第161話

 空間に火花が散る。
 こちらとあちら、距離はそれほど離れているわけではない。だがその間の空間は、まるでほんの少しの刺激で大爆発を起こす火薬のような、極めて鋭利な危うさを孕んでいた。
 怒り、苛立ち、哀しみ、嫌悪……それらの感情が溢れ、凝縮されていた。
 髪が逆立つような感覚。全身の肌が粟立つ。顔が熱い。心臓の鼓動が速い。手が震える。呼吸が乱れる。その1点を見つめるあまり、視界が狭まるような錯覚を覚える。
 仲間たちは既に武器を構えている。警戒は最高点に達していた。
 耳の奥で血が渦を巻いているのを、サリナは聞いた。その渦を、どくんどくんと強い鼓動が後押しする。渦がどんどん近づいてくる。
 すぐにも飛び出したくなるのを、サリナは懸命に自制した。
 何が起こるかわからない。前回の反省を、サリナは覚えていた。
 ぎりりと音がした。目だけを動かす。
 音は、カインの手からだった。強く強く握られた鞭の持ち手が、軋んだ音だ。
 そうだ。カインにとっても、許すことの出来ない者だ。サリナは、その無念を想像して胸を痛める。
 泰然自若として、ただ椅子に座っている。こちらを見つめて、薄ら笑いを浮かべている。色素の薄いその肌は、薄暗い研究室ではほとんど真っ白に見えた。その気味の悪さが、ますます嫌悪感を煽る。
 7色の光が満ちていた。サリナたちは、すぐにアシミレイトをした。幻獣たちの警告も早かった。ここへ入った途端、彼らは一斉に叫んだ。それぞれのリバレーターへ、アシミレイトせよと。
「どう、して……」
 歯の根も合わなくなるほどの興奮状態の中、なんとかサリナは言葉を口に乗せた。うまく言うことを聞かない舌を、必死に制御する。
「どう、して、ここに、いるの……」
 その言葉が届いたのかどうか。肘掛椅子にもたれ、ゆったりと頬杖をついてこちらを見る、その姿勢から動きは無い。ただ薄い笑みを顔に張り付かせ、目の横に手を持っていく。そして面白そうに、愉快そうに、にやにやとしてこちらを見ている。
「どうして、ここにいるの……!」
 声が震える。怒りが、憎しみにも似た激しい怒りが、サリナの頭を白熱させる。激情だけが彼女を支配しようとする。それに抗おうとするが、すでに理性を感情が上回っている。
「どうしてここにいるの!」
 彼女は叫んだ。その、忌むべき名を。
「――ゼノア!!」

 幻獣研究所の秘匿研究施設、ハイドライト。その地下5階への扉は、これまでのようなセキュリティは施されていなかった。セリオルの先導で、サリナたちは地下5階へ下りた。
 カスバロがいた培養実験室には、さしたる手がかりは無かった。あの破壊された巨大な水槽も仔細に調べたが、これまでのこと以上の、ゼノアの研究を知るためのものは見つからなかった。
 地下5階には合成獣や機械兵の姿は無く、ひっそりとしていた。セキュリティ・ドアが無かったことも合わせて、この階にはあまり重要な機密は保管されていないのかもしれないという推測が出た。だが調べないわけにはいかない。地下4階までのセキュリティで十分であり、この階には研究所の限られた者だけが入ることを前提としている可能性もあった。
 地下5階は、照明が相当に絞られていた。光源が少なく、足元に注意して歩かなければ、そこかしこに散乱している小型機械や道具の類に足をぶつけてしまいそうだった。カインとクロイスがぎゃあぎゃあ騒いでうるさかった。
 だが、サリナとセリオル、フェリオの3人は、沈黙の中にあった。そのせいだろう。カインとクロイスが騒ぎ、それをアーネスが制圧したりしても、あまり一行の雰囲気は明るくはならなかった。
「……この暗いのが良くないのよね」
 アーネスが天井を指差して言った。シスララが頷く。
「マナライト・システムはフェリオさんがお持ちですし……」
 ふたりの声は小さい。その場を明るくしようとして奮闘していたカインとクロイスも、ばつが悪そうに頭を掻きながら騒ぎを収めた。
 重苦しい空気が漂っていた。この施設へ入って、もう何度目だろうか。
 サリナとゼノアの研究を巡る、何らかの秘密。アーネスもシスララも、もちろんカインやクロイスも、そのことについて考えないではなかった。いや、むしろ考えずにはいられなかった。
 最果ての島ハイナンから、サリナとセリオルはやって来た。カインとフェリオは、ハイナンでふたりと知り合った。クロイスとアーネスはセルジューク群島大陸で、シスララはファーティマ大陸で、一行と合流した。
 彼らはこれまで、サリナとセリオルの、旅に出るより前のことについて、それほど深く聞いてはいなかった。
