第172話

 サリナとギルが組み手を行う――それを知ったカインは、仲間たちにすぐに報せた。
 豪牛の階。師範代フーヤが守護を任されたその階の屋外で、サリナとギルは相対した。互いに徒手空拳。ギルもあの多種の武器類は一切持たず、ファンロン流入門試験の形式に則り、拳を構えている。
 そのギルの構えに、サリナは違和感を覚えた。
 ギルは強い。とんでもなく、と言って良いくらいに強い。おそらく、サリナよりも強い。ユンファやフーヤをほんの僅かな時間で打ち破ったことは、サリナたちから言葉を奪い尽くすほどの出来事だった。
 だが今、サリナの前で拳を握っているギルの構えは、それほど洗練されたものではなかった。
 おそらくは我流。これまで幾度も野盗などに襲われたと話していたが、それらの戦いの中で身につけた、彼独自の構えであるように見えた。体系としての武術を学んだ様子は見えなかった。
 その感想を抱くと同時に、サリナの脳裏をひとつの疑問がかすめる。
 なぜギルは、よりによってファンロン流の、それも総本山を選んだのだろう。
 名の知れた武術は、世界にはいくつもある。最も有名なのは、王都の騎士たちが学ぶ、王国流騎士剣術だ。アーネスの剣技もこの教えを受けたものである。この他、武器を扱わない、いわゆる格闘術でも有名どころはいくつもある。ファンロン流であっても、ローガンのように地方道場を開いて門弟を募っているところもある。
 ギルは謎が多い。フェリオやアーネスが警戒するのも不思議ではない。
 だがサリナは、ギルに純粋さを感じていた。もとよりそうだったが、こうして武人と武人、拳をつき合わせて相対してみれば、なおよくわかる。
 セリオルたちは、ギルに訊ねてみたそうだ。なぜファンロン流総本山に来たのか。それに対してギルは、こう答えたという。
 ――世界で一番高いところで修行する、世界で一番強い武術に興味があった。
 案外、それが本心なのではないか。サリナはそう考えるようになっていた。
 そしてそんなサリナの考えを知ってか知らずか、ふたりに鋭い視線を投げかける者があった。
 セリオルは特に、ギルの挙動に目を光らせていた。顔には出さないものの、彼の胸中は穏やかではなかった。
 氣。フーヤがうっかり口にしたその言葉に、セリオルは興味を持った。彼の記憶の奥底に眠っていたある知識が呼び覚まされた。そしてもし、彼の考えが的を射ているとするなら、サリナにとって得がたい経験と能力を手にする機会が、この山にはあるのかもしれない。
「ギルさん」
「おー」
 拳を構えて向き合ったまま、しかしギルの声に緊張の色は無い。その拳にも、さほど力は入っていないようだった。
「ギルさん、氣のこと、教えてもらえますか?」
「んー?」
 ゆるりと構えながら、ギルの声は暢気である。
「んーまあ、よくわかんねえんだけどさ」
 言いながら、ギルは掌を上へ向けた右手を、サリナに差し出した。そして親指以外の4本の指を、数度曲げる。
「言葉じゃ説明できねえわ。感じ取ってみな?」
「……はい」
 サリナは地面を蹴った。
 度肝を抜く速さだった。瞬きひとつも無いほどの時間で、サリナはギルとの距離をゼロにした。
 上背のあるギルの顔をめがけて、サリナの拳が突き出された。周囲からは息を呑む早業に見えたが、ギルにとってはそうでもないらしかった。彼は一瞬で目の前にまで迫ったサリナを見ても冷静だった。サリナの鋭い拳は空を切った。その腕を、ギルが脇へ押して退かしたからだった。
 だがサリナの攻撃はそれで終わりはしなかった。
 ギルによって逸らされた力の向きを、サリナは利用した。逸らされた方向と逆方向の地面を蹴って身体を回転させ、遠心力を生み出した。ぎゅる、と地面が抉れるような音。
 放たれた後ろ回し蹴りは、まさに空を裂くほど強烈な一撃となってギルを襲った。
 だがそれをギルは、やはり難なく回避した。彼はゆるりと上体を逸らせただけだった。
 サリナの胸に、焦げ付く火のような焦りが生まれる。
