第165話

「どうああああああああああっ!?」
「うおおおおおおおおおおおっ!?」
「わあああああああああああっ!?」
 大きな悲鳴を上げて、サリナたちはその場を跳び退った。嵐のような撒き菱と鉄製の矢とが降り注ぐ。整備されていない雪の山肌にそれらは突き刺さり、次の瞬間、爆発した。
「うえええええええええええっ!?」
「おいいいいいいいいいいいっ!?」
「きゃああああああああああっ!?」
 叫びながらも、サリナは空中で姿勢を上手く制御し、1回転して着地した。凍った地面に足を取られそうになるが、しっかり装備したアイゼンのおかげで踏み止まった。
 顎に伝う汗を拭う。防寒着は、既にある程度脱いでザックに仕舞った。激しい運動に、防寒着を身につけていては脱水してしまう危険があった。
「あった!」
 フェリオの声がした。仲間たちの視線が集まる。
 ガコン、と音がした。フェリオは両手で握り、岩と岩の間に差し込んだその棒を引っ張り出した。
 その穴の形は、正六角形に似ていた。だが、全ての辺が内側へ湾曲した奇妙な形だった。
 そう、マリの登山道具店で購入した、あの正体不明の棒の断面と同じ形だ。
「ふー、やれやれ。これでここも解除か」
 どことなくきりりとしてなんとなく爽やかな声でカインはそう言った。
「そんなカッコでなに言ってんだ」
 着地を失敗したのか、カインはへっぴり腰で転がっていた。クロイスにその腰をバシッと叩かれ、悲鳴を上げる。
「やれやれ……それにしても、手荒な歓迎ですね」
 セリオルは眼鏡を外し、汗をぬぐってかけ直した。彼がそう言ったのを聞いて、サリナはアーネスの占いを思い出した。
「え……ま、まさか」
 氷の山の祝宴。荒々しい歓迎の宴。占いは、その言葉で始まった。
「あの、アーネスさん……」
 ぱたぱたと駆け寄ってきたサリナに、しかしアーネスはかぶりを振って答える。細く束ねられた金色の髪が舞う。
「私の占いは、なんとなくイメージが見えるだけだから、よくわからないの。濃い靄か曇り硝子の向こうにあるものが、はっきり見えないけど言葉にだけなって出てくる感じなの」
「あ、そうなんですか」
 いずれにせよ大した問題ではないので、サリナは顔を上げた。目の前には、理不尽な罠で破壊された山道がある。
 ――登山は、5合目までは順調だった。
 マリの村の奥に、銀華山への登山口があった。麓から徒歩で登るため、山頂までは数日を要すると思われた。そのため、サリナたちは大きめのザックを用意し、その中に登山道具や食料、着替えの衣服などを詰め込んで村を出発した。
 常人には相当にきつい登山道だ。世界第二位の標高を誇る高山である。大多数の人々は遠くから眺めて満足し、近隣に住む者たちや旅好き、あるいは雪遊びが好きな者たちが裾野を訪れる。そう言う山である。
 登頂は、普通は不可能。無理にやろうとすれば、命の危険を伴う。それも、かなりの確率で。
 当然のことながら魔物も出現する。それも高山に適応した頑強な肉体を持つ種である。野生の獣は、さすがにこの過酷な環境では暮らせないのだろう、ほとんどその姿は無かった。
 だがサリナたちには、大した道程ではなかった。これまでもいくつも高い山を登ってきたし、何より彼らには、人並み外れた強靭な肉体があった。
 魔法の力などを使わずとも、5合目までは何の問題も無く登ることが出来た。問題は、その“門”を潜った先だった。
「この先、ファンロン流総本山への山道……進む方は、生命の危険を覚悟ください」
 読み上げて、サリナは仲間たちを振り返った。皆、なんとも言えない表情を浮かべていた。
 ちなみに、どうやら総本山は山頂にあるわけではないようだった。山頂への登山道は、総本山へのそれとは別にあった。ご丁寧なことに通常ルートへの案内板が、その門の隣に設置されていた。
 門を潜った直後から、盛大な歓迎が始まった。
