第156話

「アトモスは、どこにでも口を開くことが出来た」
 銃口からマナの光が漏れ出す銀灰のリストレインを纏ったアズールガンを、フェリオはさっと振った。光の粒が尾を引くようにたなびき、消えた。
「だから全方位からの攻撃を、全て吸収しようとした」
 アシミレイトは解除しないまま、フェリオは力のマナに祝福された銃を、隠れるものを失くし、かすかに震えている男へ向ける。
「一方で、反応速度はどれほど速くはありませんでした」
 翠緑の光がたゆたうオクトマナロッドは、いまだその練り上げたマナの残滓を漂わせている。セリオルはその杖を肩の高さまで上げた。
「周囲全方位から素早い攻撃と回避を繰り返せば、アトモスは混乱する。あとは吸収と反射のタイミングを検証するだけでした」
 杖が、マナを練り始める。緩やかなマナの風が立ち昇り、セリオルの長髪を揺らした。
「確かに、サリナの初撃が簡単に当たったもんな」
 紫紺の光を纏うカインは、前に立つセリオルとフェリオの考えていたことを悟り、感嘆の声を漏らした。あの短時間、僅かな戦闘の中で、ふたりはアトモスの特性を見抜いていた。
「それでぶっ倒れてたし、当てちまえば大打撃は与えられたってことか」
 頭の後ろで手を組み、クロイスは鼻を鳴らした。
「先に言ってくれりゃーいいのに」
「それだけ、あなたの素早さと攻撃力を信頼してたってことよ」
 口を尖らせる少年を、アーネスは取り成した。
「風のマナに対して有利なのは炎のマナ。サリナはとどめの一撃っていう役割があったから、その前に隙を作らせる素早い攻撃が出来たのは、あなただけだったわ」
「……へ、へん!」
 鼻をこするクロイスに、アーネスは微笑んだ。説明しているだけの時間も、隙も無かったのだ。万一聞こえてしまっては、作戦にならなかった。アトモスは風の塵魔。どんな方法で風を操り、こちらのやりとりを盗み聞きするかわかったものではなかった。
「やっぱりすごいです。フェリオさんと、セリオルさん」
 シスララは肩のソレイユの顎を撫でてやりながら、ふたりに視線を向けていた。その隣に、アーネスがするりと身を寄せる。
「特に、セリオルさん……でしょ?」
「はっ……な、な、なっなにをおっしゃるんですかっ!」
 あからさまに狼狽するシスララに、アーネスとクロイスがにやにやと、意地の悪い笑みを向ける。
「……なんだか、変だよ」
 アトモス撃破の位置から素早く戻って来たサリナが、厳しい視線を前へ送っている。仲間たちが警戒を高める。最前列のセリオルとフェリオのふたりは、武器をカスバロへ向けている。
 塵魔アトモスはマナの光となって散った。その光がまだ漂う空間の奥で、カスバロ・ダークライズは沈黙している。かすかに震え、上体をのけぞらせながら、彼は実験用のテーブルに腰掛けていた。
 何かがおかしい。サリナの直感がそう告げている。
 カスバロの強力な切り札であったはずのアトモスは、サリナたちのひとりも撃破することなく、力尽きた。だがあの狂気を帯びた研究者は、ほとんど動じていないように見える。
 さらにもうひとつ、気になることがあった。
 カスバロが座っている実験テーブルの上。カスバロの背後の位置に、横たえられているものだ。
 幻獣研究所の実験素体だろうか。形状としては、人間に近い。だが腕の肘から先や脇腹、腰周り、そして脚の膝から先などは、びっしりと鱗のようなものに覆われている。肌は全体的に淡い緑色で、鱗は濃緑色だ。
 手と足が大きい。手の爪は長く伸び、鋭く尖っている。いあ、それは爪というよりも、指そのものだと言ってもいいのかもしれない。指と爪の境界を視認するのは困難だった。手首までは美しい淡緑色だが、そこから先は硬質な黒に染まっている。とりわけ爪の部分は、金属のような光沢すら纏っていた。
 足は鳥類を思わせる鉤爪を生やしている。猛禽の爪のようなそれは、手と同じく黒色に染まり、金属のような質感が見て取れる。指の数も鳥類と同じ、4本だ。
