第149話

 サリナは物思いに沈んでいた。
 セリオルの言葉が、頭の中で何度も反響を繰り返している。あれは幻魔の失敗作……兄はそう言った。サリナにはそれが信じられなかった。彼女の本能とも言うべき直感が、それは違うと告げていたからだった。
 あれは幻魔の失敗作などではない。確かにその纏う光の種類は似ていた。だがあれは、人の姿をしていたではないか。幻魔はいずれも、人とは程遠い姿をしていた。それにあの合成獣たちが、幻魔誕生のための実験で生み出されたものではなかったのか。さきほどのあれは、合成獣とは全く別の存在だった。
 自分の肘を抱いて、サリナは身震いする。あれと対峙した時に感じた、鋭い悪意。あれが幻魔の、それも失敗作のものだというのか。断じてそれは無い、とサリナは、胸中で結論づける。
 それに何より、サリナが感じた、あの共鳴。自分と同じ存在――彼女はあれを前にした時、そう確信したのだ。
 だが兄は、そうではないと言う。彼があれの正体を知らないからだろうか……いや、それは違う。それは既に、さきほどのセリオルとフェリオの行動で証明されていた。セリオルは、あれが何であるか知っているのだ。知っていて、事実とは異なることを仲間たちに告げたのだ。
 胸を埋め尽くす苦しさに、サリナは呼吸さえままならない。セリオルが、嘘をついている。信じたくはないが、信じざるをえないその事実が、サリナを混乱させていた。
 これまで彼女は、セリオルの言葉を全て信じてきた。彼が自分にとって、不利益なことをするはずは無いと思っていた。彼が語らないことがあっても、それは自分のためだ。自分が未熟だからか、あるいは別の理由からか、とにかくまだ自分はそれを知るべきではない。だから、兄は語らない。ずっとそうだと思ってきた。
 だが、本当にそうなのだろうか。生まれた疑念は、仲間たちの後ろに続いて足を進めるごとに、少しずつ大きくなっていった。
 彼女は記憶を辿った。これまでのセリオルの言葉に、何かヒントは無かっただろうか。これまでにも何度か、彼はゼノアの研究についての見解を述べている。その中に、あれの正体を見極めるためのヒントは無かったか。
 ドノ・フィウメ、ローラン、ハイナン、アクアボルト、エル・ラーダ、アイゼンベルク……。訪れた先、大きな戦いのあった場所を、順に手繰っていく。そうしてずっとずっと辿って、ついに彼女はそれを見つけた。
 それはついさきほど呼び覚ました記憶の、すぐそばにあった。
 王都にほど近い美しい森の街、クロフィール。そこで眠っていたサリナが、目覚めた時のことだ。
 確かセリオルは、こう言った。ゼノアはサリナを欲しがっている。その理由は、彼女を黒騎士にするためだろう、と。
 頭の中に火花が散るような鮮烈な感覚が、サリナを襲った。黒騎士。あのおぞましく強力な敵の、彼女を素体にしようというのがゼノアの目論見なのだ。だとすれば、幼いころの自分が、このハイドライトに連れて来られ、何らかの実験を受けたということは無いだろうか……? そしてあの光纏う者は、その実験に関連して生み出された者なのでは……?
 その推測は、すぐにサリナの中で、ほとんど確信と同じものへと変化した。ハイドライトで、ゼノアは幻魔だけでなく、黒騎士を生み出す実験も行っていた。自分はここで、ゼノアに何かをされた、それも記憶に残っていないほど幼い頃に。セリオルはそのことを知っていた。だから彼は、光纏う者を目の前にして、あれほどの怒りを見せた。サリナが、おぞましい記憶を思い出すかもしれないから。
 それなら、自分が感じたあの者との共鳴にも納得がいく。同じ黒騎士の実験の影響を受けたのだから――
 そこまで考えて、サリナの全身を戦慄が貫いた。
 彼女は顔を上げた。前では、仲間たちが現れた合成獣と戦っている。彼女はフェリオによって、敵の目に晒されないところへ庇われていた。
 セリオルが呪文を詠唱している。左頬の腫れは引いていた。フェリオも同じだ。サリナがついさっき、回復の魔法で癒してやったのだ。
 敵と戦う兄を、サリナは震える瞳で見つめる。
 光纏う者は、黒騎士の実験によって生まれた失敗作……自分もかつて、その実験を受けた。もしくは、受ける寸前だったのか。
 いずれにせよ、信じたくはないことだが、さっきセリオルは――
 元は人間だったものを、消し去ったのだろうか……?