 8年前、セリオルは幻獣研究所を出た。それは彼の師であり、当時の研究所所長であり、そしてサリナの父である、エルンスト・ハートメイヤーの指示によるものだった。
 ゼノア・ジークムンド。今や一行にとって、いや世界にとって最大の敵となったその男が、エルンストを幽閉した。研究所を乗っ取り、己の欲望のために世界のマナを占有しようとしている。それを事前に察知したエルンストが、セリオルに娘であるサリナを連れて、王都を出ることを命じた。
 16歳だったセリオルは、幼いサリナを連れて王都を出た。そしてエルンストから聞いていた彼の実家、ハイナン島のフェイロン村へたどり着いた。そこでダリウとエレノア、サリナの祖父母であり、エルンストの両親であるふたりにサリナを預け、セリオル自身は薬草学の知識を生かして、薬屋を開業して暮らし始めた。
 それから8年の間、セリオルはサリナを見守ってきた。いずれ彼女に分別がつき、エルンストを救出することが出来るようになるまで、成長するのを待っていた。炎のリストレインを扱い、サラマンダーの力を操れるようになるまで。
 それらの話から、アーネスは推測する。
 セリオルは、サリナが炎のリバレーターであることを、ずっと以前から知っていた。
 自分が地のリバレーターであることを知らされた時のことを、アーネスは回顧する。
 サリナたちが試練の迷宮へ挑むのに同行することを命じられ、そこから命からがら帰還した。サリナたちは国王に認められ、国王はその活動を支援することを約束した。そしてサリナたちが帰り、アーネスが通常任務に戻った直後、彼女は再び国王に召喚され、地のリストレインを授けられた。
 サリナたちと共に迷宮から戻った直後、彼女は国王から、リストレインに触れることを命じられた。触れてみると、リストレインは仄かな、琥珀色の光を放った。それを見たサリナたちは、驚きの声を上げていた。
 その光が、彼女がリバレーターであることの証だったのを知ったのは、リストレインを授けられた後だった。
 では国王は、なぜアーネスが地のリバレーターであることを知っていたのか。
 迷宮から帰還した時には、彼は既に知っていたようだった。アーネスが触れたことでリストレインが光を放っても、驚きはしなかったからだ。あれは、サリナたちにアーネスが地のリバレーターであることを知らせる、デモンストレーションのようなものだったのだろう。
 国王が知っていた理由について、アーネスは父から聞かされた。
 アーネスが地のリバレーターであることを発見したのは、父だったそうだ。サリナたちの旅に同行せよろの国王の命を受け、しばらくしてからそのことを明かされた。そんなことをしなくともアーネスの性質上、勅命に違うことなどありはしないのに、あえて父からではなく国王から事実を告げるほうが、より使命としての性質を強められると考えてのことだったそうだ。
 地のリストレインは、元はグランドティア家の家宝だった。幼いアーネスがそれに触れ、琥珀の光が現れたことに驚いた父は、そのことを国王に報告した。父はリストレインを受け継ぐ家系の長として、リストレインがどういうものであるかは理解していた。
 そのことを明かされた時、アーネスは父を詰問した。なぜ自分に、そのような重大な秘密を隠していたのかと。地のリストレインは、かつて6将軍のひとり、マルチェロ将軍が使ったリストレインだ。王国によって保管されているとは聞いていたが、まさか自分の家系がその任を担っていたとは思わなかった。
 その時、父は言った。
 リバレーターとは、過酷な運命を背負う者だ。出来ることであれば、その存在自体を知らないほうが幸福なのだ。
 勇王ウィルムと6将軍。歴史上、リバレーターとして戦ったのはその7人だけだ。それも、統一戦争という有史以来最大の戦争で、人智を超えた力を操ってという狂皇パスゲアを打倒するための闘いで。
 普通は、リバレーターのことなど知らずに暮らしていくことが出来る。アーネスは騎士だが、それでも普通の騎士として、騎士隊長として、他の3つの騎士隊を統べる隊長たちと同じように、通常の任務を遂行することで生きていける。
 だが、アーネスは生まれてしまった。ゼノア・ジークムンドという狂える天才が、世界に仇なす時代に。
 サリナ・ハートメイヤー。彼女が“運命の子”と呼ばれるのを、アーネスは聞いたことがある。運命の子。一体それはどういう意味なのか。
 王都を出たのは8年前だという。王都にいたころは、どこで暮らしていたのだろう。幼かったためか、サリナにその記憶は無い。エルンストやセリオルと共に、幻獣研究所にいたのだろうか。あるいは、別の場所にエルンストが居宅を構えていたのか。
 ――母親は?