 ほとんど1歩進むごとに何かの仕掛けが作動し、まさしく命の危険満載の罠が発動する。大岩や無数の槍といった定番にして大変危険なものはもちろん、危険なガスが噴出したり鋭い鎌鼬が発生したり、果てはどうやって造ったのか、山の形が変わるのではと思えるほど大規模な落とし穴まで存在した。
 あの不思議な六角形の棒が、ここで役に立った。
 仕掛けられた罠は、必ずどこかに解除装置があった。それは山の自然の中に巧妙に隠されていたので、初めのうちはなかなか気づかなかった。だがいくつ目かの罠をやり過ごした時、岩陰に不自然に開いている六角形の穴をクロイスが発見した。
 穴に棒を差し込んで押し込むと、ガコンと音がして罠が止まる。罠が発動する前に解除装置を発見できれば、余計な苦労をしなくても済む。あの不思議な棒は、そのために必要な道具だった。
 そして驚くべきことに、あの門を潜ってからというもの、マナの力が一切使えなくなっていた。何の力が働いているのかはわからなかったが、ともかくマナが全く使えない。攻撃にも回復にも、あるいは移動や撹乱などといったことにも、マナの力が完全に機能しなくなっていた。
 最も困惑したのはセリオルだ。彼は常人よりはもちろん優れるものの、仲間の6人と比較すれば体力面や運動能力で劣る。この過酷な山登りは、彼にとっては大変な苦労だった。
 とはいえ――
「体力の回復は、これで補いましょう」
 そう言って、セリオルはやおらザックからいくつかの道具と、植物の葉らしきものを取り出した。
「セリオル、調合は――」
「調合ではありませんよ」
 薬師の特技、調合。それはアイテム類から特有のマナを抽出し、手の中で合わせることによって、全く異なる力を生み出す力である。セリオルの得意とする能力だが、ここではマナの力が使えない。従って、調合を行うことも不可能だ。
 それを指摘しようとしたフェリオを遮って、セリオルは続けた。
「マナを使う調合ではありません。昔ながらの薬の術――煎じ薬です」
 断熱用のマットを敷いた上に腰を下ろし、セリオルは手早く道具を広げた。皿、すり鉢、すりこ木、小さな薬缶、網、ざる、小型の加熱機器。初めて見る道具に、仲間たちはぽかんと口を開けた。見慣れているのはサリナだけだった。フェイロンの薬屋で、セリオルはいつもこれらの道具で仕事をしていた。
「少し時間がかかります。周囲の警戒をお願いします」
「はい、かしこまりました」
 なぜかにこにこと上機嫌なシスララが真っ先に返事をして、セリオルを戸惑わせる。サリナはわかっていた。シスララは、セリオルの新たな面が見られて嬉しいのだ。
 まさかマナが使えなくなるとは思わなかったので、体力回復のための手段を特別に用意してはいなかった。サリナの白魔法にセリオルの薬。それにこれだけの雪山である。水のマナを風水術で操るアーネスの術も使えるという予想があった。
 だがマナの力が封じられ、頼れるのはセリオルの薬だけになった。その数とて無限であるわけはなく、ここで補充しておくのは重要な作戦だった。
 しばらく、地味な時間が続いた。セリオルが作業をする音以外に聞こえるのは、遠くで鳥が鳴く声くらいのものだった。
 束の間、休息を取ることが出来た。サリナたちは汗が乾いて冷えた身体を守るため、再び防寒着を着込んだ。フェイロンの女たちの温かな心が伝わってくるようだ。
 空気が薄くなってきている。どのあたりまで登っただろうか――眼下に広がる壮大な景色に、サリナはぼんやりと考えた。雲は、とうに目よりも下に広がっている。あまり多くはない。遥か彼方まで見渡すことが出来るファーティマ大陸の大平原。空の色とほとんど同じに見えるあの山のあたりが、ドノ・フィウメだろうか。エル・ラーダは流石に見えないだろう。
 澄み切り、氷のように冷えた空気を吸い込みながら、サリナはそんなことを思う。
