第174話

 深く腰を落とす。重心を下げ、攻撃に備えるために。
 氣を集中させる。拳や足といった身体の末端から、腕、脚、胴へと収束させていく。光の帯の広がる範囲を狭める。サリナはそうして、氣の鎧を創り上げた。
 そしてその瞬間を、サリナは待った。自分の氣が最高潮に高まるのと同時に、ルァンが攻撃を仕掛けてくるのを。そのほんの僅かな刹那に、サリナは全てを懸けた。
 意識して行ったことではなかった。ただ、サリナは閉じた瞼の向こうに、ルァンの気配を読んでいた。渾身の一撃を放つため、そのタイミングを計っていた。地の型と氣の力の併用で、受ける攻撃のダメージは無くなっていた。彼女は十分にルァンの氣を観察して、そしてその瞬間を見極めた。
 そしてサリナは目を開き、咆哮した。
 それは、光の奔流だった。輝く氣の光が回転したサリナの脚から放たれ、爆発的に膨張したかと思うと、その瞬間にはルァンは吹き飛ばされていた。
 道場に、静寂が満ちる。
 光は拡散した。その残滓である黄色い粒子だけが、ふわふわと空中を漂っている。
 サリナは、踏み込みでべこりとへこんだ床の上に、攻撃を放った姿勢のままで固まっていた。
 一方のルァンは、ずるずると壁から床へずり落ちて座り込んだ。俯いているため、表情は見えない。
 標高が高く、気温は低い。道場の中とはいえ、その床や壁もさほど断熱効果は無い。そのため、道場はひんやりとしていたはずだ。
 だが今、セリオルは暑さを感じていた。口の中がからからに乾いていた。首筋に汗が伝う。顔が火照っている。動悸を感じる。
 少しして、セリオルは気づいた。
 彼は、興奮していた。目の当たりにするプラナの力の強烈さに、研究者としての本能が奮い立っていた。
「ルァンさん!」
 ユンファの声に、彼ははっとして瞬きをした。仲間たちが動いていた。彼らはサリナに駆け寄り、ぐったりとして気を失ったらしい彼女を支えていた。
「サリナ、大丈夫か?」
「急いでベッドに運ばねえと!」
「セリオル、セリオル! ポーションある!?」
 セリオルは急いで立ち上がり、いつも懐に用意してある薬を取り出した。ぐったりとしているサリナの口を開けさせ、少しずつ流し込む。サリナはゆっくりと薬を飲んだ。
「サリナ……」
 汗で額にへばりついた前髪を、セリオルは上げてやった。どうやら身体が熱を持っているようだ。疲れによる発熱か、あるいはプラナを使ったことによる後遺症か、セリオルには判断がつかなかった。
 ファンロン流の者たちはルァンを介抱した。彼もサリナと同じく気を失っていたが、こちらは気付けを受けてすぐに目を覚ました。だが受けたダメージが大きく、すぐに立ち上がることは出来なかった。彼はフーヤとユンファに支えられて、かろうじて歩くことが出来た。
「ルァンさん、大丈夫?」
 ユンファの心配そうな声に、ルァンは苦笑した。これまで、彼女に心配されたことなど一度も無かった。よほど今の自分は、消耗して見えるのだろう――実際、ふらふらだった。
「私は大丈夫です。それより、サリナさんのところへ」
「はい!」
 師範代と徒弟のふたりは、師範をゆっくりとサリナの許へ導いた。
「ルァンさん」
 落ちた影に顔を上げ、セリオルはその名を呼んだ。ファンロン流総本山の師範は彼にそっと頷き、アーネスの膝にもたれかかる形で瞼を閉じているサリナの傍らに、膝をつけた。
 少しだけ荒い呼吸で、サリナは眠っているようだ。まだ幼さの残る18歳の少女。とてもさきほどの力を放った者とは思えぬ、そこにいるのは小柄な女の子だった。
「……大したものです」
 思わず、本音が出た。
 これまで多くの武人を見てきた。ファンロンへの入門を希望する者、そうでない者、様々な者がいた。彼らと手合わせをし、また総本山での厳しい修行を積み、ルァンは腕を磨いてきた。
