第147話

 けたたましい警鐘が頭の中で鳴り響いている。全身の肌が粟立つ。背中を不快な、無数の小さな蛇が這うような感覚が走る。気持ち悪い汗が噴き出る。本能が告げる。あれは危険だと。今すぐ攻撃し、無力化しなければならないと。
 だが、サリナは動けなかった。ただぽかんと口を開け、ガタガタと震える身体をどうすることも出来なかった。視界の焦点が上手く定まらない。上体を起こしてはいるが、身体のどこにも力が入らない。頭が働かない。ただどうしようもない恐慌だけが、彼女を支配していた。ソファの傍らに座ったアイリーンが、気遣わしげにサリナを見つめている。
「シャイニー・スパーダ!」
 カインが獣ノ箱を解き放った。聖なる滝で捕らえた陸蟹は、青白い炎と化したその大きな爪を繰り出した。湾曲した剣のような爪が襲いかかる。
 その攻撃を囮にして、カインはその場を素早く退いた。仲間たちの許へ戻る。
「カイン……」
 予想通り、陸蟹の攻撃はほとんど効果が無かった。薄紅色の光を纏う者は、腕のひと振りで炎の蟹を掻き消した。人間とはまるで違う動きだった。関節など無いかのように、その者の腕はしなった。カインは自分の得物に目を遣った。鞭の動きに似ていた。
 呼ぶともなく彼の名を口にし、それきりアーネスは何も言えなかった。
 カインは、その顔にびっしりと汗を浮かべていたのだ。
「……くそっ」
 初めてのことだった。あの黒騎士と対峙した時でさえ、こうはならなかった。
 震えの止まらない右腕を、カインは左手できつく握った。爪が食い込んで痛みが走ったが、それでも腕の震えが止まらない。彼は悪態をつき、部屋の入り口に佇む者を睨んだ。
「守りを!」
 アーネスの凛とした声が響いた。その声が、仲間たちの意識を引き戻した。守りを。そうだ、守りを固めなくては。クロイスは、シスララは、武器を手にした。
「来たれ地の風水術、岩壁の力!」
「花天の舞・ウォールジグ!」
「裏技・忍び足!」
 風水術によって招かれた地のマナが壁となり、仲間たちを守る。マナの舞は味方への攻撃が逸れるよう力の流れを生み出した。独特のステップで刻まれたマナは、仲間たちの回避の技術を向上させる力となった。
「サリナ、大丈夫か、サリナ」
 3人がひとまず守りの術を施したのと同時に、フェリオはソファの上のサリナを抱きかかえていた。アイリーンも大きな身体で素早く動き、サリナに付き添った。
「あ……あ、ああ……あ……」
 その腕の中で、サリナは小刻みに震え、しきりに首を振っている。見開かれた瞳には涙が溜まっていた。フェリオの服を強い力で握り締め、決して離さないでくれと懇願しているようだった。
 顔をしかめ、フェリオはひとまず、腕の中の少女を隠した。あの光を纏う者が見えないところへ。視界にあれが入らないだけでも違うのではと思った。
「サリナ……」
「ふぇ、ふぇり、お……」
 状況は、理解しているようだった。ただ恐怖に縛られ、動けないのだ。サリナは身体を小さくし、瞳も手もぎゅっと閉じて、ただフェリオに縋っていた。そうすることで自分を保とうとするかのように。
 朽ちた砂牢の時とは違う。あの時のように、サリナは自分を忘れてはいなかった。彼女は彼女の意識を持ったまま、フェリオにしがみついていた。自分を支配する恐怖と、必死に戦っているのだ。
 何が起きているのか、フェリオにはわからない。ただ腕の中の、怖れに震える少女を抱き締める。
 いや……とフェリオは考え直した。わかっていることがあった。サリナが、あの光を纏う者を恐れているということだ。
 その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。それが不気味だった。
 白い双眸に、瞳は見えなかった。そういう目なのか、あるいは白目を剥いているのかもわからない。そもそも、人型ではあるが人間ではありえないのだ。それが目であるのかどうかも、本当のところは不明だった。
