第148話
会話が途絶えてどれくらいだろうと、クロイスはぼんやりと考えていた。 セリオルは、何も語らなかった。彼は口を開かず、休憩部屋にあったデスクの引き出しを開け、そこに入っていたカードを取り出した。クロイスにはそれがなんのための道具なのかわからなかった。樹脂と金属の間のような光沢を持つ、硬そうなカードだった。 施設内の扉の多くを、セリオルはそのカードを使って開いた。カードを持つ者しか通ることの出来ない扉が、いくつもあった。扉の脇に設置された装置の溝にそのカードを通すと、装置が作動して扉を開く仕組みになっているようだった。 仲間たちが目に入らないのかと思うほど、セリオルは徹底して無言だった。フェリオの詰問にも、アーネスの問いかけにも、一切答えなかった。静かに涙を流すサリナにすら、彼は反応しなかった。 セリオルが纏っているのは、複雑な感情の気配だった。怒りであり、悲しみであった。あるいは自責であり、憎悪でもあった。 合成獣や機械兵は絶え間なく襲ってきた。だがセリオルが揮う圧倒的なマナの力の前に、彼らはなす術も無く砕け散った。 セリオルは恐ろしく強かった。マナの消費量には目もくれず、彼は強力な魔法を次々に繰り出し、出現する敵を粉砕した。エーテルと、エレノアから教わった香草のひとつ、恵みの香草を調合したマナ薬“エーテルドライ”を飲みながら、彼は魔法を詠唱し続けた。 仲間たちの出る幕はほとんど無かった。全てを破壊しようと思っているかのような、セリオルの起こすマナの嵐。放たれる魔法の威力や轟音に対して、セリオルの声はごく低く、小さかった。 仲間たちはほとんど手出ししなかった。あまりに激しく吹き荒れる魔法の前に、手出し出来なかったし、する必要も無かった。途切れることの無いマナというのはこれほどの破壊をもたらすのかと、クロイスは空恐ろしいものを感じていた。 フェリオも無言だった。ただし彼の場合は、苛立ちの余り、押し黙っているというのが正しかった。 彼は何度も、セリオルに問いかけた。だがその全てを、セリオルは無視した。いや、文字通り、目にも映らず耳にも入らなかったのかもしれない。そう思わせるほど、セリオルの様子は鬼気迫っていた。 そんな弟を横目で見ながら、カインは小さく嘆息した。 弟の気持ちはよくわかった。セリオルはあの光を纏う者についてきちんと見解を述べるべきだったし、その後どう行動するのかを話すべきだった。今のセリオルはただ、目の前に出現する敵をなぎ倒しながら進むだけの、戦闘兵器と化していた。 雷光の魔法に打たれて機能を停止した機械兵に、むっつりと顔をしかめたフェリオが近づく。彼は腰に提げた工具で手早くそれを分解し、利用できそうな部品を回収した。意外に冷静さを保っていた弟に、カインは内心驚いた。 カインは仲間たちの様子を確かめた。いずれも複雑な表情を浮かべ、成り行きを見守っている。こんなセリオルを目にするのは初めてで、誰もがどうしていいのか判断をしかねていた。アイリーンですら声を潜め、戸惑っているようだった。サリナは、悲しげな顔で俯いている。カインは嘆息する。 「……おいセリオル」 だがその声が、カインの心臓に冷たい刃を差し込んだ。ぎくりとして、彼は声の主を振り返った。 フェリオは、銃を構えていた。彼の最も基本とする武器の形、長銃。カインナイトを使った冷却装置と高性能火薬の力で、その威力は飛躍的に向上している。フェリオはその武器を、アズールガンと呼んでいた。それが出来た時の嬉しそうな弟の顔が、ふとカインの脳裏をよぎる。 今、彼の弟は怒りを隠そうとせず、厳しい顔で銃を構えていた。 「セリオル!」 だが、彼の呼び声に、呼ばれたほうは応えない。 ただセリオルは、動きを止めた。敵の姿は消えていた。彼の戦闘は終わったところだった。しかし前を向いたまま、彼はフェリオを振り返ろうとはしなかった。 フェリオの舌打ち。クロイスやアーネスが、心配して声をかける。だがフェリオもセリオルも、それを無視した。カインは頭を掻いている。 フェリオは、銃の狙いを定めた。彼は相手の足元を狙った。威嚇射撃を行えば、さすがに反応するだろう。血の上った頭で、フェリオはそう考えた。無理矢理にでもこっちを向かせてやる。彼はスコープに目を当て、引き金に指を掛けた。