第168話

 高窓の外から葉鳴りの音がする。標高の高い猛鷲の階では、風が強い。不思議なことにこの地に根を張る植物はいずれも生命力に溢れ、青々とした葉は太陽の光を受けて煌いていた。
 ふと、フェリオは考える。ここは既に雲の上の地である。門の外の地面は、雪というよりは氷の粒が覆っていた。空気は冷たく、薄い。そんな場所で、どうして植物が育つのだろう。
「――よろしくお願いします」
 フェリオの思考は、凛として響いた声によって中断された。
 赤と橙、ふたつの色の武道着が、それぞれの持ち主であるふたりの少女によって纏われ、対峙していた。デザインの雰囲気がよく似ている。ハイナン島特有のものである。
 ファンロン流武道術。世界的に見れば、決して大きな流派ではない。戦いとは無縁な暮らしをしている人々の多くは、その名すら知らないだろう。実際フェリオもサリナと出会うまでは、名だけは知っていたが、どんな武術なのかは知らなかった。
 だがその武術の強さを、彼はこれまで幾度と無く目にしてきた。
 サリナの才能や身体能力の高さが、そう見せているのかもしれない。だがその技の華麗さと、高速回転による遠心力から生み出される破壊力の高さは、疑いようが無かった。あの小柄なサリナが、その身体の何倍もの巨躯を誇る魔物を一撃で撃退するのを、何度も見た。
 ローガン・ファンロン。フェイロン村でサリナにファンロン流を教えたという男。サリナにとって2度目の旅立ちとなったあの日、フェリオはローガンの放った気魄に気圧された。あの場の全員がそうだっただろう。
 そのローガンも、かつてはこの場で修行を積んだのだろう。ここで認められ、道場を開くことを許された。そして彼はフェイロンでファンロン流を教え、サリナに出会った。
 成長し、サリナは強くなった。師であるローガンが、あっさりと負けを認めるほどに。
 時はめぐり、サリナはここへやって来た。ファンロン流武闘術、その奥義と呼ばれるものを修得するために。
 いつもと同じ型で、サリナは構えた。対峙する少女も全く同じ構えを取った。そのことにサリナは少し驚いた。だが考えてみれば、当然のことだ。ふたりとも、同じファンロン流の使い手なのだから。
 ファンロン流武闘術、天の型。サリナが得意とする型で、スピードを重視する。何よりも瞬発力を求められる型で、目にも留まらぬ動きと、身体を高速回転させることで生み出す遠心力とで、相手を撹乱し、打ち倒す。
 サリナは瞬時に悟った。目の前の少女――ユンファも、サリナと同じ天の型の使い手だ。
 天の型同士の勝負であれば、肝になるのは速度と瞬発力だ。そのいずれも、下半身の筋力と体幹の強さが物を言う。
 詳しい自己紹介はまだだが、恐らくユンファはサリナと同じくらいの年齢だろう。まだ若く、発展途上だ。
 だが彼女も、あの山の罠を突破して、ここへ到達したのだ。協力者がいたのか、誰かと共に登ったのか、そのあたりのことはわからない。何度失敗して何度目に門へとたどり着いたのか、それも不明だ。だが、少なくとも罠を突破したことには違い無い。それだけで、サリナにその能力を認めさせるには十分だった。
 徒弟。それがファンロン流における、ユンファの身分だった。
 対して、サリナはローガンより、免許皆伝を授かっている。総本山と地方道場とでその意味合いは異なるのかもしれないが、普通に考えれば、ユンファよりサリナのほうが実力は上だろう。
 カインはそう予測していた。常識的に、道場を開くには師範以上の認定が無ければならないはずだ。つまりローガンは、この総本山で師範と認められた者。そのローガンに、サリナは実力の上で勝ってはいても劣ってはいなかった。
 だから彼は、この試合はサリナの圧勝で終わると考えた。
 向かい合っていたふたりが、動いた。
 飛び出したのは同時だった。サリナもユンファも、素晴らしい瞬発力だ。少し開いていた距離が、瞬きひとつもかからぬ時間で一気に詰まる。
 先に仕掛けたのはユンファだった。
 突進から身体を低くし、低い回転蹴りが放たれる。サリナの脚を狙ったものだ。鋭い一撃だった。サリナは慌てて制動をかけ、その場から飛びのいた――はずだった。
 その動きを予想していたユンファは、サリナが取った行動に度肝を抜かれた。
 サリナは後ろや上ではなく、前に逃れた。ユンファが態勢を低くした瞬間、サリナはユンファの攻撃方法を悟った。彼女は前へ、鋭く跳んだ。放物線を描くような緩やかな跳躍ではない。直線的な、俊敏な跳躍だった。
 踏み切りの瞬間、サリナは身体を捻った。跳躍しから、自分の下にいるユンファの胴体をめがけて、蹴りを放つためだった。一瞬見えた表情から、ユンファが動揺しているのがわかった。勝負を決める好機。
 放たれたサリナの回転蹴りは、しかしユンファがかろうじて出した腕によって防がれた。
