第144話

「どうしたの、アイリーン。モグたちのところへ行ったはずなのに……」
 サリナはアイリーンに近づき、その顔に触れた。柔らかな陽光色の羽毛が、冴え冴えとした月の光に浮かび上がっている。アイリーンはそのつぶらな瞳で、じっとサリナを見つめている。サリナは自分のチョコボと視線を絡ませながら、何か緊張めいたものを感じた。
「アイリーン……」
 不思議な目だった。サリナはこれまで、何度もこうしてアイリーンと目と目を見つめあい、心を通わせてきた。アイリーンの瞳に宿る光は、どこか他のチョコボたちとは違っていた。
 ブリジットやルカ、エメリヒ、イロ、オラツィオにイルマ。仲間たちのチョコボもそれぞれに賢く、優秀だ。自分の主の心を感じ取り、それに合わせた走り方をしてくれる。危険を回避し、主人を疲れさせないよう、常に考えた走り方をするチョコボたちだ。
 彼らはまるで、サリナたちの背負った過酷な運命のことも承知しているかのようだった。戦いに疲れた主人を癒し、あるいは戦いに向かう主人を勇気付けようとするような行動を取った。
 厩舎に預けたチョコボたちを再び引き取る時、サリナたちは厩舎の従業員から話を聞くことがあった。
 アイリーンたちは、チョコボの集団にしては実に仲良く過ごすのだという。チョコボは独立心の高い鳥だ。親子やつがい以外のチョコボたちは通常、同じ場所で過ごすことはあっても、それほど積極的に関わりを持とうとはしないものだ。
 だがアイリーンたちは、厩舎に預けられている間、まるで互いの意見を交換し合おうとでもするかのように、交互に泣き声を上げたりということをするらしい。独立房ではなく合同房の厩舎ではひとところに固まって過ごし、まるで会議をするかのように輪を作ったり、一緒に遊んだりしていたという。
 サリナたちはそれを聞いて、自分たちのチョコボは随分と知性が高いのだと感心したものだった。オラツィオやイルマなどは元来、騎士家と貴族家のチョコボなので、訓練されていた。だが他のチョコボたちはそうではないのに、明らかに周囲のチョコボたちよりも高い知能を有しているようだった。
 目の前に静かに立つアイリーンを見て、サリナはその話を思い出した。普通のチョコボより、高い知能を持つチョコボ――そして同時にもうひとつ、脳裏に蘇るある事実があった。
「アイリーン、戻って来たの?」
「クエ」
 アイリーンは、サリナの言葉を正確に理解しているようだった。モグが道を閉じる一瞬前に、第二の世界樹から光に飛び込んだのだろう。
 サリナは仲間たちを振り返った。皆、驚いたような困惑したような、なんとも言えない表情をしている。
「セリオルさん……」
 サリナは兄の名を呼んだ。呼ばれたセリオルは、思案顔で頬を掻いた。
 どうやら、仲間たちもサリナと同じことを思い出していたようだった。すぐにモグを呼んで預けなければと言う者はいなかった。
 サリナの脳裏に、クロフィールの宿の光景が浮かんだ。王都での戦いで傷付き、倒れたサリナが目覚めた、あの暖かな木の壁に囲まれた部屋を。
 部屋の壁には、火の入ったランプが掛けられていた。クロフィールの豊かな森の香気が入り込み、爽やかで清浄な空気が満ちた部屋だった。サリナは柔らかな布に包まれて目覚め、そしてアーネスから、あの話を聞いた。
 恐るべき力を持った戦士、黒騎士。その強大な敵との攻防は、サリナたちの敗北に終わった。サリナたちは黒騎士に立ち向かう術を持たず、繰り出したあらゆる攻撃は通じなかった。サリナを含め、仲間たちが次々に倒れた。そして彼らは、事前にセリオルが手を回して“騎士の剣亭”の主人、アルベルトに頼んで呼んでおいたチョコボの背に乗って、逃げ延びた。
 その時、最後の最後でサリナたちの命を救ったのが、アイリーンだった。
 サリナはアーネスたちの話を聞いた。アイリーンの羽毛が真紅に染まり、信じがたい量のマナを放ったのだと。それによって、黒騎士は力を失った。あの圧倒的な力を持つ黒騎士を、一時的にアイリーンが無力化したのだと。だから彼らは逃げることが出来た。アイリーンがいなければ、あの恐ろしい場から逃げることすら、彼らには出来なかっただろう。
「アイリーン……戻って来たんですか」
 サリナと同じことを言って、セリオルは陽光色のチョコボを見つめた。彼にも、この不思議なチョコボのことは全くわからなかった。あの黒騎士の戦いで真紅に染まるアイリーンを見たものの、その後立て続けに起きた様々な出来事のために、そのことについてじっくり考えることをしなかった。
