第170話

「わーっはっはっはっはっはっ!」
 巨体。浅黒く隆々とした筋肉。上半身だけはだけた武道着。頬骨の張った顔。太い眉。大きな目。大きな口。大きな声。坊主頭。
 その場にいるだけで気温が2度は上昇するのではと思えるほど暑苦しい見た目の大男が、豪牛の階を守るファンロン流武闘術師範代、フーヤだった。
 彼は手合わせを願い出たサリナを快く迎え、そして道場で対峙した途端、武道着の上をはだけて呵々大笑してみせたのだった。
「さあ〜かかってきなさいっ!」
 そう叫びながら、フーヤはどういうつもりなのか、サリナに向かっていくつものポーズを決めてくる。大いに困惑しながら、サリナは苦笑いを浮かべた。
「えーと、その……あはは」
「ムフンッ! どうしたかね、さあ、さあっ! かかってきなさい! ムフンッ!」
「うひゃひゃ。うるせえなああいつ」
 そう言いながら、観戦するカインは楽しそうだ。フーヤは暑苦しく騒々しいが、見る者を楽しくさせる男だった。
 次から次へとよくわからないポーズを決めるフーヤは、ファンロン流の構えを取ろうとはしなかった。かといって、隙だらけというわけではない。その奇抜な行動に戸惑いながらも、サリナはフーヤのことをよく観察していた。
 強い。間違い無く、フーヤは強い。巨体からにじみ出る気迫――筋肉のせいという話も無くはない――にしても、ユンファとは比べ物にならない。
 判定員は、ユンファとの試合の時と同じく、ルァンが務めていた。彼はフーヤのポーズや発言を咎めることも無く、静かに試合を見守っている。
 またフーヤの背後には、見学に来たユンファが座っていた。彼女はフーヤの背中とサリナに視線を走らせ、そして更に、サリナに後ろを何度か見遣っていた。そこには、のんびりと壁にもたれて座る、ギルがいる。
 いくつかわからないことがあった。だがひとまずサリナは、この高所での修行を優先した。
 ルァンは、豪牛の階へ進むのはいつでも構わないと言ってくれた。だがサリナたちは、何日もかけて酸素の薄さに身体を慣らすことを良しとはしなかった。
 彼らには時間が無いのだ。幾日もの時間を、ここでの修行に使うわけにはいかない。
 ユンファからギルのことや氣のことを聞いた翌日、その1日で、サリナたちは修行を切り上げた。十分に身体をいじめ、そして十分に休んだ。その修行の様子を見たルァンが驚愕の表情を浮かべたのを、しかし彼らは知らなかった。ファンロン流武闘術総本山の師範は、この厳しい環境にあっという間に適応してしまったサリナたちに、驚きの眼差しを送っていた。
 対峙するふたりを静かに見つめながら、ルァンは心臓が高鳴るのを抑えられなかった。
 サリナ・ハートメイヤー。ふらりとこの総本山を訪れた、小さな少女。そしてその仲間たち。永く武の道を歩んできたルァンから見て、彼らはいずれも素晴らしい才能と能力の持ち主だった。同時に、彼らは強さを求めていた。その理由は知らないが、彼らは強くなろうと必死であるように見えた。
 素晴らしいことだった。出来ることなら、彼らの全員にファンロン流を学んでもらいたい。知らぬ間にそんな思いを抱くようになっていたことに気付き、ルァンはまた驚いた。そんな風に思ったことは、これまで無かった。
 筋肉をアピールするポーズを取っているフーヤの前で、サリナは音を立てずに構えた。ユンファの時と同じ、徒手空拳。ファンロン流武闘術の教える構え。サリナの構えには、自己流による改変などは見られなかった。師から教わった通りの、素直な構え。
 かつてルァンがまだ少年だったころ、師範ローガンは銀華山を下りた。彼はファンロン流を世に広めるために。それ以来、ルァンはローガンに会っていない。あの時に見たローガンの背中を懐かしく回顧しながら、ルァンは胸中でひとりごちる。
 どんでもない逸材を見つけたものですね、ローガンさん。
 サリナが仕掛けた。
 その初動に、ルァンの目はくぎ付けになった。
 フーヤが慌てるのを、サリナは確認した。取っていたポーズをやめ、大男はすぐにファンロンの構えを取った。その時には、サリナはフーヤの懐へ飛び込んでいた。
 天の型は、速さを旨とする。
 スピードが攻撃力を生む。ファンロン流武闘術天の型は、その発想を突き詰める。
 速く。少しでも速く。人を超え、獣を超え、鳥を超え――風を超えるまで、速く。筋力と瞬発力を鍛え、極限まで求められる速さ。それはもはや速さではなく、“迅さ”だった。
