第159話

 幻獣。それは世界樹が生み出すマナを受け、マナを司って世界を見守るもの。それはエリュス・イリアにおいては集局点に在り、世界のマナを守護している。碧玉の座、瑪瑙の座、玉髄の座の3つの位階が存在し、元来神として人々から崇められる幻獣だが、特に玉髄の座の幻獣は、正に神としても畏るべき力を持つという。
 エリュス・イリアを創造した太陽神フェニックスを初め、真竜王バハムート、円環蛇ミドガルズオルム、蒼海主リヴァイアサンなどは創世の神話においてもよくその名を目にする、有名な幻獣である。
 瑪瑙の座。幻獣の位階における第二位であるその座に属する幻獣たちは、エリュス・イリアにおいては、世界のマナバランスを司る聖なるクリスタル、神晶碑を守護する存在である。神晶碑が異状を来たせばエリュス・イリアのマナバランスは崩れ、様々な災厄が降りかかることが予想される。
 サリナたちはこれまで、そのいくつかの例を目にしてきた。異常に発達した魔物の出現や農作物の収穫高減少、野生の動物や魔物たちの凶暴化など、いずれも放置していれば人々の暮らしに深刻な影響を与えるものばかりだった。
 中でも最たるものを、サリナは思い返す。
 セルジューク群島大陸の東、小さな漁村アーヴルから船に乗って渡ることが出来る美しき熱帯の島、マキナ。その広大な大森林を襲った災厄――大枯渇。豊かな森林が一夜にして砂漠と化し、観光を主な産業としていた島民の暮らしを激変させた、あの災い。
 本来は100年単位の発生周期を持つ天災である。前兆もあり、エリュス・イリアの人々はそれに応じて準備をし、避難をする。これまで幾度も発生している災害だが、事前に対応することが可能な、珍しい天災でもある。
 だがマキナ島を襲った大枯渇はそうではなかった。なんの前触れも無く、しかも周期としては前回の発生から、およそ30年。発生が考えられる時期でも、場所でもなかった。
 なぜなら、それは人為的に惹き起こされたものだったからだ。
 王都イリアスの幻獣研究所に座し、世界のマナを占有しようと企む狂える天才、ゼノア・ジークムンド。彼がマキナの大枯渇を起こした張本人であることを、既にサリナたちは知っている。
 そして、その起こした方法についても。
 瑪瑙の座の幻獣たちが守護する神晶碑。ゼノアはそれを破壊した。支えを失ったマキナのマナは暴走し、大枯渇を起こした。幸い、ひとの住む場所ではなかった。それは風の神晶碑が存在した集局点、ゼフィール城の遺跡を中心として発生した。
 サリナたちは、幻獣たちから協力を求められた。エリュス・イリアの神晶碑を、ゼノアの手から守ることだった。神晶碑は世界樹を守る結界の役割を持っている。それが失われれば、世界樹を守るものが何も無くなってしまう。
 それは幻獣にとっても人間にとっても、由々しき事態だった。
 また神晶碑が全て破壊されれば、エリュス・イリア全土を大枯渇が襲う。幻獣オーロラが語ったその事実に、サリナは戦慄した。この愛すべき人々が暮らす美しき世界が、一夜にして滅ぶ。その光景を想像して震えたことを、サリナは思い出した。
 だから彼らは、世界を巡る旅を始めた。幻獣たちが示す道のりにクリプトの書がもたらす情報を重ね、神晶碑の位置を特定して進んできた。まだ位置の判然としないものもある。クリプトの書の手がかりは途絶え、現在はローランの賢人、クラリタにその解読を委ねている。
 父を救出するための旅が、世界を守るための闘いになった。その分岐点が、あのゼフィール城だった。
 乾いたあの城の、哀しき君主の姿を、サリナは思い返す。プロミア・グリンセル・グロリア・フォン・ジャボテンダー4世。自らの過ちで国を滅ぼし、魂だけの存在となっても贖罪を続け、そして世界と亡き国を守ろうとした、あの誇り高き王。魔物となっても消えはしなかったその尊厳の宿った瞳が、サリナの脳裏に蘇る。
 ガルーダ。神晶碑を巡る闘いの火蓋は、彼女がゼノアによって捕らえられたことで切られた。風の神晶碑は守護者を失い、ゼノアは黒騎士、もしくはハデスの力を使ってその封印を破り、そして聖なるクリスタルは破壊された。
 風の幻獣、瑪瑙の座。美しき風魔、ガルーダ。翠緑の豊かなマナを持つはずの幻獣は今、サリナたちの目の前で束縛され、その力をカスバロによって吸い取られていた。