 セリオルは僅かに後悔した。アイリーンのあの力の究明を考えていれば、より有利に戦うことが出来たかもしれなかった。だが、今そのことを考えても何も始まらない。彼は軽く頭を振った。
「まあ、来てしまったものは、仕方無いですね」
「アイリーンには不思議な力もあるしな……ハイドライトを探すのに役立つかも」
 フェリオが言葉を継いだ。このふたりが揃って言うことに関して、異を唱える者はいなかった。カインなどは、むしろ嬉しそうにアイリーンに近づき、嘴の下を撫でてやっている。
「じゃあ行く? アイリーンには、少し狭いかもしれないけど」
 黒き森の鬱蒼として茂る木々を見て、アーネスがそう言った。チョコボの身体は大きい。だがアイリーンは、そんなことはないとでも言うかのように、不満そうな声を上げた。それがまるで、女性が体重や体型のことを指摘された時のようで、サリナたちはその可笑しさに笑った。

 夜の森に、サリナたちは分け入った。かつてローガンから教わったことを、サリナは思い出していた。
 フェイロンでのファンロン流武闘術の稽古の内容は多岐に渡った。ローガンの道場で型や技の訓練をすることが多かったが、時には村から出て、平原や森の中で野生の獣や魔物と戦うこともあった。
「昼の森はまだいい。でも夜の森には絶対入るなよ。夜は昼の10倍危ない。森はそういうもんだ」
 ローガンはそう言った。サリナはその言いつけを堅く守った。
 夜の森が危険である理由はいくつかあった。ひとつは、入った自分の視界が著しく制限されること。手灯りを持っていたとしても、昼の視界と比べれば極端に狭い範囲しか見通せない。またひとつは、夜行性の獣や魔物が徘徊していること。夜行性の生物は、当然のことながら夜目が利く。自分は見えず、敵は見える。これほど危険なことは無い。
 そして今ひとつ、夜の森の恐ろしい点がある。それは、夜の森に棲む狩人たちの静謐性だ。
 昼とは違い、夜は活動するものが少ない。そのため、昼よりも夜のほうが音も少なくなる。多くの生き物は、音で敵の接近を知る。だが昼は様々な生物の動く音や声などがあり、小さな音は掻き消されてしまう。そのため、狩りをする者は標的への接近の際、多少の音であれば立てても問題が無い。
 だが夜はそうはいかない。周囲の音が少なく、そのせいで自分の立てる音がよく響く。
 標的も眠っていることが多いとはいえ、もしも起きていれば、接近に簡単に気づかれてしまう。それに、野生の獣や魔物は気配には敏感だ。僅かな物音が、狩りの失敗に繋がることも多い。
 だから夜の森に棲む狩人――猛禽や牙獣などの野生生物も魔物たちも、極めて静かに動く術を身につけている。それは特殊な羽根によって空気抵抗を極端に減らすことであったり、音の立ちにくい毛並みを持つ脚で体重を上手く制御して歩くことであったりする。
 修行時代に身に付けたその知識を、サリナは仲間たちに語った。さすがにアーネスやカインはそうしたことを知っていたが、他の仲間たちはそうではなかった。
「明かりはどうする?」
 周囲を警戒しながら、フェリオが言った。明かりがあれば視界は広がるが、魔物などに自分たちの位置を教えているようなものだ。それは危険ではないかと、彼は考えているのだった。だが、どちらにすればいいのかは判断がつかなかった。
「灯しましょ」
 アーネスは即座にそう答えた。それにカインが続ける。
「明かりがあっても無くても、あいつらは俺たちに気づくさ。だったらせめて、接近に気づけるほうがいい」
 夜の森は、異物に敏感に反応する。分け入ったサリナたちに、狩人たちは既に気づいているだろう。カインの言葉は、そういうことを示していた。
「でもどうすんだよ。ランタンなんて持ってねーぞ」
 やや不安そうに周囲を警戒しながら、クロイスがそう言った。彼は既に、短剣を両手に握っていた。
 彼の指摘したとおり、明かりを灯そうにも道具が無かった。さすがにこの真夜中に森へ入ることは想定していなかったので、通常の手灯りを持ってはいなかった。
「私がなんとかしましょう」
 しばらく考えたのち、セリオルがそう言った。オクトマナロッドを取り出し、彼は呪文を唱えようとした。明かりを灯すための魔法というものは存在しないが、炎属性のマナを操ることでなんとかなるはずだった。
「いや、俺がやるよ。セリオルのマナは温存するほうがいい」
