第171話

 深く、息を吸う。
 腰を深く落とす。股関節の限界少し手前まで開脚し、腿と床が平行になるように構える。曲げた左腕を身体の前、右腕の肘を腰のあたりへ移動させる。肺へ空気が流れ込んでいく。その体積の割りに少ない酸素を意識しながら、サリナは猛進する相手を見据える。
 今にもフーヤがぶつかってくる。目の前に集中する時間だ。
 だというのに、その一瞬、サリナの脳裏に蘇る光景があった。
 ルァンだった。ファンロン流武闘術総本山の師範である、ルァン。さきほど彼は、胸に拳を当ててサリナを見ていた。その時の何かが、サリナの中でひっかかっていた。フーヤとの勝負、その勝敗を分ける喫水線に立った瞬間に、それが何だったのかをサリナは悟った。
 ルァンの、目だった。サリナを見つめる彼の瞳に、何かを伝えようとする意図があった。そのことに、サリナはこの瞬間になって気づいた。
 胸に拳を当てていた。サリナに伝えたい何かがあった。それは一体――
「ゆくぞっ!」
 フーヤの声にはっとして、サリナは目の前に集中した。巨体が迫る。
 息を吸う。肺の容量ぎりぎりの少し手前まで。空気の量がサリナの理想とするところまで達したのと同時に、フーヤの分厚い筋肉に覆われた肩が、ぶつかってきた。
 およそ人間と人間が衝突したとは思えないほど低く鈍い音が、道場を揺らす。
 ぎしぎしと全身の骨と筋肉が軋む音を聞きながら、サリナはその衝撃に耐えた。吹き飛ばされるわけにはいかない。壁に叩きつけられれば、大きなダメージを受けることになる。
 その刹那、サリナは不意に気づいた。
 全身がばらばらになりそうな衝撃。その中にあって彼女は、自分の心臓を思った。身体の中心に、胸の中心にある心臓。彼女は知った。ルァンは胸に拳を当てていたのではない。彼は、心臓を示していたのだ。
 気のせいかもしれない。だが、彼女は感じた。フーヤの体当たりによる衝撃が彼女にぶつかり、その後方へ伝わっていくほんの僅かな、ごくごく小さな時間の中で。
 前面からの衝撃に、肺が縮む。吸った空気が口の、食いしばった歯の隙間から漏れる。空気を十分に吸っておいたのはこのためだった。自らの肺を、その中の空気を、衝撃に耐えるためのクッションとする。
 恐るべき威力の体当たりだ。だがサリナは、耐えた。心臓に集まった血液が熱く滾るのを、彼女は実感した。熱い血が、彼女に力を与えてくれた。
 ぎりぎりと緊迫した一瞬が終わる。
「ムフンッ!」
 実に嬉しそうな笑顔で、フーヤはサリナから離れた。
 サリナは、フーヤの突進に耐えた。これだけの体格差と体重差を、地の型の構えで耐え切った。それがフーヤには嬉しかった。ここまで骨のある志願者は久しぶりだ。フーヤは直立し、握った両拳を腰に当てて笑った。
「わーはっはわわわ!?」
 だがそんな隙を逃がすサリナではなかった。
「えっ!? ちょ、ちょちょ、ちょっと、ちょっと待っ――」
 考えられないことに、サリナの動きはさらに研ぎ澄まされている。ただでさえ迅いサリナが、ますます冴え渡る素早さでフーヤに次から次へを攻撃を仕掛けてくる。フーヤは後ずさりしながら、かろうじてその連撃を捌いていった。
 ここしかない。サリナは、この攻撃に全てを懸けていた。
 渾身の体当たり。それを地の型でなんとか耐えた直後の、この瞬間。自らの攻撃をしのいだサリナに対して、フーヤは驚きか賞賛か、どちらでも構わないが、とにかく何らかの感情を抱いて対峙し直そうとするだろう。サリナのその読みは当たった。
「たああああああっ!」
 声を出すのは、自らに命令するためだ。酸素の欠乏に喘ぐ筋肉を、無理矢理にでも覚醒させ、動かすためだ。自分の脳を、そうして騙すのだ。
「うっ、くっ、ぬぬぬっ」
 フーヤは既に直立してしまった。サリナの竜巻のような連続攻撃を、彼は重心を高くした状態で捌かなければならなかった。ここで重心を落とそうと態勢を変えれば、その隙をサリナに突かれてしまう。
