第152話

 地下4階へ続く階段の前、固く閉ざされたセキュリティ・ドアの前で、サリナたちは合流した。彼らはそれぞれが手に入れた、セキュリティ・コードの数字が書かれた紙を合わせた。
「5135847……これは?」
 数字を読み、フェリオは顔を上げた。だが問いを向けられたセリオルは、肩をすくめるばかりだった。
「何の数字かはわかりません。デタラメな数字である可能性が高いですが……私たちが来たために、元のコードを変更したんでしょうね」
「だとしたら、やっぱナメてやがんな」
 カインの声には多分に怒気が含まれていた。フンババやジャガーノートの罠を仕掛け、突破のご褒美とばかりに自分たちにコードを与えた者に対して、彼は言い知れぬ怒りを覚えていた。
「コードを変えたのは、この扉を抜けられないようにするため……でも、その“抜けられないようにする”理由が違うってことね」
「あの、どういうことですか?」
 カインほどではないが、静かな怒りを感じさせるアーネスに、サリナは訊ねた。アーネスは怒りの混じった短い息を吐き出し、肩をすくめた。
「遊んでるんだ」
 カインやアーネスの代わりに答えたのは、フェリオだった。彼はやはり、冷静さを保っていた。
「遊んでる?」
「ああ。この扉を抜けられたくないだけなら、コードを変えるだけで十分だろ? なのにわざわざ俺たちを罠にはめて、この紙を寄越してみせた」
「あ、そっか……」
 ようやく理解して、サリナは頷いた。
 要するに、彼らは試されたのだ。この研究施設に潜む何者かによって、その力を。アーネスが言及したのは、ただ抜けられないようにするだけでは、彼らの力を量ることが出来ないということだった。抜けられないようにしたのは、サリナたちを罠にかけ、その力を試すためだった。
 クロイスが舌打ちをした。その音は、合成獣や機械兵の姿が消え、静かになった地下3階によく響いた。怒気を孕み、空気が重くなったようだった。
「はい、それでは開けますね」
 妙に明るい声が響いた。サリナたちは声の主に視線を集めた。
 シスララだった。いつの間に受け取ったのか、その手にはカードキーが収まっていた。彼女はそれを、扉の脇の装置に通した。
「あら?」
 これまでセリオルがやったのを見ていたので、シスララもなんとなくやり方を理解したつもりだった。カードを装置に通し、数字の刻まれたボタンを順に押す。それで扉が開くはずだった。
 が、装置が反応すらしなかった。
「あらあら?」
 顎に人差し指を当て、シスララは小首を傾げた。もう一度、カードを装置に通してみる。
 しかし、反応しない。
「あら……」
 小さなカードを両手で持ち、シスララは悲しそうに俯いた。肩のソレイユが、元気づけるように小さな声を出す。なぜかその後ろで、アイリーンが身体の割りに小さな翼を広げ、ぱたぱたと動かしている。シスララを励まそうとしているのだろうか、その姿は妙に滑稽だった。
「……ぷっ」
 初めにカインが我慢の限界を迎えた。
「ぶくっ……ぷはっ、ひゃっひゃっひゃっひゃっ」
「な、なーにやってんだよシスララ! ははははっ」
 カインとクロイスの笑いが、堰を切ったようにあふれ出した。いや、それは張り詰めていた怒りという緊張の糸が一気に切れたことによる、反動だったのかもしれない。
「ふふ。あははは」
「……ふふふ。シスララ、貸してください」
 アーネスも笑い、セリオルはシスララに手を差し出した。シスララは耳まで真っ赤になって縮こまりながら、カードをそっとその手に乗せた。
「うう、私……申し訳ありません」
 ぺこりと頭を下げ、シスララはそそくさとセリオルの後ろに入った。その前ではカインとクロイスが大笑いをしている。シスララはますます赤くなる。
 セリオルは、カードキーを装置に通した。装置は問題無く作動し、コードの入力を求める言葉が、その小さなモニターに表示される。装置が正常に動いたことを示す音が聞こえ、シスララはがばと振り返った。
「まあ……どうしてでしょう」
 口に手を当て、シスララの声は心底不思議そうだった。セリオルは振り返って言った。