 紅の風となったサリナの動きは、目にも留まらぬものだった。ユンファとの試合の時とは、既に別物だ。
 力強い踏み込み。放たれた一撃は、最も基本的なものだった。
 正拳、一閃。
 空気が燃えるほどの迅さで閃いた拳は、フーヤの腹部を貫いた。
「うわっ……」
 クロイスは言葉を失った。あんなものをもらったら、しばらく呼吸も出来ないだろう。痙攣した横隔膜が暴れ、肺を圧迫する。その地獄の苦しみを想像して、彼は口の中が酸っぱくなるのを感じた。
「フーヤさん!」
 ユンファの声。フーヤの身を案じて発された声だった。無理も無い、とフェリオはユンファの胸中を慮った。仲間が強烈な一撃を食らったのだ。逆の立場だったら、自分もサリナの名を叫び、立ち上がっていただろう。
 だが。
「えっ……」
 今度はフェリオが、言葉を失った。
 サリナの一撃は、必殺の威力を持っていた。人だろうと獣だろうと魔物だろうと、一撃で気絶させられる攻撃だ。
 当然、フェリオは考えた。あのフーヤという坊主頭は、その場に倒れるだろうと。呼吸困難に陥り、すぐに気を失うはずだと。
 しかし、フーヤは立っていた。
 攻撃が外れたわけではない。彼の誇った筋肉の、弱い箇所。鍛えようとしてもなかなか鍛えることの出来ない弱点――鳩尾。そこに、サリナの攻撃は決まっていた。
 だがフーヤは、立っていた。
 既にサリナは、フーヤと距離を取っていた。油断無く相手を見据えて、構えを取っている。
 フーヤは、サリナを見ていた。それも、ダメージなど感じさせない、爛々と輝く瞳で。
「た、耐えたってのか、今のに」
 カインも驚きを隠せなかった。これまで経験した戦いの中でも、今のは格別の一撃だった。サリナが放った拳の強力さを、彼はよく知っていた。
「ムッフッフッフッフ……」
 その低い笑いは、フーヤの口から洩れていた。
 さきほどから微動だにせず、フーヤは笑っている。己の防御に関して絶対の自信を持つことを表明する、勝ち誇った笑みだった。拳を構えるサリナの額に、汗がひと筋流れる。
「ムッフッフ。なんだね、この程度かね?」
 腰を低く落とし、握った右拳を前へ、左拳を腰の脇へ。その構えを、サリナは知っていた。ファンロン流武闘術の構えだ。それも、典型的な構えである。
 サリナはその構えを知っているが、彼女がその構えを取ることはほとんど無い。
「……地の型、ですね」
 ぽつりと、サリナは呟いた。その小さな声はさざ波のように、道場へと広がった。
 ファンロン流武闘術、地の型。サリナが得意とする天の型の対極となる型である。
 遠心力を利用して高い攻撃力を得ようとする天の型とは異なり、地の型は守りに重きを置く。そのために地の型では、重心を取る技術が重視される。同じ衝撃を受けた時、己の重心を上手く制御することが出来れば、ダメージを最小限に抑えることが可能となるからだ。
 そのため、地の型においては防御と受け身が最大の研鑚点となる。
 ただ、天の型も同様だが、地の型もやはり、向く者と向かない者とが存在してしまう。
 地の型を修得するのに向く者、それは逞しい筋肉を獲得し、隆々と発達した肉体を持つ者である。体重の重さは重心を落として敵の攻撃を受ける際、その場に留まってダメージに耐える、あるいは受け流すことにおいて、言うまでも無く重要である。反対に、天の型はその迅さ重視という特徴ゆえ、細身の者に適している。
 どれだけ鍛えても、どれだけたんぱく質を摂っても、一定以上に筋肉は発達しない。それは骨格や身長による制約であり、小柄なサリナにはどう努力しても越えられない壁だ。
 一方、フーヤは見るからに、地の型に適した肉体を有している。
 でも――とサリナは訝しむ。
 いかに地の型に適した分厚い筋肉を持つとはいえ、さきほどのサリナの攻撃、あれをまともに受けて、こうも平然と立っていられるものだろうか。
 サリナにしても、不得手であるとはいえ、ローガンから地の型の手ほどきは受けている。重心の移動方法や防御のしかた、受け身の取り方など、並みの使い手以上には心得があるつもりだ。
 そんなサリナの感覚が、正体不明の警告を発している。
 これは、サリナの知っている単なる地の型ではない。もっと何か、別のものだ。