 サリナと距離を取り、腰に拳を当てて高笑いをしようとした。それが、彼の敗因となった。
「おうっ、うひょっ、ひええええ」
 手が足りない。サリナのスピードに、フーヤの反射速度は追いつけなかった。二の腕に、脇腹に、太股に、痛覚の鋭いところへ、サリナの攻撃が当たり始める。
「うおうっ!?」
 そしてついに、彼の膝がガクンと崩れた。顎を掌底で殴打され、脳が揺れたためだった。強かに蹴られて痛みに痺れていた腿が限界を迎えた。
 荒い息で、サリナは肘を突き出した。その鋭利な肘鉄は、フーヤの喉仏に当たる寸前で止められた。
 静寂が下りた。ただサリナの荒い呼吸の音だけが響き、そして彼女の、師範代を見つめる瞳に宿る強い光だけが煌いていた。
「――勝者、サリナ!」

「わっはっはっはっは!」
 酒に顔を赤くしながら、フーヤは楽しそうに笑った。
 豪牛の階の宿舎には、彼だけしか住んでいないようだった。徒弟がユンファひとりだけなのだからそれも当然だと、サリナはそれを聞いてから気づいた。
 フーヤはこの階で、生活の全てをひとりで行っていた。炊事や洗濯はもちろん、好きな酒も自分で仕込んでいるのだった。
「ユンファやルァンさんと一緒に食べたりしないんですか?」
 フーヤが腕によりをかけて作ってくれたハイナン風料理に舌鼓を打ちながら、サリナが質問した。フーヤの作る料理はハイナン風でありながら、どこか大陸の香りも混じっていた。使っている油や調味料が微妙に異なるのかもしれない。
「時々ふたりがここに来ることはある」
 今もユンファとルァンのふたりは、同じ卓についている。今回はこのふたりは、料理を手伝わなかった。フーヤがここの台所は自分の聖地だと宣言し、他の誰の侵入も許さなかったのだ。実際、彼の料理はその大雑把そうな彼の外見からは想像できないくらい丁寧で、美味だった。
「フーヤさんが行くことは無いんですか?」
「無いな。俺の料理のほうが美味いのだ」
「あはは」
 要するに彼は、もてなすのが好きなのだ。逆にもてなされることには慣れていないのだろう。そんなフーヤの人柄に、サリナたちは好感を持った。
「この肉うめえなあ! 何の肉だ?」
 こんがり焼けて甘辛い餡にからめられた料理をごくりと嚥下したカインが、上機嫌で尋ねた。
「それは肉ではないぞ。豆だ」
「豆ぇ!?」
 驚いて、カインは皿の中を覗き込んだ。どう見ても肉である。
「いやいやいやいや、これ肉だろ。肉だって。はっはっは、何言ってんだよ!」
「豆だ」
「うそつけ〜〜〜〜〜〜」
「嘘ではないぞ。我々は自給自足の生活をしているが、家畜を飼ってはいないからな」
「これが豆、ですか……」
 見事としか言いようが無い。おそらく大豆か何かだろうが、ここまで肉と区別のつかない食感と味に仕上げるとは、料理人にでもなったほうが良いのではと思えてくる。セリオルはそう考えながら、その豆の甘辛餡かけを口に運ぶ。
「フーヤさん、料理人にはなられないのですか?」
「ブフーッ」
 素晴らしいタイミングで叩きつけられるシスララの問いかけに、隣でセリオルが吹き出した。豆が飛び出すのはかろうじて耐えたが、咀嚼した豆のかけらが鼻のほうへ行きそうになって地獄の苦しみである。
「セ、セリオルさん、大丈夫ですか?」
「げほっ、げっほげっほっ、げっほ、ひぐ」
「セ、セリオルさん!?」
「ぎゃははははは」
 クロイスが腹を抱えて笑う。フーヤも笑っている。
「うひゃひゃひゃひゃ! それぁ言っちゃだめだぜシスララ〜」
「えっ? あら、あの、私……失礼なことを、申し上げてしまいましたか……?」
 大笑いのカインにたしなめられながらも、シスララはいまだよくわかっていない。
「わっはっはっは。いいのだ、俺も時々思うことがあるからな」
「料理人になれば良かったって?」
 アーネスが笑いながら聞き返す。フーヤは坊主頭に手をやった。
「うむ。もっとも、俺の料理はここの台所でしか作れんのだがなあ」
