第139話

 ドノ・フィウメの硝子工房は、着々と再建作業が進められていった。瓦礫の撤去から始まり、竜たちはその強い力を活かして大きな資材も軽々と持ち上げ、街の人々から拍手を受けながらをそれを運んだ。
 それぞれの長が手を取り合ったことで、人と竜とは強固な協力体制を確立できると予感していた。その予感は希望となり、ふたつの種族の心を繋ぐ架け橋となった。彼らは工房再建の作業を通じて、それぞれの価値観や考え方を知り、互いを認め合った。
 職人たちの中には、竜たちを恨んでいる者もいるだろうと、フェリオは考えていた。仕事場を破壊され、一時的にせよ職を失い、工房はそう簡単に再建できるはずもなく、これからどうやって生きていこうと悩んだ者は少なくなかったはずだ。
「どうやら、いらない心配だったな」
 額に浮かんだ汗をぐいと拭い、フェリオは呟いた。太陽の光が温かい。袖の無い服を着ていても、身体中から汗が滲み出してくる。それは心地良い汗だった。身体を動かし、皆と大声で言葉を交わし、笑いながらかく、気持ちのいい汗だった。
「なにが?」
 答えがわかっている顔で、アーネスが訊ねてきた。彼女は背負っていた重そうな袋を、どすんと地面に置いた。石と石を接着するための粘土の原料になる砂を入れた頭陀袋だった。
「ここのひとたちと、竜たちさ。多少はもめるかと思ったけど、そんなことないみたいだ」
 フェリオは立ち上がり、曲げっぱなしだった腰をぐっと伸ばしながら答えた。
「そうね。仲良くなってみるとけっこうさっぱりした、いいひとたちよね」
「ああ。最初にジルベールさんに会った時は、どんなとこだと思ったけどな」
 あの時のあからさまに自分たちを警戒していたジルベールの顔を思い出し、ふたりはぷっと吹き出して笑った。
 聖なる滝から帰った昨日、アーネスはジルベールに、自分の正体を明かした。聖なる滝で何があったのかを話す流れに乗せて、さらりと。ジルベールは一瞬目を見開いたが、すぐに声を上げて笑い出した。自分よりはるかに年下の連中にまんまと騙されたことと、それを責めることなど思いつきもしないほどの恩義を、既に彼はアーネスたちに感じていたからだ。
「もはやお前さんらの正体が何でもあってもかまわん。お前さんらはこの街と自治区を救ってくれた英雄であり、わしらの息子たちの大切な友人じゃ」
 酒も入り、宴席でのジルベールは実に陽気だった。息子たちに止められても飲むのをやめず、愉快そうに笑っていた。そして彼は、楽しい気分で胸の内を吐露した。
「王国にも、なかなかの大人物がおるんじゃな……。時代は変わっとる。あの竜たちが自分たちのことを指して言ったのと同じように、わしらも変わらねばならんのかもしれんのう。過去の遺恨にこだわっていては、世界から取り残されてしまうかもしれん」
 それを聞いた街の人々は、大いに驚いた様子だった。これまでずっと、ドノ・フィウメは王国に背を向け続けていた。それがジルベールの方針であり、代々受け継がれてきたこの自治区の気質だった。
 クロイスはそれを歓迎したようだった。滝への出発前には、どこか冷淡な態度を見せていた彼は、ジルベールの心境の変化を感じ取ってか、彼を“じいちゃん”と呼び、楽しそうに昔語りを始めたのだった。
 その光景を思い出しながら、フェリオは空を見上げた。よく晴れた、抜けるような青空だ。太陽の眩しさに、彼は目を細めた。
「おーい、フェリオさーん!」
「ん?」
 不意に名を呼ばれ、フェリオは呼び声の主を探した。声の主はすぐに見つかった。
「その乾燥粘土、あっちで使ってもいいですか?」
 アンリは充実した様子の笑顔で、駆け寄ってきた。彼も工房の再建作業に参加していた。自分と師の工房だけでなく、作業を進められる工房から順に、彼はてきぱきと動いては竜たちに指示を出していた。竜たちのほうも、聖霊を救う戦いに参加した勇気ある硝子職人として、アンリを信頼しているようだった。
「ああ、構わないよ」
 フェリオは手を挙げて、そう答えた。アンリは笑顔を返してきた。
 だがその笑顔は、不意に固まってしまった。振っていた腕も、ぴたりと止まった。まるで時間が止まったように、アンリは正確に制止した。そしてその表情が、徐々に笑顔から、なぜか恐怖に戦く小動物のそれへと変化していった。