 才能のある者、才能の代わりに努力を重ねる者、その両方を兼ね備える者。海千山千の猛者たちが、彼の前で腕を揮った。
 その中で、氣の力に目覚めることが出来たのは、ごく僅かだった。彼らはファンロンに入門し、ある者は地方に道場を開き、またある者はここに残って師範代となった。総本山の師範とは、彼らを統括する立場だ。世界に散らばるファンロンの達人たちの、ある意味で頂点である。
 ここへ来るまでの血反吐の出るような修行の日々を、ルァンは回顧する。彼は決して才能に恵まれた武術家ではなかった。だから彼は、ひとの何倍も努力をした。己を追い込み、這い蹲って強くなった。氣を身に付けからは、その力の特性や使い方を、誰よりも研究した。恐らく今、彼はエリュス・イリアで最もプラナに詳しいはずだ。
 サリナ・ハートメイヤー。この小さな少女の秘めた力。ファンロン流を学んだ年月の長さや努力の積み重ねなど、彼女の前では問題にならなかった。彼が与えたほんの小さなヒントから、彼女は氣の力を身に付け、そして今、彼を撃破してみせた。
 そのサリナの瞼が、僅かに動いた。セリオルの薬が効いたのか、サリナはゆっくりと、目を開けた。
「サリナ!」
 フェリオがその名を呼んだ。銀灰色の髪の少年。サリナと同い年くらいに見えるその少年の様子から、ルァンは何かを感じ取った。自然と顔がほころびる。
「サリナ、気がついたか」
「ん……うん。いててて」
「無理に起きなくていいよ」
 全身の痛みに顔をしかめるサリナに掛ける、フェリオの声は優しかった。サリナはその言葉に微笑み、しかしゆっくりと起き上がった。
「ルァンさん」
 すぐ傍にいたルァンの顔を、サリナは見た。彼女が与えたダメージでぼろぼろだ。だが同じくらい、彼女自身もぼろぼろだった。
「見事でした、サリナさん」
 その瞳に宿る強い光に、ルァンは引きつけられた。意志の強さ、そして力の強さ。精神と肉体、両方の強靭さを、その光は語っているようだった。
「私の完敗です」
 彼のその言葉に、サリナの仲間たちもファンロンの者たちもどよめいた。彼らには相討ちに見えたからだ。それに彼の敗北宣言は、サリナがついに、このファンロン流武闘術総本山の頂に向かうことを許されたことも意味していた。
「すげー! やったなサリナ!」
「いやー俺ぁ信じてたよ。サリナならやるってな!」
「獅子王の階……でしたね。最高師範さん、どのような方なのでしょう」
 シスララのゆったりした声を聞きながら、サリナはぐっと結んでいた口を開いた。
「ありがとうございます、ルァンさん……でも、いいんですか?」
「何がです?」
 きょとんとした目を向けるルァンに、サリナは困惑する。
「あの、その……あ、相討ちだったんじゃないかな、と思って……」
 顔を少し俯けてもごもご言うサリナに、ルァンは苦笑する。本当に、純粋な子だ。
「いいえ、あなたの勝ちです、サリナさん」
「そ、そうですか……?」
「ええ」
 まだいまいち納得できない様子のサリナに、ルァンは話した。あの瞬間、何が起こったのか、サリナが何をしたのかを。
「サリナさん、あなたはあの瞬間、地の型と氣の力を併用した構えで、私のあらゆる攻撃を凌ぎましたね」
「は、はい」
「そして感覚を研ぎ澄ませ、私の動きを気配で捉え……最後の一撃が来る瞬間、全ての力を爆発させた」
「……はい」
 その答えに頷き、ルァンはその言葉を口にする。
「あれはね、サリナさん……ファンロン流武闘術の、奥義と呼ばれる力ですよ」
「……え?」
 ぽかんと口を開いて、サリナはルァンを見つめた。その呆然とした表情に、ルァンは思わず笑ってしまう。
「ははは。やはり、無意識でしたか」