「ムッフッフン。いかにも!」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、フーヤはこちらを見ている。自ら仕掛ける気は、今のところは無いようだ。
 サリナは攻めあぐねた。フーヤの力の正体が見えない。徒に攻撃を仕掛けても、さきほどのように通用しないだろう。かといって、フーヤのほうから仕掛けてくるのを待つもの得策ではなかった。何か得体の知れない力を使われて攻められては、それを防げるのかどうかわからない。
 そう考えて、サリナは卒然とした。
 得体の知れない力。
 そうだ。ユンファから教わったばかりではないか。ファンロン流に伝わるという、得体の知れない力。そしてどういうわけか、ギルが使用したという力。
「……氣」
 間違い無い。フーヤは、氣を使っているのだ。その証拠に、サリナの呟きに反応して、フーヤは右の眉を少し上げた。
 氣とは、あらゆる生物が生まれながらにして持つ力だと、ユンファは話してくれた。生命力そのものであり、それを操ることが出来れば、すごい動きを身につけることが可能になる……。
 フーヤは氣を使って、防御力を高めたのだ。
 だがそれがわかったところで、攻め手が無いことに変わりは無い。
 サリナの逡巡はほんの一瞬だった。ほんの一瞬だけ逡巡して、彼女は結論を出し、行動した。
 すなわち道場の床を蹴り、フーヤへ接近した。
「ムフン!」
 サリナのスピードは驚異的だった。動いたかと思えば、その時には既にフーヤの懐に飛び込んでいた。そして鋭い回転の力を得、彼女は右脚を振り抜いた。
 ビシッという乾いた音と、ズンッという重い音が同時に響いた。サリナの鞭のようにしなった脚が、フーヤの脇腹を捉えた。
 再び、サリナはその感覚に襲われた。フーヤの身体から伝わる感触が、やはり奇妙だ。普通の人間の身体を蹴った時に感じるものとは全く異質の、何か柔らかい樹脂のようなものを蹴ったようだった。
 そして同時に、その奇妙な感覚の正体を咄嗟に探ろうとして、後悔した。
「わははは!」
 嬉しそうに笑いながら、フーヤはサリナの右脚を、左腕で抱え込んでしまっていた。
 恐るべき力だった。動きを制限されては、遠心力を得ることが出来ない。すなわち、サリナは己の筋力のみでフーヤに対抗しなければならなかったが、対抗など出来るはずが無かった。体重と筋肉の量が違いすぎる。
「なかなかの迅さだが、それだけでは俺は倒せんよ!」
 そう叫んで、フーヤはサリナの関節を極めようと力を込めて身体を捻った。もう一方の脚も掴んでやろう。そうすればこの小さな少女は、為す術も無く彼の関節技の餌食となるだろう。
 しかしそのフーヤの目論みは、サリナに見破られていた。
 サリナは掴まれる前に、左足で床を強く蹴った。そしてフーヤの巨体、その分厚い胸板に足を着け、渾身の力で蹴り上げた。
「ムフォッ!?」
 それはサリナの、鍛えられた脚力とバネの為せる技だった。全身をしならせ、その反動を使って放たれた鋭い蹴りが、フーヤの顎を襲った。
 たまらず、フーヤは上体を大きく反らせる。
 その隙に、サリナは掴まれた右脚に力を込めで身体を捩った。フーヤの並はずれた腕力が、サリナの暴れる身体をがっちりと支える土台のような役割を果たし、真紅の少女は安定した瞬発力を得ることに成功した。
 その力で、サリナはフーヤの背中に回り、その大きな背中をよじ登った。
「ぐむむっ」
 素早いサリナの動きを追おうとするフーヤだが、既にサリナはその視界から消えた。彼女は背中を登り、フーヤの太い首に取り付いていた。
「てえええいっ!」
 裂帛の気合。叫び声を力に乗せて、サリナはぐんと身体を捻る。彼女の両脚が、フーヤの首に回っている。しなやかな少女の筋肉が、大男を床に叩きつけようとして軋む。
 だがフーヤは、黙して叩きつけられるのを待ちはしなかった。
 驚異だった。彼の力は、まさしく驚異だった。
 いかに巨漢であるとはいえ、サリナの体重はフーヤの、3分の1以上はあるのだ。それだけの重量が相当な勢いで身体を、しかも重心に対して高い位置から梃子の要領でひっぱろうとしるのを、耐えて見せた。
「ぐおおおおお!」
 全身で力んでいるため、その顔は鬱血して真っ赤だ。だが彼の上半身は、サリナの力に抗い切った。大きく反っているが、床まで到達する前に止まった。
 こうなっては、サリナは離れるしかなかった。そのままフーヤの首を極められるわけでもない。また捕まってしまうのが落ちだ。
