第154話

 7色の光が、暗い研究室を見たした。鮮烈な光の奔流。膨れ上がった神聖な光が、強き力を抱いた7人の戦士を生む。
 サリナはサラマンダーの鎧を纏い、全身の筋肉を緊張させた。いつでも飛び出せるよう、力を溜める。
 心の中は、穏やかではなかった。セリオルに対する不満は治まっていない。ここへ来てからの出来事に対する、気持ちの整理もついていない。だが、今は話している時ではない。戦わなければならない。頭がすうっと冷え、もやもやしている自分を俯瞰するように、彼女は別の視点を持って敵と対峙した。
 浮遊する巨大な口。翠緑の光を纏うそれは、まさに巨大な口だった。
 身体のほとんどを口が占めている。目や耳、鼻といったものはあるのか無いのか、確認出来ない。これが仮に顔なのだとしても、首から下は存在せず、顔だけだった。当然、手足も無い。
 巨大な口からは牙が飛び出している。体表は不気味な紫色で、翠緑の光には全くそぐわない。そのせいで本来であれば美しいはずの光が、おぞましささえ醸し出している。
 そしてその巨大な口の中、そこには漆黒の闇があった。身体の奥行きは、口の幅とほとんど同じである。従って、通常であればこれだけ巨大な口、その中は見通せてしかるべきだ。だが、サリナたちには見えなかった。この不気味な存在の口の中は、暗闇で塗り込められたかのように、真っ暗だった。
「アトモス、と言いましたね」
 セリオルは、仲間たちに確認の意味でそう言った。だがカスバロはそれを、自分に対する質問だと受け取った。
「ああそうだ。風のマナを操る塵魔、アトモス。くひひ……お前たちに、倒せるかな?」
 そう言い残して、カスバロはアトモスの陰に隠れた。見えないところから、不愉快な笑い声だけが聞こえてくる。
「じん……ま?」
 クロイスは眉間にしわを寄せて呟いた。塵魔。カスバロは、確かにそう言った。
「なんだ、幻魔じゃねーのか? 別もん?」
 水のクラーケンに、聖のキュクレイン。今目の前に僅かに浮かんでいるそれは、これまでに撃破してきた幻魔と、同種のものに見えた。不気味な身体、強いマナ、そして神なる光。特徴は、一致していた。
「くひゃひゃひゃひゃっ。なんだお前ら、塵魔と幻魔の違いもしらんのか」
 嘲笑が、不気味に動かないままのアトモスの後ろから聞こえてきた。カインがこめかみに青筋を浮かべる。
「うるせえガリ勉野郎! お前らのつけた名前のことなんざ知ったことか!」
 雷のマナを纏わせたレッドスコルピオンで、カインは床をびしりと打った。だがその怒声にも、返ってくるのは嘲りの声ばかりだった。
「無知蒙昧の輩! お前らまさか、クラーケンやキュクレインを、幻魔だと思っていたのか?」
「なに……・?」
 セリオルの顔に、理解不能の色が浮かぶ。彼らは互いの顔を見合わせた。
「幻魔じゃなかった、って言うのか?」
 召喚されたまま沈黙を続けているアトモスを油断無く睨みながら、フェリオは訊ねた。その不気味な口腔の向こうにいる者は、再び哄笑を上げる。
「くひゃひゃひゃひゃ! これは傑作!」
 姿を見せず、カスバロは嘲りの声だけを向けてくる。その卑怯な態度に、カインは苛立ちを爆発させた。
「てめえ、いい加減にしやがれ!」
 ラムウのマナを纏った雷の大蛇がのたうつ。大蛇はアトモスの巨体を回避し、その後ろにいるカスバロを引きずり出そうと迫った。雷の力を持つ蛇は高速で伸び、獲物に狙いを定めようとした。
 だがそれよりも速く、動いたものがあった。
 アトモスは、その巨体からは想像もつかない素早さで動いた。手も足も無い身体だが、アトモスは空中をするりと滑り、雷の蛇とカスバロの間に割って入った。
「しゃらくせえ!」
 それならばと、カインは標的をアトモスに変えた。こちらは雷の幻獣、瑪瑙の座のラムウ。その力を得て戦う、雷のリバレーターが。クラーケンやキュクレインの時のような、集局点が戦場ではない。撃破するのに、それほど苦労はしないはずだ。
 雷の蛇は、ぽっかりと開いた暗闇の穴――アトモスの口腔を貫かんとばかりに迫る。アトモスは、前に出ただけでその身を守ろうとする気配も無かった。大蛇が大きく口を開け、その身体を鋭く伸び上がらせる。
「なにっ!?」
 カインは、信じがたい光景を目の当たりにした。