 世界はどこまで広がっているのだろう。
 随分多くの地を歩いてきた。辺境の小さな村から始まったこの旅は、いつの間にか世界中を駆け回る大きな旅になっていた。王都に到着すれば終わりだったはずが、辺境自治区のほとんど全てを回ってしまった。
 数多くの出会いがあった。幾つもの価値観を知り、民や国を守ろうとする人々の闘いを見た。世界を襲う災厄の正体を知り、どうやら自分がその原因の、相当近いところにいるのだということも自覚した。
 この先、旅はまだまだ続くだろう。でも、とサリナは振り返る。
 相変わらずしょうもない言い争いをしてじゃれるカインとクロイス。それを諌めるアーネス、微笑んで見守っているシスララ。武器や装備の点検をするフェリオ。薬を作っては瓶に詰め、仲間たちには丸薬を配るセリオル。
 心強い仲間たち。この先も、彼らと共に歩んでいこう。真実はいまだ遠く、戦力でも知識でも、彼らの敵にはまだ及ばないかもしれない。だが歩みを止めてしまっては、何も始まらないし続かない。
 ここで、この山を進んで、総本山へ行こう。奥義を修得し、イフリートに会おう。そうすれば、次の道が拓けるかもしれない。
「うおわっ!?」
 サリナが静かに決意を固めている横から、クロイスの素っ頓狂な声が聞こえた。
 顔を向けると、何かにつまずいたのか、少年は仰向けになって転がり、雪に埋もれていた。
「おいおい少年、ワンパクすぎんだろー……あれ?」
 クロイスの足元に、それは見えていた。
 カインは我が目を疑った。クロイスが後ろ向きに歩いて足をひっかけたもの。崩れた雪とクロイスの足との間から、それは少しだけ見えていた。
 美しい赤。雪に濡れたそれは、初めは何かの布のように見えた。雪の中に埋もれていた、誰かが落とした布。だがクロイスが毒づきながら起き上がり、さらに雪が崩れると、その正体が明らかになった。
「うお……うおおおおおい! おいおいおいおい! 大丈夫かおいっ!?」
 カインが取り乱すのも、無理は無かった。
 それは、雪に埋もれてぴくりとも動かない、人間だった。

 休息の場は騒然となり、全員がなりふり構わぬ救出作業にかかった。
 フェリオの火炎放射器が役に立った。マナが使えないこの場では、純粋な炎を生み出す装置であるその重火器が、雪に埋もれた男性を助け出すのに多大な貢献をした。
 大急ぎで雪を除去し、引っ張り出した。アーネスが熾した炎のすぐ傍に、柔らかいマットを敷いて寝かせた。まずは服と身体を濡らす水を乾かさなければならない。本当なら服を脱がせてやりたいところだが、この極寒の山で一時的にとはいえ、半裸にさせることも危険そうだった。
 マナが使えれば……。誰もがそう考えた。セリオルの炎の魔法があれば、こんな焚き火よりも遥かに早く、この男を助けることが出来るのに。サリナの回復の魔法があれば、失われたであろう体力を戻してあげられるのに。
 だが、そう言った考えはある意味、杞憂だった。
「いやーよく生きてたなあ」
 素直な感嘆の声を、カインはその男に向けた。
 雪の下から引っ張り出した直後、男はぴくりとも動かなかった。身体は冷え切っており、すでに手遅れかとも思わせた。呼吸も鼓動も、止まっていたのだ。
 だが、焚き火の脇に寝かせてすぐ、男は呼吸を再開した。その心臓と血管の強さに、サリナたちは揃って驚いた。
 その後しばらく、セリオルがポーションなどの体力回復の薬を口に入れてやりながら寝かせていると、男は目を開いたのだ。
 カインの赤毛よりもさらに赤い髪。同じ色に燃える瞳。身につけているのは、赤と黒の2色で染め上げられた、派手な服だった。左右の腰に1本ずつ、不思議な形の短い棍を差していた。途中に持ち手のついた棍で、サリナによるとそれは、ファンロン流でも使われることのある、トンファーと呼ばれる武器であるとのことだった。そして無謀なことに、防寒着を持っていなかった。