「カードの表裏が、逆だったんじゃないですか?」
「……まあ」
 ぽかんとして、驚いているのかいないのかわからない反応だったが、ともかくセリオルは微笑み、装置に向き直った。
「あはは。シスララ、可愛いなあ」
「あら、ありがとう、サリナ」
「いやそこはありがとうじゃねーだろー!」
 声を揃えてカインとクロイスが叫び、ふたりは腹を押さえて笑い転げた。シスララはそれを見て、柔らかく微笑んでいた。扉が開く音がした。
 さきほどまでの怒りはどこへやら、カインもクロイスも、他の仲間たちも、その足取りがやや軽くなっていた。しんがりを務めることにしたセリオルは、自分の前で階段を下りようとするシスララの声を掛けた。
「ありがとうございました、シスララ」
 そう言われ、シスララはゆったりと振り返った。長く柔らかい黒髪が揺れる。
「あら、私、扉を開けませんでしたのに」
「……ふふ。いいんです、ありがとうございました」
 重ねて感謝の言葉を向けられ、シスララはやや不思議そうな顔をしながらも微笑んだ。
「はい、どういたしまして」

 王立幻獣研究所極秘研究施設、ハイドライト。その地下4階に、サリナたちは足を踏み入れた。
 ひとつ上の階までとは異なり、この階は静かだった。合成獣の声も、機械兵の駆動音も聞こえない。だが、サリナたちは油断無く周囲を警戒しながら進んだ。この施設に、何者かが潜んでいることはほぼ間違い無いのだ。
 この階もやはり、ところどころにセキュリティの施された扉があった。上階で使っていたカードキーは、ここでは使えなかった。仕方なく、サリナたちはこの階用のカードキーを探した。
 敵の妨害も無く、カードキーはすんなり見つかった。それを使って、彼らは地下4階を進んでいった。
 やがて、彼らの前にひとつの部屋が現われる。
 行き止まりではない。長く続く通路に並ぶ実験室のうちのひとつだった。だが、その部屋の扉に掲げられた文字が、先頭に立つセリオルの足を止めさせた。
「培養、実験室……?」
 セリオルは眉を顰めた。胸がざわつく。
 だが、その扉を開けないわけにはいかなかった。
「嫌な予感しかしないわね」
「培養ってなんだよ、合成獣とか造ってる部屋か?」
「それならまだましだな」
 仲間たちがそんな風に交わす言葉を、サリナは上の空で聞いていた。
 鼓動が速まってくる。アーネスが言うとおりだった。嫌な予感しかしない。サリナの鋭敏な感覚は、その扉の向こうに、何か不快なものがあることを告げていた。生物なのか非生物なのかはわからないが、いずれにせよサリナにとって、見たくないものであることは間違いなさそうだった。
「……開ける、の?」
 セリオルの服の袖を、サリナはぎゅっと握った。それに気づき、セリオルは振り返った。小柄なサリナが、自分を見上げている。
「やめておきますか?」
 この扉を開けるか、開けないか。答えは、サリナに委ねる。そのセリオルの考えを、サリナは彼の声に聞いた。見上げたセリオルの瞳は、凪いだ湖面のような静かな光を湛えていた。どちらを選んでも、彼はその選択に異を唱えはしないだろう。それは仲間たちも同じはずだと、サリナは思った。束の間、沈黙が下りる。
 サリナは、セリオルの服の袖をぎゅっと握っていた手から、力を抜いた。セリオルを見、仲間たちを見る。皆、静かに彼女の決断を待っていた。ここに入るかどうかは、サリナが決めるべきだ。なんとなくだが、全員がそう感じていた。
 サリナは扉に目を戻した。“培養実験室”。一体、何を培養するというのだ。合成獣か? 幻魔か? それとも……
 頭を振る。雑念ばかりが浮かんでくる。深呼吸をする。呼吸を整える。
 扉を開けない、という決断をしても、仲間たちは彼女を責めはしないだろう。ここに目的の、“強きマナの子”がいるとは限らない。可能性としては、最深部である地下5階にいることのほうが高い。この部屋には入らず、先に進むことを優先する。それも、ひとつの正しい選択だ。
 だが、サリナの心はもう、決まっていた。
 胸に手を当てる。華奢な胸板の下で、心臓がとくとくと脈打っているのが感じられる。
