第169話

 昨日と同じ場所、同じ時刻。猛鷲の階の道場には明るい太陽の光が差し込み、柔らかなそよ風が高窓から吹き込んでいる。葉鳴りの音が聞こえる。世界第2位の標高は厳しい環境を生み出しているが、道場の外はそれでも比較的、平和そうだった。
 道場内は、白昼夢のような曖昧な静けさに包まれていた。
 誰もが唖然としていた。言葉は無かった。その場の全員の脳が麻痺していた。
 少女は床に転がっていた。気を失っているようだ。
 彼女は、ただの一撃の下に倒れた。
 交錯したのは一瞬だった。そしてその一瞬で、勝敗は決した。
「ありゃ……やりすぎちまった?」
 ギルは頭を掻いて、ルァンを見た。ルァンの視線は、倒れたユンファに注がれていた。

 サリナは訓練をしていた。
 豪牛の階へ進む権利を手に入れはしたものの、不安は大きかった。
 徒弟であるユンファに対する勝利も、かろうじて掠め取ったものだった。ユンファより格段に強いはずである師範代を、今のままで撃破出来るとは思えなかった。
 ユンファやルァンは、訓練の相手をしてはくれなかった。ファンロン流の門を潜る前にサリナはいるのだから、それは当然だった。だから彼女は、仲間たちを相手に訓練をしていた。
 彼らは焦っていた。
 ここへ至るまで、数多くの過酷な戦いを潜り抜けてきた。その度に彼らは強くなり、更なる力を身につけてきた。マナを扱える者はその練度を高め、扱えなかった者は扱う技術を学んだ。そうして自らのマナを操り、幻獣たちとの共鳴度を高め、ここまで進んできた。
 だが一方で、マナに頼らぬ戦い方を忘れてきてしまったのではないか。
 銀華山の罠を突破する過程で、彼らはそう感じ始めた。マナを封じられた途端、彼らを無力感が襲った。マナを使えないのにどうやって突破すればいいのかと、途方に暮れかけた。
 そして彼らの精神に決定的な一打を打ち込んだのは、ギルだった。
 今、ギルは宿舎でのんびりと休憩している。休憩など必要だったのかと思えるほど、あっさりと片付けた勝負の後だ。
「くっ……!」
 悔しさに、カインは歯軋りをした。
 いつの間にか、錯覚していた。王国騎士団の隊のひとつを纏めるアーネスから、実力を認められたことも原因のひとつだったかもしれない。
 自分たちは、強い。恐らく、この広いエリュス・イリアの中でも、随一と言えるくらいに。こと戦闘において、自分たちは世界でも最高級の力を持った集団だ。
 そんなことを、カインは自分でも気づかぬ間に、勝手に自負していた。
 今朝、それに気づかされた。そして同時に、その増長した考えを、叩き折られた。
 昨日、サリナがあれだけ苦労して破ったユンファを、ギルはほんの一瞬で沈めた。サリナとの試合の疲れがユンファにはあっただとか、そんな甘い言い訳など一切通用しないほど、圧倒的な実力差でもって、ギルはユンファを破った。
 ふたりは、同時に床を蹴って距離を縮めた。そして互いに、初撃を仕掛け合った。
 ユンファはギルよりもかなり背が低い。したがって腕や脚の長さも、ギルより短い。まともにぶつかっても、攻撃する前に潰される可能性がある。だから彼女は、ギルの視界から消えるべく、交差の直前で身体を沈めた。
 狙いは脚への回し蹴り――そう思わせるのがユンファの作戦だった。昨日のサリナとの試合でも見せた初撃。全く同じ動きをすることで、ギルの油断を招こうとした。
 だが実際にユンファが取ったのは、別の行動だった。そしてそれが、彼女の敗因となった。
 ユンファは身体を低くしたと見せて、すぐに伸び上がった。ギルにはそう認識された。実のところは、彼女は跳躍したのだった。ぐっと沈み込んでからの跳躍で、彼女は脚のバネを最大限に使い、ギルの顔より高く身体を浮かせた。
 その間、瞬きひとつも無かった。
 しかしギルは、ユンファの動きを見切っていた。
 突如視界から消え、そして再び現れた少女の鳩尾を、ギルは正確にひと突きした。
 たったそれだけのことだった。たったそれだけのことだったが、ユンファの身体は高速で吹き飛ばされ、道場の壁に背中を叩きつけられた。そして彼女は、気を失った。