 見切られている。噛み砕くほどに強く噛み締めた奥歯の隙間から、悔しさが漏れ出る。
「心臓だぜ」
 耳元でギルが囁いたその言葉にはっとして、サリナは目を見開く。
 そうだ。心臓を意識しなければならない。ルァンが教えてくれた。サリナだけに見えるように、彼女がぎりぎり気づくだけのほんの短い時間を使って、ルァンが教えてくれたことだ。本来はそうすべきではないのだろう。昨夜のルァンとフーヤのやり取りを見て、サリナはそう感じた。だがそれを押しても、ルァンはサリナに伝えてくれたのだ。
 心臓を意識せよ。そのことを、ギルが思い出させてくれた。
 氣。あらゆる生物が生まれながらに持つという、生命の力。命を司る心臓がその力と関係しているらしいということに、サリナは妙に納得してしまう。
 ギルの拳が僅かに押し出される。それが脇腹に当たる直前に、サリナは身を翻した。同時に脚を出す。それをギルが腕で弾く。上方向へ弾かれた勢いを利用して、サリナは身体を縦に回転させる。つま先で蹴り上げる。ギルがのけぞってかわす。そのまま、サリナは後方へ跳び退る。
 距離を取る。ほんの短い時間のめまぐるしい攻防に、仲間たちは言葉を失う。
 呼吸は乱れていない。自分の状態を確認して、サリナは再び構えを取る。ギルはやはり、ゆるりと構えている。
 ギルから悪意は感じない。彼は氣についてサリナに教えることに抵抗を感じてはいないようだ。だがそのことに、勝負を見守るアーネスはやはり違和感を禁じ得ない。
 普通、武人というものは自らの手の内を明かすことを嫌う。例えば王国騎士たちが学ぶ剣術の極意も、その域にまで達した騎士以外に伝えられることは無い。ファンロン流の氣も同じだ。門弟であるユンファであっても、まだ徒弟の身分であるために、彼女はその全容をまだ知らない。
 それは、強さの秘密を他者に知られたくないという単純な思想に依拠する考え方であり、強さの流出を防ぐ自衛の策であり、ひいては自らの武術を守るための戒律なのだ。
 ギルにはその発想が無い。
「そんなものかしらね……」
 言いながら、アーネスはサリナとギルに視線を戻す。さきほどの攻防の前と同じ構えを取ったふたりが、そこにいた。
 サリナは息を吸った。細く、長く。徐々に徐々に、肺に空気が満ちていく。
 息を吸う。そのことが、生きるために何よりも必要だ。空気を吸い込むことで身体が動く。その当たり前のことを、サリナは強く意識した。意識して、息を吸う。命を生み出すため、心臓を動かすため、そして――氣をその身に滾らせるため。
「あれは、やはり……!」
 身を乗り出したのはセリオルだった。仲間たちの視線が集まる。
「やはり?」
「え、ええ……ファンロン流の言う、氣という力……生命力そのものであるというその力、どこかで聞いたことがあると思っていました」
 サリナに視線を向けたまま、セリオルはそう言った。そのサリナは今、不思議な薄黄色の光を纏いつつあった。
「なんだ、あの光は……」
 呆然とした面持ちのフェリオの呟きに、仲間たちの誰も答えなかった。代わりに応じる声は、背後から聞こえた。
「あなたたちにも見えますか、あれが。やはりここの環境による影響でしょうね」
「ルァン……に、フーヤとユンファ。なんだ、3人とも時間でもできたのか?」
 皮肉めいた口調のフェリオに、ルァンは気を害した風も無く微笑む。サリナとギルに、現時点でファンロンのことを伝えるわけにはいかない。そんなよくわからない理由で、3人はふたりの組み手を見ることを辞退したのだった。
「ええ、やはり気になってしまって」
「なんだそりゃ。最初っから素直に見に来ればいいじゃん」
「まあまあ、クロイスさん」
 唇をとがされるクロイスを、シスララがなだめる。ソレイユにも小さく啼かれ、クロイスは憮然とする。
「あの光……ルァンさん、ファンロン流の言う“氣”とは、“プラナ”のことではないですか?」