「彼女こそが、サリナがもたらした世界樹の言葉が示す、“強きマナの子”」
 セリオルの言葉は、仲間たちに衝撃を与えた。
 神。それは絶対にして不可侵の存在。幻獣とは神である。その力の強弱はあるにせよ、1柱1柱が創世の時代から、このエリュス・イリアを見守り、導いてきた。サリナたちは彼らと近しい関係になったものの、彼らが敬うべき存在であるという認識が変わったわけではない。
 実験テーブルの上に横たえられ、そのマナを強制的に吸収されているガルーダの姿は、その尊い光を奪われ、人間の道具として貶められた、直視に耐えがたいものだった。
「――よもや人間が、ここまでの行動に出ようとは」
 響くその声に、セリオルは唇を噛んだ。渦巻く風のようなその声の主は、彼にその力を貸し与えるもの。風の幻獣、碧玉の座。風の巨鳥、ヴァルファーレ。
「……申し訳ない」
 セリオルは、ただ詫びた。同じ人間が、それもかつて、彼自身が在籍した幻獣研究所の人間がとった行動を、彼は恥じた。そして同時に、彼は白熱する怒りを感じた。幻獣を冒涜するカスバロの行いに、彼は烈しい怒りを感じていた。
「お願いだよ、サリナ」
 サリナは、サラマンダーの声を聞いた。燃え盛る炎のようでありながら、少年のそれのようでもあるサラマンダーの声。彼女の頼れるパートナー。彼女にゼノアと戦う力を与えてくれる、かけがえの無い存在。彼もまた、幻獣だ。
「やめさせて――ガルーダを、助けてあげて」
「うん!」
 間髪を入れず、サリナは答えた。そして、彼女は床を蹴った。
「ぐひ、ぐひひひひ」
 カスバロは力の充実を感じていた。ガルーダのマナは、彼の力を十分に満たした。
 まったく、と彼は胸中で語る。俺はなんて優秀な男なんだ。ゼノア所長が既に用無しと判断した、ガルーダのマナを利用することを思いつくとは。
 幻獣は世界樹からマナを受け取っている。マナを消費した、あるいは失ったとしても、時の経過と共に、彼らはマナを回復することが出来る。それも、人間をはるかに超える急速さで。アトモスの力を使って戦い、ガルーダの力を使って回復する。それが出来れば、俺に敵はいない。
 笑いが止まらない。さきほどのあれだけ激しい攻撃の後だ。奴等にはもうそれほどマナは残っていまい。対して、こちらはガルーダから吸ったマナで、元通りの万全の体勢だ。もはや勝負の行方は、火を見るより明らかだ。
「ぐひひ、ぐひひひひひ」
「笑ってんじゃねえよ気色わりい!」
 カインが走り寄って、雷の鞭を振った。ラムウは怒っていた。あの温厚なじいさんが、驚くほど激しく怒っていた。それも当然だ。俺ですら、こんなに腹が立ってるんだ。同じ幻獣の仲間が陵辱されたんだ。じいさんが怒るのも道理だ。
 ふたり分の怒りを乗せて、カインは鞭を振る。鞭は雷の大蛇と化して、カスバロ=アトモスの脚を狙う。
「ふひっ」
 妙な声を出して、カスバロは跳躍した。大蛇が空を切る。カインは目を疑った。さきほどまでとは段違いのスピードだ。
「ぼーっとしてんじゃねー!」
 後ろから声が聞こえた。クロイスだった。卒然として、カインはその場を離れた。
 鋭い矢が何本も連続で放たれた。氷の矢は、宙に浮いたカスバロ=アトモスを的確に狙った。
「ふんっ」
 だがその力は、敵の腹に吸い込まれた。カスバロは腹の口を開き、シヴァのマナを吸収した。
 彼には、幻獣の戦士たちの心が手に取るようにわかった。ガルーダのことに気づき、怒りに我を忘れている。力任せの攻撃に出たが、所詮はマナを消費した状態だ。これを狙って、彼はわざと攻撃を受けたのだ。少々痛みが激しかったが、結果としては上々だ。これからじっくりといたぶってやろう。特に、セリオルを。
 舌打ちをして、クロイスは弓を仕舞った。両手に短剣を握って走る。止まっていては、閃光の良い的になるだけだ。
 同時に、アーネスとシスララも床を蹴った。彼女たちの幻獣も、やはり激昂していた。その怒りを、ふたりも共有した。
 だが、一方のカスバロ=アトモスも、座して攻撃を待ちはしなかった。
 吸収されたシヴァのマナが増幅され、アトモスのマナと混ぜ合わされて放出された。それは烈氷の光となって収束された。破壊の光線がサリナたちに襲いかかる。