 ふと、アーネスは思った。父はエルンストだという。では、母は誰なのだろうか。
 サリナはダリウやエレノアから、両親は事故で亡くなったと聞かされていたらしい。だが、父は生きていた。幻獣研究所に幽閉されている。では、母は? サリナの母は、やはり生きているのだろうか。それとも、やはりもう亡くなったのだろうか。
 不思議だった。これまで、サリナの母が話題に上ったことは無かった。
 いずれにせよ、今追及することではない。アーネスはそう結論付け、別のことを考えた。
 得体の知れない何かが、サリナに起ころうとしている。伏せられていたいくつもの真実。リバレーターのことも、両親のことも、自分に秘められた力のことも、サリナは知らなかった。ここへ来て、そのうちのいくつかのことが、覆い隠すヴェールを剥ぎ取られようとしている。
 サリナの不安はいかばかりだろう。さきほどのセリオルに対する、あの態度――これまで、サリナがセリオルから顔を背けるところなど、見たことが無かった。それほど、サリナはセリオルを信頼していた。
 今、サリナの胸には、不安と疑心、そして自己嫌悪が溢れていることだろう。
 サリナは、セリオルを嫌っているわけではない。それは絶対に無いと、アーネスにすら断言出来る。事実、今もサリナとセリオルは、視線も合わせず言葉も掛け合わないが、並んで前を歩いている。
 だが、ひとたび芽生えた不信の芽は、そう易々とは消えないだろう。一度は、サリナはやはりセリオルを信じようと決めたようだった。カスバロとの戦闘の前には、その様子が見て取れた。
 だが――
 ガルーダは、カスバロを消したのは自分だと言った。だからサリナが気にする必要は無いのだと。彼女は、ひとがひとの命を奪うことに、どれだけ抵抗があるかを知っていたのだろう。
 だが。
 あの瞬間を見ていたアーネスには、あれがガルーダの力だとは思えなかった。誰も口にしないが、他の仲間たちも同じことを感じているだろう。
「サリナ……」
 肩を落とし、とぼとぼと歩く小柄な少女の背中。そのあまりの寂しさに、アーネスはその名を小さく呼んだ。
 カスバロが命を落とすことになったのは、致し方の無いことだった。あのアトモスとの融合を解除することが出来たのかどうか、誰にもわからないのだ。誰かが最後の一撃を放ち、カスバロはこの世から消えることになったのだ。サリナたちが先へ進むには、恐らくその方法しか無かった。
 そんなことは、サリナもわかっているだろう。だがやはり、あの心優しい少女にとっては、そんな理屈は無きに等しい。しかもその瞬間、サリナの意識は無かった。
 暗く曲がりくねった廊下に並ぶ、いくつもの部屋。彼らはそれらをひとつひとつ、念入りに調べていった。アシミレイトやリストレインに関しての研究内容がわかる資料はいくつもあった。だが幻魔や塵魔、黒騎士、光纏う者等に関しての資料は、一切発見出来なかった。
「ちぇっ。やっぱ何も出てこねーな」
 さきほどからカスバロの攻撃で気絶したことをカインにやんやとからかわれてご機嫌斜めのクロイスが、口を尖らせてそう言った。カインがまた近づいて何か言おうとしたが、その前にクロイスによって向こう脛を蹴られ、悶絶した。
 嘆息が漏れる。アーネスは思った。世界のためでも、王国のためでもなくて構わない。何かひとつ、サリナのためになる事実は出てこないものか。彼女の塞ぎこみ、落ち込んだ心を軽くする、何かが。
「あら? ……あらあ?」
 シスララの声だった。アーネスは顔を上げた。
 ブルムフローラの令嬢は、右手に1冊の紙の束を持ち、左手の人差し指を顎に当てていた。
「どうしたの?」
 シスララに近づき、アーネスはその紙の束を覗きこんだ。
「あ、アーネスさん」
「何かしらね、これ」
 そこには、見覚えの無い文字が並んでいた。何かの資料の写しだろうか。統一戦争以来、全土で共通の言語――イリアス語が使われるようになってから、それ以外の文字は次々に消滅したはずだ。
「ねえ、セリオル!」
 名を呼ぶと、他の棚を調べていた魔導師は、すぐにやって来た。そしてシスララから紙束を受け取るなり、目を見開いた。
