第173話

 崩熊の階。ファンロン流武闘術総本山の師範が守護する階である。
 ルァンは道場にいた。下働きなどいないので、師範であるとはいえ、道場の清掃や維持管理は全て、彼の仕事だった。彼は几帳面な性格なので、それらの仕事を丁寧にこなした。道場は彼が愛する場所であり、大切な家族のようなものだった。
 その道場の床に、大きな穴が開いた。
「あーっ!」
 声を上げたのはユンファだった。彼女はルァンが、どれだけこの道場を愛しているか知っていた。もちろんフーヤもだ。
 だが当のルァンは、そのことが気にも留まらないようだった。
 ルァンの全身は、興奮に満たされていた。これほど心が震えたのは久方ぶりのことだった。
 彼らがやって来た時から、予感はあった。それはフーヤやユンファがこの総本山の門をくぐった時よりも、はるかに強い予感だった。
 サリナ・ハートメイヤー。その小柄な少女のポテンシャルが、彼を興奮させた。
 ユンファとの試合。そしてフーヤとの試合。劣勢や不利な状況を跳ね除け、彼女は勝ち進んだ。そしてその中で彼女は氣の存在に気づき、その力を身に付けるべく奮闘した。
 ファンロン流では、門下でない者に教えを施してはならぬとされている。サリナはローガンの下でファンロン流を学んだが、しかし総本山においては入門前だ。だから彼は、サリナに氣について教えることはまだ出来ない。
 彼は氣について考えを巡らせていて、その力の源である心臓を意識し、胸に手を当てていた。それをサリナが発見して、そこからヒントを得て氣を操ることが出来るようになった。そのことについて、彼が責められる理由は無いだろう。サリナは己で気づき、己を磨いたに過ぎない。
 氣。セリオルが指摘したとおり、それはプラナとも呼ばれる力だ。世界樹から供給されて生物に宿るマナと対になる力。生物が生まれながらにして持つ、命の力である。
 命を燃やし、力とする。そのため氣の行使は、身体上の大きな負担を伴う。使用すれば疲労するし、闇雲に使えば寿命を縮めることにもなる。氣は上手く制御して扱わなければならない。その方法を、彼はサリナに伝授したいと思うようになっていた。
 サリナは、彼の期待に応えた。ほんの僅かな期間で氣を修得し、あのギルと互角の勝負――少なくとも見かけ上は――を展開してみせた。
「どうですか、サリナさん」
 武道着に身を包み、彼はサリナと対峙していた。
 連日にわたる激しい試合と、氣を使用することによる疲れ。それがサリナの身体には蓄積されているはずだったが、彼女の身体のキレは微塵も損なわれていなかった。
 これまでの試合で、彼はサリナの動きをよく見てきた。その格闘センスや戦闘技術の練度は大したものだった。僅か18歳にしてここまでの動きが出来るものかと、彼は感嘆した。どれほどの戦闘経験を積んできたのかと思わずにはいられなかった。
「氣の扱いには慣れましたか?」
 我ながら意地の悪い質問だと思いながらも、ルァンは訊ねた。
 サリナが氣を扱えるようになって、まだほんの数日しか経っていない。あのギルとの組み手の後、彼女はあまりの疲労に寝込んでしまった。しかし丸1日寝続け、彼女は目覚めた。そして恐ろしい勢いで恐るべき量の食事を摂り、すぐにまた眠った。
 そうして回復した体力で、彼女はすぐに氣の修行に入ったという。
 協力したのはギルだった。彼がどこで氣――彼自身はプラナと呼ぶその力を身に付けたのか、彼は語らなかった。ルァンが訊ねても、生まれつきだかいつのまにだか、とにかく知らぬ間に使えるようになっていたと言うばかりだった。
「はい!」
 きっぱりとした力強い声で応えて、サリナは距離を詰めてきた。
 元々こういう力の扱いに慣れているのだろう。サリナの修得速度は目を見張るものだった。サリナは氣を発動していた。だがギルとの組み手の時のような、無闇な全開ではなかった。そういえば白魔法を扱うことも出来るのだと聞いたことを、ルァンは思い出した。