 更に頭部は、前面こそ人間に類似しているものの、耳から後ろにあたる部分は鱗や羽毛に覆われ、髪の代わりに羽根が生えているような状態だった。上部には1対の、小型の翼のようなものも生えている。
 そしてその背には、今は身体が横たえられているので折り畳まれているが、やはり鳥類の大きな翼が生えているようだった。
 その実験素体の前で、カスバロは笑い始めた。上体を仰け反らせ、顎を突き出して顔を上へ向けて。
「くく……くふ、くひひひ……」
 初めは小さな笑いだった。サリナたちは顔を見合わせた。
「なんだあいつ」
「頭イカれちまったんじゃねーの、追い詰められて」
「イカれてんのはもともとだろ」
「まーな」
 カインとクロイスが嫌悪感を露わにする。カスバロの笑いは次第に大きくなっていった。肩を震わせ、脚をばたばたとさせ、やがてそれは、心の底から可笑しくて仕方が無いという笑いに変化していった。
「くひゃっ、くひゃひゃひゃひゃ! ひゃっひゃひゃひゃひゃ!」
 その尋常ではない様子に、サリナは不気味なものを感じずにはいられなかった。アトモスを失い、カインたちの言うとおり、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
 いや、違う――サリナは胸中で呟く。
 何かある。まだ何か、カスバロは仕掛けてくる気だ。
「何を笑っているんです」
 セリオルの声は低く、鋭かった。哄笑する元同僚に対する怒りが感じられた。
 マナが練り上げられていくのを、サリナは見た。オクトマナロッドは翠緑に輝いている。ヴァルファーレのマナを得た魔法の杖が、同じ風の力を集めようとしている。
「くふふ……これが笑わずにいられるか。くく……くひひひ……愉快だ、実に愉快だよ! なあっ!?」
「だから何が愉快なんだ!」
 フェリオの銃が火を噴いた。マナの弾丸が、カスバロの足の下を穿つ。カスバロは喉の奥でヒッと音を立て、しかし笑いを止めなかった。
「お前たちは、お前たちは、もう勝ったつもりなんだろう? この私を、追い詰めた気になっているんだろう? ええ? くひゃひゃひゃひゃ! これが笑わずにいられるか!」
「……なに?」
 実験テーブルの上に立ったカスバロに、セリオルが訝しそうな目を向ける。
「まだ、何かあるって言うの?」
 アーネスは剣と盾を構えた。ああ言うからには、カスバロにはまだ策があるのだ。いつ仕掛けられるかわからない。
「ソレイユ、備えて」
 シスララは飛竜に指示を出した。空色のソレイユは羽ばたきと共に宙に浮き、不穏なカスバロに向けて牙をむき出しにする。
「あれ? マナが……」
 セリオルが練るものとは別の流れを、サリナは感知した。広い実験室で、そのマナはゆったりと流れていた。きらきらとしたマナの粒が、一定の方向に流れていく。
 その流れを目で追ううち、彼女はあることに気づいた。
「え……? え、えっ!?」
 見知らぬマナの流れの行く先。空間に広がったマナの粒が、ゆるゆるとそこを目指して動いていく。いくつもの細い流れの終着点には、その男がいた。
「あのマナは……でも、どうして? セ、セリオルさん! マナが、マナの流れが!」
 後ろから聞こえたサリナの切迫した声に、セリオルが顔を上げる。眼鏡の奥で、彼の理知的な光を宿す両目が、大きく見開かれた。
「ば、馬鹿な! 何をした、ダークライズ!」
「呼び捨てにするんじゃないと言っているだろう!」
 笑みを消し、カスバロは激昂した声を上げた。唾を飛ばして犬歯を剥き出し、その歯の間から興奮した荒い息を漏らしている。
 その顔に、サリナは動揺した。
 普通ではなかった。セリオルのほうを向いてはいるが、焦点が定まっているのかどうかわからない。ふたつの目が別々の方向を見ているようにも見えた。口からは涎が垂れている。そしてカスバロの顔面の、ほとんど全てではと思える数の血管が、怒張して浮き上がっていた。
「な、何だよあいつ。気味悪ぃ……」
 その異常な様相に、クロイスは知らぬ間に後ずさっていた。鳥肌が立っている。それに気づき、彼は頭を振った。息を吸い込み、腹に力を入れる。恐れている時ではない。