「……え? ええええ?」
 奥義。そのことをサリナは、ここへ来るまで何度も何度も考えた。フェイロンを二度目に発つ時、師匠ローガンから受け継いだ奥義書。そこに記された言葉について、彼女はずっと頭を悩ませてきた。
 その答え――らしきもの――をいきなり目の前にぽんと出されて、彼女は混乱した。
「え、あの、奥義ってそんな……え、ほんとですか?」
「すっげえじゃんサリナ! 奥義ってのぁあれだろ、やっぱすげえやつなんだろ? すげえな!」
「お前はすげえしか言えねーのかバカ」
「あんだと? てめえコラクロイスコラてめえ」
「んだコラやんのか!?」
「おーおーやったろうじゃねえかコラ表出ろや!」
「望むところだコラばふぁふはっ!?」
「へぐっ!?」
「やめなさいっての」
「おー、ふたりともアホだなあ。はっはっは」
 言葉よりも先に放たれた渾身の手刀に脳天をカチ割られ、カインとクロイスは静かになった。それを気楽にギルが笑う。セリオルとフェリオは頭を抱え、シスララはにこにこしている。
「な、なんかすごいね……」
「うむ……さすがはサリナの仲間といったところか」
「え、そこ?」
 気の抜けたやりとりをする門下のふたりに苦笑しながら、ルァンはサリナに答えた。
「本当ですよ、サリナさん。あなたが使ったのは、ファンロン流武闘術奥義――鳳凰演舞です」
「ほうおう、えんぶ……」
 サリナのオウム返しに頷き、ルァンは続ける。
「鳳凰演舞。相手の攻撃を自らの氣によって無効化し、さらにその力を氣に変換して蓄え、最後に自らの力を上乗せして一気に放つ技です。心にさざ波ひとつ立てぬ無心の境地より生まれる、必殺の一撃です」
「は、はあ……」
「すごいじゃんサリナー!」
 ルァンの説明にぽかんとしたままのサリナに、ユンファが抱きついた。サリナは突然のことにあわあわと両腕を振り、後ろに倒れないようかろうじて堪えた。
「いやー、私はわかってたんだよね、最初っから! サリナはきっと、ここまでいくってさ〜」
 サリナを離して座り、ユンファはなぜか得意げだった。
「無心の境地って……サリナ、あの場面でそんな状態によくなれたわね」
 アーネスは、サリナがあの瞬間に、心をそれほど落ち着けることが出来たことに感嘆した。ルァンほどの強敵との試合、それも勝敗を決する最後の瞬間だった。そんな場面で感情を抑え、平静でいられるとは、どれほどの精神力が可能にすることなのか。
「わ、私、必死だっただけで……そのぉ」
 しどろもどろになるサリナに、フェリオは苦笑する。
「ま、良かったんじゃないか? あんなに悩んでた奥義の答えに、とりあえず到達したんだ。あとはこれから意識して使えるように練習すればいい」
「う、うん……そうだね」
 そう答えたサリナの顔に、ようやく微笑みが浮かぶ。その安心したような笑顔が、道場の空気を柔らかくする。
「さあさあ、とにかくふたりとも、今は休んだほうがいいでしょう。宿舎に戻りましょう」
 セリオルが号令をかけ、一同はゆっくりと動き始めた。サリナは自分で立つことが出来なかったので、アーネスが負ぶってやった。サリナは顔を真っ赤にして恥ずかしがり、フェリオはどこか不満そうだった。
「ああそうだ、ギルさん」
 ユンファとフーヤに支えられて歩きながら、ルァンはギルに声を掛けた。ギルが首をかしげてこちらを見る。
「あなたとの試合、少し待って頂けますか。申し訳ないのですが、私もこんな状態では――」
「おー。それならもういいわ」
 あっけらかんとした声で、ギルはそう言った。目をぱちくりさせて、ルァンは訊き返す。
「……え?」
「奥義ってやつ見れたし、もういっかなーって。はっはっは」
「そ、そうですか」
「うん。あとはサリナについてって、見学だけさせてもらうわー」