 サリナが繰り出してきた突きの一撃を回避しながら、ルァンは卒然とした。
 マナとプラナ。対となるふたつの力。サリナはつまり、その両方の力を身に付けたのだ。
 ファンロンの武人たちは、マナを扱う術を知らない。そしてルァンが知る限り、氣――プラナを意図的に操る術を知るのは、ファンロンの武人のみだ。この間セリオルが言及したように、プラナは研究が絶えて久しい力だ。王都の学者連中も、今ではそのほとんどがプラナの存在を信じてはいない。
 つまりサリナは――
「ぐっ!?」
 脇腹に激痛が走った。みしりと骨の軋む音。ルァンは強烈な衝撃に、道場の床を転がった。
 しまったと思った時には遅かった。サリナは考えごとをしながら相手に出来るほど容易い相手ではなかった。
 立ち上がる前に、サリナの追撃が来た。
 頭への衝撃を防ぐために腕を上げていた。そして視界が狭まっていた。そのため、脚を守ることが疎かになった。サリナはそれを見逃しはしなかった。
 サリナの腕が脚に巻き付くのを、ルァンは防げなかった。脇腹が痛む。肋骨にひびでも入ったか。そのまま梃子の要領で身体をひっくり返され、ルァンの脚はサリナによって極められた。
「くっ……」
 こうなっては氣の力で筋力を増強してもあまり意味が無い。関節を固められている上、サリナも同様に氣で力を増すことが出来るのだ。
 ぎりぎりと締め上げられる関節から激痛が全身を駆け巡る。脂汗が滲み出る。このまま締め続けられると、いずれ骨が折れるだろう。セリオルたちの歓声とユンファたちの悲鳴が同時に上がる。
「ルァンさん! 早くしないと、折れますよ!」
 サリナの警告。早くしないと、とは無論、早く降参しないと、という意味だろう。
 ルァンは己の油断を悔いた。慢心があったから油断した。そこを突かれてしまった。武人として、恥ずべきことだった。
「サリナさん……」
 激痛に震える声で、ルァンはその名を呼んだ。サリナが首だけで振り返るのが気配でわかる。
「正直に、言います」
「え?」
 戸惑いの声。構わず、ルァンは続けた。
「私は、あなたに、我々の、指導者――最高、師範に、会ってもらい、たい」
 鈍く走る激しい痛みに、声が途切れがちになる。
「最高、師範……?」
「この、総本山、の、最高、指導者、です。この上、獅子王、の、階、に、いらっしゃい、ます」
 声が途切れる。呼吸が苦しい。痛みに意識が薄れそうになる。だがルァンは続ける。
「あなた、には、それだけ、の、可能、性が、ある」
 本心だった。彼はサリナに、この更に上の階まで進んでほしいと思っていた。そうすれば、この総本山での指導や成長を待つこと無く、最高師範の技を見ることが出来る。
「です、が――」
 心臓。命の中心であるその臓器に、ルァンは飛散しそうになる意識を、懸命に集中させる。
 薄黄色の強い光が生まれる。それは帯のように伸び、ルァンの身体を包んでいく。
 サリナは戸惑った。この状況で氣を解放しても、あまり効果は無いはずだ。むしろ抵抗すればするほど、関節にかかる負荷は大きくなる。
 とはいえ、このまま黙って見ているわけにもいかない。サリナも続いて、氣を解放する。心臓を中心とした、薄黄色の光の帯。その美しい帯が、ふたりの武人を包む。
「私は、武人と、して、ファンロン、の、師範と、して――」
 その妙な気配を、サリナは警戒した。ルァンが何かをしようとしている。だがそれが何なのかはわからない。ただ、自分の身体の下で、ルァンの全身の筋肉に、骨格に、得体の知れぬ力が宿るのを感じる。
「手を抜いて、敗れるわけには、いきません!」
 光が爆発する。
 そしてルァンの身体から、光の帯が消えた。それと同時に、驚くべきことが起きた。