「やーホント助かったぜー。サンキューな!」
 男は仮死状態から復活したばかりだというのに、不思議なほど元気だった。鍛え方が違う、と彼は言ったが、それにしても尋常ではない生命力だ。
 それに、起き上がってからの身のこなしも驚くべきものだった。立ち上がって身体の各所を伸ばす際、ほとんど音を立てなかった。サリナもアーネスもシスララも、その所作に感嘆した。これはよほどの武芸者だ――そう感じさせるに、十分だった。
 年の頃は、カインやアーネスと同じくらいだろうか。20代の前半に見える。引き締まった肉体に短めの髪。朗らかな表情を浮かべているが、恐らくその目は戦闘となれば、鋭い眼光を宿すだろう。
「俺はギル! ファンロン流ってやつの、総本山? だかなんだかを目指してる途中で、トチッちまってあのザマさ。はっはっは」
 大変快活な声でそう自己紹介したギルに、笑いが起きる。カインが自分に近しいものを感じたか、気安く近寄って肩に手を置く。
「はっはっは。そいつは災難だったなあ」
「やーまったくだぜ。はっはっは。俺は正に災難のために生きる男!」
「おいおいなんだそりゃ、災難のために生きてちゃ楽しくねえだろ」
「お? おお、確かにそうだな。こりゃ1本取られたぜ。はっはっは」
「はっはっは。おもしれえ奴だなあお前さん。はっはっは」
「……なんかうるさいのが増えた予感」
 頭痛でもするのか、アーネスはこめかみを押さえる。フェリオが頭を抱え、クロイスはいつ飛び掛ってやろうかとうずうずしている。
「見たとこ、あんたらもファンロン流を目指してんだろ?」
 不意に繰り出されたクロイスの大笑いを伴った飛び蹴りをひらりとかわして、ギルはそう訊ねてきた。なぜか親指を立ててこちらへ向けてくる。そしてなぜか白い歯を見せてくる。
「え、ええ、まあ……」
 なんとなく目を逸らすセリオルの曖昧な返事に、ギルは首を傾げる。
「お? なんだ、違ったか? あんたら全員、只者じゃねえように見えたから、てっきりそうかと」
 再び、今度は背後から強襲したクロイスの楽しげな回し蹴りを苦も無く回避して、ギルは笑顔で言う。セリオルは内心を悟られないように注意しながら続ける。
「いえいえ、目指しているのは目指しているんですがなんというか、まあその、目的地はそこなようなそうでもないような」
「んんんん?」
 腰から身体を斜め45度くらいに傾けて、ギルは頭の上に疑問符を浮かべる。そこにクロイスの愉快な肘打ちが繰り出されたが、ギルはするりと身をかわす。
「なんだなんだ、目的も無くこんなとこいいるわけじゃねえだろ? そんな重装備でさあ」
「ええまあその、まあそうというかなんというか」
「はっはっは。なんだーはっきりしねえんだなあ」
 苛立つ様子も無く、ギルは快活に笑う。
「はっはっは。まああれだ、総本山に行こうとしてんだ、俺たち」
 そしてカインがあっさりと言う。
「おいっ!」
 とカインとギルとクロイス以外の全員が心の中で叫んだが、さすがにギルに申し訳ないので、口には出されなかった。クロイスのパンチは片手でいなされる。
「おーやっぱりそうなんじゃん。じゃあさ、一緒に行こうぜ? 助けてもらった分、働かせてくれよ!」
「おう、いいぜいいぜ! 旅は道連れってやつだな!」
「そういうこった! はっはっは」
「はっはっは」
 セリオル、フェリオ、アーネスの3人が、疲れ果てたようにうなだれた。やっぱりこうなるのか……と彼らの雰囲気が語っていた。賑やかな者が一行に加わると、大抵ろくなことにならない。ような予感がする。
 かくしてファンロン流総本山を目指す一行に、妙に明るく快活な男、ギルが加わることになった。
「……野郎、できる!」
 最後に放たれたクロイスの鋭い声には、全員から「わかってるよ」と無言の返しがあった。