「え、なんでだ?」
 ぽかんとして訊ねたのはフェリオだ。彼は好みの料理である、米と様々な具材を油で炒めたものをほお張っている。チャーハンと呼ぶのだと、サリナが教えてくれた。
「なんでかはわかんないの。フーヤさんはここでしか料理できないんだ。下とか上で作ろうとしても、なんだかわからないキテレツなものになっちゃうんだよね〜」
 けらけらと笑いながら楽しそうに言うのはユンファだ。彼女はギョウザというらしい料理をいくつもいくつもずっと食べている。薄い小麦粉の皮で具材を包み、油と水で蒸し焼きにした料理だ。
「そんなことってあるか……?」
 首をひねるフェリオに、ルァンが答える。
「本当に不思議です。ここの設備と下や上の設備はほとんど同じなのに……世界七不思議のひとつと言っても過言ではない」
「いやそこまでじゃねーだろ! げらげら」
 フーヤの作った柚子の酒を気に入ったのか、クロイスは顔を真っ赤にしてふらふらである。呂律は比較的しっかりしているが、目つきが大変まずい感じになっている。
「そうですよルァン師。そこまでではないですぞ」
「ないですぞ」
 何かが引っかかったサリナが語尾だけを真似した。彼女はほとんど無意識だったが、その声が意外にも大きく響き、みんなの箸が瞬間、止まる。
「……え、あ、えーと……あの」
 狼狽しながら、サリナは顔を赤に染め上げた。
「えっとその……ごめんなさい、フーヤさん」
「うひゃひゃひゃひゃひゃ!」
「わっはっはっはっは!」
 いくつもの笑い声が交差する。試合の緊張や疲れが癒される、楽しい食事だ。
「はっはっは。やー、天然だなあ、サリナ」
 ギルももちろん同じ卓についている。彼は実に酒に強く、紹興酒と呼ばれる比較的強い酒を飲み続けているが、顔色ひとつ変えない。
「て、天然……?」
 その言葉の意味を理解していないサリナを肴に、宴はますます盛り上がっていく。
「つーかさ、フーヤがルァンに師とかつって、変な感じだな」
 クロイスが軽い調子でそう言ったが、それに今度はサリナが慌てる。
「こ、こら、クロイスっ。失礼だよっ」
「は? なんで?」
「年齢より立場のほうが優先なの、こういうところではっ」
「へー」
 しかしふたりのそのやりとりを聞いて、今度はユンファが慌てたような声を出す。
「あわ、あわわわわ。ふたりともっ」
「へ?」
 声を合わせてユンファを見ると、とてもとても小さな、しかしはっきりした声が聞こえてきた。
「ルァンさんは25歳っ。フーヤさんは23歳だよっ」
「……………えええええええええええ!?」
 せっかく小声でユンファが言ったのも完全に台無しにする大声をサリナとクロイスが上げ、なんだなんだとカインやフェリオ、ギルが興味津々、セリオルとアーネスとシスララがやれやれと笑い、話の種にされたルァンとフーヤはからからと笑っていた。
 笑い合う仲間たちとファンロンの面々の中で、サリナはしかし、心中穏やかならざるものを抱えていた。
 サリナとフーヤの試合が終わった直後、体力に全く問題が無いと胸を張ったフーヤが、続けてギルとも試合を行った。
 結果は、ギルの圧勝。ユンファの時と同じく、ほんの短い時間で勝敗が決した。
 フーヤの敗因は、油断や慢心ではなかった。彼は正真正銘全力で戦い、そして敗れた。
 ギルが勝利を収めたのは、その圧倒的な攻撃力のためだった。サリナですら破ることの出来なかったフーヤの地の型による防御を、ギルは容易く粉砕した。
 ただの一撃だった。何気なく接近し、腕を引いた。その瞬間、フーヤは背中に凄まじい寒気を感じ、即座に防御の姿勢を取った。
 そしてギルは、強烈な踏み込みと共に腕を突き出した。
 真正面から、正拳突き。何の細工も無い、単純な攻撃だった。
 それがフーヤの鉄壁の防御を打ち破り、その巨体を反対の壁に叩き付けた。そして束の間、フーヤは気を失った。
 そしてそれを、サリナは見ていた。