「魔の理。力の翼。練金の釜! ブレイクマジック!」
 それよりも早く、セリオルはアイテムからマナを取り出して調合していた。金の針と聖水。状態異常を回復するふたつのアイテムで、セリオルは輝く壁を作り出した。
 壁に、破壊の光線が衝突した。両者は激しいマナの光を放出しながら互いを削り合う。光が止んだ時、壁も消えていた。
「マナを打ち消す壁?」
「ええ」
 眉ひとつ動かさずに答えるセリオルに、アーネスが感嘆の声を上げる。彼女としては助かる思いだった。これで今後、守る力が増えることになる。
 忌々しそうに毒づきながら、カスバロ=アトモスは着地した。
 そこへサリナが走りこんでいる。
 裂帛の気合と共に、サリナは高く跳躍した。一瞬で、彼女はカスバロの顔の高さまで跳んだ。2倍以上の身長差をものともせず、真紅の少女は棍を振る。
 カスバロは腕を上げてその攻撃を防御しようとした。だがサリナは構わず、その腕を攻撃した。サラマンダーとサリナ、幻獣と人間の融合したマナが、痛烈な一撃となって悪魔の腕を襲う。
 悲鳴が上がった。カスバロは甘く見ていた。サリナの攻撃力は、腕1本で防ぐことが出来るものではなかった。
 更なる攻撃を、サリナは加えた。
 火炎を放つ。カスバロはそれを、背中の翼で風を起こして押し返した。炎のマナによる攻撃は痛い。破壊された腕をかばいながら、カスバロは後退した。
 雷の猛禽が飛んだ。カインが放った獣だ。ラムウのマナを与えられ、紫電に輝きながら咆哮する。
 烈風の刃が放たれる。カスバロの迎撃だった。腹の口で吸収するのは、体勢上不可能だった。マナの爆発が起きる。
 その爆発を貫いて、サリナが現れた。
 度肝を抜かれ、カスバロはサリナの攻撃をまともに受けた。口を開く間も無く、腹部に強烈な一撃をもらってしまった。呼吸が止まる。
 ずん、と大きな音を立てて、悪魔が地に落ちた。サリナも着地する。同時に、シスララも着地していた。
 シスララとソレイユが、サリナの移動を手助けした。壁を蹴って跳んだシスララがサリナを押し、ソレイユがそれを加速させた。サリナは竜騎士のように、流星となってカスバロに突撃した。
 落ちたカスバロの上に、岩弾が現れた。タイタンのマナで、アーネスが仕掛けた攻撃だった。
 隙を突いた攻撃だった。だが、カスバロはそれを狙っていた。
 腹の口が開く。
「サリナ!」
 フェリオの声だった。驚いて振り返り、そしてサリナは瞬時に彼の意図を悟った。
 セリオルが風を放った。同時に、フェリオはマナ弾を撃ち出した。空中で融合し、勢いを増した風の刃は、アーネスの岩弾を切り裂いた。カスバロの上で、爆発が起きる。
「ぐひっ」
 予想しない事態に、カスバロは混乱した。
 そしてまたもや、彼の目の前にサリナが現れた。ちょうど腹の上にあたる中空。
「ぐひひ。馬鹿め」
 にやりとして、カスバロは勝利を確信した。あのマナを喰らってやる。あの強力なマナを喰らえば、増幅して放つ閃光も飛びぬけて強力になるだろう。その威力を想像して、カスバロはほくそ笑む。
 サリナが縦に回転する。高速回転が遠心力を生み、彼女の攻撃を、その体重の何倍もの威力に増幅させる。少女の声が上がる。渾身の一撃。そしてそれを、俺は喰らう。
 ――気づいた時には、遅かった。
 漆黒の闇を抱く腹に、激痛が走った。
 何が起きたかわからなかった。ただ、彼は眼球が飛び出るほどに目を見開き、口から泡を吹いた。
 そして彼は悟った。さきほどのサリナの姿。光を、纏っていなかった。幻獣のマナも、自らのマナも、彼女は使わなかったのだ。
 オルガマージ。それはアシミレイト能力の無い塵魔を吸収し、無理矢理人間と融合させる薬。その結果、カスバロはリバレーター同様、ひとの身体を有しながら塵魔の力を揮うことが出来る存在となった。
 だから彼には、物理的な攻撃が可能だった。敵を殴ることも、翼で打つことも出来た。そうでありながら、塵魔の力で強力に発達し、更に力のマナを吸うことで強さを増した。肉体は人間を離れ、悪魔がごとき強靭さを手に入れた。
 それが、あだになった。
 サリナはマナを使わず、物理攻撃を行った。ファンロン流の力を、純粋に武術の力として放った。
「ごふっ……」