「……なんだ?」
「さあ……」
 アンリの挙げた腕は、下ろされることもないまま、震え始めた。やがてその震えは、腕だけでなく、彼の全身へと広がっていった。突然のことに、フェリオとアーネスは訝しがった。
 顔を見合わせたふたりだったが、不意に気づいた。彼らの背後から、接近してくる者の気配があった。それに気づくと同時に、ふたりは振り返っていた。
「おやあ? なんだか物騒なことになっているね?」
 若い女だった。旅慣れている様子の服装に、大きな背嚢を背負っている。腰には得物らしき剣が提げられていた。癖の強そうな短い髪に手ぬぐいを巻き、眼鏡を掛けている。傷でも負ったのか、頬には小さな当て布がされていた。
「ふうむ。あれは竜かな? この街に竜が来ているなんて、一体なにごとだい? 君たち、何か事情を知っていそうだね。よかったら話してくれたまえよ」
 独り言から急に切り替わって水を向けられ、フェリオとアーネスは面食らって一瞬、沈黙した。この頭の回転がえらく速いらしい妙な話し方の女を、どうやらアンリは見つめているようだった。女とアンリの間に立ち、その両者を交互に見ながら、フェリオとアーネスは状況を図りかねた。誰だ、これ?
 敵意も殺気も感じなかったので、ふたりはこの女の正体を探ろうとしながらも、さほど警戒しはしなかった。戦闘の腕はそれほど高くはないだろう。歩き方などの所作から、それはすぐにわかった。どちらかというと、学者か何かに近いような感じだった。
 だがふたりがそこより先に考えを進めるより早く、答えが示された。挙げていた腕をゆっくりと下ろし、震える指先を女に向けて、アンリが叫んだのだ。
「し、し……師匠〜〜〜っ!?」
「やあ、アンリ。ただいま。なんだね、自分の師を堂々と指差すとは、無礼な男だな君は」
 にこりともしない女と、対照的に慌てふためいているアンリとの間で、フェリオとアーネスはぽかんと口を開け、何も言わずにふたりの顔を交互に見ていた。

 目の前で涙を流し、後悔の言葉を口にする年老いた夫婦を、サリナは胸が締め付けられるような思いで見つめていた。老夫婦の懺悔は、彼女の心をかき乱した。歯がゆさ、空しさ、あるいは悔しさ。そういったもどかしい感情が絡み合う。
「……本当に、ありがとうございました」
 顔を上げられないまま、夫のほうがそう言った。妻はまだ泣いている。彼らの息子とその妻、そしてそのふたりの幼い子どもたちも、その場にいた。状況のわからぬ孫兄妹が、両親の服の裾をしきりに引っ張り、何が起きているのか聞こうとしている。だがまだ若い夫婦は、厳しい顔を子どもたちに向け、部屋に戻っていなさいと告げた。
 不満げに口を尖らせたものの、子どもたちは大人しく子ども部屋へと戻って行った。その親子のやりとりが、サリナの目には幸せなものとして映った。そしてこの場に、本当はいるはずだった人物のことを思い、どうにもやるせない気持ちになった。
「……ま、心配はいらねえよ」
 複雑な気持ちなのだろう。カインは老夫婦の顔を見ず、首のあたりを掻きながら言った。
「その手紙にも書いてると思うけど、あいつは元気だ。元気すぎて周りが困っちまうぐらい、元気だからよ」
 カインはどう言葉をかければいいのかわからなかった。目の前で後悔の涙を流す老夫婦の感情が、彼にはうまく想像出来なかった。
 街の風習、あるいは自治区の価値観とは、恐ろしいものだ。赤の他人の前で、これほどまでに、ひざまずくようにして泣くほどの後悔を、この街はこの夫婦に強いたのだ。だがそれは、当時のこの街としては当然のことだったのだろう。
 それに、とカインは胸中で非難に似た言葉を紡ぐ。最終的には、決断したのはこのひとたちだ。優しい言葉を掛ける気には、彼はなれなかった。ただ機械的に、現状を教えてやる。それ以上のことを、彼はしてやろうとは思わなかった。
 なぜなら、彼が知るあの男の苦しい人生を作ったのは、この老夫婦なのだから。
「ドルジさん」
 だが、彼の傍らにいる娘は違った。カインは、サリナを見た。握った手を胸に当てるのは、サリナが落ち着こうとしているサインだった。躊躇いがちに、彼女は口を開いた。
 名を呼ばれ、顔を上げた老夫婦に、サリナは言った。
「会いに行かれたら、どうでしょうか?」