「わああああっ!?」
 サリナの声は混乱していた。
 彼女は、宙を舞っていた。態勢が崩れ、ルァンがすり抜ける。それをどうすることも出来ず、サリナはただ落下した。受身を取る。道場の固い床を転がり、すぐに立ち上がってルァンのほうを見上げた。
 信じられない光景だった。
 この場では、マナを使うことは出来ない。理由は不明だが、マナの力は封じられている。今もサリナは、マナを感じることも出来ないでいる。つまりルァンは、マナを使っているわけではない。
 したがって彼は、氣の力のみを使っている。
 氣の力を使って、宙に浮いているのだ。
「えっ……」
「な、なんだありゃあ……」
「あれもプラナの成せる業、ですか」
 セリオルたちにも見えた。ルァンはその足から、光を放っていた。
 まるで、光の雲に乗っているようだった。光はルァンの足から生まれ続けているように見えた。
「そういや、ギルもあん時……」
 呟いたのはカインだった。ギルが反応する。彼はカインたちのように驚くことも無く、サリナとルァンの試合を見物していた。
「んー?」
「あの鉄の壁から俺が落ちた時、あれやってたのか」
「おー、そうだよ」
 自慢も誇張も無い平坦な声で、ギルは答えた。まるであの空中浮遊くらいはどうということもないと言うかのようだった。
「サリナさん」
 言葉も無く自分を見上げるサリナに、ルァンは静かに告げる。
「氣の力を使えば、こういうことも可能になります。あなたにも、是非身につけてほしい」
 ゆっくりと、ルァンは床へ下りた。唖然としているサリナの前で、彼は構えを取る。ファンロン流武闘術、天の型。武道着の裾が、氣の力に揺れる。
「ですからサリナさん」
 ルァンは眼鏡を外した。氣は視力まで向上させるのだろうか。ユンファの方を見ず、しかし正確にその方向へと眼鏡を投げたルァンを見据えて構えを取りながら、サリナはそんなことを考えていた。
「全力の私を、破って見せてください」
 ルァンが動いたのは、その言葉を口にした後だった。それをサリナは認識出来た。言い終わるまで、ルァンはその場から動いていなかった。
 だがルァンが距離を詰めた時間を、彼女は認識出来なかった。
 突進速度を生かした突きが、サリナを吹き飛ばした。
 迅いなどというものではなかった。動いたことが認識出来ない。その恐ろしさが、サリナの背筋を凍りつかせた。
「何だなんだ、あれは……」
 呆然としてフェリオが呟く。他の仲間たちも、言葉を失っていた。
 見えない。認識出来ない。そんな攻撃を、一体どうやって防ぐのか。今この場で、サリナの動体視力が鍛えられるわけはない。かといって氣の力を視力に応用するなどということが出来るのかもわからない。わかったとして、すぐに出来るわけがない。
 ルァン。あの優しそうで家庭的な雰囲気の男が隠していた実力。ファンロン流武闘術総本山の、師範。アーネスは思っていた。彼の前では、王都の騎士たちなど赤子も同然だ。
 サリナは懸命に、繰り返されるルァンの攻撃を見切ろうともがいている。だが上手くいかず、ルァンの攻撃は次々に決まり、サリナの体力を奪っていく。
「でも、不思議ですね」
 防戦一方のサリナを助けることも出来ず、歯噛みする思いを漂わせながら、シスララが言った。アーネスが問い返す。
「何が?」
「その……ファンロン流はこれほど強いのに、どうして門下生が少ないのでしょう……いえ、どうしてこれほどまで、門戸を狭めているのでしょう」
「……確かにね」
 例えば王都の騎士たちの剣術は、王国騎士団や神殿騎士団に伝わるものだ。騎士であれば皆、その剣技を学ぶことになる。そして騎士には、庶民であっても志願することでなることが出来る。入団の試験は当然あるものの、ファンロン流ほどの厳しいものではない。