 腹の牙が折れていた。闇が失われた。サリナの攻撃が、アトモスのマナを吸う力を奪い去った。
 カスバロは吐血した。どろりとした血が、彼の顔を覆う。異常に発達したが、彼の身体は元は人間のそれだった。体内には当然、内臓がある。サリナの攻撃は、カスバロの体内に深刻なダメージを与えていた。
「終わりだ、クソ野郎」
 クロイスは跳躍し、盗賊刀を構えた。マナを吸う力を失ったカスバロに、とどめの一撃を見舞うために。
「リバレート・シヴァ!」
 紺碧の光があふれ出す。氷妃シヴァの幻影が浮かび上がった。凍てついた氷河のような美しくも冷厳な声。
 だが、その力が放たれることはなかった。
 口内の血を蹴散らすように、カスバロは閃光を放った。サリナが叫ぶ。
「クロイス!」
 それはアトモスの力を使った、恐るべき一撃だった。
 翠緑の光は極太の光線となって、クロイスを襲った。シヴァを解放しようとしていたクロイスには、それを回避する手立てが無かった。通常の人間であれば顎が外れたであろうと思われるほど大きく開かれた口が、破壊の力を生んだ。
 声も無く、クロイスは床に落ちた。紺碧の光が消える。
「ぐひ。ぐひひ。ざまあみやがれ」
 ずるずると、カスバロは身体を起こす。そして意外にも素早く、彼はクロイスの小柄な身体をその腕で持ち上げた。
「野郎!」
 激昂したカインが走り出そうとした。だが、彼はそう出来なかった。
「くひひ……くひひひひ」
 少年の頭を握って持ち上げ、カスバロは嗤っていた。傷付き、力を失ったクロイスの身体を、悪魔はぶらぶらと揺らした。まるでそれが、自らの安全を保障するものだとでも言わんばかりに。
 カインはぎりりと歯を食いしばった。怒りが湧き上がる。握った拳が震える。カスバロの卑怯さに、彼は腹の底で溶岩が煮えているような怒りを味わった。
「ふひひ。ふひひひひ。どうだ、やれるか。この俺を、やれるか」
 そしてカスバロは、もう一方の手で腹を押さえながら、ガルーダへ近づいた。翠緑の光が生まれる。
「あいつ、また!」
 手出しの出来ない歯がゆさ。アーネスは剣の柄を握り締めた。ガルーダのマナが、また吸われてしまう。さきほどの吸収から、ほとんど時間が経っていない。いくら幻獣とはいえ、それほどマナが回復してはいないだろう。マナが尽きた時、幻獣は一体どうなってしまうのか。
 焦燥だけが募る。誰も手出し出来ず、カスバロはクロイスを身体の前にぶら下げたまま、ゆっくりとガルーダのところへ移動していく。
 だがそこで、彼の移動は止まった。
 ぼぎ、というような音がした。その直前、眩い光が閃いた。
 悪魔の巨体が倒れた。起こったことを認識する前に、カスバロは鳳龍棍で貫かれていた。
「サリナ!」
 叫んだのはセリオルだった。
 真紅の光。旋風よりも迅く、サリナはカスバロの膝を破壊していた。彼女から目を離したのが、カスバロの敗因だった。その紅の光を目にしてから、ようやくカスバロは自分の身に何が起きたのかを認識した。続いて、引き攣るような激痛がやってきた。
「ぎゃああああああっ!」
 腹だった。さきほど激しいダメージを受けた腹が、抉られていた。
 サリナは怒りに燃える瞳で、鳳龍棍を放った。
 真紅のマナが注ぎ込まれた。焼け付く痛みがカスバロを襲う。同時に、彼はどういうわけか、身体から力が抜けていくのを感じた。自分を支えるあらゆるものが消失していくような、不安な感覚だった。
「あ、ありゃあ……何してるんだ?」
 カインにはよくわからなかった。彼の目には、カスバロ=アトモスの身体から、ゆらゆらとした翠緑の光が立ち昇っているように映った。同時に、悪魔の身体が縮んでいく――いや、削れていく?
「サリナ!」
 セリオルの声は切迫していた。だがサリナはこちらを見ない。
 仲間たちは気づいた。サリナの瞳が、真紅に染まっている。これまでに何度か目にした、あの瞳だった。
 カスバロ=アトモスは、もはや動かなかった。じわじわとその身体を光に変えていく。クロイスが、どさりと床に落ちた。だがサリナは、それに気づかないかのように、カスバロに鳳龍棍を差し込んだまま動かない。
 やがて、悪魔の身体は消えた。その全てが、光となった。
 そして光は横たわるガルーダを包み込んだ。