 彼が放った雷の大蛇は、確かにアトモスを捉えた。紫紺の蛇は牙を剥いて襲いかかり、アトモスに激しい雷撃を与えたはずだった。
 しかしその雷撃は、攻撃にはならなかった。
「……吸っ、たの、ですか?」
 あまりに信じがたい現象に、シスララは呆然とした。
 紫紺の蛇は、アトモスの口腔を貫いた。だが、痛手を与えることは無かった。
 大蛇は、不気味な口の闇の中に、吸い込まれて消えた。
「おいおい、マジかよ……」
 自分の攻撃が目の前で暗闇に吸い込まれたことに、カインは愕然とした。そこに鋭い警告が飛ぶ。
「下がってください、カイン!」
 セリオルの声に、カインは卒然として後方へ跳躍した。
 その瞬間、カインは驚愕に目を見開いた。
 紫紺の大蛇が吸い込まれた暗闇が、渦を巻いた。渦は、帯電していた。雷のマナと暗黒が混ざり合ったように、カインには見えた。
 そして渦が収束した箇所から、それは放たれた。
 声を出す暇も無く、カインは全力でその場から跳び退った。
 それは、紫紺と翠緑の混ざり合ったマナだった。光纏う者が放った閃光とよく似ていた。ただ、その色はまだらだった。空気を焦がし、旋風を巻き起こしながら、それはカインがいた場所を貫いた。
「うげえ……」
 着地してから、カインはじんわりと、嫌な汗が身体を伝うのを感じた。額に浮かんだ汗を、さっと拭う。
「吸収して、跳ね返したんだ……風のマナと混ぜて」
 サリナは緊張を高めた。あの漆黒の口は、油断ならない。見ただけの印象だったが、カインの放った雷の蛇の威力が、増幅されていたことは間違い無い。力のマナで威力を増すのではなく、カインのマナに自らの、風のマナを上乗せして、放ってきた。
「やれやれ……また厄介だな」
「やりやすい幻魔なんか見たことねーよ。……あ、幻魔じゃないんだっけ?」
 フェリオとクロイスのふたりのうんざりした声に、応えたのはカスバロだった。閃光を放ち、マナの残滓を漂わせながら沈黙に戻ったアトモスの陰から、嘲笑が聞こえてくる。
「くひひひ……いいだろう、何も知らないお前たちに、幻魔とは何かを教えてやるとしよう」
 しん、と沈黙が落ちた。アトモスが大きな口を開けたまま、部屋の床から僅かに浮いている。この不気味な存在の纏うマナの粒が踊る幽かな音だけが、妙に大きく聞こえた。
「ひとつ質問をしよう、セリオルくん」
 カスバロの声は落ち着いていたが、どこかに嘲りと、面白がるような響きがあった。その不愉快さに、クロイスが鼻を鳴らす。それはカスバロにも聞こえたはずだが、彼は無視して続けた。
「君は、幻魔とは何だと思っている?」
 その質問に、セリオルは顔をしかめた。答えたところで、それが正解でないことはわかり切っている。それなのにカスバロは、あえて質問を投げかけてきた。狙いは、セリオルに恥をかかせることだろう。その見え透いた魂胆を、セリオルは真正面から受ける気にはなれなかった。
「あなたに私の考えを伝える気はありません」
「答えろセリオル! 黙って答えろよ! 何様だお前は!」
 突然の激昂に、サリナたちは顔を見合わせた。声が裏返っている。さきほども感じたことだったが、カスバロの精神状態は通常とは言えないのではないだろうか。狂気、もしくは狂乱。そういった言葉が、サリナの頭をかすめる。
 だが、セリオルはそれ以上口を開きはしなかった。カスバロの怒りだけが、気配として伝わってくる。彼のほうも、それ以上答えを求めることはしなかった。ただ押さえつけられた怒りの波が漂う。
「ふん……まあいい」
 声の端に嘲笑を含ませて、カスバロは続けた。話したくて仕方が無いのだと、セリオルは理解していた。カスバロは、セリオルを貶め、自分とゼノアの優位を確立したい。だから彼は、こちらが黙っていても、こちらの知らないことを喋るだろう。そうすることで、こちらの無知をあぶり出そうとするかのように。
 この際、それを利用して、知れるだけのことを知っておくのも悪くない。
「いいか、幻魔とは、人工的に生み出された幻獣のことだ」
 満足そうな声だった。それに、クロイスが反応する。彼は鼻を鳴らし、不愉快さを前面に押し出した。
「んなこと知ってるっての」
「黙って聞けえ! 私の話に割り込むことは許さんぞ!」
「ああ? あんだとてめえ」
 尊大な態度のカスバロに、クロイスも怒りを爆発させそうになる。前へ出ようとして足を踏み出した直後、少年は足を止めた。