 シスララが修めたブルムフローラ流槍術。エル・ラーダの領主、ブルムフローラ家に伝わる槍術である。代々竜騎士の家系であるブルムフローラ家は、その槍の力をエル・ラーダの男たちに広く伝授している。エル・ラーダ自治区を守る武力のほとんどは、この槍術による。
 強い武術ほど、多くの門下生を持つものだ。それが流派の力となり、流派を存続させる血脈となる。流派が絶えてしまっては、その武術が存在する意味は無くなる。
 ファンロン流武闘術は、その総本山への入門をほとんどさせていない。そのことが、ここへ来てわかった。シスララにもアーネスにも、そのことが不思議でならない。
「サリナ!?」
 クロイスの鋭い声が響く。
 サリナは、動きを止めていた。荒い呼吸でルァンの連続攻撃に耐えながら。
「足を止めんな、サリナ! 動け!」
 クロイスの悲痛な声が続く。彼の目には、サリナが体力の限界を迎えたように映った。痛みに顔を歪めたサリナは、懸命に防御を続けている。ルァンの動きはやはり見えない。ほんの一瞬、光が煌いたかと思うと、サリナがダメージを受けている。
「くそっ!」
 悔しさに、クロイスが歯軋りをする。だがその肩に手を置いた者がいた。
「いえ、よく見てください」
 セリオルはじっと観察していた。サリナが動きを止めたのには、何か意図があるはずだった。自暴自棄になるくらいなら、さっさと降参しているはずだ。サリナはまだ、諦めてはいない。
 痛みと酸欠で消えそうになる意識をかろうじて繋ぎとめながら、サリナは腰を落とした。
 重心を下げる。呼吸を整える。その間にも、ルァンによる苛烈な攻撃は続いている。
 サリナは、ルァンの真似をしようとはしなかった。氣の力でスピードを増す、あるいは宙を飛ぶ。そんなことを今しようとしても、失敗して体力を損なうだけだ。彼女はそのことを自覚していた。自分はまだ、ルァンのように器用な氣の使い方は出来ない。
 だが、彼女にも出来ることはあった。
 豪牛の階で拳を交わした、師範代フーヤ。彼が見せた技だ。
「おおっ、あれはっ!」
 身を乗り出し、その勢いのまま立ち上がってポーズを決めながら、フーヤは興奮した様子で叫んだ。
「なるほど、地の型か!」
 サリナは氣を解放した。
 強い光が生まれる。その光の帯は天の型の時のようにサリナの周囲に渦巻くのではなく、むしろサリナの身体の中心へを向かうような動きを見せた。
 呼吸を整える。ルァンが警戒しているのがわかる。ルァンの攻撃が速度を増していく。ダメージが蓄積される。全身がばらばらになりそうに痛む。だが、サリナは構わなかった。
 ファンロン流武闘術、地の型。守りと重撃を旨とする型に、サリナは身につけたばかりの氣の力を乗せる。光が濃縮されていく。
 まるで全身が鎧になったようだった。
 ルァンの攻撃から、痛みが消えた。衝撃は伝わってくる。どこを打たれたのかも正確に認識できる。ただそこから、痛みだけが消えた。痺れや、脱力も無い。つまり、身体のどこも傷まなくなったのだ。不思議な感覚だった。
 そうしてサリナは、ルァンの気配を読んだ。
 勝機は、ほんの一瞬だ。それを掴まなくてはならない。サリナは、自分が精密な機械になったような気がした。そのほんの一瞬の勝機を掴むための、精密機器。
「くっ……」
 ルァンの焦りが感じられる。ここまで粘るとは思わなかった。既に相当のダメージを与えたはずだ。氣の使い方も粗いサリナは、とうに体力の限界を迎えているはずだった。
 だが、倒れない。
 ルァンは、サリナのあの、強い光を宿した瞳を思い出していた。
 彼はそれが、目の前で開かれるのを見た。
 そして彼は、全身が砕けるほどの衝撃を受け、道場の壁まで吹き飛んだ。意識の端で、彼は聞いた。彼の攻撃が命中する、その一瞬とも呼べないほど短い一瞬に賭けた、サリナの渾身の叫びを。