 いずれにせよ、人間であれば両目にあたるものを、それは彼らに向けていた。
「セ、セリオル、おい、ありゃあ一体、何だ」
 油断無くそれを見据え、カインは傍らに立つセリオルに訊ねた。一瞬たりとも目を離せない。それだけの危険な気配を、それは放っていた。
 セリオルは、何も答えなかった。ただ、彼は静かにかぶりを振った。
 突如、それは身を屈めたと思うと跳躍した。長い髪が広がり、すぐに降下する。獣じみた動きで、それは部屋のテーブルの上に飛び乗った。
 カインたちは即座に反応して、テーブルから距離を取った。得体の知れない恐怖が、痺れるような感覚となって襲ってくる。
「弓技・乱れ撃ち!」
 仕掛けたのはクロイスだった。
 弦に番えられた5本の矢が放たれる。水のマナストーンから力を得た矢が、3連続で放たれた。弦の引き絞られるところも見えないほどの早業だった。
 だが敵の反応も速かった。クロイスの神速の矢は振られた腕によって、さきほどのカインの攻撃と同様にその力とマナを失い、ばらばらとテーブルの上に落ちた。そんなことが出来る距離ではなかった。だが敵は、それをやってのけた。
「はあっ!」
 大きな裂帛の声を上げ、アーネスがディフェンダーでなぎ払いを仕掛けた。声を上げたのは、敵への威嚇のためではなかった。それは自らを奮い立たせるためだった。
 敵は俊敏に跳躍し、アーネスの斬撃を回避した。そしてそのまま、重力など無いかのように天井へへばりつき、獣が獲物を爪で切り裂く時のような動きで腕を振った。
 マナの刃が高速で降ってきた。アーネスはそれを、身をよじってかろうじて回避した。刃はテーブルをバターのように切り裂き、床を穿って消えた。
「デッドハリケーン!」
 ソレイユが飛び、天井へ迫った。その小さな身体に持つ鋭い爪と牙が、敵に襲いかかる。敵の周囲を高速回転で撹乱しつつの攻撃を仕掛けたソレイユだったが、光を纏う者がその口から放った光線に邪魔をされ、失敗に終わった。
「青魔法の漆・針千本!」
 ソレイユが気を引いた隙を突こうと、カインが印を結んだ。無数のマナの針が現われ、高速で飛んだ。敵は、耳をつんざくような声を上げた。それが音の壁のようなものとなって、カインの針を防いだ。その不快な声はカインたちの鼓膜を叩き、耳鳴りを起こさせた。
 それによって僅かに動きを奪われた。敵はそこを突いてきた。
 さきほど鋼鉄の扉を溶かした光線を、敵は放った。天井に蜘蛛のように張り付いて首だけをこちらへ向け、その口から。そのおぞましく不気味な姿に、カインは恐怖を覚えた。
 だがそれよりも早く、彼は行動していた。あの攻撃は鋼鉄を溶かした。生半可な防御で防げるものではないことはわかり切っていた。
「青魔法の玖・アクアブレス!」
 蒼霜の洞窟でラーニングした青魔法を、カインは放った。それは水のマナの奔流だった。拡散する水のマナが、シスララのウォールジグの効果と相乗し、光を纏う者の放った光線を歪めた。マナの光は屈折し、あらぬ方向へ飛んで部屋の壁を破壊した。
 天井へ張り付いたままの敵は、不思議にでも思ったのか、首を捻っていた。
「魁風よ。天より降り来る風神が戒めなりと仰せし暴威――エアロ」
 そのマナは瞬時に練り上げられた。そして首を捻っていた光を纏う者に襲いかかった。風の渦は恐るべき力の顕現となって敵を捕えた。悲鳴が上がった。
 そのたった一撃で、勝負は決まった。セリオルの放った黒魔法が、光を纏う者の姿を消し去った。彼の者はマナの粒となって霧散した。あっさりと、部屋に静寂が戻った。
「……当てることさえ出来れば良かったのね」
 ディフェンダーを鞘に戻しながら、アーネスは呟いた。攻撃と回避、防御に長けた敵だったが、耐久力そのものはほとんど無かったのだ。
「あ、サリナ」