 どくんと心臓が跳ねた。瞬間、カインはサリナの肩を掴んでいた。サリナがこちらを向く。まるでカインがそうすることを予測していたようだった。
「サリナ!」
 カインの声は低かった。サリナは、カインの目を真っ直ぐに見つめた。カインの青い目に、怒りに似た光が閃いている。カインが口を開く。サリナは、カインがどんなことを言うか、もうわかっていた。
「今さら会って、どうする」
 サリナは、カインの口にしたことの意味を正確に理解していた。彼は、老夫婦とその相手、双方のことを言っているのだった。今さら会ったとして、一体何になるというのか。過去を謝罪するのか、それとも未来を語るのか。そのいずれにも意味はないと、カインは思っていた。この両者は、かつて決定的に道を分かたれたのだ。その事実は清算できないし、再びひとつに戻ることも無い。
 会ったとしても、無意味だ。いや、むしろ逆効果だ。もう忘れ去り、無理矢理納得させたはずのかつての怒りが、恨みが、呼び戻されるだけだ。
 カインはサリナの栗色の瞳を見つめた。サリナには、伝わったはずだ。サリナの瞳には、理解の色が浮かんでいた。だが、彼女は目の力を緩めなかった。その強い光は、カインを貫いていた。何かを決めた時の、サリナの目だった。その目が持つ力が何よりも強いことを、カインは知っていた。
「会って、どうするんじゃないんです。会うことに、意味があるんです」
 苦いものを味わうような表情をしたカインから、サリナは視線を外した。肩に置かれたカインの手が、だらりと下がる。サリナは老夫婦に向き直った。
「ドルジさん、奥さん、聞いてください。私には……両親がいません」
 ドルジ夫妻は、はっと息を飲んで目を見開いた。その後ろの若夫婦は、息を殺して状況を見守っている。
「私は、辺境の村で祖父母に育てられました。でも18歳の誕生日に、言われたんです。お前の父さんは、生きてるって」
 サリナの他の誰も、言葉を発さなかった。ただ黙って、少女の語る言葉に耳を傾けている。
「でも、私の父はどうやら、すごく会いに行くのが難しいところにいるみたいなんです。もしかしたら、会いに行くのは命懸けの旅になるかもしれません。でも、私は……嬉しかった」
 サリナの口に、柔らかな弧が生まれた。その僅かな微笑みには、温かさがあった。それは胸の中の熱だった。その優しい熱を少しずつ紡ぎ、サリナは言葉にしていった。
「だから、私は故郷を出ました。父に会って、助けるために。顔も、どんなひとかも知りません。でも、会いたいんです。会って、話がしたいんです。苦しいのなら、助けたいんです。だって、父は私の、たったひとりの、お父さんだから」
 カインは鼻をこすった。奥のほうがつんと痛んだ。気を抜いてはだめだ。目をしばたかせ、カインは気を引き締める。
「私は、ずっと親がいないと思って生きてきたから、親子というのがどんなものか、わかりません。でも、私の祖父と祖母は、私を本当に可愛がって育ててくれました。だから、親がいなくて寂しいと思ったことはありません。でも、父がいると聞いて、いても立ってもいられなくなりました……不思議ですよね。会ったことも、話したことも無いいひとに、会いたいなんて」
 サリナは照れたように笑った。さきほどまでの張り詰めた空気が、いつの間にか無くなっていた。ドルジ夫妻は、心が穏やかさを取り戻していくのを感じていた。この、まだ幼さの残る少女の言葉が、彼らの心を解いていった。
「親子って、そういうものなのかもしれないって、私は思います。彼も、今は寂しくなんてないはずです。ユンランは賑やかな村だし、宿のマスターさんは厳しいし、仲間も大勢いるし。きっとマスターさんに認めてもらいたくて必死だから、寂しがってる暇なんて無いと思います」
 両手を、サリナは胸の前で合わせた。腹に力を入れる。熱が、腹から喉へと上がってくる。サリナの目が力を帯びる。その強い光に、ドルジ夫妻は魅了された。それはまるで、真っ暗になった世界の中でたったひとつ生まれた、希望の灯火のようだった。