 だがセリオルがマナを練り始める前に、申し出た者があった。フェリオだった。
「どうすんだ?」
 クロイスが興味をそそられたように質問した。フェリオはそれににやりと笑ってみせた。
「これでも技師のはしくれだからな。どうとでもなるさ」
 手短にそう答え、フェリオはその場に工具箱を広げた。腰に提げた道具入れから、ドライバーなどの道具を取り出す。
「えっ、ここで何か造るの?」
 サリナは信じられない思いだった。そんな時間があるのだろうか。心配そうなサリナに、フェリオは苦笑しつつ答える。
「まあ見ててくれ。セリオル、少しの間だけ照らしてもらえるか?}
「え、ええ」
 セリオルもフェリオが何を造る気なのか想像出来ず、曖昧に答えつつ再び杖を翳した。短い呪文を唱えると、杖の先に炎が凝縮したような、明るい塊が生まれた。極力マナの消費を抑えた、一時的な照明だった。
 フェリオはその光の下で、驚くべき速さで作業を進めた。工具箱には、そのために用意したのかと思えるほどの材料が揃っていた。フェリオはそれらの金属材料を組み合わせ、マナストーンを組み込んだ。炎と風と雷、そして力のマナストーンだった。
「雷と動力にして、炎を動かす。力がそれを増幅する。風は移動に……」
 仲間たちに説明するというよりは、自分の発想を確かめようとするかのように、フェリオは小さく呟きながら作業を進めた。仲間たちはフェリオの手元がほとんど見えないように感じた。それほどフェリオの作業は手早く、正確だった。
 そしてそれは出来上がった。フェリオがスイッチを押すと、雷のマナを漏らしながらブーンと低い駆動音のようなものを響かせ、その小さな機械は宙へ浮き上がった。そして人間の身長よりやや高い位置で止まると、内部の装置が回転し始め、それに伴って炎のマナの輝きが生まれた。
「わあっ!」
 その出来栄えに、サリナは驚いた。小さな機械が生んだ光はサリナたちの立っているところよりも少し広い範囲を照らした。太陽の光ほどとまではいかないが、視界を確保するには十分な明るさだった。
「ふう。なんとかなったな」
 立ち上がり、フェリオは自身の作品を見上げた。問題無く動いたようだった。
「おいおいおい、すげえじゃねえかフェリオ! さっすがだなあ!」
 カインは弟を手放しで褒めた。カインだけではなかった。仲間たちは一様に、たった今この場で生まれた、奇跡のようなマナ装置を、感嘆の声とともに見つめた。
「素晴らしい……フェリオ、なんて素晴らしいんだ、君の発想は」
 フェリオ自身が研究者として尊敬するセリオルも、そう賛辞を述べた。これにはフェリオも照れたようで、謙遜の言葉を口にしながた頭を掻いた。
 マナライト・システムと、その装置は命名された。空中をふわふわと漂い、サリナたちの進むのに合わせて移動を開始する。ソレイユはマナライト・システムと並んで飛び、その不思議な機械を興味深そうに観察していた。
 明かりはやはり、夜行性の獣たちを呼んだ。だがさすがに、単独で襲いかかってくるものは無かった。彼らもマナライト・システムの発する不自然な光を警戒していた。
 だがやがて、周囲の気配の数が増えていった。獣や魔物が集まり始めたのだ。気配を隠す様子も無く、むき出しの殺気を放ってくる。闇の中で標的を狙うのとは違うことを、彼らも理解していた。
 襲いかかってきたのは、森の中では定番とも言える4足の獣や、それがマナによって魔物化したビースト族が多かった。ビースト族の中には凶悪な角や爪、牙が発達したものがいて、暗闇の中からマナライト・システムの光の中に飛び込んでくるそれらを回避するのに、サリナたちは神経を使った。
 周囲に溶け込むように姿を隠す爬虫類が魔物化したリザード族や、その身体を大きく発達させた昆虫であるバグ族、動物のように自らの意志で動き回る植物のプラント族などの魔物も出現した。その数はなかなかに多く、カインがストリングや獣ノ箱を使って手早く脅威を減らしていった。
 集局点でもないのに、魔物はそれなりに手ごわかった。ウンブラ村のエッラが、かつてこの森のマナは涸れたと言っていたが、サリナには信じられなかった。十分に濃密なマナが満ちていて、それが魔物たちの力となっているのは明白だった。
 アイリーンは獣や魔物に怯まなかった。それどころか、意外にも戦闘の場で活躍を見せた。