 ぞくりとした悪寒が背中を這い上がる。セリオルは、何の躊躇も無く魔法を詠唱した。サリナの推測が正しければ、セリオルは知っていたはずなのだ。あれが、人間の女性に非人道的な実験が行われた結果、生まれた者なのだと。
 でも、まさか、そんな……。
 慌てて頭を振る。そんな恐ろしい考えは、きっと間違っている。セリオルさんには、もっと深い意図があるんだ、そうに違いない。セリオルさんが、そんなことをするはずがない。あの優しくて親切で、頼りになるセリオルさんが、そんなこと……。
「サリナ、どうした、サリナ」
 自分を呼ぶ声に、卒然としてサリナは目を開けた。
 もう何度目だろう、こうしてフェリオに気遣われるのは。ここのところ、心配と迷惑をかけてばかりいる。アイリーンが長い首を折って頬を摺り寄せてくる。柔らかな羽毛が心地良い。
 気づけば、他の仲間たちも戦いの合間に、こちらの様子を気にしているようだった。こちらへさっと視線を走らせ、サリナの様子を確認している。
 パンパンと、サリナは左右の頬を両手で叩いた。戦闘前など、気合を入れる時のサリナの癖だった。それを目にして、仲間たちの顔に安堵の表情が広がる。
 その先に、セリオルの微笑みもあった。いつものセリオルだ。自分の無事を確認して、ほっとした様子だった。
「ごめんね、大丈夫」
 フェリオを見上げ、サリナは答えた。
 彼女は決めた。どうせ考えていても始まらない。これまでと同じように、セリオルを信じればいいのだ。自分にとって不利益なことがあるはずが無い。大丈夫、大丈夫だ。
「ほんとか?」
 フェリオはまだ心配しているようだった。それだけ、さきほどまでの自分の様子がひどかったということか。
「うん、ほんと。ごめんね、なんか……心配ばっかりかけて」
 サリナはそう言って、笑顔を作った。ぎこちない笑顔になってしまったと自分でも思ったが、それでもフェリオは、少しは安心したようだった。
 自分のそばにいて、支えてくれるひと。以前は、それがセリオルであり、ダリウやエレノアだった。そのことを思い、サリナは胸中で小さく驚いた。
 わかっていたことだが、近ごろはそれがすっかり変わってしまっている。気づけば、自分の最も近くにいてくれるのはフェリオになっていた。精神的にも、肉体的にも、辛い時にはフェリオがいてくれる。アーネスやシスララも、何かと言えばサリナを案じ、支えようとしてくれる。カインやクロイスは、あまり表には出さないものの、やはりサリナのことを心配してくれている様子があった。
 いつの間にか、自分とセリオルの間に、たくさんの仲間がいるようになっていた。それはちょうど、今各自が立っている位置関係と一致していた。
 とはいえ、セリオルが遠くなったと感じるわけではない。ごく近い自分とセリオルの間に、フェリオたちがいるのだ。向こうからこちらを見て微笑んでいるセリオルに頷いて見せて、サリナは少しだけ目を閉じた。
 このことに感謝しよう。自分を支え、共に進んでくれる仲間たちの存在に。
「そうか、それならいい」
 フェリオの声。心地良く鼓膜と心を震わせるその声を合図に、サリナは瞼を上げた。
「うん……よし!」
 脚に力を入れる。鍛えられたしなやかな筋肉は、サリナの思い通りに躍動した。
 床を蹴ったサリナを、フェリオは見送った。サリナは瞬時に風となった。やや驚く仲間たちの間を縫って走り、彼女は跳躍した。
「はあっ!」
 裂帛の声。同時に彼女は、鳳龍棍を振り下ろした。
 けたたましい悲鳴が上がる。振り返ったままのセリオルに背後から襲いかかろうとしていた合成獣が、サリナの一撃の下に沈んだ。
「サリナ……助かりました」
 セリオルは、どうやら気づいていなかったようだ。倒れた合成獣に、目を丸くしている。
 後ろから短い口笛が聞こえた。カインだ。感心した時に出る、彼の癖だった。振り返ると、いつもの悪戯っぽい笑みがあった。
「よお、もう大丈夫かい、サリナちゃん」
 ややからかうような調子のカインに、サリナは赤面しながら頬を掻いた。
「はい……あの、また心配かけてごめんなさい」