 だがダメージはあった。苦悶の声を上げて、ユンファは床を転がった。素早く立ち上がる。蹴りを防いだ腕が痺れている。
 サリナの行動は早かった。追撃を仕掛けるべく、すぐに床を蹴った。
 まるでふたつの流星がぶつかり合っているようだった。サリナとユンファは、接触しては離れ、時には交錯して、攻防を繰り返した。どちらかの攻撃が決まり、あるいは双方とも失敗して、次から次へと接触が繰り返される。
「やっぱすげえな、サリナは」
 カインの感嘆の声が漏れる。自分にはあんな動きは出来ない。
「あのユンファってのも大したもんだな、サリナの動きについてってる」
 あまり緊張感の無い声を出したのはクロイスだった。彼も、サリナが勝利することを微塵も疑っていない。彼の言葉は、あくまでサリナの実力ありきのものだった。
 幾度目かの接触をサリナとユンファがした後、セリオルはそれに気づいた。
「サリナ……?」
 サリナが顔をしかめていた。呼吸が荒れている。
 対して、ユンファのほうはサリナよりもダメージを負っているものの、闘志に溢れた目でサリナを見つめていた。構えにも隙が無い。呼吸は整っている。
 初めて、ユンファだけが動いた。
 サリナの動きが遅れた。その顔に焦燥を貼り付かせ、サリナは床を蹴った。
 だが既に最高速度に達していたユンファに、サリナの動きは追いつけなかった。
 裂帛の気合と共に放たれたユンファの回転蹴りが、サリナに命中した。回避が間に合わず、サリナは腕を上げて防御した。その腕ごと、サリナの身体は吹き飛ばされた。
「サリナ!」
「静かに!」
 思わず立ち上がりそうになったのを、セリオルたちはルァンによって制止された。ルァンは道場の端に立ち、ふたりの試合の判定を務めていた。
 サリナはすぐに立ち上がった。ついさっきのユンファと同じ動きだった。
 だがその時と異なるのは、サリナの呼吸が大きく乱れていることだ。
 そんなサリナを、アーネスは初めて見た。これまでの戦いで、これほどサリナが苦しそうにしているのを、見たことが無かった。どれだけ激しい戦いにおいても、サリナの呼吸が乱れることはほとんど無かった。
 心肺機能が、きわめて強い。それが、サリナの強さの要因のひとつであることを、アーネスは知っていた。瞬発力頼みの一瞬の強さではない。粘り強く戦闘を続けることが出来るだけの体力と循環器の強靭さを、サリナは持っていた。
「そうだわ、空気が薄いから……!」
 そう、ここは世界第二位の標高を誇る銀華山、その頂上に近い場所だ。地表とは空気の――酸素の濃度が全く異なる。
 それでも、あの罠を突破する、あるいは魔物を撃退するくらいであれば、サリナにとってもアーネスたちにとっても、どうということはなかった。
 だが今の相手は、ファンロン流の使い手だ。サリナと同じ流派、サリナと同じくらいの年齢と体格、そしてサリナと同じ天の型。地表であれば、サリナはユンファを圧倒したかもしれない。だがここでは、そうはいかなかった。
 ふたりの間には、決定的な差があった。
 酸素濃度が薄い場所に対する、慣れだ。
 整わない呼吸に、サリナが苦しげな表情を浮かべる。汗の量が増えている。
 その隙を、ユンファが突いた。
 まだまだ豊富に残っている体力を使って、ユンファはサリナの周囲を高速で動き回った。酸素の足りていないサリナの目と脳は、その動きを捉えるのに苦労した。構えを取ったままで、サリナはまごつく。
 そしてサリナが十分に混乱したと見たユンファは、一気に勝負に出た。
 その見慣れた動きをサリナ以外の者がしているのを、奇妙な違和感と共にシスララは見つめていた。
 右脚を軸にした高速回転。床の木板が焦げるのではと思わせるほどの鋭い回転。その回転の力で強敵を打ち破るサリナの姿が、シスララの瞼の裏に焼きついている。
「サリナ……!」
 吸っても吸っても楽にならない呼吸。酸欠状態は視界の不良を引き起こす。これだけ激しい戦いだ。サリナの目は、もはやユンファを捉えられていないかもしれない。
 この試練に敗れたとして、総本山での修行が出来なくなるわけではない。この猛鷲の階、徒弟の段階から始まるだけのことだ。一挙に師範代や師範のところまで到達できなければ、1段ずつ上っていけばいい。時間はかかるが、不可能ではないはずだ。
 だが、そんなことは関係無かった。
 悔しさが、シスララの胸を焦がす。
 サリナが負けるところを見たくない。その純粋な気持ちが溢れるのを、シスララは自制出来なかった。
 サリナの名を呼ぶことは出来ない。ルァンに試合の妨害と見なされてしまう。仲間の声援を得て勝利することを、ファンロン流は良しとしないらしかった。
 サリナを見つめ、シスララは祈った。勝って、サリナ――勝って!