「これは――古代魔法文字です」
「古代?」
 問うアーネスに、セリオルは頷く。そのやり取りを聞いて、仲間たちも集まってきた。
「ええ。クリプトの書などに使われている、古い魔法文字です。まだ魔法が体系として出来上がっていなかった時代からマナを操る方法としても使われていた文字です」
「読めるのか?」
 カインの質問に曖昧な返事をして、セリオルは文字を追い始めた。
 しばらくは沈黙が続いた。セリオルの目と指だけが動く。仲間たりはそれを、じっと見つめていた。
 やがて、セリオルは顔を上げた。目頭を押さえ、長い息を吐く。
「何かわかった?」
 アーネスの焦れた声に苦笑しつつ、セリオルは頷いた。
「どうやら、思わぬ収獲がありました」
「何だ何だ? 早く教えろよ!」
 嬉しそうなカインに、セリオルは微笑を返す。その様子に、アーネスは少し安堵を覚えた。いつものセリオルだった。優しく、優秀なセリオル。
「次の目的地です。ファティマ大陸の最北端、銀華山。幻獣たちから聞いたおおよその位置とも一致します。おそらくそこに、イフリートがいます。炎の幻獣、瑪瑙の座の」
「おお!」
 ゼノアの研究内容に関してわかることは無かったが、それでもこれは貴重な情報だった。セリオルは仲間たちに、紙束が幻獣に関する書物の写しだろうと説明した。その中に、イフリートの御座に関する記述があったのだ。
 色めきたつ仲間たちの間で、サリナも顔を上げた。
 銀華山――。師ローガンから聞いた地名。ファンロン流の総本山があるというその場所に、イフリートがいるのだろうか。確か極寒の高山だと聞いたような気がするが……。
 いずれにせよ、胸の中に、僅かだがぬくもりが広がるのを、サリナは感じていた。

 そして彼らは、この部屋の扉を開いた。
 ゼノアの研究に関する手がかりを求めて、施設内の最後の部屋と思われる扉を、セリオルは押し開いた。その向こうに、彼はいた。
「どうしてって、おかしなことを訊くね」
 長い白衣を纏ったゼノア・ジークムンドは、薄暗い中でも不気味に光る赤い瞳を、サリナに向けていた。そこには、不思議な光が宿っていた。闇に蝕まれた、愛――そう表現するのが最も相応しいだろうか。
「ここは僕の研究室だよ。僕がいておかしいかい?」
 その空虚な言葉にどうしようもなく苛立ちながら、サリナはじりじりとゼノアを睨む。対するゼノアは、涼しい顔で立ち上がった。サリナたちは一斉に武器を構え、後ずさる。
 乾いた笑い。
「はは。そう警戒しなくてもいいよ。今日は別に何もしない。黒騎士だっていないだろう?」
 こつこつと靴音を響かせて、ゼノアはそう言った。まるで攻撃の意志が無いことを示すかのように、両腕を広げて見せる。
 セリオルは、ゼノアの背後の機械に目を遣った。おそらく、あれがゼノアがこの場に現れた手段だろう。
「インフリンジか……」
「ご明察だよ、セリオル。デジョンさ」
 セリオルは、その言葉には反応しなかった。あえてしないように努めた。ゼノアの研究自慢を聞くのはうんざりだった。
 デジョンという言葉を、研究所にいた頃に聞いたことがあった。闇のマナを使った瞬間移動の技術。インフリンジを応用すれば、確かに実現するだろう。だがセリオルにとっては、今はもうそれは、悪夢の象徴でしかなかった。ゼノアは、かつて構想していたことを次々に実現している。
「ウンブラはやっぱり失敗したか。ふふ。面白いものは見られたかい?」
 ゼノアが言う“面白いもの”が何を指すのか、サリナは考えるのも嫌だった。ウンブラの村人たちが、盲目的にゼノアを信奉していたことか。あるいは、この研究施設のことか。合成獣や機械兵たちのことか。それとも――カスバロのことか。
 サリナたちの誰も、ゼノアの質問には答えなかった。ゼノアは小さく笑い、続けた。
「やれやれ。随分と嫌われたものだね……まあいいや。さて、少しだけ教えてあげるよ」
 ゼノアの声に、サリナは耳を塞いだ。まるで体中の力を、魂を、抜き取られてしまうような錯覚に陥る。その次にゼノアが言葉を発した時、サリナは叫んだ。叫んだと思った。