仲間たちの悲鳴のような声。彼は構わなかった。 左頬に、激しい痛みと衝撃が走った。 何が起きたかわからず、フェリオは視界に散る星を見ていた。そのきらきらとした星の遊ぶ景色が、ぐらりと揺れる。気づけば彼は、銃を取り落とし、激しく床に倒れて、強かに打ちつけられていた。 「カ、カイン!」 誰かが兄の名を呼んだ。フェリオはぐらぐらと揺れる視界をはっきりさせようと、頭を振った。なかなか言うことを聞かないが、とりあえず何が起こったかは把握出来た。左頬には激痛が走っている。口の中に、血の味が広がっていた。 彼は、殴り倒されたのだ。彼の兄に。 呆然として、フェリオは顔を上げた。幼いころに兄弟喧嘩をしたことは、何度もあった。だが両親が亡くなってから、それは一度も起こらなかった。彼はもうずっと、兄に殴られたことなど無かった。 予想に反して、カインはフェリオを見てはいなかった。 フェリオは兄の動きを目で追った。兄は、自分のほうには目もくれず、セリオルのほうへ行った。 さすがに驚いたのだろう。セリオルは振り返っていた。何が起きたのか、まだわかっていない顔だった。 その顔に、カインの拳が叩き込まれた。 サリナの悲鳴が上がる。クロイスとアーネスの怒鳴り声。ふたりはカインを止めようと、飛び出した。 だがそのふたりに向けて、カインは顔は動かさずに、大きく開いた手のひらを向けた。来るな、とその手は語っていた。ふたりは動きを止めた。カインが冷静であることを、彼らは瞬時に悟った。これ以上やるつもりは無いことを。 セリオルは、後方に倒れて尻餅をついた。その視界には、フェリオと同じように星が舞っていることだろう。きっと、彼の左頬にも激痛が走っているはずだ。口の中は血の味が広がっているに違いない。そんなことを、フェリオはぼんやりと考えた。 「……あー、痛え」 右手をぷらぷらと振り、拳を撫でて、カインはそう言った。独り言ではなく、皆に聞こえるように言ったようだった。恐らく、特にセリオルとフェリオのふたりに。そのふたりは床に座ったまま、ぽかんとしてカインを見ている。 「ったくよ……頭冷やせよ、馬鹿野郎が」 カインの声は平坦だった。だがその響きの端に、言いようの無い悲しみがあることに、サリナは気づいた。知らぬ間に、涙がひと筋、彼女の頬を伝う。 「お前らを殴らせんじゃねえよ、俺に……痛えんだからよ」 殴られたふたりは、視線を落とした。カインの言葉は、ふたりの胸に沁み込んでいった。彼の痛みは、拳のものだけではない。それよりももっと強く、痛んでいるものがあった。 それは、彼の心だった。そのことが、殴られたふたりにはすぐに伝わった。 カインは、尻餅をついたままのセリオルに近づいた。今度は誰も、止めようとはしなかった。カインはセリオルの前で腰を屈め、俯いたままの魔導師の法衣の、胸倉を両手で掴んだ。そしてぐっと引っ張り、その顔を無理矢理上向かせた。 「おい、セリオル」 呼ばれたセリオルは、焦点の定まらないような目をカインに向けていた。その虚ろな目に向かって、カインは言った。 「あんた、何やってんだよ」 口を閉じたまま、セリオルは答えなかった。構わずに、カインは続ける。 「散々暴れて気は済んだか? 癇癪起こした駄々っ子みてえによ」 言葉は辛辣だった。だが、その底には仲間への強い気持ちがあった。サリナは涙を流した。言葉では表せない思いが、彼女の胸をかき乱した。 「あんたが何を考えてるかは、この際どうでもいい。聞く気も無い。さっきの化け物じみたヤツのことも、今は横に置いとく。俺が今のあんたに求めるのは、ひとつだけだ」 そう前置きして、カインは息を吸い込んだ。セリオルの瞳は、カインが語るに連れて徐々に、その焦点をカインの顔に結び始めていた。 カインは、顔をぐっとセリオルに近づけた。至近距離でセリオルの緑色の瞳を見つめる。否応なく、セリオルの焦点がカインの瞳に合う。 「ちゃんとしてくれ、セリオル。らしくねえよ。あんたはいつも冷静で、誰よりも頭が切れて、王族を前にしても臆すことなく要求出来る胆力のある男だ。だから俺は、あんたを尊敬してる。あんたが俺たちのリーダーだって認めてる。俺が認める、いつものあんたでいてくれ」 カインの言葉が、セリオルの心に刺さる。セリオルの瞳が、光を取り戻す。