 サリナが光を纏っている。胸の中心あたりから生まれた薄黄色の光の帯が、彼女の全身に纏われていく。サリナ自身も、薄ぼんやりとした光を放っているように見える。
「“プラナ”?」
 カインが聞き返す。初めて耳にする言葉だった。セリオルは頷いて続けた。
「プラナ。マナと対を成すと言われる力です。世界樹が生み出し、生物に与えられるマナに対して、プラナは生物そのものが生み出す、生きるための力。マナとプラナが体内で均衡を保つことが、生物が正常に生きていくために必要だとされています……いえ、されてしました。一部の、古のマナ学者たちの間で」
 サリナが床を蹴った。
 その刹那、セリオルたちは再び言葉を失った。
 ギルが吹き飛んだ。道場の壁に叩きつけられ、彼はずるずると地面に崩れ落ちる。
 呆然として、彼らはその光景を見つめた。何も出来なかった。何も言えなかった。あれほどの強さを誇ったギルが、今、倒れている。
 視線を戻す。サリナは光を纏ったまま、静かに立っていた。その姿勢から、どうやら彼女が、恐るべき威力の蹴り技を放ったらしいことがわかった。だが、それを目に映した者はいなかった。
「すごい……」
 呟いたのは、ユンファだった。その隣で、フーヤはあんぐりと口を開けている。
「……な、なあ、セリオル」
「……はい」
 しばらくして発されたカインからの呼びかけに、セリオルはかろうじて応えた。
「その、マナとプラナの均衡ってやつが崩れると、どうなるんだ?」
「……マナが過剰供給されると、魔物化することがあります。我々がこれまでに見てきたように。プラナのほうは、実例が無いのでなんとも……なにぶん、かつて存在した理論で、今はすっかり廃れてしまいましたから」
「そ、そうか……だいじょぶなのか、サリナのやつ」
 劇的な変化だった。あの光が氣と呼ばれるものかプラナと呼ばれるものか、あるいはそれらが同一の力であるのか、いずれにせよサリナが驚くべき力を身に付けたことは、間違い無いようだった。
「問題ありませんよ、何もね」
 カインの疑問にセリオルの代わりに答えたのは、やはりルァンだった。彼が言外に忍ばせた示唆が、セリオルに確信を与える。
「本当に存在していたのか、プラナは……実に、興味深い」
 眼鏡の位置を直す指先が震えるのを、セリオルは自制できなかった。興奮が彼を支配していた。マナ研究者としての本能が、目の前に開けた新たな展望に歓喜している。刺激された知識欲が、それを識ることを渇望している。
「お、おい!」
 だがセリオルの衝動は、クロイスの鋭い声によって鳴りを潜めた。
 ギルが立ち上がっていた。
「ふっふっふ……へっへっへっへ」
 サリナの攻撃によって、激しいダメージを受けたはずだった。だがギルは笑っていた。実に嬉しそうに、彼は笑っていた。
「やるじゃん、サリナ。まさかさ、思わなかったぜ。こんなにすぐ、プラナをモノにしちまうなんてさ」
 そう言って、ギルは拳を構えた。
 その直後、眩い光があたりを満たした。
「さあ、引き出してやるぜ、サリナ。その力を、俺がな!」
 サリナのものとは比べ物にならない、強い光。それを纏ったギルの目が、獰猛な闘争心に輝いている。薄黄色の光の帯が、彼の拳に巻き付く。
 サリナは背中に走る悪寒に、ギルと距離を取った。
 もしかしたらやりすぎたかもしれないと、彼女は思っていた。期せずして湧き上がった強い力を、彼女は上手く制御出来なかった。フーヤの時には夢中すぎて意識することすらなかったが、今回は自分の意志で引き出した力だった。だが彼女は、その力に振り回されてしまった。
 結果として放たれた一撃は、サリナ自身の身体にも大きな負担を与えた。
 右脚に痛みが走っている。骨が軋むような、鈍い痛みだ。強すぎる力に、身体のほうがついていかない。この力を使うことが出来ても、制御が出来なければ単なる自爆技だ。そう感じるだけの痛みがあったし、それ以上の痛みをギルに与えてしまった実感があった。
 立ち上がれるはずは無かった。だがギルは、立った。
