第175話

 更に数日が経過した。奥義の力を使ったサリナの身体は、その反動で大きなダメージを受けていた。しばらくは立つこともままならず、仲間やユンファたちの助けを借りて日々を送ることを余儀なくされた。
 サリナが休養している間、仲間たちはそれぞれの修行を行った。セリオルはここではマナを扱えないものの、ローランの賢人クラリタから授かった上級黒魔法の書を学び、フェリオはアズールガンの更なる改良と、高性能火薬を使った爆弾の開発を進めた。他のものたちは銀華山の環境に適応すべく、自らをいじめた。そうすることで心肺能力を向上させ、下界での戦いに活かそうという狙いだった。
 そうして幾日かが経過し、サリナは回復した。
 それは、重厚な木造の寺院を連想させる建物だった。
 ファンロン流武闘術総本山、獅子王の階――その巨大な道場で、彼は座して待っていた。
「お連れしました、イェジン師」
 ルァンは片膝をつき、ファンロン流にかしづいた。隣でサリナがそれに倣う。フーヤとユンファも続いた。セリオルたちは、少し後方で彼を見ていた。
 イェジン・シージ・ファンロン。“シージ”はファンロン流武闘術の最高指導者に冠される敬称だと、崩熊の階からの道すがらにルァンが教えてくれた。その意味は、“偉大なる師”。
 そのシージなる人物は、老人だった。
 サリナたちより2段高くなったところに座っているため、背格好が推し量りにくいが、大柄なほうではない。武道着ではなく、ゆったりとした袈裟を纏っている。その身体は決して筋骨隆々としているわけではなく、どちらかというと細身だ。長い白髪を後ろで束ね、高山に照りつける日差しのためか、その肌は浅黒い。
 イェジンは眼前にかしづくサリナを、静かに見つめている。
「な、なあ、なんかあんまし強そうにはグフゥ」
「やめなさいってバカ」
 小声で余計なことを言いかけたカインの脇腹に音も無くアーネスの肘がめり込む。カインが静かになったのと同時に、イェジンは口を開いた。
「まあそう硬くならず、顔を上げなされ」
 存外柔らかな声音が降ってきたことに内心少しだけ驚きながら、サリナは顔を上げた。イェジンと目が合う。
 その深い海のような美しい群青色に、サリナは吸い込まれそうになった。その眼差しは優しく、知らぬ間に緊張がほぐれていくのを、サリナは他人事のように感じていた。
「よくぞ、ここまでたどり着いたもんじゃ」
 そう言いながら、イェジンは立ち上がった。同時に、彼はサリナたちにも立ち上がるよう手で示した。傍らに控えていた世話係らしき女性が少し下がる。
 段を下り、イェジンはサリナの前に立った。
 やはりそれほど大柄ではない。サリナよりは背が高いが、男性にしては小柄なほうだろう。さきほどカインが言いかけたとおり、それほど強い武人には見えなかった。
 だがサリナは、感じていた。
 さきほど座っていた場所から、ここまで来るまでのほんの数歩。その数歩を進むごとにイェジンから発される圧倒的な気配に、彼女は縛られ、後ずさりそうになっていた。
 今、目の前に立つイェジンが放出しているのはまごう事なき強烈な氣だった。薄黄色の光があふれ出す。
「なるほど……これは、確かに」
「はい……凄いです、あの方」
 フェリオとシスララも、サリナと同じくイェジンに圧倒されそうなのをかろうじて耐えていた。他の仲間たちも同様だ。後ろから見ていても、ユンファの呼吸が荒れているのがわかる。フーヤはかろうじて耐えていた。ルァンには変化が見られない。そしてギルは、まるで何も感じていないかのように、涼しい顔でイェジンを見ていた。
 サリナは思い出していた。二度目にフェイロンを発った時の、ローガンのことを。あの時、彼女の師もイェジンと同じことをしたのだ。直接教えてくれはしなかったものの、あの時点ですでに、彼はサリナにヒントを与えていたのだ。
「……はっはっは」
 晴れやかに笑いながら、イェジンは氣の放出を止めた。光が散る。同時に、ユンファがその場に崩れ落ちた。床に手をつき、荒い呼吸をしている。フーヤも脱力したように肩を下げる。ルァンはじっと黙している。サリナは、大きく肩で息をした。姿勢を崩すことだけは、かろうじて避けた。