 酸素の濃度がどうとか、心肺機能がどうとかいう話ではなかった。サリナですらすぐには対応出来なかったユンファのスピードに、ギルはいとも容易く応じてみせた。意表を突こうとしてユンファが取ったトリッキーな行動であったにも関わらず。
 その光景を、カインは呆然として見ていた。彼だけではない。彼の仲間たちも皆、ギルの恐るべき実力に、改めて度肝を抜かれた。
 叩きつけるようなカインの拳を防御しながら、サリナも同じ思いだった。
 驕っていた。自分は強いはずだと。ギルが予想より遥かに強かったことよりも、自分が現状に甘んじ、慢心していたことが悔しかった。
 上には上がいる――そのごく当たり前のことが、目の前に現実として突きつけられた。それは自分の身体能力、あるいは心配機能がまだまだ未熟であることを痛感したことよりも、なお強い自責の念となってサリナたちを襲った。
「精が出ますね」
 昼食の準備をするための水桶を持って出てきたルァンが、サリナたちに声を掛けた。訓練の手が止まる。
「悔しかったですか、サリナさん」
 サリナたちは皆、汗を滴らせて息を切らせている。慣れない環境での訓練に、まだ身体がついてこないのだろう。離れたところで瞑想しているセリオルも含めて、その必死な様は、ルァンの心を揺さぶった。
「……はい、とても」
 荒い呼吸で、サリナは答えた。瞳に宿る、厳しい光。カインも、フェリオも、クロイスもアーネスも、そしてシスララも、その瞳に同じ光を持っていた。そして、瞑想を中断して瞼を上げたセリオル。彼もやはり、同様だった。
「ここで己を鍛えるのは、良いことです。この高さで思うままに動けるようになれば、下での動きは段違いになる」
 ルァンは、サリナたちひとりひとりの目を見つめた。彼らが強さを求める理由を、ルァンは知らない。だが、ひたむきにそれを追い求めようとする意志の強さを、彼はサリナたちの目に見た。それで十分だった。ここはファンロン流武闘術、総本山。強さを求める者が集う場所。
「頑張ってください。豪牛の階へ挑む時期は、いつでも構いません。ただ、無理はしないように」
「はい」
 サリナの目を見る。あの不思議な光が見えた。視線を外すタイミングを逸しそうになって、ルァンは少しまごついた。

 紅茶の入ったカップをソーサーに置く。カチャリと上品な音。
 窓の外を見る。へし折れた塔はその無残な姿を晒したままだ。修復を申し入れられたが、彼はそれを認めなかった。恐怖の象徴は、誰の目にも映るままにしておかなければならない。
「うん、そっか。あと少しだね」
 窓から視線を動かさないまま、ゼノアは部下の報告に応じた。
「ありがとう。研究を続けてくれるかい」
「はい」
 一礼して、部下は彼の前を辞去した。
 ここまで、全ては順調に進んでいる。サリナたちが集局点を回っているようだが、彼の計画にとってはさしたる問題ではなかった。むしろ動きを掴みやすいという点で、サリナたちを泳がせておくことには意味があった。
 ハイドライトで対面したサリナを見て、ゼノアは興奮した。
 期待以上だった。この王都イリアスから遁走してからこれまでの間に、サリナは彼の予想を上回る速度で共鳴度を向上させていた。戦闘能力の高い手駒をいくつも遣わせた甲斐があった。
 しかも、サリナの共鳴度を上げるための手段は、彼の手のうちにまだまだある。彼は胸を躍らせた。思っていたよりも早く、サリナは仕上がるかもしれない。そうなれば、彼の計画自体も少し、前倒ししなければならない。
 歓迎すべきことだった。長年に亘って準備を進めてきたが、時間が想定よりかかることはあっても縮まることはほとんど無かった。
「やっぱりサリナは素晴らしいね」
 その言葉は誰に向けられたわけでもなかった。ただ、それを聞いている者はいた。
 ゼノアの傍らの椅子に腰を下ろした彼女は、黒いメイドドレスのスカートから、ほっそりとした脚を覗かせていた。その目に生気は無く、まるで光を映すことを忘れてしまったかのようだ。
 ゼノアが彼女を見た。だが彼女は特に反応を見せない。ゼノアの薄い唇の端が、僅かに持ち上がる。