 クロイスの声だった。仲間たちが一斉に振り返る。
 フェリオに支えられ、サリナが立っていた。アイリーンが心配そうな声を出す。両目が真っ赤だ。誰が見てもわかる、泣いた後だった。
「サリナ、大丈夫?」
 アーネスとシスララがすぐに近くへ行った。小柄なサリナの顔を覗きこむようにして、ふたりは寄り添った。フェリオが場所を譲り、代わりに彼はセリオルの近くへ行った。
 唯一、セリオルはこちらを振り返っていなかった。あの敵を葬ったまま、部屋の入り口のほうを向いて立っている。
 意外なような、当然なような――セリオルがサリナを見ていないことが、そのどちらでもあるように、フェリオは感じた。
「セリオル」
 呼ばれたことには気づいたはずだった。だがセリオルは振り返らない。フェリオの声が聞こえなかったかのように、身動きひとつしなかった。フェリオは苛立った。いつもは誰よりも早くサリナのことを気遣うこの男が、今はまるで興味が無いかのようだった。
 カインは黙って、弟とセリオルの様子を見ていた。サリナにはアーネスとシスララがついているのでひとまず大丈夫だと、彼は考えた。
 名を呼んでも答えないセリオルに、フェリオが顔をしかめて近づいた。そしてすぐ後ろまで行き、弟はもう一度セリオルを呼んだ。それでもセリオルは、反応しなかった。立ったまま意識を失ってでもいるかのようだった。
 ついにフェリオは痺れを切らし、セリオルの前へ回った。そして正面から、長身の魔導師を睨み付け――ようとした。
「なっ……」
 だがその前に、フェリオは言葉を失った。2、3歩、彼は後ずさった。それがカインには不思議だった。フェリオは、何かに驚愕したようだった。カインは素早く、弟の横へ移動した。そして同じように、セリオルを見た。
「セリオル、さん……」
 かぼそい声だった。アーネスとシスララのふたりに支えられて、歩み出たサリナだった。少女は俯き、悄然としていた。何かに傷付けられ、力無く肩を落とす、そこにいるのはただの少女だった。
 それでも、セリオルは振り返らなかった。彼は妹を見ず、前だけを向いていた。
「さ、さっきのは、何だったの、セリオルさん……」
 サリナの声は小さい。悲しみに満ちた響きだった。セリオルは振り返らない。
「ねえ、セリオルさん……さっきのは……」
 サリナは顔を上げない。セリオルを見ることが出来ないように、クロイスには見えた。少女は何かに苦しんでいた。それが何なのかわからず、クロイスには何も出来なかった。両脇に寄り添うアーネスとシスララも同じだった。ただ彼女らは、小さくサリナの名を呼び続けていた。そうしていないと、この小柄な少女が、どこかへ行ってしまうような気がした。
「さっきのは……セリオルさん、さっきのは……」
 その栗色の瞳が、再び涙の膜に覆われた。膜はすぐに折り畳まれ、下瞼の上に溜まった。睫毛が揺れる。懸命にこらえようとしたが、抑えることは出来なかった。涙は瞼の堤を越え、頬を伝って流れ落ちた。
「さっきのは……私、だったよ」
 衝撃が走った。誰も、サリナの言葉の意味が理解出来なかった。
 ただ、不意に、カインとフェリオは悟ったような気がした。明確な像を描けたわけではなかった。ただ彼らは見ていた。部屋の入り口を見据える、セリオルを。その面に浮かんだ、鬼神が如き烈しい表情を。

 カスバロ・ダークライズはゼノア・ジークムンドの部下である。彼は優秀な研究者で、これまで多くの研究においてゼノアの助けとなり、補助となってきた。彼はゼノアの思想に共鳴し、その目的達成のためには、自らにとってのあらゆる犠牲を厭わない男だった。
 彼には妻も子もあった。しかし家族は彼の許を去った。ある日、久方ぶりに帰宅した彼を待っていたのは家族の姿ではなく、1通の置手紙だった。それには簡潔に、彼に対する不満と、これ以上待てないという旨が記されていた。