 ふらつく頭で、サリナは考えていた。
 油断、だっただろうか。
 どんな相手と対峙した時にも、サリナは油断しなかった。それはひとえに、彼女の謙虚さによった。
 彼女は決して、自分が絶対的に強いとは考えなかった。それは修行の成果というよりは、生来彼女が持っていた性質だった。驕らず、己を過信せず、真摯に戦うことが出来るのは、彼女の持って生まれた素質だった。
 彼女は反省していた。
 ファンロン流。長年、ローガンから指導を受けて取り組んだ武術の道。その道で、彼女は免許皆伝を受けた。その腕で、ここまで戦ってきた。マナの力や幻獣の力を借りたことも多いが、彼女自身の腕前が無ければ、ここまで来ることは出来なかっただろう。
 その、積み重ねてきた時間と努力と実績。それを、自分は過信してしまったのだろうか。
 空気が薄いことはわかっていたはずだった。その上で、ユンファと相対したつもりだった。
 拳を交えて、わかった。ユンファは強い。徒弟という立場にあると聞いたが、サリナの実力からそれほど遠く離れているわけではなかった。身体能力、間合いの取り方、判断力など、いずれも優れている。
 だが、それでも自分のほうが強かった。初撃のやり取りで、それがわかった。
 そこで、油断してしまったのか。短期決戦を挑まなければ、体力が持たない。だから彼女は、全力で勝負を決めようとした。だが、決められなかった。これは、油断が招いた事態か。
「……違う」
 ぽつりと、サリナは声に出した。誰にも聞こえなかっただろう。ユンファの気魄の声が迫っている。それに掻き消されて、彼女の声は誰にも届かなかった。
 だが、彼女自身には聞こえていた。
 いつの間にか、サリナは目を閉じていた。暗闇の世界で、自分の荒い呼吸と乱れ打つ心臓の音が聞こえた。遠くにユンファの声。そしてすぐ傍に、自分の声。
 違う。油断ではない。ただ、ユンファが強かったのだ。単なる実力の比較ではわからないところで、ユンファは強さを見せた。
 それは、経験だった。あるいは慣れだった。この過酷な環境での修行によって培われた、きわめて強靭な心肺機能だった。それが、サリナの予想以上にユンファの動きを迅速にし、そして継続させた。
「まだまだだなあ……私」
 サリナは目を開いた。呼吸が苦しい。心臓が痛い。
 だが、彼女は渾身の力で跳躍した。呼吸は止めた。どうせ苦しいのだ。今、この一瞬だけど全力で動くために、彼女は息を止めた。
 ユンファの驚愕した顔が見える。
 そしてサリナは、垂直方向に回転した。空中での姿勢制御は、彼女の得意とするところだ。
 踵を、たたきつけた。
 痺れるような傷みが、脚から脳天へと突き抜ける。
 ルァンは、その光景を目を見開いて見ていた。
 道場が震えた。床に穴が開いたのではと思った。
 震えが止まる。誰も声を発さない。静寂が満ちる。
 そして――
「ま……まいりました……」
 サリナの下で仰向けになり、顔のすぐ横に踵を叩きつけられたユンファが、そろそろと両手を上げた。

「んもーーーーーっ!!!」
 と叫んで、ユンファはテーブルをバンバン叩く。その隣で、サリナは苦笑している。
「くやしいくやしいくやしいくやしい! くやしいーーーっ!!!」
 昨日の印象以上に、ユンファは元気いっぱいだった。というより、きわめて騒々しかった。道場から宿舎に戻って休んでいるところだが、もう試合の疲れなど吹き飛んでしまったかのようだ。
 試合の結果、サリナは師範代への挑戦権を得た。かろうじての勝利だったが、勝利は勝利だ。
 セリオルたちはサリナの労を労った。試合の直後、サリナは自力で立ち上がれないほど疲労困憊していた。仲間たちはサリナを支え、宿舎へと運んだ。
 回復には、それほど時間はかからなかった。極度の疲労状態だったので、サリナは甘いものを欲しがった。水分と菓子を摂ってしばらく横になると、すぐに活力を取り戻した。
 試合は朝、行ったので、サリナたちは昼食の準備をした。実際には、ルァンとセリオルがそのほとんどを受け持った。ふたりは和気藹々として、ハイナン風料理を段取り良く作っていった。
「あなたの腕前には驚きました、サリナさん」
 今はその昼食の席である。ふんだんに用意された10人分の食事が、大きなテーブルに並べられている。サリナは疲れのせいであまり空腹を感じなかったが、箸をつけ始めてみると意外なほど食が進んだ。故郷の懐かしい味が嬉しい。