「ま、元がいいもんね」
 その言葉は、彼女の目を見つめながら発された。彼女に向かって言っているようだったが、会話になってはいなかった。彼女は相槌も打たないし、首肯もしなかった。
 ゼノアは鼻歌を歌いながら、彼女から視線を外した。反応が無いことは問題ではなかった。ゼノアはそのことに立腹も苛立ちもしない。
 なぜなら、彼が彼女をそのように仕立てたのだから。
「ふふふ。楽しいなあ。ねえそう思わないかい、アルタナ」
 ゼノアは立ち上がり、窓へ向かって歩きながらそう言った。表情も無く、血色も見えない美しい横顔は、やはり何の反応も見せなかった。

 ユンファと並んで身体を洗う。
 宿舎の浴場は決して広くはなかったが、数人ずつで入るには十分だった。掃除も湯の管理も全て自分たちで行わなければならないので少し大変だが、フェイロンの自宅では同じようなことをしていたので、サリナにとってはそれほどの苦労でもなかった。
 浴場はひとつしかないので、男性陣と女性陣が時間で区切って使った。アーネスとシスララは、サリナとユンファのあとにすると言っていた。今頃ふたりは、部屋で休憩しているだろうか。
「うーうーうーうーうー」
 声のよく響く浴場で、ユンファはしきりに悔しがっていた。
 ギルとの試合のあと、彼女はしばらく目を覚まさなかった。鳩尾への一撃がよほど強烈だったのだろう。昼を過ぎ、夕方近くになってようやく起き上がった彼女は、そこからずっと悔しがりどおしである。
「あはは……」
 苦笑いするしかないサリナだが、内心は穏やかではなかった。
「くやしい……くやしいよううううう」
 2日連続で、総本山へ来たばかりの者に敗れた。しかも同じファンロン流を、恐らくは彼女よりも長く学んでいるであろうサリナにだけではなく、ファンロンのことを何も知らないギルにまで。それも、ただの一撃の下に。その事実は、徒弟として修行を積んでいた彼女の自負や矜持を傷付けるには十分だった。
 実際、ユンファの実力は大したものだった。空気の薄さというハンデがあったものの、サリナはぎりぎりまで追い詰められた。たとえば平地に下りての勝負だったとして、ユンファはもしかしたら今以上に、サリナに対して体力の面で勝るかもしれないのだ。
 身体を洗って、ふたりは浴場の広めの湯船に浸かった。
「はうー」
 適温の湯の心地良さに、ようやくユンファの表情が緩む。
 湯船の中で身体を丸め、肩まで浸かった状態で、サリナはユンファを見た。
 17歳だという。サリナよりも、ひとつ年下だ。あまり詳しい生い立ちは聞いていないが、地方道場での経験は無く、ファンロン流はこの総本山で学び始めたのだそうだ。
 ほろりと綻んだ横顔を覗き見る。どこにでもいそうな、普通の少女だ。とても武道を志し、相当な腕前であるとは思えない。
 湯の中で膝を抱える。その膝に顎を載せると、上唇まで湯の中へ入った。鼻にぎりぎり触れない湯面の、ほんのかすかな香りが鼻腔をくすぐる。
 自分を振り返ってみる。
 きっと武道着など着ていなければ、自分もユンファと同じように、知らないひとからすればごく普通の少女に見えるのだろう。小柄で、華奢な少女。フェイロンで暮らしていれば、その後に王都役人になっていたとしても、きっとそれほど多くのひとの目には留まらず、慎ましくこぢんまりとした、平凡で平和で、それなりに幸福な人生を送っていたのだろう。
 しかしこのエリュス・イリアを巡る運命は、サリナの人生を平凡なままに終わらせはしなかった。
 ユンファに話せることは、あまり多くない。ユンファもルァンも、サリナたちのことを少々不思議に思っているだろう。たったひとりの少女ために――ギルは途中で偶然出会ったのだから別として――6人もの、手練の護衛がついている。一体、この少女は何者なのだ。そう思われてもおかしくない。
 だが彼らは、サリナたちの事情などについて、深く訊ねはしなかった。それがファンロン流の流儀なのか、単に興味が無いだけなのかはわからないが、いずれにせよサリナたちにとっては、中途半端な嘘を吐く必要が無いのがありがたかった。本当のことを話して、この銀華山が危険に晒されでもしてはいけない。