 ぺこりと、サリナは頭を下げた。仲間たちはめいめいに言葉を返した。ただクロイスだけは、しっかりしろよなと憎まれ口を叩き、アーネスに小突かれていた。
「色々、わかんないことがあるけど……今考えてもどうせわかんないから、考えないことにしました」
 最後のほうの言葉は、セリオルを見て言った。何か反応するかもしれないと僅かに期待したが、兄はただ静かに微笑んでいるだけだった。幼い頃からサリナに向けられてきた、優しい微笑みだった。
 短く息を吐き、サリナは前を向いた。薄暗く不気味な通路が続いている。曲がり角の向こうに、敵の気配もあった。まだまだ、戦いは続くだろう。
「行きましょう!」
 サリナが号令をかけた。仲間たちの声がそれに続く。アイリーンとソレイユの声も響いた。彼らはサリナが落ち着いたことに安心し、力強く次の1歩を踏み出した。サリナの心にも、温かさが戻っていた。
 だが、彼女は気づいていなかった。今度もやはり、セリオルに正面から質問するということを、発想することすら出来なかったことに。

 ハイドライトは地下5階まである。それがわかったのは、地下3階まで進んだ時だった。本来は施設の入り口などに掲示されていたはずの施設内部の案内図が、そこでようやく発見されたのだ。どうやら上階の分は、この荒廃の中で破り去られでもしたのだろう。
「なんだよこれめんどくせえなあああ」
 悪態をつくカインに、セリオルが苦笑しながらも同意する。
「階を下るごとにこれですからね……まあ王都の本部も、似たようなものですが」
 ふたりが言及したのは、下階へ進むための階段の前に設置された、セキュリティシステムのことだった。地下1階から2階、2階から3階へ下りる時にも突破したが、やはりというべきか、階が進むに連れて求められるコードが複雑さを増していく。
「今度は7桁、ですか」
 眉根を寄せたサリナが呟いた。これまでは4桁と5桁の数字を、システムは求めてきた。設定されている数字を正しく入力するれば扉が開く仕組みだった。
 最初は、幻獣研究所の設立年月日がコードだった。それはセリオルが当てずっぽうで何度か入力を試すうちに正解にたどり着き、幸運だった。2度目は当てずっぽうの数字では開かなかった。サリナたちは一度引き返し、施設内部に何か手がかりは無いかと探し回った。結果として、それは幻獣研究所がアシミレイトという現象を発見した年月に関する数字だった。
「今度も、何かの日が答えなのかなあ」
 研究所の設立もアシミレイトの発見も、研究所にとっては記念すべき日だろう。その日付がセキュリティコードに設定されているのは、サリナから見ても自然なことだった。
「どうだろうな。決め付けないほうがいいとは思うけど」
 フェリオは冷静だった。日付がコードに関連していると思い込むことで、手がかりを探す時の視野が狭められてはまずいと、彼は言った。
「その通りね。どうする? ふた手に別れて探す? さすがに7桁ってなると、探すの大変よね」
 アーネスのその提案は、すぐに採用された。内部にはまだ危険な敵が潜んでいる可能性もある。ひとりずつにばらけるのは危険だった。サリナたちは7人と1羽をふたつのグループに分けて、地下3階の再探索に戻った。アイリーンが短く鳴いた。
 サリナ、フェリオ、シスララ、アイリーンのグループと、セリオル、カイン、アーネス、クロイスのグループに分かれた。幸い、部屋の扉などを開くのに必要なカードキーは、もう1枚入手してあった。アイリーンは自分も立派な仲間のひとりだと主張するかのように胸を張り、仲間たちの笑いを誘った。
 1階や2階でのことがあったので、サリナたちは3階では既に、ヒントになりそうな数字を探しながら進んできていた。ただ求められる桁数がわからなかったので、決定的なものは見つけられていなかった。4桁、5桁ときたので、次は6桁だろうかという考えもあった。
「うーん、7桁か……」
 フェリオは頭を捻って考えた。7桁の数字となると、どんなものがあるだろうか。やはり日付か。今はヴリトラ王の時代だ。年の数は恐らく2桁だろう。だが月と日については、1桁も2桁もありうる。