「よお、気ぃ抜くんじゃねえぞ」
 カインの手がリストレインの鎧の上から、頭に置かれる。クロイスはそれを手でぱっと払った。
「うっせ、抜いてねーよ!」
「けけけ。それならいいんだよ」
 そう言いながら、カインはカスバロに目を戻した。サリナやシスララが深呼吸する気配が伝わってくる。まだ年若い彼らの精神面は、自分たちが補佐してやらなければならない。鞭を握り、カインはマナを漲らせる。その隣で、アーネスが微笑んでいた。
「魁風よ。天より降り来る風神が戒めなりと仰せし暴威――エアロ!」
 オクトマナロッドが風のマナを瞬時に練り上げ、放出した。烈風の魔法は翠緑の暴力となり、カスバロに襲い掛かった。もはや手をこまねいているわけにはいかない。相手が人間だろうと、元同僚だろうと、構っている場合ではなかった。
「くひひ……」
 だが、魔法は掻き消された。カスバロに到達する前に、まるでそこに見えない壁でもあったかのように、魔法の力は砕け、霧散した。
「ちっ……皆、攻撃を!」
 セリオルの号令に、仲間たちが武器を構える。幻獣たちのマナが充実していく。
 だが、その前にサリナが叫んだ。
「待って! 攻撃したら、危ない!」
 常人よりもマナ感度の鋭いサリナは、気づいていた。それは知識の豊富なセリオルやフェリオでも気づくことの出来なかった、まさにこれまでの認識を覆す現象だった。
「サリナ?」
 自分を呼ぶ兄に、サリナはしかし、目を向けなかった。代わりに、彼女は腕を上げた。そして人差し指で、ある1点を指した。
「あれ、見てください」
 言われるまま、セリオルはサリナの示す方向を見た。
 カスバロを、サリナは示していた。異常に興奮した様子で、カスバロはへらへらと笑っている。かと思えば突如、怒りの唸りのようなものを上げる。だが、攻撃を仕掛けてくる様子は無かった。
 もう一度、セリオルはサリナを見た。サリナはかぶりを振った。そして指を、僅かに右へ動かした。どうやら彼女は、カスバロのことを伝えたいのではなかった。妹の指の動きに合わせ、セリオルは視線を動かした。
 カスバロの立つ、僅かに右。実験テーブルの上に、それはあった。
「あれは……注射器?」
 一般にはまだ普及していない医療器具だ。幻獣研究所では実験用に使われていたが、サリナがそれを知っているはずは無かった。だが、彼女は間違い無く、細い針のついた注射器を示していた。
「さっき、カスバロはあれを使ったみたいでした。私がアトモスを倒してすぐに、あの針を、自分の腕に」
「……何ですって?」
 何かを自分に注射したのか。何かの薬品だろうか。カスバロのあの異常な興奮状態は、そのためか。だとすれば、興奮作用または覚醒作用のある薬物か。そんなものをこの状況で打って、何になるというのか。
 いくつもの推論が、セリオルの脳内を駆け巡る。だが彼が結論を出すよりも早く、それは始まった。
「ぐふっ……ぐひ、ぐひひひ……ぐひゃひゃひゃああっ! ぐぼっ……ぐぶはっ」
 不気味な笑いから、最後は苦悶の声へ変わっていた。サリナたちは油断無く武器を構えた。
 全身を震わせ、カスバロは苦しげな声を上げた。何か大きなもので殴打されたように身体を揺らし、衝撃に倒れては立ち上がる。そして次第に、その身体が光を宿し始めた。
 サリナはその様子に危機感を募らせる。カスバロの許へ、マナが集まりつつあった。
「マナが、マナが集まってる! カスバロのところに!」
 サリナが叫ぶ。仲間たちが動揺する。カスバロの光が強くなっていく。
 マナが集まる。それはいつの間にかつむじ風のように、カスバロを中心として渦を巻き始めた。その頃には、他の仲間たちにもマナの流れが視認出来るようになっていた。
 実験室が、あるいはハイドライトが建造されているこの地下空間そのものが、鳴動する。身体に感じられるほどの揺れ。何が起きているかわからず、カインが毒づく。
 サリナは、カスバロから目を離すことが出来なかった。揺れは大きくなっている。中心にいるのは、間違いなくカスバロだった。