 ギルとユンファの試合の時には、見えなかったそれは、光だった。
 薄黄色の光。それは帯のように、ギルの全身に絡み付いていた。最も強い輝きは、彼の心臓のあたりに見えた。そして同じ光を、フーヤも纏っていた。試合の時には気づかなかった――いや、見えていなかっただけか。
 そしてサリナは気づいた。あれが氣だ。あらゆる生物が持つという、命の力。ファンロン流の極意だとユンファから聞いたその力を、サリナはその目に映すことが出来た。
 フーヤを攻撃した時のギルの輝きは凄まじかった。その輝きの強さが、ギルの強さの秘密なのだと、サリナはその時に悟った。
 それにしても、とサリナはカインやフーヤと笑い合うギルの表情を盗み見る。
 あれほど強く、氣の扱いにも長けたギルが、このファンロン流総本山で何を得ようとしているのだろう。この地での修行を希望していると彼は言ったが、師範代すらも一撃の下に撃破する彼の腕前で、今さらここで何を学びたいというのか。サリナにはそれが不思議だった。
 不思議には思うものの、ギルという人物に対しては、警戒心のようなものは湧かない。フェリオやアーネスからはあまり気を許すなと言われたが、これまでのところ、彼が注意しなければいけないような人物だとは思えなかった。
 実際のところ、もしも彼が盗人か何かの類でサリナたちに害を及ぼそうとしているのであれば、とっくに実行しているだろう。恐らく彼にはそれだけの腕があるし、こちらの追跡をかわす手も持っていそうだ。
 それにそもそも、彼は登山道の途中で雪に埋もれていたのだ。あのまま放っておけば命の危機だったはずだ。それを助けたサリナたちに、彼はこれまで感謝の意を表すばかりだった。しかもカインにいたっては、あの鉄の壁から落下しそうだったところを救われてすらいる。
 明日にでも、ギルに氣のことについて聞いてみよう――そう考えて、サリナはギルから視線を外した。その瞬間に返ってきた視線には、彼女は気づかなかった。
「いやそれにしても、今日は参った。まさか1日に2度も負けるとはなあ……それも氣の使い手に」
 酒で熱を帯びた息を吐き出すのと同時にフーヤがこぼしたその言葉に、サリナたちは反応した。
「き?」
 訊ねたのはセリオルだ。彼は今の言葉に何らかの重要な意味があることを瞬時に理解していた。眼鏡の奥から、鋭い視線がフーヤに向けられる。
「こらフーヤ」
「あっ」
 ルァンに叱られ、しまったという顔で口を両手で塞いだフーヤは、もがもがしながら言った。
「すまん、今のは無しだ。俺が正式な入山前の者に話していいことではなかった」
「おいおい何だよ話せよ〜なあなあ」
 馴れ馴れしく肩を組みにくるカインを、フーヤは鬱陶しげに払う。
「ええい、寄るな寄るなっ。もう言わん、忘れるのだっ」
「無理無理無理無理忘れらんない!」
「ぐぬぬぬぬぬ」
 まとわりつくカインとクロイスを振り回そうとするが食卓があるので出来ず、かといって両手は口を塞いでいるので使えず、八方塞りのフーヤは顔を鬱血させていく。
「口から手、離せばいいのに……馬鹿ねえ」
「あはは」
 呆れた様子のアーネスの言い草に笑いながら、サリナは考えていた。
 恐らくどれだけ拝み倒しても、現状ではフーヤやルァンからこれ以上のことは聞き出せないだろう。ユンファはそもそも氣のことに詳しいわけではないのだから、やはりギルに訊くしかない。
「それにしても……」
 兄と少年と大男の大立ち回りをぼんやり眺めながら、フェリオが呟く。
「さっきあのフーヤ、言ったよな。氣の使い手に2度負けた、って」
 その言葉の意味は、サリナの頭にゆっくりと浸透していった。そしてその意味するところを完全に理解した時、サリナの全身を言いようの無い感覚が襲った。全身が鳥肌に覆われたようで、ぶるりと大きな震えが走った。
 そのサリナの様子に違和感を覚えながらも、フェリオは確認する。
「サリナ、使えるのか……? その、氣ってやつを」