第160話

 しばらく、沈黙の帳が下りた。
 その間、翠緑のマナの光だけが動いていた。カスバロ=アトモスの姿は消えた。代わりに生まれ出た光はゆったりと空間を泳ぎ、そして実験テーブルに横たわる幻獣の身体へ注がれていった。
 フェリオは理解しようと努力した。目の前で起こった現象が何なのかを考えた。その優れた脳にあるあらゆる知識を動員し、あらゆる思考回路を接続した。神経細胞が活性化する。それを意識しながら、フェリオは考えた。
 サリナが鳳龍棍を、カスバロ=アトモスの腹部に差し込んだ。よほどの激痛だったのか、カスバロは絶叫した。耳を塞ぎたくなるような、不快な叫びだった。
 そして、カスバロ=アトモスは光となった。強大なマナを持った魔物や塵魔が、これまでにフェリオたちに敗れ、辿った末路に酷似していた。カスバロ=アトモスはその身に蓄えたマナ、そして幻獣ガルーダから奪ったマナを、全て解き放った。
 そして、悪魔カスバロ=アトモスは消えた。
 カスバロ・ダークライズは――死んだ。
「クロイス!」
 しじまを破り、倒れたままの少年の許へ走ったのはカインだった。アシミレイトは解除されていた。
「カイン!」
 その名を呼んだのは、セリオルだ。クロイスを抱き起こしたカインに、セリオルは薬瓶を投げた。水のマナの乏しいこの場所では、アーネスの風水術による回復は期待出来ない。クロイスを回復させるのは、回復薬を飲ませるしかない……今は。
 傷付き、意識を失ったクロイスの顔を、上へ向けさせる。意識が無くても、少量の液体であれば飲ませることは出来る。セリオルから受け取ったハイポーションを開け、カインはそれを少しずつ、クロイスの口に流し入れてやった。少しずつ傷が癒えていく。それを確認して、カインは徐々に顔を上げた。
 サリナは、静かに立っていた。右手に鳳龍棍を握り、アシミレイトは解除されている。さきほどまでの鮮烈なマナの輝き、その残滓を漂わせながら、少女は沈黙していた。
「っっっっあーーーーーーっ!! もうっ!!」
 突如響き渡ったその声に、カインはびくりとした。聞き覚えの無い声だった。不思議な声だった。この部屋に満ちたマナの力がそうさせるのか、力強く響き渡る声。鋭き疾風のような、激しい声。
 その瞬間、強い風が巻き起こった。それはちょうど、つむじ風と反対の動きをする風だった。中央から周辺へ向けて拡大する、喜びの風。
「あーーーーー清々した!」
 声の主は、翼を広げて浮揚した。空中で全身を大きく伸ばす。翼、腕、脚、首。しなやかに力強く、伸びやかな四肢。淡い翠緑色の体表。ところどころを覆う濃緑の鱗。鳥類の鉤爪、美しき双翼。頭頂部を覆う柔らかな羽毛と、まるで華美な冠のような小さな翼。
「ざまーみろゲス野郎! あたしを汚しやがって! 許さねーぞ! ……あ、もういないか」
 ぽかんとして、セリオルはそれを見上げた。鮮やかに美しいマナの光を纏う、翠緑の鳥。いや、鳥の特徴をその身に宿す、艶やかなる風魔。風の幻獣、瑪瑙の座。その名は――
「……ガルーダ」
「お?」
 ガルーダは、さきほどの風圧にも微動だにせず、静かに立ったままの少女に気づいた。ふわりと翼を揺らし、彼女は床に降りた。
「おーい?」
 少女の虚ろな瞳の前で、ガルーダは手を振った。瞳は動かない。何も映していないのか。首を傾げながらも、ガルーダは彼女に話しかけた。
「あんたがあのゲス野郎を倒してくれたんだろ? ありがとね。人間も悪い奴ばっかじゃないんだなー」
 あっはっは、と愉快そうに笑うガルーダ。セリオルは手のひらを目の上に当てた。
「なんだか、随分軽い幻獣ね……」
「はい……幻獣様にも、あんなお方もいらっしゃるのですね」
 アーネスとシスララの会話に、セリオルは嘆息する。風の幻獣、瑪瑙の座。ようやく巡り会うことが出来たというのに、何だろうか、このがっかり感は。
「おーい、聞いてる? おーい」