「ルァンまでをも撃破しただけはある。素晴らしい才じゃ」
 背を向け、イェジンは少し下がった。そして振り返った瞬間、サリナは違和感を覚えた。イェジンの目がほんの一瞬、自分から逸れ、どこかを見た気がした。だがそれはごく僅かな時間のことで、瞬きをした次の瞬間には、彼はサリナの目を見ていた。
「お仲間さん方も、大したもんじゃ。ここまでの実力を備えた一行には、会ったことが無いかもしれんのう」
 サリナたちを褒めるその声に、重さは無かった。今の気配は、どこにでもいる人の好い老人だ。その変化に戸惑いながら、サリナはイェジンの言葉を受け止めていた。
「わしは、イェジン・シージ・ファンロン。ファンロン流武闘術総本山の、最高師範じゃ。よろしくのう」
「サリナ・ハートメイヤーです。よろしくお願いいたします」
 ファンロン式のお辞儀をするサリナに、イェジンの笑い声が向く。
「はっはっは。そう緊張せずとも良いよ」
「は、はい……」
「まあ、そう簡単に緊張が取れるものでもないか。よし、少し昔話をしてやろう」
「昔話、ですか?」
「うむ。ミンリィ、彼らに椅子を用意して差し上げなさい」
「はい」
 ミンリィと呼ばれたのは、イェジンの後ろで控えていた女性だった。てきぱきとした動きで、彼女は人数分の椅子を運んできた。ユンファも手伝い、サリナたちは礼を述べながら腰を下ろす。それを待ち、イェジンは咳払いをひとつして語り始めた。
「むかーしむかし、あるところにツァンルンという名の青年がおった」
 聞いたことの無い名だった。イェジンが何の話をしようとしているのか予想がつかず、サリナは少しだけ首を傾げながらも続きを待った。
「ツァンルンは武術の道を志す武人じゃった。彼は銀華山での厳しい修行の末、武術の神に認められ、ある力を授かった。ツァンルンはその力を使って、武術の流派を開いた。彼はその武術を、自分の姓より取って、ファンロン流武闘術と名づけた」
「ツァンルン……武術の、神……?」
 呆然とするサリナににやりとした笑みを向け、しかし彼女の呟きに応えることはせず、イェジンは続ける。
「ツァンルンは多くの弟子を育て、その中の最も優秀な弟子にファンロン流を任せ、山を下りた。腕試しのためにイリアスを訪れたイェジンはその強さを買われ、王国の“将軍”に任命された。騎士になったツァンルンは、イリアス国王から新しい名を授かった」
 イェジンは、サリナたちの反応を楽しんでいるようだった。ぽかんとして聞いている者と、驚きを隠せない者とがいた。後者の中でも特に驚いた様子なのが、アーネスだった。その表情を確認し、楽しげな声でイェジンは続ける。
「ツァンルンの新しい名は、イグナート。炎のような激しい戦いぶりから付けられた名じゃった。以後彼は、イグナート・フォン・レヴァン将軍と呼ばれるようになった」
「イグナート将軍……6将軍のひとりが、ファンロン流の開祖だったなんて」
 イグナート・フォン・レヴァン。炎拳の猛将と呼ばれた、統一戦争時代6将軍のひとりである。拳闘の達人として知られ、“爪”と呼ばれる拳に装着して使う武器や棍を操ったと伝えられている。
「イグナートは6将軍のひとりとして軍を率い、かの統一戦争にて狂皇パスゲアを討った。その戦いで彼は、水の幻獣の力を借りていたという」
「……あれ、ちょっと待ってくれ」
 イェジンの昔物語を遮ったのは、フェリオだった。全員の視線が彼に集まる。
「ファンロン流の武人たちは、マナを使えないじゃなかったのか?」
「確かに」
 若き蒸気機関技師の言葉を、年長のマナ研究者が継ぐ。
「マナとプラナは、相反する力。ふたつを同時に使うことは出来ないのでは」
「……ふふふふ」
 イェジンはさも愉快そうに低く笑った。にやりとした笑みを浮かべ、彼は言った。
「おぬしら、自分で言っていて気づかんか?」
 最高師範の視線が、サリナに戻る。それに伴ってフェリオとセリオルもサリナを見遣る。ふたりは卒然として、同時に声を上げた。
「あっ」
「そう、サリナも同じじゃよ。ミンリィ伝いに聞いたが、サリナ、おぬしもマナを操るのじゃろう?」
「は、はい、一応……」