 フェリオが腕を掴んでいた。振り返ると、静かな瞳で、フェリオは首を横に振った。まだだ、とその目は語っていた。仕方なく、クロイスはいきり立った感情を抑え込んだ。腕から手が離れる。
「ふん。教養の無いガキが。幻獣の定義も知らぬ分際で」
「……なに?」
 青筋を浮かべるクロイスを宥めながら、フェリオはアトモスを見つめた。幻魔。人工幻獣。ゼノアによって生み出され、アシミレイト能力は無いものの、属性マナの光を纏い、幻獣を支配する能力を持つ存在。
 しかし考えてみれば、カスバロの指摘するとおりかもしれない。幻獣というものの定義について、これまで考えたことは無かった。
 神なる光を纏いし、大いなる獣。エリュス・イリアの神にして、神聖なるマナの化身。強大な力を持ち、世界を平定する者。時に彼らは、人間に力を貸す。アシミレイトという形を取って――
「お前たちは、塵魔どもを幻魔であると勘違いしているのだろう。塵魔と幻魔は全くの別物だ。幻魔は人工“幻獣”。塵魔は、人工ではあるが“幻獣”ではないのだよ」
 誇らしげだった。カスバロは、幻魔や塵魔と彼らが呼ぶものを生み出したゼノアのことを、心から崇拝していた。だからその偉大な功績を語ることに、恍惚にも似た悦びを感じていた。そのことが声の調子から伝わり、サリナは吐き気を催すほどの不快感に襲われた。
「いいか、無知なる諸君。“幻獣”の定義は、次のとおりだ。一、純粋にマナのみによって構成される存在である。二、エリュス・イリアのマナにのみ干渉することが出来る。物理的な現象は、マナを使った魔法などによって間接的にであれば作用することが出来る。三、不老である。四、リバレーターによってアシミレイトされる能力がある。……おわかりかね?」
「……なるほど」
 セリオルの納得の声に、カスバロの哄笑が重なる。サリナは兄を見上げた。
「クラーケンとキュクレインには、アシミレイト能力が無かった……だから、幻獣じゃないってことですか?」
「そういうことのようですね」
「くひゃひゃひゃひゃひゃ! そうそう、そうだよサリナくん! よくわかってるじゃあないか。流石だねえ、優秀だよ君は。くひひひひ」
「え……?」
 アトモスの向こうから聞こえてくるカスバロの声に、サリナは身震いしながら振り返った。何か、違和感があった。何だろう。あの声の気持ち悪さ以外に、何かが自分の心を動かした。だがその正体がわからず、サリナは戸惑う。
「そう、塵魔はアシミレイト能力を持たない! ゼノア所長が生み出したかったのは、アシミレイト能力を持つ幻獣なのだよ。そうでなければ、玉髄の幻獣たちには敵わないからねえ。でも生まれた塵魔どもには、アシミレイト能力が無かった。その他はほぼ完璧だと言うのに、肝心のアシミレイトが出来なかった。だから所長は、塵魔と名づけたのさ。誉れ高い幻魔になることが出来なかった、塵のようなもの――塵魔、とね。くひゃひゃひゃひゃ!」
「……ひどい」
 胸の底に炎が灯ったように、怒りが込み上げてくる。それはすぐに頭まで上ってきた。白熱する怒りに、サリナは飛び出したくなる。脳裏には、クラーケンやキュクレインの、あの哀れな姿が蘇っていた。
 あの2柱の幻魔――いや、塵魔たちは、自らのことを幻魔だと名乗った。胸を締め付けられる思いに、サリナは涙を堪えた。
 塵魔。なんというむごい呼び名だろう。それをあのカスバロは、アトモスがいるこの場で、堂々と言い放った。アシミレイト能力の無いお前は、幻魔ではなく塵魔だと。塵に等しい、無価値な存在だと。
 クラーケンもキュクレインも、ゼノアの役に立とうと必死だった。人間ではない彼らから、サリナは人間と同じだけの感情をぶつけられた。消えたくない、ゼノアに尽くしたいと願いながら、2柱の塵魔は消滅した。それほど慕われながら、しかしゼノアは、彼らを塵と呼んだのだ。
「……てめえはもう黙れ」
「彼らの心の痛みを、知りなさい」
 紺碧と純白の光が強さを増した。クロイスとシスララのふたりが、内なる怒りの炎を燃やしていた。それに、仲間たちが続く。
「くひゃひゃひゃひゃ! なんだね君たち、塵魔どもに情でも移ったか? 全く愚かだよ、君たちは! こんなアシミレイト能力も無い、幻獣を捕獲するのにしか役に立たない連中が、そんなに好きなのかね?」