 何度顔の前で手振っても反応しないサリナに、ガルーダは腕組みをした。少し思案して、彼女は別の方法で気づかせることを思いついた。
「よっ」
 ほんの少し、ガルーダは指先を動かした。猛禽の鉤爪のような指が、柔らかな微風を生んだ。翠緑のマナの祝福豊かな、そよ風。
 その美しい光の風を受けた時、サリナの瞳が動いた。瞳孔がすぼまる。光が宿る。瞼が動く。
 ぱちぱちと瞬きをして、次にサリナは驚いた。
「えっ……えっ!? あれっ、え、あれーっ!?」
「あっはっは! やーっと気づいた! ったく、瑪瑙の座の幻獣サマを前にして呆けてんじゃないよ。神サマだよ、あたし」
「あ、あの、えっと……はい、ごめんなさい」
「サリナ!」
 堪えきれず、フェリオは叫んだ。サリナはまだ、状況をよく理解していない。前回もそうだった。瞳が真紅に染まり、普段とは違う能力を発現した後、サリナは一時的に記憶を混濁させる。
「え?」
 両肩を掴まれ、軽く揺さぶられて、サリナは目の前にフェリオの顔があることに気づいた。差し迫った表情。
「ど、どうしたの、フェリオ」
 ただ困惑した様子のサリナを、フェリオはじっと見つめた。いつもと同じ、栗色の瞳。フェリオの背後から差す翠緑の光が、その瞳を照らしている。肩から力を抜いて、フェリオはいつの間にか止めていた息を吐いた。
「……いや、なんでもない」
「そっか……あれ、カスバロは?」
 その名に、フェリオは顔を跳ね上げた。思い出してしまう。サリナが、その手でカスバロ=アトモスを葬ったことを。あの不思議な力で、カスバロをマナの光に変えてしまったことを。
 サリナが、サリナの手が、その命を消してしまったことを。
「サ、サリナ……」
「ん?」
 状況を把握出来ずに困惑しながらも、サリナはフェリオに微笑みを向ける。明るく、素直で、心優しい少女。カスバロがどうなったのかを思い出した時、その心はどれほど傷付くことだろう。
 フェリオは逡巡した。時間が経てば、いずれサリナが自分で思い出してしまうだろう。その前に、自分の口から告げるべきだろうか。いや、そんな残酷なことは出来ない……したくない。だが、ここで言わずともすぐにわかることだ。記憶が戻るのに、それほど長くはかからない。そうなった時、サリナは尚傷付くだろうか。仲間から気遣われ、真実を伏せられたことに。
「ねえ、どうしたの?」
 小柄なサリナが自分を見上げている。その真っ直ぐな瞳を、フェリオは受け止めるのが辛かった。
 僅かに、サリナから顔を背ける。
 すると、目に入ったのは、セリオルだった。
 フェリオは目を見開いた。卒然と、彼は悟った。
 セリオル。何らかの秘密を抱えていることは明らかだ。そして彼は、それをサリナに打ち明けることが出来ずにいる。それはなぜか。
 簡単だ。今の自分と同じなのだ。なぜ今まで、そのことに思い至らなかったのだろう。
 セリオルは、恐れている――サリナを傷付けてしまうことを。
 当然だ。彼は、8年もの間サリナを見守ってきたのだ。自ら兄を名乗るほど、サリナという少女を大切に、守ってきた。何から守ったのか。恐らく、ゼノアからだ。
 王都での戦いを、フェリオは回顧する。ゼノアはサリナを欲しがっていたと、クロイスが言った。よくサリナを連れて来てくれた、ともゼノアは言っていたそうだ。つまり、理由はわからないが、ゼノアにはサリナが必要なのだ。
 どくん、と心臓が跳ねる音を、フェリオは聞いた。
 これまでのセリオルの言動。サリナが不思議な力を発揮するたび、何かを危惧するような表情を浮かべていた。そして語られない真実。ゼノアの言葉。サリナの言葉。幻獣と幻魔、そして塵魔。このハイドライトに出現した、光纏う者。そして――黒騎士。
 カインに殴られた時の、セリオルとの会話をフェリオは思い出す。恐らく、仲間たちには聞こえなかっただろう。それくらいの声で話し、かつそれが違和感を与えないようにわざと振る舞った。セリオルに質問し、答えを得るために。