 彼は後悔した。あまりにも研究に打ち込みすぎ、ゼノアの理想を実現するために時間を使いすぎたと。彼は決して、家族を愛さない男ではなかった。妻を愛していたし、その妻との愛の結晶である幼い子どもたちのことも愛していた。彼の稼ぎは決して小さくはなかったので、家族は十分豊かな暮らしが出来ていたはずだった。だがその暮らしを捨てても、家族は彼の許を去った。
 一方で、彼は喜びを感じている己を発見してもいた。
 家族への愛は、足枷でもあった。それを彼は、数年前から感じていた。研究のための時間が足りない時、家族がいなければもっと自由に時間を作れるのにと、彼は考えた。だが家族を愛する彼には、自分から家族を捨てることは出来なかった。
 その必要も無く、家族は自ら去った。これで、自分のための時間を自由に使うことが出来る。もう二度と家族に会うことが出来ないかもしれないという悲しみと一緒に、彼はそのことに喜びを感じてもいた。
 カスバロ・ダークライズとは、そういう男だった。
 今、彼は薄暗い研究室で、“素体”をいじくっていた。“素体”はマナを奪い尽くされ、色を失って沈黙し、ただ横たわっていた。
「くひひひひ……」
 実験台の上の“素体”をいじくりながら、カスバロは満足そうな笑みを浮かべる。彼がゼノアの下で身を粉にして進めてきた研究が、いよいよ日の目を見ることになるのだ。笑いを抑えろというのは無理な相談だった。
「ありがとうございます、所長」
 彼はその装置へ目をやった。複雑そうな機構の装置で、大人の人間が出入り出来る入り口らしきものがぽっかりと開いている。彼はさきほど、その装置から出て来たのだった。
 カスバロは、ゼノアのあの怜悧な目を思い出した。
 彼は、ずっとゼノアの信奉者だった。有能だが決断力の欠如した前所長、エルンスト・ハートメイヤーのチームにゼノアがいた時から、彼はゼノアこそが幻獣研究所を高みに導く者だと信じていた。
 面倒なのは、セリオル・ラックスターだった。あれの優れたところは、周囲の大人たちのことごとくを味方にしてしまうところだった。実質的な能力で言えば、ゼノアの足下にも及ばないというのに、セリオルはその愛されることに恵まれた性質のため、それまでずっとゼノアよりも良い評価を受けてきた。
 おかげでゼノアは、セリオルの陰に隠れてしまっていた。カスバロはそれが口惜しくてならなかった。しかもゼノアは、そのことを取り立てて騒ぎはしなかった。彼は自分よりも劣っていながら、評価だけは高いものを受けるセリオルを、いつも賞賛していた。カスバロには、そのことがこの上なく尊いことに思われた。ゼノアの謙虚さ、自分が味わうことの無い友の成功を讃えるその素直さが、彼には眩しかった。
 だから、エルンストとセリオルが謎の失踪――カスバロはあのふたりが研究所の成果を盗んで私用目的で利用しようとしたのだと推測した――を遂げ、セリオルばかりを持て囃したルーカスとレナの夫婦が実験の事故で命を落とした時、カスバロは密かに喝采を上げたのだった。
 それ以来、彼はゼノアのすぐ傍にいた。ゼノアが若くして研究所所長に就任した時、最も近くでそれを祝ったのも彼だった。
 近くへ来て、彼はなおゼノアに心酔していった。その掲げる崇高な目標を聞かされた時、彼はそのあまりの素晴らしさに涙した。彼よりも随分若いゼノアが、これほど世界のことを考えていたとは。彼の考えこそ、幻獣研究所が目指すべき世界の姿だった。
「これを使って、奴らを……くひひひひ」
 実験台の上には、“素体”が横たわっている。彼はそれに、少々の細工を施した。それがゼノアの命令だった。
 ハイドライトに、セリオルたちが来ている――ゼノアは彼にそう伝言した。それを聞いた時、彼は全身の血が沸騰するのを感じた。火事の炎よりも激しい怒りが、彼を貫いた。
 セリオルが生きていた! そして性懲りも無く、ゼノアの研究を横取りしようとしている!