 サリナは、この旅の始まりを思い出していた。
 ダリウとエレノア、そしてセリオル。フェイロン村で長く一緒に暮らしてきた3人から、思いがけない真実を告げられた、あの誕生日の夜。ひと晩、サリナは考えた。幼いころに亡くなったと聞かされていた、見も知らぬ囚われの父。彼を助け出すための、いつ終わるともわからぬ旅。抱き続けた将来の夢。祖父母への思い。共に育った友人たち。武術の師。様々なひとのことと、自分の未来のこと。旅の先に待つ、想像もつかない苦難のこと。
 結局、あれこれと考えたものの、サリナの出した答えはシンプルなものだった。
 ――後悔だけは、したくない。
 あれからもう随分経ったように思うが、実際にはそれほどでもない。ただ、過ごした時は濃密だった。
 サリナの脳裏に、これまでの旅の出来事が蘇る。多くのひとと出会い、多くの敵と戦った。仲間たちは、常に彼女を助けてくれた。ゼノアを止め、エルンストを救出するという目的のため、彼らはどれだけ傷付いても、立ち上がってくれた。
 もちろん、皆それぞれに、ゼノアと戦う理由がある。スピンフォワード兄弟は、両親の無念を晴らすため。クロイスは、それに加えて幼い弟たちの未来のため。アーネスは騎士として、王国の平安のため。シスララは、父の治める故郷の、平和な繁栄のため。
 だがサリナにとっては、仲間たちはやはり、父の救出のために力を貸してくれる存在だった。そのことに感謝する心が、彼女が立つための力となってきた。
 仲間たちは、彼女の心は強いと言う。それは誤解だと、サリナ自身は思っている。強いのは自分ではない。仲間たちのほうだ。自分はすぐに動揺し、うろたえ、混乱してしまう。そんな時、自分を支えてくれるのはいつも仲間たちだ。だから自分は、立つことが出来る。
 そうだ。これまで自分を助けてくれた、多くのひとたち。彼らも同じだった。皆、それぞれに強く、前を向き、足を進めていた。彼らの姿に勇気をもらい、彼らの助けに感謝し、サリナは戦ってきた。
 この扉を開けないという選択もあることを、サリナの理性は理解していた。旅の目的にとっては、必ずしも開ける必要は無いだろう。だが――
「……ううん。行こう!」
 だが、感情が、心が、それを頑として拒否するのだった。なぜならこの扉は、自分にとって必要だからだ。仲間たちに支えられ、歩んで来たこの旅に、後悔を残したくない。逃げることで、あの時向き合っていればと、後悔したくない。アイリーンが高い声で鳴いた。
 セリオルからカードを受け取り、サリナは自らの手で、それを解錠装置に通した。光が明滅し、扉のロックが外れたことが示される。部屋は薄暗い。大きく深呼吸をして、サリナはその足を踏み入れた。
 仲間たちがそれに続いた。セリオルは解錠装置のところで、仲間たちが先に入るのを待った。しんがりを務めるつもりだった。順に入っていく仲間たちの最後、セリオルのひとり前は、カインだった。
 彼は部屋に入る直前、セリオルの肩に手を置いた。
「やっぱ強ぇな、サリナは。こうでないとな」
「……ええ」
 そう短く答えたセリオルを見て、カインは意外さに小さく首を傾げた。
 セリオルの顔には、苦悩の色が浮かんでいた。

 薄暗い部屋の中は、これまでとは随分様子は違っていた。
 まず目に飛び込んでくるのは、部屋の壁際に並べられた、巨大な硝子の容器だった。大人の人間が入れるくらいの大きさの、水槽と呼んでも差し支えないかもしれないものが整然と並んでいる。
 いや、より正確に表現するならば、かつては整然と並んでいたのだろう。
 今、並べられた水槽は、その多くが破壊されてしまっていた。粉々に砕け散って床に破片となり、散らばっているものもあれば、大きな槌か何かで叩き割られたような無残な姿を晒しているもの、あるいは高熱によって溶かされたもの、はたまた鋭利な刃物で袈裟に切り裂かれたようなものもある。床にはその残骸が転がってもいた。
「おいおい何だよこりゃあ。ひでえな」
 いかにもきな臭いという顔で、カインは鼻をひくひくさせた。まるでここで起こったことを、匂いから探ろうとでもするかのようだった。アイリーンが小さく鳴く。