「そ、そんなあ……えへへ」
 頭に手を置いて恐縮するサリナに、ルァンは親しみの目を向ける。
「正直、ここの環境にすぐに適応することが出来ずに、ユンファに敗れるだろうと思っていました。あの土壇場での反撃は、見事でした」
「ううううくやしいよおおおおおおお」
 隣のサリナに憚ることなく、ユンファは大いに悔しがった。悔しがりながらも、口の中には大量の食べ物が詰め込まれ、咀嚼が続いている。
「君は悪い癖が出ましたね、ユンファ」
「うううう……はい」
 しゅんとして、ユンファは口の中のものを飲み込んだ。
「サリナさんが酸欠状態になったのを知って、油断したでしょう」
「も、もう言わないでーーー!」
「いいえ言います。前々からずっと注意しているのに、こんな時にまでその癖を出してしまうなんて」
「あううううう」
 ちくちくと小言を続けるルァンと、言われるたびにグサリグサリと何かに刺されたような動きをするユンファ。なんだか笑いを誘うふたりのやり取りに、ユンファの心情とは裏腹のほんわかした空気が出来上がる。
「まあでもさ、ユンファも強かったな!」
 カインからの素直な賞賛の声が向けられた。瞬間、ユンファは硬直し、すぐに相好を崩した。
「え〜そうですか? そうです? やっぱり? えへへへへー」
「こら、調子に乗るんじゃありません」
「あ、あうあう」
 フェリオは、ここまでのやり取りを静かに聞いていた。何か違和感があった。その正体がなんだろうかと考えながら箸を進めていたが、彼はようやく思い当たった。
「ルァンさん」
「はい?」
 名を呼ぶと、ルァンはユンファへの説教を中断してこちらを向いた。またしても割烹着に三角巾といういでたちだ。
「あなたは、ここの案内人だと自己紹介されていましたが……それだけではないですね?」
「あれ、そういえば」
 クロイスも気づいたか、不思議そうな目をルァンに向ける。
「なんで案内人が試合の審判して、徒弟に説教してんだ?」
「……はは」
 少しだけ笑って、ルァンは三角巾を取った。束ねられた黒髪がかすかに揺れる。
「いや、まさかユンファが敗れるとは思わなかったもので。失礼致しました」
 率直な言葉で語り、ルァンは頭を下げた。意外な行動にサリナは少し驚いたが、フェリオは静かにルァンを見つめていた。
「改めて、自己紹介させてください。私はルァン。ファンロン流武闘術総本山の――師範です」
「えーーーっ!」
「あんた気づいてたでしょ」
 大袈裟に驚くカインに、アーネスの鋭い言葉が手刀とともに食い込んだ。ぐえと呻いて、カインはぱたりと倒れる。
「へっへ……まあな」
「まったく」
 アーネスの呆れ声。だがそれだけしか、彼らの反応は無かった。逆にルァンのほうが戸惑い、彼はセリオルに目を向けた。
「まあ、何かあるとは思っていました」
 セリオルにそう言われ、今度はルァンのほうが驚いた。
「おや……」
「あんたの身のこなし、ただもんじゃねーのはすぐわかったって」
 ルァンの顔は見ず、料理に箸を伸ばしながらクロイスがそう言った。なぜか少し恥ずかしそうだった。
「ということは、崩熊の階まで進めば、ルァンさんの試練を受けるんですね」
 サリナがそう言った。ルァンは柔らかい微笑みを向ける。
「ええ、そうです。ただし、油断しないでください。豪牛の階を守る師範代も、なかなかの腕ですよ」
「はい」
 短く答えたサリナの目を見て、ルァンは不思議な感覚に包まれた。強い光を宿した目だった。これまでに見たことが無いほど、それは強い光――静かに揺らめく炎のような、力を持つ瞳だった。
「なーなーなー」
 その声は全ての会話を遮断するかのように滑り込んだ。ギルだ。
「俺の試練ってやつは? このあと受けれんの?」
 その言葉にルァンとユンファがぽかんと口を開けたのが気に入らなかったか、ギルの眉がわずかにしかめられる。
「えー。俺も一応、修行に来たんだけど」
「あ、ああ、そうでしたか。皆さんサリナさんの付き添いの方かと……」
「ええー。俺、言わなかったっけ?」
「言ってねえな。はっはっは」
「え、まじ? やーそっかそっか。はっはっは」
 そんなゆるい会話をしつつ、ユンファも流石に疲れていたので、ギルの試練は明日、行われることになった。