 疲れが出ていた。ここ数日の強行軍に、さすがのサリナもやや参りつつある。ハイドライトからこっち、考えることもやることも多く、気が休まる瞬間が少ない。その点、広い浴場はありがたい。たっぷりした湯に浸かっていると、心身ともにほぐれ、まるでこの温かなゆりかごの中へ、疲れも悩みも流れ出していくようだ。
「――ねえ、サリナ」
 ユンファの声に、サリナは顔を上げた。少しだけうつらうつらしていた。顔を上げた拍子に湯が跳ね、ユンファに気づかれてしまった。
「あはは。お風呂で寝ると危ないよ?」
「う、うん」
 恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じる。縮こまっていると、ユンファが続けた。
「あのさ……あのギルってひとのことなんだけど」
 顔をユンファに向ける。少女の表情は、やや硬い。
「あのひと、何者?」
「え……?」
 漠然とした問いに、すぐには答えが出てこない。そもそもサリナも、ギルとはまだ出会ったばかりだ。彼がどんな人物なのか、そのひととなりはなんとなくわかるが、ユンファが聞きたいのはそんなことではないだろう。
「あのひと、普通じゃなかった」
「ふ、普通じゃない、って?」
 ユンファは硬直した声で続ける。
「あのひと、きをつかってる」
「……気を遣ってる?」
 そうは思えなかった。ギルはカインと並ぶか、カイン以上に自由奔放そうに見える。この猛鷲の階でも、ユンファやルァンに対して気を遣った行動をとっているのを、見ていない。
「違うよ。“氣”」
「き?」
 ぽかんとしてこっちを見ているサリナに、ユンファは驚きの顔を向ける。
「え。サリナ、もしかして“氣”を知らないの? ファンロン流、免許皆伝なんだよね……・?」
「う、うん、その、一応……。師匠からは、そう言われたんだけどなあ」
「ええ〜〜〜〜」
 信じられないという顔をするユンファに、サリナは戸惑いを隠せない。“氣”、とは何のことだろう。ファンロン流を修める者にとっては、知っていて当たり前のことなのか。しかしサリナはローガンから、そんなことは教わっていない。
「むむむ。もしかして、免許皆伝と“氣”のことは関係無いのかな? ごめんね、私もあんまりよくわかってなくって」
「ううん。それで、その“氣”っていうのは……・?」
「うん、あのね」
 ユンファは、たどたどしいながら“氣”について説明した。
 氣。それはファンロン流の極意と言われる力のことだった。生物が持つ力、生命力とでも呼ぶべきもので、ファンロン流を学んでいる者もそうでない者も、あるいは人間でなくとも、あらゆる生物が持っているものだ。氣を操ることが出来れば、すごい動きが出来るようになる――というのがユンファの弁だった。
「すごい動き?」
「うん、すごい動き。すっごいの」
「えーと」
 よくわからず、サリナは首を傾げる。
「すごいって、どんなの?」
「えーとねえ。うーん」
 要するにユンファもよくわかっていないのだ。そう察して、サリナは苦笑した。徒弟であるユンファは、まだ氣の使い方を知らないのだろう。
「ま、まあ、詳しくはルァンさんにでも訊いてみて?」
「うん、そうするね。ありがとう、ユンファ」
 教えてくれたことに感謝し、サリナは笑顔を向ける。ユンファもそれに笑顔で応えた。
 湯から上がり、さっと身体を流して、手ぬぐいで拭いて浴場を出る。その間も、ユンファは色々な話をしてくれた。主にファンロン流やこの総本山についてだが、年頃の娘らしく、下界――彼女は銀華山の外の世界をそう呼んだ――での流行のことなどについての質問もしてきた。それらに当たり障りの無い範囲で答えながら、サリナは別のことも考えていた。
 ギル。ファンロン流の極意であるという、氣を使うことの出来る、飄々とした男。結局サリナも、ユンファと同じ疑問を感じることになった。答えを得ることが出来るのかどうか、見当もつかない疑問を。
 一体、何者なのだろう――ギルは。