「黙れっつってんだろうが!」
 クロイスは弓を引き絞り、氷の矢を放った。シヴァのマナは怒りの閃光となって飛ぶ。それはアトモスを回避して、その後ろにいるカスバロを狙った曲射だった。
 だが、それを阻んだのは塵魔アトモスだった。漆黒の大口が、クロイスの矢の前に素早く移動し、立ちふさがった。
「なっ……」
 紺碧のマナは、暗黒に吸い込まれた。そしてその中で渦を巻き、翠緑のマナと混ぜ合わされて放たれた。恐るべき速度の閃光が、クロイスを襲う。
「くそっ!」
 歯噛みしながら、クロイスは回避した。壁や床が破壊される。背後で、あの水槽が割れる音がした。
「なんでだ! お前、あいつからあんなこと言われて、それでもあいつらの味方すんのかよ! もういいだろ、邪魔すんなよ!」
 クロイスの声は震えていた。怒りと哀しみとで、震えていた。
 彼らにとって塵魔は、まごう事なき敵だ。世界のマナを支える神晶碑を守護する、瑪瑙の座の幻獣たち。彼らを無理矢理支配し、その精神を乗っ取って操る塵魔。瑪瑙の座の幻獣たちの強大な力で、クラーケンはハイナン島を滅びの淵に追いやり、キュクレインは聖なる滝を蹂躙しようとした。人々の生活や文化を破壊しかけた彼らを、サリナたちは許すわけにはいかなかった。
 だが、そんな彼らの心を、サリナたちは理解することが出来た。生みの親であるゼノアの命令を、彼らは忠実に守ったのだ。ゼノアやカスバロのように、世界の破滅を企む者ではなかった。彼らは親の言うことを聞く賢い子どものように、その命令を遂行しようとした。
 そんな塵魔たちを、カスバロは蔑み、嘲笑っている。今、自分の身をクロイスの攻撃から守ってくれたアトモスを、カスバロはそれでもやはり、塵と呼ぶだろう。
「お前は、命令されてそこにいるだけじゃねーか! クラーケンもキュクレインもそうだった! お前らを塵なんて呼んで、駒みたいに使う奴らになんて、味方しなくてもいいだろ!」
 クロイスの叫びは、アトモスの暗黒に吸い込まれていった。アトモスは動かなかった。言葉が通じていない可能性もあった。それでもクロイスは叫んだ。
 やがて、アトモスがようやく、反応らしきものを見せた。巨体がかすかに震えた。そしてその大きく開かれた暗黒の口からなのか、あるいは他のどこからなのかはわからなかったが、声が聞こえた。
「……我ハタダ、主ノ命ヲ全ウスルノミ」
 感情の見えない声だった。埃を巻き上げる暴風のようなその声が、クロイスに奥歯を噛み締めさせる。
「ちくしょう……ちくしょう、てめえら!」
 怒りに任せ、少年は再び矢を番える。
「待って、クロイス」
 だがその手に、真紅の光を帯びた手が添えられた。クロイスは、いつの間にか傍らに来ていたサリナを見た。
「サリナ……」
「落ち着こう、クロイス。むやみに攻撃しても、効果無いよ」
 少女の瞳に映る光に、クロイスは息を呑んだ。弓を持つ手が、無意識のうちに下がる。
 白熱する怒り。震えるほどの悔しさ。そして、深い理解。それらの複雑な感情を宿す光が、サリナの瞳にはあった。彼女の表情は、厳しくも穏やかだった。それは、沸騰する寸前の湯のような、高熱を孕んだ穏やかさだった。
「退けましょう。私たちに出来るのは、ただそれだけです」
 テトラマナロッドは、風のマナに祝福されて輝いている。先端に渦巻く風を帯びる杖を、セリオルはアトモスに向ける。
「そうね。私たちが、やらないと」
 ディフェンダーとブルーティッシュボルトを、アーネスは構える。タイタンのマナを纏う騎士は、厳しい視線をアトモスに送っている。
「力を貸してね、ソレイユ。哀しみを、打ち破る力を」
 ソレイユの高い声が響く。聖竜王の血を引く飛竜は翼をはためかせ、意気を上げて宙に浮く。オベリスクランスは純白の光に、輝きを増す。
「マナを打ち返してくる敵、か。どうしたもんかね」
「考えながら戦おう。それしかない」
「だな」
 スピンフォワード兄弟は、握り拳をぶつけ合った。兄は紫紺の鞭を、弟は銀灰の銃を構える。雷の大蛇とマナの砲弾が、塵魔アトモスに狙いを定める。
「アトモス……私たちが、あなたを倒す!」
「くひひひひ。まあやってみるがいいさ、セリオルくん。くひひひひひ」
 向こうから聞こえてくる不愉快な声に眉ひとつ動かさず、セリオルは杖を掲げた。