 脚をほどき、サリナはフーヤと再び距離を取った。
 そして、突進してきた巨体の体当たりを食らい、吹き飛ばされた。
「サリナ!」
 セリオルの声が聞こえた。何が起きたのか、瞬時には理解出来なかった。だが頭が理解するより早く、サリナは受け身を取っていた。
 壁にぶつかる前に、床を無理やり蹴った。何度かそれを繰り返して勢いを殺す。叩きつけられる寸前で、サリナは踏みとどまった。
 立ち上がる。フーヤを見る。
 腕が痺れていた。さきほどの体当たりを防御しようと、咄嗟に出した左腕だった。
 フーヤの動きは速かった。サリナが仕掛けてくるのを待つのはやめにしたらしい。筋肉の塊は、その鍛え抜かれた下半身の筋力を使って、爆発的な突進を見せた。さきほどの体当たりも、この突進によって生み出されたのだろう。サリナに引っ張られた直後の無理な姿勢から、瞬時に立てなおしたというのか。
 それを実現するだけの筋力。背筋が凍る思いを、サリナは味わった。
「くっ……!」
 とはいえ、スピードならサリナに分があった。サリナの動体視力は、フーヤの全身の動きひとつひとつを正確に観察していた。フーヤの突進は回避され、逆にサリナによって足払いを仕掛けられた。
 フーヤはそれを跳躍してかわし、そのまま前転して立ち上がった。一方のサリナは、フーヤの次なる動きを警戒して、天の型の構えを取っていた。
 再び、両者は対峙した。はじめと立ち位置を逆転させて。
「ふはははは。なかなかやるではないか」
 活き活きした顔と声でフーヤがそう言うのを、サリナは虚ろに聞き流した。
 突破口が見えない。スピードで勝っても、サリナの攻撃では、氣によって守られたフーヤの地の型を破ることが出来ない。接近して投げ技や関節技に持ち込もうとしても、フーヤの圧倒的な筋力によって防がれてしまう。
 しかもなお悪いことに、息が切れかけている。
 全身の筋肉が乳酸を蓄積し、酸素を欲しがっていた。ユンファ戦の時よりはずっとましだが、下界で維持出来る量とは比べ物にならないくらい、サリナの持久力は少ない。
 短期で勝負を決めなければならない。攻め手が見えない、フーヤを相手に。
「ムフフン。どうした、来ないのかね。こっちからいこうか?」
 不意を突こうともせず、堂々としてフーヤはそう言う。正々とした態度。そして同時に、絶対の自信を窺わせる態度だった。
 少しでも呼吸を整えなければならない。焦る心を抑え、サリナは深く息を吸う。
 その時ふと、視界に入ったものがあった。
 サリナとフーヤの試合を見守る仲間たちの顔。サリナのことを心配そうに見つめている。その脇でギルが、ぼんやりと無表情でこちらを眺めている。そしてその少し左。さきほどまではサリナとフーヤの中間くらいの位置に立っていた、ルァンがいた。
 そのルァンが、胸に拳を当ててこちらを見ていた。
 不思議な感覚を、サリナは覚えた。ユンファとの試合の時、ルァンはそのような仕草を見せはしなかった。
 だがサリナが瞬きをした瞬間に、ルァンはその仕草をやめていた。顔もこちらを向いてはおらず、フーヤのほうに向けられている。
 妙だった。瞬間、目をぱちくりさせて、サリナは戸惑った。今のは、何だろう?
 だがそのことを考える時間は、サリナには無かった。
 再び、フーヤが突進してきた。やはり速い。天の型の使い手ほどではないにせよ、あの鍛え上げられた筋肉が生む瞬発力は、侮れるものでは到底ない。
 そして捕まってはいけない。サリナは、フーヤの突進をかわした。当然、フーヤは追いかけてくる。床を蹴って跳躍しながら逃げる。だが、いつまでも逃げているわけにもいかない。攻撃しなくては、勝てないのだ。
「ふはははは! どうしたかね、サリナくん! かかってきたまえ、さあさあさあ!」
 サリナを追いかけながら、フーヤの声は楽しそうだ。彼は試合が、戦うことが好きなのだろう。その点はカインと似ている。
 場違いにそんなことを考えながら、サリナは覚悟を決めた。
「お?」
 フーヤの顔に、にやりとした笑みが浮かぶ。
 サリナは逃げるのをやめた。突進してくるフーヤと向かい合う。脚を開く。腰を落とす。重心を下げる。
 フーヤが迫る。サリナは集中した。生半可な衝撃ではないだろう。だが、これしか手は無い。
 ファンロン流武闘術、地の型。迫りくる巨体を前に、サリナはその構えを取った。