 あの光纏う者の正体を、フェリオはセリオルに尋ねた。セリオルは、答えなかった。
 まだ言うことは出来ない。彼は、そう言った。
 だからフェリオは、セリオルに命令した。混乱し、不安の極致にあったサリナを、安心させてやってくれと。そのためには――嘘をついてもいい、と。
 あれは――
 フェリオの脳裏に、あの時のセリオルの言葉が蘇る。
 あれは、恐らく幻魔の失敗作でしょう――
 早鐘のように打つ、心臓の音。不快な汗が噴き出す。自分が、セリオルに頼んだのだ。嘘でもいいから、サリナを安心させてやってくれと。
 あの時、セリオルの言ったことを、フェリオはそれほど気に留めなかった。それがたとえ真実の言葉ではないにしても。なぜなら、目的はサリナを安心させてやることだったからだ。
 だが今になって、あの時のセリオルの言葉が、どれほど重要な意味を持っていたのかに、彼は気づいた。
 セリオルと目が合う。一瞬驚いたような顔をして、すぐにセリオルは目を閉じ、少し俯いた。フェリオにはその仕草が、自分の考えを察し、そしてそれを否定することが出来ない証であるように思われた。
「フェリオ……?」
 はっとして、フェリオはサリナに目を戻した。澄んだ瞳。
「ああ、あのゲス野郎なら、マナの光になって消えたよ」
 その声に、フェリオは弾かれるように振り返った。
 翠緑の風魔が、腕組みをして睥睨していた。
「あんたがその棍を刺して――」
「やめろ!」
 説明かけるガルーダに、フェリオは怒鳴った。瑪瑙の座の幻獣が、不愉快そうに顔を歪める。
「あ?」
 自分に怒鳴りつける人間を、ガルーダは睨み付けた。とても幻獣に対する態度とは思えなかった。
 だが、と賢明なる風魔は考える。この人間も、自分を悪しき人間の手から解放した者のひとりだ。今は不遜な態度を取っているが、彼も幻獣に認められた者。単なる不敬であれば、アシュラウルが諌めているだろう。
 ほんの僅かな時間考えて、ガルーダはすぐにフェリオの感情を理解した。
「ああ、そうか。心配いらねーよ。奴をやったのは、あたしだ」
「……え?」
 ぽかんと口を開けるフェリオに、ガルーダは薄く笑う。
「なんだ。幻獣が人間に手出し出来るのか、とか言いたそうだな?」
「あ、ああ……」
 幻獣はエリュス・イリアに物理的な干渉が出来ない。マナの力での干渉であれば可能だが、それはあくまでマナの力のみである。カスバロの肉体を消し去るようなことを、幻獣が行えるはずは無かった。それも、マナによる攻撃で強引に破壊するのではなく、あのように光と化して消し去ってしまうなどということは。
「カスバロのマナを吸い取ることは出来ても、それであの男の身体が消えてしまうなんてことは、起こらないはず……」
「そうさ、普通の人間ならね」
 ガルーダは、思い出すのも不愉快という顔をしてみせた。場違いながら、フェリオは感じずにはいられなかった。他の瑪瑙の座の幻獣たちもそうだが、このガルーダも随分、人間くさい。
「なるほど」
 足音と共に、セリオルの声が耳に入った。顔を向けると、魔導師はもう、あの鎮痛な表情を浮かべてはいなかった。
「ダークライズは、既に人間ではなくなっていた……あの薬によって、根本的にマナ生命体へと変質してしまっていたんですね」
「そゆこと」
 風のリバレーターとしての挨拶も兼ねてだろう。セリオルは、ガルーダに近づいた。
 ふと、フェリオは気づいた。彼の手の下で、サリナの肩が震えている。
「サリナ……」
「私、私……っ」
 記憶が、戻った。
 その手に持った鳳龍棍。武術の師から授かったという黒鳳棍を、金龍鉄で強化した棍。マナ伝導率の極めて高いその棍で、サリナはカスバロを攻撃した。瞳を真紅に染め、怒りに任せて、彼女はそれをカスバロの腹に突き入れた。
「サリナ、大丈夫だ。カスバロは、ガルーダが消したんだ。奪われたマナを、君の攻撃で弱った瞬間を突いて、ガルーダが奪い返した。カスバロはマナを失って消えた。人間でなくなってしまったのは、あいつ自身が選んだ道だ。君に責任は無いんだ、サリナ」