「どうやったらこんな風になるの?」
 訝しげに、アーネスは破壊された水槽を見ていた。割れているものや溶けているものはまだわかる。わからないのは、刃物で斬り裂かれたように見えるものだった。刀剣では、こんな破壊は出来ない。斬る前に、硝子は刀身との衝突の衝撃で割れてしまうだろう。
「こちらにも、破壊の痕跡があります」
 シスララはそう言って、部屋の壁を示した。確かに壁にも、様々な破壊の痕跡が刻まれていた。壁に起こったことは、水槽に起こったこととほとんど一致しているように見えた。
「えれー戦闘でもあったのかな、ここで」
 頭の後ろで手を組み、あまり興味無さそうな様子なのはクロイスだった。彼は部屋をぐるりと見渡し、そう感想を述べた。
「戦闘って、研究施設でか?」
 フェリオは疑問を呈した。実際、それはもっともな疑問だった。
 水槽や壁に刻まれた破壊の痕跡は、どれだけ軽く見積もっても、数年は経過したものだった。傷跡に降り積もった埃や、この部屋に鬱積した空気の匂いが、それを語っていた。
「あの合成獣やら機械兵やらがやったんじゃねえの?」
 顔をしかめ、カインはそう指摘した。
「どうだろうな……あの頭の悪い連中がやったにしては、破壊が単純過ぎる気もする。破壊が繰り返されていないのも、ちょっと不思議だ」
 弟はそう言って、水槽から離れた。彼はセリオルの姿を探した。何も言わないのが気になったし、意見を求めたかった。
「なに……これ……」
 だがその前に、彼の耳にサリナの声が入ってきた。震えている。フェリオは急いで、サリナに駆け寄った。
 最初に部屋に入ったサリナは、破壊の痕跡に眉を顰めながら進んだ。そして彼女は、仲間たちよりもひと足早く、それを発見したのだった。
「……なんだ、これ」
 サリナ同様、それを目にしたフェリオも言葉を失った。
 それは床だった。この培養実験室の、広い床の一部だった。施設内の他の場所と変わらない、硬質で無機質な、ただの床だった。
 だが、ひとつだけ他の場所とは異なるところがあった。その唯一の特徴が、サリナとフェリオから言葉を奪い、その心にどす黒い不快感を与えた。ふたりの様子に気づき、走り寄ってきた仲間たちにも、それは同様だった。
 ――それは、黒く変色した、大量の血の跡だった。
 あまりの不快感に、シスララは口を押さえた。胃から込み上げてくるものを堪えるのに、彼女は最大の努力を払わなければならなかった。喉が詰まる。涙が滲む。
「何だって言うの……ここで、一体何が……?」
 多くの戦場を経験してきたアーネスにとっても、経験の無い量の血痕だった。大量の血液が固まり、まるで赤黒い池のようだった。その忌むべき光景に、彼らは一様に口をつぐんだ。
 その時だった。
 突然、部屋の照明が落ちた。ブー……ン、と大きな羽虫の羽が震えるような音を立てて、部屋が暗闇に包まれる。
 サリナたちの行動は素早かった。この施設に潜む何者かの存在は、すでにはっきりしていた。全員が言葉を発さず、迅速に集合した。背中を合わせあい、敵に備える。
 だが、襲撃は無かった。
「……なんだ?」
 低く、クロイスが呟く。誰も答えなかった。攻撃は無かった。何も起きない。
 突然、アイリーンが鳴いた。何かを警告するような、鋭い声だった。
 声に反応し、サリナたちはある場所を見た。
「な、なに!?」
 その光を、サリナは見た。
 それは、部屋の隅で生まれた光だった。薄い青と、薄い紅の光。初めはぼんやりと、徐々に強く、その光は輝いた。美しい、それはマナの光だった。
 サリナたちは走った。走って、その光の傍へ行った。そして、絶句した。
 それは、部屋に並ぶ水槽のひとつだった。たったひとつだけ、他の水槽とは異なり、分厚い金属の衝立によって仕切られ、保護されているようだった。
 そしてその中で、それは光を放っていた。
 薄紅色に染まった身体。長い手足に、長い髪。引き締まった筋肉。たゆたう、マナの光。
 全身の肌が粟立つのを感じながら、サリナは見つめた。水槽に浮かぶ“光纏う者”を、彼女は、静かに見つめた。