「あの、フェリオさん……?」
 シスララが少し困ったような顔をこちらへ向けているのに気づいて、フェリオは顔を上げた。そしてそれに気づき、苦笑いを漏らした。
「はは。そうだった」
 日付という数字に囚われてはいけないと、ついさっき自分で言ったばかりだ。だというのにもう、自分自身が囚われかけてしまっていた。
「でも、何の手がかりも無しで探すの、大変だね……」
 サリナが呟くように言った。アイリーンが小さく鳴く。
「でもとにかく、探すしかないですね」
 言いながらシスララは、すぐ近くの部屋の扉をカードキーで開いた。するとその広い部屋の中には、おびただしい数の機械兵たちが配備されていた。
 一方、セリオルたちのほうは既に、激しい戦闘を開始していた。
 マナの矢と魔法が飛び、鞭と剣が閃いた。襲ってきたのは合成獣の群れだった。しかも、尋常でない数だ。4人で相手をするには相当骨が折れた。
「青魔法の参・マスタードボム!」
「来たれ雷の風水術、界雷の力!」
 熱線と稲妻が駆け巡り、固まって突進してきた合成獣たちをなぎ倒す。だがその倒れた仲間を踏み越えて、興奮した魔物たちは猛進を続けた。
「なあおい、何なんだこれ! 多すぎねー!?」
 クロイスのうんざりした声が響くが、すぐに合成獣たちの唸り声に飲み込まれた。舌打ちをし、クロイスは盗賊刀を投げる。
「裏技・シフトブレイク!」
 盗賊刀はマナの力を帯び、クロイスの意のままに宙を舞って敵を切り裂いた。何匹もの合成獣を撃破し、盗賊刀はクロイスの手に戻った。
 クロイスの新たな技に口笛を吹きつつ、カインは敵を振り返った。
 目の前に、大きく嘴を開いた鳥型の合成獣がいた。
「うおっ!?」
 カインは慌てて身をかわした。だが遅かった。彼の脇腹を、合成獣が放った光線が焼いた。走る激痛に奥歯を食いしばりながら、カインは鞭を振るって敵を撃破した。
「く……」
 脇腹が焼け付く。痛みに手で押さえようとするが、触れるとなお痛んだ。
「使って下さい!」
 セリオルが薬瓶を投げた。ハイポーションと癒しの香草を調合した新薬、マスターポーションだ。カインはそれを受け取り、素早く半分を飲んだ。残る半分を傷口に直接かける。傷に沁みて震えるほどの痛みが走ったが、その分治癒も速かった。
「無茶するわね……」
 水のマナの感じられないここでは、アーネスの湧水の力は使えなかった。回復はセリオルの薬に頼るしかない。アーネスは敵を切り捨て、立ち上がったカインを見遣った。
「……はっはっはっは!」
 やせ我慢なのか、カインは腰に手を当てて高笑いをした。その前に、更なる合成獣の群れが迫る。
「てめえ何してんだ!」
「カイン、迎撃を!」
 クロイスとセリオルが慌ててフォローに走る。だがカインは、ただ笑っているだけではなかった。
 ぴたりと笑うのを止め、彼は迫る敵の群れを睨みつけた。そして胸の前で、印を結ぶ。
「青魔法の拾・デスレイ!」
 カインの手から、恐るべき光線が放たれた。さきほどの合成獣が放ったものと同じだった。光線は魔物の群れを焼き払い、更にその場で爆発を起こして後続を吹き飛ばした。
 ぽかんとして自分を見つめる仲間に、カインはVサインを向ける。
「いただきました、デスレイです!」
「いただきましたじゃねー!」
「ゴフッ」
 繰り出されたクロイスのとび蹴りが、カインの鳩尾に見事に決まった。
「ちょっと、遊んでる場合じゃないわよ!」
 珍しく、アーネスの声は慌てていた。倒れたカインを引っ張り起こし、ビンタを1発食らわせて、彼女は後ろを指差した。
「また来たわ! さっきより多い!」
「ええええええっ!?」
 混乱の声を上げながら、セリオルたちは走った。これ以上相手をしてはいられない。どうにかしてやり過ごすべく、彼らは必死の遁走を始めた。
 その途中、カインが言った。
「なあ、さっきなんでビンタしたんだ? 俺、起きてたぞ」
「なんとなくよ! いいから走って!」
「え、ひどくね?」
 カインの頬には、真っ赤な手形が刻まれていた。