その変化を見止めて、カインはセリオルの胸倉から手を離した。持ち上げられていた力が無くなって、セリオルの長身がすとんと落ちる。だが、彼は下を見はしなかった。カインは彼に背を向けた。 「……でねえと、俺たちは仲間でいられなくなる」 フェリオやサリナたちには聞こえない、小さな声だった。だがその小さな声が、セリオルの胸に、ズキンと痛みを伴って突き刺さった。 カインはセリオルから離れ、既に立ち上がっていたフェリオのところへ行った。弟は、ばつの悪そうな顔で彼を見ていた。 その弟の胸倉を、カインは乱暴に掴んだ。 「お前、何しようとしたかわかってんのか!」 怒号だった。その激しさに、仲間たちは驚いた。セリオルに向けられた声とは全く異なる、怒りを露わにした声だった。揺さぶられながら、フェリオは俯いている。 「足元とはいえ、仲間に銃口向けるたあどういう了見だ!」 カインの怒りは凄まじかった。こめかみに浮き出した血管が、サリナにも見えた。彼は本気で怒っていた。本気で、弟を叱責していた。 「セリオルを止めるなら、他にも手はあっただろうが。なんで銃を向けた。言ってみろ!」 兄に怒鳴られ、しかしフェリオは答えなかった。ただ苦しげな表情を浮かべ、彼は黙した。 「答えらんねえか。そうだろうな……お前の考えたことは、どうしようもなく身勝手なことだ。お前が言えねえなら、俺が代わりに言ってやるよ」 フェリオは目を閉じていた。兄の言葉を、甘んじて受けようという姿勢だった。彼は自覚していた。さきほどの自分の行動が、自分の何を表していたのかを。 息を吸い込み、カインはひと息に言い放った。 「お前はあの瞬間、セリオルを仲間だとは思ってなかった! 自分の思うとおりにならねえ、ただの他人だと思ってた! だから脅して、無理矢理言うことを聞かせようとした。お前がやったのはそういうことだ、フェリオ!」 サリナは――いや、彼女だけではなく仲間たち皆が、衝撃を受けていた。カインがこれほど厳しい言葉をフェリオに浴びせることを、彼らは想像したことすら無かった。 だが、その言葉は真実を得ていた。フェリオは何の反論もしなかった。仲間を、特にサリナを思う気持ちから取ってしまった行動だったが、兄の言うとおりだった。セリオルが話すべきだということよりも、サリナが悲しんでいるのがセリオルの責任であるように感じられ、感情的な行動になってしまった。 カインはフェリオから手を離した。フェリオは俯き、だらりと下げた拳を握り締めていた。 「……今度さっきみたいなことしたら、タダじゃおかねえからそのつもりでいろ」 「……うん」 短く、フェリオは答えた。カインもそれ以上は言わなかった。フェリオは床に転がったままのアズールガンを拾い、ホルスターに戻した。そして彼は、セリオルに目を向けた。 セリオルは複雑な表情で、近づいてくるフェリオを待った。そのふたりが共に、左頬を腫らしているのが妙に滑稽だった。カインがふたりを、全く同じ強さで殴ったことがよくわかった。 目の前に立ち、フェリオはセリオルに、深々と頭を下げた。パフォーマンスではなく、真摯な詫びの姿だった。セリオルが慌てて、よしてくださいと言うのがサリナたちにも聞こえた。彼の声を聞くのは、随分久しぶりであるように思えた。 ふたりは、少し言葉を交わしたようだった。ここではよく聞こえないが、頷いたり、かぶりを振ったりしている。最後にセリオルが大きく頷き、ふたりは握手を交わした。 「ちゃんと、お兄様をされていますね、カインさん」 シスララは微笑みを浮かべていた。肩のソレイユが同意するように、小さく声を出した。更にアイリーンの声が続いた。 「普段から、あれくらいちゃんとしてればいいのにね」 アーネスは苦笑していた。だが、それがカインらしいとも言えた。 「大人びてるから忘れそうになるけど、フェリオもまだ18歳なんだもんね……それらしい場面が見れて、ラッキーだったかもね」 そうアーネスは言ったが、彼女の近くにいる3人も、それぞれ19歳、18歳、16歳だ。彼らが浮かべたなんとも言えない表情を見て、アーネスはもう一度苦笑した。 クロイスは頭の後ろで手を組み、カインとフェリオを見ていた。 彼は、リプトバーグでカインと戦った時のことを思い出していた。