 瞬きのために瞼が動く、動き始める、そのほんの一瞬ほどの時間も無かった。
 かろうじて、サリナは身体の前で腕を交差させた。反射神経ではなかった。見えたから出来た反応ではなかった。何も見えなかった。
 ただ、恐怖を感じた。
 腕の向こうから伝わってきた衝撃に、サリナは全身がばらばらになるのを感じた。
「サリナ!」
 仲間たちの声。何をされたのかわからなかった。ただ、ギルの攻撃を受けたことだけは理解出来た。そして吹き飛ばされた。
 だが地面には転がらなかった。その前に、ギルがサリナを受け止めていた。
「おいおいどうした、そんなもんか? 氣の力ってやつを身につけたいんだろ?」
 霞む視界に、ギルの顔が映る。表情はよく見えない。だが、サリナは薄れそうになる意識のどこかで感じた。ギルは、笑っている。
 その笑みに、サリナの炎が燃え上がる。
 負けたくない。ここはファンロン流の総本山。氣の力は、ファンロンの力。ローガンから伝授された力。ファンロンが守ってきた力。そのふたつを体得して、ギルに勝ちたい。
 どん、と大きな音が響いた。
 サリナが地面を踏んだ音だった。きっぱりと両目にギルを映し、彼女はギルの腕から抜け出した。距離を取る。拳を構える。ギルが嬉しそうに笑う。
「おー、そうなくっちゃなあ」
 乱れる呼吸を制御し、サリナは脚に力を入れる。心臓を意識する。自分に流れる、命の力を思う。生きる力。生き抜くための力。命を燃やし、湧き上がる不撓の力。
「ギル、さん……」
「んー?」
 ギルは待っていた。久方ぶりに、彼の心は躍っていた。良い相手に出会えた。
「私……負けません!」
「へっへ。いいねえ!」
 初めは驚いた。次に不安になった。再び驚き、心配し、そしてついに、フェリオは呆れた。
 拳を打ち合い、脚を振り合うサリナとギルは、実に楽しそうだった。薄黄色の光の帯が、ふたりが接触するたびに舞い踊る。光が弾け、絡まり、交差し、爆発する。そこにふたりの歓声が混じる。その凄まじい攻防が無ければ、ふたりはまるで、じゃれあって遊ぶ幼い兄妹のようだった。
 だがその遊びは、唐突に打ち切られた。
「はい、そこまでです」
「ええっ!?」
 驚きの声は、全員から上がった。サリナとギルの腕を左右それぞれの手で掴んで静かに立つ、ルァンを除いて。
「サリナさん、さすがに消耗が激しいでしょう」
「……あ」
 今そのことに気づいたように、サリナは膝からくず折れた。彼女の光が消える。
 全身が痛い。右脚の鈍い痛みが身体の全てに広がったかのようだった。ギルが頭を掻いている。
「氣は命。氣の力を使うことは、命を削ることに繋がります。あんなに全力で氣を放出し続ければ、身体への負担が増すばかりです」
 その言葉を聞きながら、カインは戦慄していた。
 あの速度。目視も出来ないほどのあの速さを、ルァンは止めた。氣を使ったのだろうか。それすら、彼には認識出来なかった。ついさっきまで隣にいたルァンが、今はサリナたちのところにいる。そのことを、彼は上手く理解出来なかった。
「そろそろ身体を休めてください。それに、このままでは豪牛の階が穴だらけになってしまいます」
 その場にへたり込んで、サリナとギルは笑っていた。だがぼろぼろになった地面のことに気づき、サリナはすぐさま土下座した。ギルのほうは、全く気にしていない様子だった。
 そしてセリオルは、さきほど耳にしたギルの言葉を反芻していた。
「プラナ……と言いましたね、ギルは。彼は、知っていたのか……」
 厳しい視線を、こちらに気づいていない様子のギルに向ける。セリオルの言葉を耳にしたフェリオやアーネスも同様だった。シスララは、ほっとしたように胸を撫で下ろしている。クロイスは地面に開いた床を指差して笑い、カインは自分には無い力を見せ付けられた悔しさに唇を噛んでいた。ユンファとフーヤは、神妙な面持ちでサリナを見つめている。
 ファンロン流武闘術総本山、豪牛の階。その小さな庭には、様々な思いが渦巻いていた。