「でもきっと、彼も会いたいと思います。怒りとか、恨みとか、もしかしたらあるかもしれません。でも、そんなものよりずっと大事なことがあると思うんです。彼は確かに大変な人生を送ってきたけど、今の彼はすごく楽しそうだし、幸せそうだったから。会ってどうするかは、その時に考えればいいんじゃないでしょうか。謝りたければ謝ればいいし、殴られたいなら殴られてください。もしかしたら、会っても何も変わらないかもしれないです。でも、いいじゃないですか。会って、一緒にお酒でも飲んで……笑えれば、それで。だって、あなたたちは、親子なんですから」
 イゴル・ドルジは、自分の3分の1も生きていない少女の言葉に、涙を流した。溢れ出るものを止めることは、出来なかった。呼吸が出来ないほどの、激しい嗚咽だった。彼の妻も同じだった。長いこと溜まり続け、積もり続けてきたものが、一気に決壊したようだった。
 ずっと後悔してきた。息子が姿を消したあの日から。自分たちは、なんという酷い仕打ちを、息子にしてしまったのだろうと。たった10歳の子どもが、この峻険な山を、たったひとりで下りたのだ。どれだけ探しても、息子の姿は見つからなかった。遺体となって発見されるかもしれないと思ったが、それすら無かった。彼らの長男は、何の言葉も残さずに姿を消し、二度と戻っては来なかった。
 手紙に、大粒の涙が落ちた。そこには、へたくそな字で書かれていた。この街を出てから、どんな人生を送ったのか。文章は支離滅裂だった。文字など初めて書いたのかもしれない。それでも、そのたどたどしく稚拙な文字と文章は、息子の姿を伝えてくれた。
 手紙の最後にはこう書かれていた。
『いろいろあったけど、いまのおれはしあわせです。おやじ、おふくろ、どうかおれのことはきにせず、しあわせに、ながいきしてください』
 イゴルは拳を握り締めた。爪がてのひらに食い込んで痛んだが、構わなかった。こんな痛みなど、自分が息子に味わわせた痛みと比べたら、なんでもなかった。
「ダグ……ダグ……!」
 彼は息子の名を呼んだ。何度も何度も、呼んだ。涙は流れた。嗚咽も止まらなかった。だが、これまで時折彼を襲った、消えてしまいたいという思いは、その姿を消していた。
 彼には、生きる目的が出来た。ハイナン島は遠い。自分たちで行くにはどれだけかかるだろう。だが、その道程は越えなければならない。熱い魂の炎が燃え上がり、イゴルはその熱さが涙となってあふれ出すのを、止めようとはしなかった。

 地図から顔を上げ、セリオルは目頭を揉んだ。彼の前には、ドノ・フィウメ自治区とファーティマ大陸の、かなり詳細な地図が広げられていた。
「なんかわかったか?」
 セリオルが地図を読むのをじっと見ていたクロイスは、期待の篭った声で訊ねた。だがセリオルはそれには答えず、傍らに佇むジルベールに質問をした。
「ジルベールさん、この“黒き森”の“ウンブラ”というのは、集落の名前でしょうか?」
「うむ、そうじゃ。森と平原の境目にある村でな。黒き森はなだらかな丘陵に広がっとるから、その麓の村とも言える」
 セリオル、クロイス、シスララの3人は、ジルベールの館に来ていた。地図を見せてもらうためだった。
 ジルベールには、既に彼らの旅の本当の目的を、明かしていた。ドノ・フィウメの長老は目を見開いて驚いた。そしてそんな危険な戦いに身を投じているクロイスのことを案じた。だがクロイスは、ジルベールの心配を笑い飛ばした。その明るい声が、長老に少しだけ安心感を与えた。
 シスララもアーネスと同じく、自らの身分を明かした。ジルベールはこれにも驚いた。王国の騎士と、自治区領主の娘。そんな身分の高い者たちにクロイスが、あれほど気安く話していたのが驚きだった。
 だが、同時に心強くもあった。彼の息子も同然のクロイスに、身分が高く財力も豊かであるはずの者がふたりも仲間としてついてくれている。それは大きな後ろ盾だった。
「そこか?」
 再度、クロイスは訊ねた。セリオルは、今度は深く頷いた。
「恐らく」
「どうしてその森だと思われるのです? 南の森は、こちらにもありますけど……」
 シスララは、黒き森から見て東北東に位置する、小さな森を指で示した。ドノ・フィウメから見れば、どちらも“南の森”と呼ぶことが出来る。だが、セリオルはかぶりを振った。
「この黒き森に、幻獣研究所の地下研究施設があったはずです」
「なんだって!?」
 クロイスは驚きを隠さなかった。ドノ・フィウメの街からほど近い場所に、幻獣研究所の施設があった。彼にとって、その研究所はもはや、忌むべき存在だった。セリオルにとってのかつての仕事と研鑽の場であったことは、彼の頭からは消えていた。
