサイザーの操作盤にセットされたのは、風、水、そして地のクリスタルだった。はじめに風のマナの力で、竜閃鉱が細かく分解されていく。釜の中で起こる翠緑色の旋風が、あの硬い竜閃鉱をいともたやすく粒子状に変化させていくのが、とても面白い。
 そのマナの動きを見ながら、クロイスは考えていた。マナというのは、本当に不思議な力だ。どこにでも、誰にでもある力なのに、それを意のままに操ることのなんと難しいことか。マナはあらゆる生命の源と言われる。世界樹が生み出し、神晶碑が支える力。多くの魔導師が、学者が、あるいは幻獣神教の司祭たちがその本質を探求し、その真理を理解しようと努力を続けている。
 だが、エリュス・イリアの長い歴史の中で、マナの全てを理解したものは、まだいないのだ。
 本当に不思議な力だ……。そう思った時、クロイスの脳裏にあの言葉が蘇った。サリナが口にした、あの言葉が。
「なあ、セリオル」
 シンセサイザーを操作するセリオルの邪魔にならぬよう抑えた声で、クロイスは声を掛けた。釜の中では、琥珀色に輝く地のマナの力が、バタフライエッジと粒子状になった竜閃鉱とを結合させている。
「はい?」
 慎重に機械を操作しながら、セリオルは返事をした。次は水のマナの力で、結合したふたつの物体をきちんと固着し、その状態を保存させなければならない。
「あのさ、あれはどういう意味なんだろうな……サリナが言った、あれは」
 竜閃鉱にサリナが触れた瞬間、強い光がクロイスの視界を奪った。何かが起きたと感じた瞬間、彼に耳に飛び込んで来たのは、どこか虚ろなサリナの声だった。いつもの、あの光が生まれる一瞬前までのサリナとは、明らかに異なる声だった。
「『南の森の深き処、その暗き穴蔵に囚われし、強きマナの子を救出せよ――』ですか」
「うん」
 銀灰色のバタフライエッジに、乳白色の竜閃鉱が絡まった。今度は釜の中に紺碧の光が漂う。合わさったばかりのふたつの力が、水のマナの特性によって固着され、ひとつの武器としての新たな生を授かる。
 マナの光が止んだ。釜の蓋を開き、セリオルは姿を変えた2本の短剣を取り出した。刃こぼれは修復され、竜閃鉱の力を得たその短剣は、瑞々しいマナの力に活き活きと輝いている。
「グラディウス、という名にしましょうか。かつて王国軍でその剣を振るった、誇り高き剣士の名です」
「グラディウスか……いいな」
 柄を握り、クロイスは新たな武器をその手に取った。部屋の中の薄暗い中でさえ、ふたつの魔法の鉱石の力を授かった短剣は、光に煌いている。2本を合わせて盗賊刀の形態にしてみる。手にしっくりと馴染み、扱いやすそうだった。
「サンキュー、セリオル」
「いえいえ」
 分解して短剣に戻し、クロイスはグラディウスを鞘に収めた。休むことなく、セリオルは自分の杖、ウィザードロッドをシンセサイザーの釜に入れる。
「あの言葉の意味するところは、私にもわかりません」
 操作を再開しながら、セリオルはそう言った。クロイスは、その目を見た。じっと釜の中を見つめ、セリオルの目はマナの光を映している。だがその更に奥には、なぜか深い闇が見えたような気がした。
「……そっか」
 セリオルから視線を外し、クロイスも釜の覗き窓に目を向ける。しばらく沈黙が続いた。釜の中で、ウィザードロッドが新たな力を手に入れる。
「ただ、行ってみるしかないでしょうね。次の瑪瑙の座の手がかりも無いことですし」
「うん、だな」
 釜の蓋が開かれる。乳白色の輝きを手に入れた杖は、オクトマナロッドと名づけられた。8つのマナを司る杖、という意味だった。
「なあ、セリオル」
 杖を仕舞い、マナ・シンセサイザーの片付けを始めたセリオルに、クロイスは話しかけた。喉の奥が乾くような錯覚があった。セリオルは顔をこちらへ向け、首を傾げた。
「あのさ、サリナがああやって、目が赤くなって不思議なことをする時さ」
「ええ」
「俺たちは、その……なんていうか、不思議だなと思って見てるんだけど」
「……ええ」
 クロイスは、唾を飲み込もうとした。だが、唾は湧いてこなかった。少しだけ沈黙したあと、クロイスは意を決して、訊ねた。
「セリオルは……どうして、哀しそうなんだ?」
 その問いに、セリオルは答えなかった。沈黙を貫き、彼はマナの機械を片付けた。
 クロイスは、見た。一行を率いる最年長の魔導師、かつて竜王褒章を授与され、恐ろしいまでの天才的な頭脳を持ち、冴え渡る魔導の力を操る者。そのマナの輝きに満ちた男の目に、さっと深い闇が広がったのを。