「そうですか。まあ、私としては助かりました。かなりダメージを受けてしまったので」
「はっはっは。いい勝負だったなー」
 毒気の無いギルの言葉に、ルァンも微笑みを返した。ただ、少し残念ではあった。彼との試合が出来なくなったことがではなく、もしかしたらサリナとギル、このふたりの勝負があるかもしれないと期待していたからだ。
「なんだいいのか、ギル」
「おー。試合、疲れるしなあ。奥義覚えたいわけじゃねえし」
 声をかけてきたカインに気楽に答えて、ギルは手をひらひらさせる。
「ある意味、サリナにとっては幸運でしたな」
 そう言ったのはフーヤだった。
「どういう意味です?」
 問い返したセリオルに、フーヤはしまったという顔をしてみせた。ルァンの顔を窺う。
「まあ構わないでしょう。秘密にすることでもないですしね」
「はあ、すみません、ルァン師」
 そう言って頭を掻こうとしたがルァンを支えているためにうまくいかず、ばつの悪そうな顔を前に向けながら、フーヤは答えた。
「奥義は、一子相伝。獅子王の階で最高師範の指導を受けることが出来るのは、ひとりだけなのだ。ふたりがそこまで進んでいたら、おそらく試合をすることになっていただろうな」
「……なるほど」
 ギルとの勝負となると、サリナも無事では済まないだろう。さきほどのルァンとの試合で見せた力をもってしても、ギルに勝てるとは限らない。
「え、いや、ちょっと待ってくれ」
 一行の後ろのほうにいたフェリオが、疑問を感じた声を発した。前の者たちが振り返る。
「一子相伝ってことは……鳳凰演舞を使えるのは、今は最高師範だけなのか?」
「ええ、そうです。私も使えません」
「マ、マジ?」
 クロイスの驚いた声。それほどの力を、不完全であるとはいえ、サリナは使ったのか。
「ですから、鳳凰演舞は最高師範の下でしか学ぶことが出来ません。しっかり休んで傷と疲れが癒えたら――行ってください、獅子王の階へ」
 その言葉に、サリナは震えた。身体の芯が興奮したようだった。
 ローガンに聞かせたら、喜んでくれるだろうか。ファンロン流武闘術の頂点、総本山の最高師範。その指導を受けることを、彼女は許されたのだ。
 かつてローガンも、この道を歩いたのだろうか。若き日の師匠の姿を想像して、サリナは喜びで胸を満たした。今よりずっと若く、今より更に強かったはずの、ローガン・ファンロン。姓にファンロンを受けた師匠の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
「はい!」
 アーネスの背に負ぶさった間抜けな姿だが、サリナは元気に応えた。自分を認めてくれたルァンの言葉が嬉しかった。それだけの力を身に付けることが出来たことが、嬉しかった。
 最高師範。どんな人物なのだろう。獅子王の階で、どんな修行が待っているのだろう。氣、あるいはプラナ。これまで使ってきたマナとはまったく異なる、しかし同じくらいに強力な力。その真髄を学び、自分はどれだけ強くなれるだろう。
 ハイドライトで向けられた、ゼノアの言葉が蘇る。
 自分のマナ共鳴度が向上することを願っているような口ぶり。彼の思いどおりにはなりたくない。マナの力ももちろん必要だが、それ以外の力も身につけ、あの高慢な男の裏を掻いてやりたい。予想外の展開を見せつけてやりたい。そのための力が、もうすぐ手に入る。ゼノアの思いどおりになんて、絶対にさせない。その思いが、彼女の胸を熱くする。
「ちょ、サリナ、耳が痛いわよ」
「あ、あわわわわ、ごめんなさいっ」
「ちょっと、それに肩、強く掴みすぎ!」
「あわわわわわわわわ」
 気合が入りすぎてアーネスに叱られて狼狽するサリナに、一同から笑いが漏れた。