 想像しただけで、脳の血管が切れそうだった。彼は怒りにその身を震わせた。
 ゼノアは、素晴らしい決断をした。この“素体”のマナを使ってセリオルたちを討つことを、彼に命じたのだ。彼は怒りと同じくらいの大きな喜びに満たされた。ゼノアの宿敵、あの憎きセリオルを、この手で討てるとは!
「ああ、ご心配なく、所長。“サリナ”はきちんと無事で、お届けしますよ」
 まるでそこにゼノアがいるかのように、カスバロは部屋の隅の装置に目を向けた。ぽっかりと開いた入り口の中は、真っ暗な闇に満たされていた。

 ばたばたと忙しない足音が近づいてくるのを、ゼノアは聞いた。ちょうど実験が終わったところだった。彼は注射器やシャーレなどの器具を掃除し、片付けを終えていた。淹れたばかりの紅茶のポットを手に取る。
「所長、失礼します!」
「うん」
 入ってきたのは、さきほどの部下だった。大方、カスバロの件が無事に済んだことの報告だろう。ゼノアはポットからカップへ紅茶を注いだ。
「所長、ダークライズ主任の転送、さきほど無事に完了しました」
「うん、わかった。ありがとう」
 答えながら、ゼノアは部下に向かって微笑んだ。まだ彼が名前を覚えていない男だ。ということは、まだ彼はそれほど目立った研究成果を挙げてはいないのだろう。ゼノアは成果を挙げた者の顔と名は覚えるようにしていた。
「あの、所長……」
「ん?」
 部下がまだそこにいたことに多少の驚きを感じつつ、ゼノアは顔を上げた。彼がありがとうを言えば退出するのが、研究員のほとんどだった。その言葉を受けたことで満足するのか、あるいは褒められた気にでもなるのか、それともゼノアが恐いのか、そのどれであってもいいと、ゼノアは思っていた。興味の無い事柄だった。
 その部下の男はややまごつきながら、ゼノアを見ていた。口を開いていいものかどうか、判断しかねているような態度だった。
「なんだい、言ってごらん」
 ゼノアは自分が研究員たちから恐れられていることを知っていた。それが彼の、情に左右されない――というよりは情を見せない――人事判断や、切れすぎる頭脳のためであることはわかっていたが、そのこと自体は彼の望むところではなかった。だから彼は、研究員たちと話す時は極力柔らかい表情を浮かべることを意識している。
「その……差し出がましいようですが」
「うん」
 ひと口、l紅茶を含む。良い道具で淹れたものではないので、自室で飲むものには程遠い。だがそれでも葉が悪くないので、良い香りが鼻腔をくすぐった。ゼノアがカップを置くのを待って、部下は口を開いた。
「ハイドライトの件……ダークライズ主任おひとりで、大丈夫なのでしょうか」
「ああ、そのことか」
 部下の懸念に微笑みで答え、ゼノアは立ち上がった。白衣を脱ぐ。彼はそれを、部屋の隅に置いてある衣類掛けに吊るした。
「いいんだ、それで。彼ひとりで十分だよ」
「そう、ですか……失礼しました」
「うん、いいよ」
 納得し切ってはいないようだったが、部下は頭を下げて退出した。ハイドライトが心配なのだろう。一般の研究員には、研究所の重要機密事項として認識されている施設だ。
 ゼノアはぐっと伸びをしながら、カスバロのことを考えた。
 そういえば、彼はこれまでどんな功績を出してきただろう。記憶を手繰ってみる。自分が顔と名前を覚えているということは、それなりに成果があったはずだが……・。
 だがどれだけ思い出そうとしても、カスバロが挙げた功績は思い出せなかった。そこで彼は、どうして自分がカスバロの顔と名前を覚えているのか、その理由を思い出そうとした。
 そちらは簡単な作業だった。
 どういうわけか、カスバロは四六時中、自分の傍へ来たがったのだ。あまりに頻繁に顔を合わせるので、ほとんど強制的に顔と名前が記憶に入ったのだった。それ以外に理由が思いつかなかった。そしてそのことに納得し、ゼノアは満足げな笑みを浮かべた。
「うん、やっぱり間違ってないな。カスバロひとりで十分だ――捨て駒は」