自分の行いを正すために、容赦無く自分を叩き伏せたカイン。だがそのお陰で、彼はあのがんじがらめの苦境から抜け出すことが出来た。幼い弟、妹たちを守るため、国王に直訴することも出来た。決して口にはしなかったが、彼はカインに感謝していた。 「……へっ」 鼻をこするクロイスを、アーネスは見た。その顔にはどこか嬉しそうな表情が浮かんでいた。それを見止めたアーネスも、微笑みを浮かべる。 セリオルが杖をしまい、こちらへ来た。その向こうで、やや俯いていたフェリオの背中を、カインが激しく叩いて咳き込ませている。からからと笑うカインの声が聞こえた。 「皆、すみませんでした。私としたことが、冷静さを欠いてしまいました」 さきほどのフェリオとそっくりに、セリオルは頭を下げた。その下げた頭の上から、アーネスの声が降ってきた。 「ほんとよ。私、ここに来た目的って何だったっけって思ったわ。ここを破壊することだっけ? って」 やれやれ、というポーズをアーネスは取った。セリオルにはもちろん見えていないが、雰囲気は伝わった。彼は何も言わなかった。非難は全て受けなければならない。 「でも、ま」 年長者として、サリナたちの代弁者となるつもりなのだろう。アーネスはこう締めくくった。 「いつものセリオルが戻ったみたいだし、いいわ。とりあえず、さっきのあれが何なのか、教えてちょうだい」 緩みつつあった空気が、緊張に引き戻された。クロイスもシスララも、言葉を発さずにセリオルを見つめた。サリナは、下を向いている。 自分を取り囲む空間が、柔らかな綿でどんどん締めつけられていくような、肌寒さを感じる恐怖。それがサリナを捕えていた。 聞きたくない――聞いてしまうと、後戻りが出来なくなる予感がする。あれの正体は、自分にとってきわめて重大な意味を持つ。なんの証拠も無いが、そんな確たる予感が、サリナにはあった。 だが一方で、聞いてしまいたいという欲求もあった。聞いてしまえば、それがどんな内容だとしても、この漠然とした不安感は姿を消すだろう。楽になりたい――そう自分が願っていることにも、彼女は気づいていた。 だからサリナは、ぎゅっと目を閉じた。セリオルがアーネスの問いかけに答えるために、口を開きかけた瞬間に。 「あれは――」 ほんの一瞬、セリオルは言葉を切った。実際には、瞬き1回分ほどの僅かな時間だったはずだ。だがサリナには、そのごく小さな沈黙が、永遠に続くものに思われた。 そしてセリオルは、告げた。 「あれは、恐らく幻魔の失敗作でしょう」 その言葉が、サリナの鼓膜を震わせた瞬間、彼女は弾かれたように顔を上げた。 セリオルは彼女を見てはいなかった。彼は質問をしたアーネスに向き合っていた。それは当然のことだったし、不自然な点は特に見えなかった。 だがサリナには、それが意図して自分のほうを見ないための方便であるように思われた。その理由は、恐らくは彼女が感じた、大きな違和感のためだろう。 あの薄紅色の光を纏う者が、幻魔の失敗作―― 「そう……確かに、似たような光だったわね」 顎に手を当て、アーネスは思案顔だった。実際、あの光はよく似ていた。幻魔が纏い、幻獣も纏う、マナの光と。 「ええ。サリナが感じた自分と似た点というのは、サリナが我々の中でも特に、幻獣との共鳴度が高いために感じ取ってしまったものと思われます。私は、あれほどサリナを怯えさせたものが許せなかった。やはりゼノアの研究は、徹底的に根絶しなくてはいけない……その思いから、怒りに我を忘れるところでした。すみません」 セリオルの説明には淀みが無かった。さきほどまでずっと考えていたことだからだろう。魔法の嵐を巻き起こしながらも、彼の頭脳の一部は冷静に状況を分析していた。そのことがわかって、アーネスは安堵の息を漏らした。 「わかった。でも、気をつけてちょうだい。私から見ても、少し恐かったわよ」 「面目ない」 苦笑して、セリオルは頭に手をやった。小さな笑いが起きた。 アイリーンが小さく鳴き、サリナに寄り添った。サリナは自分に摺り寄せられた柔らかな羽毛に触れた。アイリーンは、サリナの思いを感じ取っているようだった。 サリナは感じていた。どうしようもなく大きな、それはやはり違和感だった。 違う――ただその言葉だけが、サリナの脳内で反響していた。 |