 クロイスの反応に小さく苦笑しながら、セリオルは続けた。
「研究所の上層部しか、正確には場所を知らない施設です。私は行ったことがありませんが、先生――エルンストさんから、話だけは聞いたことがあります。ファーティマ大陸の黒き森、あまりひとの寄り付かないその森に、“ハイドライト”は隠されている、と」
「“ハイドライト”?」
 クロイスとシスララが声を合わせて訊ねた。セリオルは頷き、説明した。
「幻獣研究所が、その存在を公にはしていない施設です。当時の私は、そのことに特に疑問を持ちませんでした。王国の機関には、一般的に知られていないことなんていくらでもありますからね。でも、今思うと……」
 セリオルは言葉を切り、地図から顔を上げた。その目は、昼間の光の差し込む窓から見える、オパリオスが林立する街の景色に向けられていた。平和を取り戻し、人々の活気が帰ってきた街。人と竜の架け橋が生まれ、未来への希望という名の熱気に包まれている。
 小さく、セリオルは嘆息をこぼす。シスララが、その憂いを帯びた顔を、心配そうに見つめている。
「王国民に知られては、まずいことがあったのでしょうね。幻獣研究所は、王都の軍部と繋がっていましたから。辺境での紛争を鎮圧するためのマナ兵器の開発のためか、リストレインの力を――アシミレイトの力をより高めるためか、あるいは、もっと黒い、闇に塗りこめるべき何かのためか」
 かつて、セリオルは幻獣研究所は正義を体現する組織だと思っていた。エリュス・イリアの繁栄のためにマナを研究し、幻獣とリストレインの秘密を紐解く組織。自分の仕事は、研究は、その一端を担うのだと、誇りを感じていた。
 だが、今はそう単純には考えられなくなっていた。エルンストは、王国の闇の部分に手を染めていたのだろうか。セリオルは振り返る。彼の師は、時折沈鬱な表情を浮かべ、自室で溜め息ばかりついていることがあった。いつもは知性に溢れる瞳が、力を無くし、闇に沈んでいるように見えることがあった。当時は研究のことで悩んでいるのだろうと思っていたが、今はそれだけではなかったのではないかと思える。
 ゼノアの研究は、いつから本格的に始まっていたのだろう。同僚として、また同い年の友として彼を見ていたが、これほどの狂気に走るとは思わなかった。セリオルは、かつての自分の甘さを悔いた。ひとを信じすぎた。自分の周囲に、悪人などいないと、無条件に信じ込んでいた。
 地下施設ハイドライト。そこではどんな研究が行われていたのだろう。王都から遠く離れたその地で、わざわざ行わなければならないこと。セリオルにはそれが、どうしても正しいこと、王国民に発表してうしろめたくないことだとは、とても思えなかった。
 向き合わなくてはならない。かつて所属し、自分の人生を懸けると誓った幻獣研究所の抱える、闇の部分に。どんな事実が出てきても、そこから目を背けるわけにはいかない。
「そこが、次の目的地なのですね」
 はっとして、セリオルは意識を過去から現在に戻した。見上げると、隣でシスララが微笑んでいた。太陽の光の下でゆったりと揺れる白い花のような、清らかで優しい微笑みだった。セリオルは、自らの内に広がりかけた闇が、すっと霧散していくのを感じた。
「幻獣研究所の施設かー。なんかやべー予感がすげーするな」
「ふふ。頑張りましょう、みんなで。力を合わせれば、私たちに出来ないことはありません――よね、セリオルさん?」
 年若いふたりに、セリオルはふっと笑う。彼らは、研究所の秘密を知った時、どんな顔をするだろう。その時自分は、どんな気持ちになるのだろう。そんなことを考えそうになる。
 だがセリオルは、今考えても仕方が無いそれらのことを無理やり、心の外に追いやった。彼に出来た、6人の仲間たち。その力と、心を信じよう。これまでいくつもの苦難を共に乗り越えてきた、彼らを信じよう。大丈夫。彼らは誤らない。彼らの心は、正義と希望の光で満たされているのだから。
 ――自分とは、違って。
「ええ、そうですね。何があるかはわかりませんが、頑張りましょう」
 そう言って、セリオルは微笑を返した。ちくりと胸を刺す、罪悪感をひた隠しにして。