 後ろで、あの巨大な水槽が倒れた。硝子が割れ、中の液体が流れ出す。その衝撃が他の水槽にも伝わり、無事だったものも破損していたものも、順々に倒れていった。硝子が次々に割れる激しい音。流れ出す液体が床を濡らしていく。
「あ、ああっ……そんな……」
 直感的に理解し、サリナは愕然として震えた。
 カスバロは赤い光を放っていた。それは強さを増し、伴って白に近づいていった。
 光纏う者。あの光を、サリナは連想した。幻魔を生み出す実験の過程で生み出されたという、あの不気味な存在。マナの光を纏った姿は、確かに幻魔や幻獣を思わせた。
 カスバロの光が、徐々にその色を変えていく。
「あれは、まさか、あの注射器は……!」
 戦慄と共に、セリオルはカスバロを見つめていた。身体を捻じ曲げ、痛みなのか苦しみなのか、カスバロは唸り声を上げている。
「セリオル、知ってるのか? あれは何だ。何が起こってるんだ」
 揺れに耐えようと踏ん張りながら、フェリオが質問した。セリオルは逡巡する様子を見せた。だが彼は、今度は答えることを拒まなかった。
「もし、私の推測が正しければ……あれは、“マージ”と呼ばれていた薬品かもしれません」
「“マージ”?」
 フェリオのオウム返しに頷き、セリオルは続けた。額に汗が浮かんでいる。
「マージ……私の在籍当時から、ゼノアが提唱していた理論に基づいて生み出された薬品です。先生は……エルンストさんは、悪魔の薬と呼んでいました」
「悪魔の……薬?」
 サリナが問い返した。父の名が出てきたことが意外だった。父も知っていることだったということだ。
「あれは、あの薬は、神の御業を冒涜する、おぞましい薬です」
「……今さらって気もするけどね」
 アーネスの声は冷淡だった。塵魔や幻魔などというものが存在している時点で、ゼノアは既に十分、神である幻獣たちを冒涜している。恐らくはそれらよりも前にマージは生み出されたのだろうが、ゼノアに対する認識が、それによって今さら変わるものではなかった。
「で、どういう薬なんだ」
 カインの声には非難の響きがあった。ゼノアに対するものか、幻獣研究所に対するものか、あるいはセリオルに対するものかは、わからなかったが。
「あれは……幻獣を、リストレインを介さずにリバレーターと、融合させる薬です」
「なっ……」
 サリナは言葉を失った。
 リバレーター。それはリストレインという道具を使って幻獣の力を借り、魔法の鎧を纏って戦う力を持つ者のことだったはずだ。生まれつきの資質を持ち、かつリストレインを手にするという偶然を得た者だけが、神である幻獣の力を操ることが出来るはずだった。ゆえに、実際に幻獣の力を扱える人間は、リストレインの数と同じだけしか存在しないはずだ。
 一方で、幻獣と共鳴することの出来る資質を持つ者は、決して多いとは言えないものの、世界にたったの8人ということはない。リストレインに触れなければ、あるいは幻獣と接する機会を得なければ自覚することは無いだろうが、資質を持つだけであれば、世界にはサリナたちの他にも、大勢いるはずだった。
「マージは、リストレインを持っていなくとも、資質さえあれば幻獣と融合することが出来る……そんな恐ろしいことを現実にする薬です」
「な、なんのために、そんな薬が生み出されたのです?」
 あまりの恐ろしさに顔を青ざめさせたシスララが訊ねた。セリオルは厳しい表情で答える。
「確かなことはわかりません。ただ、ゼノアは幻魔だけでなく、黒騎士を生み出す研究にも没頭していた……」
「……黒騎士を生み出した薬、ってわけか」
 あの圧倒的だった黒騎士の姿を、彼らは思い出した。今でも寒気を覚えるあの存在に使われた薬を、カスバロは自分に注射したのか。
 カスバロが光を強める。それは既に、濃い翠緑の光となっていた。
「塵と呼ばれ、ただの道具だと言われて……それでも主に尽くすのか、アトモス」
 醜い唸り声が消えた。マナの流れが止まった。フェリオは、その流れの終着点に再び、銀灰の魔法銃の銃口を向けた。