 努めて優しい声音で、フェリオはそう語りかけた。だが、サリナの震えは止まらない。
「フェリオ、私、こわいよ……」
 消え入りそうな声。ズキンと痛む胸に、フェリオは顔をしかめる。
「私、どうなっちゃうんだろう……何回も何回も、知らないうちにマナを使って、敵を倒して……私、どうしてそんなことが出来るの? みんなには出来ないよね……どうしてなの?」
 心臓が跳ねる。フェリオは、サリナのその問いかけに答えられなかった。明確なことが、まだ何もわかっていないから。
 ――いや。
 彼は胸中でかぶりを振る。違う。わかっていないから、じゃない。俺が、わかるのを恐れているからだ。わかってしまえば、本当にそれを、サリナに伝えなければならなくなる。
 俺は、それが怖い。
 頭の中に生まれた、ひとつの仮説。そのあまりの恐ろしさに、フェリオは身震いする。サリナに伝わらないように、心の中で。怯える少女に、これ以上の不安を与えないように。
「――そう。ジャボテンダーと話したんだ。なるほどねー」
 背後で、ガルーダの声がした。セリオルと会話していたのだろう。耳に入っていなかったが、セリオルはガルーダに、これまでにいきさつを話したようだった。
「残る神晶碑は、2つ。炎の神晶碑と、力の神晶碑です。あなたを捕らえたゼノア・ジークムンドの手の者は、その強力さ、狡猾さをなおも増しています。どうか私たちに力を貸しては頂けませんか」
「うん。ま、いいよー」
「軽っ!」
 クロイスの治療をしているカインが思わずそう叫ぶほど、ガルーダはあっけらかんとしていた。返事をされて、セリオル自身も戸惑ったくらいだった。
「あ、ありがとうございます」
「何びっくりしてんのよ」
「いえその、あまりにあっさりと請けてくださったので」
「だってラムウとかシヴァとかもとっくに協力してんでしょ? あのゼノアって人間、やばそうだし。あたし、身をもって経験したから、あいつのやばさ。ほっとくとまずいでしょ、あれは。そもそもムカつくし。マジ許せねー」
「……ほんとに幻獣? あれ」
「あらあら、いけませんよ、アーネスさん」
 半眼のアーネスとふわりと微笑むシスララ。そんな彼らの前で、ガルーダは光を放った。翠緑の力強い、マナの光。その光の中で、美しき風魔はクリスタルへとその姿を変えた。セリオルのリストレイン、翠緑色の首飾りに、ガルーダのクリスタルは収まった。
「サリナ、大丈夫ですか?」
 セリオルは、フェリオにしがみつくようにして震えているサリナの顔を覗き込もうと、身体を折った。
 サリナの反応は、意外なものだった。
 びくんと大きく身体を震わせて、サリナはセリオルから顔を背けた。
 決してその顔を、彼女は見ようとはしなかった。ただ震え、彼女はフェリオにすがりついていた。
 嗚咽が聞こえた。セリオルは、叫びそうになるのを懸命に堪えた。
 サリナは、自分を責めていた。
 セリオルが悪いわけではないことは、わかっていた。だがどれだけ努力しても、彼女の顔はセリオルのほうを向こうとはしなかった。
 こんなこと、したくない。セリオルさんを傷付けるような、こんなこと、したくない。
 だが、心がそれを許さなかった。自分に起きる異変。そのことについて何か知っているはずなのに、何も教えてくれないセリオル。それは、きっと深い理由があってのことだ。まだ、それについて語るべきではない。まだその時期ではないのだ。
 それをわかってはいても、どうにもならなかった。この押し潰されそうな不安と、何も語ってくれないセリオルとが、サリナの中でひとつになっていた。ふたつを切り離して、無関係なものとして認識することが、どうあがいても不可能だった。
 サリナは、ただ震え、泣いた。どうしようもなく不安で、どうしていいのかわからなくて、セリオルを傷付ける自分が嫌いで、しっかり出来ない自分が嫌で、だがどうすることも出来ず、彼女はただ、泣いた。