 チョコボはこの地上で最も速く走る生物だ。そのため、当然のことながら脚力は相当なものだった。ただ、チョコボは争いを好まない鳥なので、その戦う姿というのは滅多に見られるものではない。だがアイリーンは状況を理解し、サリナたちの助けとなるべく戦った。
 その大きな身体の体重が乗った、抜群の脚力を誇る下肢によって繰り出される蹴り攻撃と、大きく強固な嘴によって繰り出される突っつき攻撃は、野生生物たちの十分な脅威となった。
「アイリーン、けっこうやるね!」
 愛鳥と共に戦えることが嬉しくて、サリナの声が少し弾んだ。
 鬱蒼とした森の獣道を進むのは骨が折れた。アーネスが先行して剣で下草を払ってくれていたが、それでも歩きやすいとは言えない。サリナたちは歩きにくい足元と襲いかかる敵とに悩まされながら、ゆっくりと進んだ。
 手がかりがあるわけではなかった。そのため、ひとが進んだ痕跡を探しながらサリナたちは進んだ。少なくとも、この森の中へ、幻獣研究所の研究員たちは徒歩で向かったはずなのだ。王都からこの近くまでは飛空艇等の移動手段を使っただろうが、森の中に着陸するわけにはいかなかったはずだ。
 歩きにくい道を進むうち、アーネスが足を止めてしゃがみこんだ。後ろに続くサリナたちも、同時に足を止めた。
「……このあたり、歩けるようになってるわね」
 アーネスが告げると、サリナたちはにわかに活気付いた。それは研究員たちが進めるように手を入れた証拠に間違いなかった。
「そろそろ近いのでしょうか」
 期待を込めた声のシスララに、しかしセリオルはかぶりを振った。眼鏡の位置を直す。
「そうとは限りません。ただ、入り口からの方角的に判断して、進むべき方向は見えましたね」
 肩を落としかけるシスララに、セリオルはそう補足して微笑みを向けた。シスララの表情が明るくなる。
 だが、その希望的観測は、容易く裏切られることになった。
「あれ……」
 ある程度進んだところで、再びアーネスが足を止めた。
「どうしました?」
 訊ねたセリオルを、アーネスは振り返る。
「……道が消えたの」
「え?」
 そんなことがあるはずがないと、セリオルはアーネスの隣へ行った。だが確かに彼女の言うとおり、草が払われて人間の通りやすくなった道が、ぷっつりと途切れていた。
「そんな馬鹿な……」
 ここまでの道は、明らかにひとの手の入ったものだった。ハイドライトへ続くこと以外、考えられない。まさかゼノアが先回りして、彼らを迷わせるために偽の道を造ったとも思えなかった。
「えーなんだよー。行き止まりってこと?」
 クロイスの苛立ちを含んだ声に、しかし答える者は無かった。少年は口を尖らせてぶつぶつ言いながら、足元の石を蹴った。
「仕方無い。戻ろう。どこかで分かれ道があったのかもしれないし」
 フェリオがそう言って、仲間たちはそれに従った。
 だが身体を反転させて進もうとした、その時だった。
「待ってください」
 サリナの声が響いた。彼女はひとりだけ振り返らず、さきほどの行き止まりを見つめていた。
「どした? サリナ」
 訊ねるカインに答えず、サリナはじっと行き止まりに生えている木々を見つめている。仲間たちは怪訝そうに顔を見合わせ、首を捻った。
 だが、彼らは知ってもいた。サリナの人並み外れた能力を。特にマナに関することを感じ取る力は、図抜けているのだ。
「ここ、何かあります」
 しばらくの沈黙の後、サリナはそう言った。仲間たちがざわめく。
「クエ!」
 サリナの傍らで、アイリーンも声を上げてその小さな翼を僅かに羽ばたかせた。
「アイリーンも感じる?」
 サリナはその大きな嘴を肩の上に抱くようにして、腕を下から回した。アイリーンはサリナに顔を摺り寄せ、頷くような仕草をした。
「シスララ、ライブラジグをお願いできますか」
 聖獣の森でまやかしを打ち破ったマナの舞を、セリオルが要求した。シスララは頷き、扇を取り出す。サリナとアイリーンが場所を開け、シスララは一行の先頭に立った。
「花天の舞・ライブラジグ!」
 シスララの舞がマナを集め、風に乗るようにして光が広がっていく。光はサリナたちの目に宿り、新たな視界を与えた。
 森は幻だった。サリナ彼らが行き止まりだと思ったその場所は、まさしく幻獣研究所の研究施設、隠されし影の機関、ハイドライトの入り口だった。森の中に突如として、地下へと誘う入り口と階段が現われたのだった。
 だが、その入り口には光の壁が張られていた。玉蟲色のその壁は、侵入者を拒む、見るからに強固なマナの結界だった。