 サリナの控えめな返事に満足そうに笑って、イェジンは続ける。
「マナと氣――おぬしらの言い方で言うところのプラナは、相反する力じゃ。確かに、同時に使うことはきん。その性質のためじゃろうな、このふたつを両方とも扱う才を持つ者は、きわめて少ない。ファンロンの長い歴史の中でも、数えるほどしかおらん」
 沈黙が下りた。それは次第に、海岸に打ち寄せるさざ波のように広がる興奮に取って代わられていった。
 皆が認識した。すでにそれを理解していたイェジンとルァン以外の全員が、サリナがいかに稀有な存在であるかを。そしてその希少価値が、どれだけの力として現われるのかを想像した。
「ただしサリナ、忘れるでないぞ。マナとプラナは、同時には使えん」
「……はい」
 そのことを、サリナは重く受け止めた。
 これまでの戦い方に氣の力を上乗せすることは出来ない。マナを解放した状態でファンロンの技を使えば大きな攻撃力を生むことが出来るが、その状態から更に氣の力を乗せることは出来ないということだ。
 だが、別に構わないとサリナは思った。総本山へ来たのは、ゼノアの思惑から外れるためだ。これまでと同じ力を延長させたところで、サリナのマナ共鳴度を高めることを望むゼノアの企みから外れることは出来ないだろう。
 いっそ、マナの力は白魔法を使う時のみに限定してもいいのかもしれない。マナの力でしか攻撃出来なかった幻獣や幻魔も、プラナでなら攻撃できるかもしれない。
「もし、同時に使ったとしたら、どうなりますか」
 低い声で問いかけたのは、セリオルだった。サリナは彼の顔を見上げた。その目は、真剣そのものだった。
「……相反する力を身体の中にふたつ発生させる。それがどのような現象を引き起こすか、セリオル、おぬしは既に理解しておるのではないか?」
 質問を質問で返され、しかしセリオルは俯いて沈黙した。兄がそのように振る舞う理由を、サリナは考えた。すぐにはわからなかった。だが少し考えてみて、彼女は気づいた。その答えは、これまでの彼女の、彼女たちの戦いの中にあった。
「アシミレイト……」
 呟かれたサリナの言葉に、仲間たちが身を硬くする。瞬時に彼らは理解した、サリナとセリオルが至った結論を。
「アシミレイトと氣の力、同時に使うことは、出来ない……?」
 アーネスは思った。考えれば、すぐにわかったことだ。要するにサリナは、戦いの切り札であるアシミレイトの力に関して、この総本山では何も向上させられないということだ。そしてそれはアーネスたち全員に関しても同じことが言えた。なぜならこの場では、マナを使うことが出来ないからだ。彼らは肉体的な修練を積むことは出来ても、マナに関する能力は何も磨けていない。
 サリナの氣の力の劇的な成長が、その事実をヴェールの向こうに隠してしまっていた。
 確かにサリナは、強くなっただろう。この厳しい環境、空気の薄さを克服し、心肺機能を飛躍的に向上させたはずだ。それはすなわち、運動能力の著しい向上に繋がる。身体能力は通常時もアシミレイト時も、戦闘能力に大きく影響する。その意味ではサリナは現時点で、銀華山に登る前より随分強くなったはずだ。
 だがアシミレイト時の戦闘はマナを多用するものだ。だから彼らはこれまで、身体能力とマナ能力の両方を高めることに努めてきた。今の彼らは、その片方にしか強化の時間を使えていない。
 漠然とした不安が、アーネスの胸に生まれる。ここで時間を使っていて、本当にいいのか。サリナの氣の力の修行に付き合っている場合なのか。自分たちは自分たちで、サリナとは異なり、これまでどおりマナの力を鍛えなければならないのではないか。
「……いや」
 フェリオの呟きに、アーネスは弾かれたように顔を上げる。
「アシミレイトは幻獣の力だ。サリナの内から発生するマナじゃない。幻獣のマナに自分の力を乗せて使うものだから、氣と併用は出来るんじゃないか?」
 顎に手を当て、フェリオは冷静に指摘した。言いながら、彼の頭は回転を続ける。
「それにこの場所での俺たちの修練だって、無駄じゃないさ。マナの力や共鳴度が上がっても、それを支えるのは俺たちの身体だ。身体の能力が上がれば、必然的に強くなれる。ここに来たのは、間違いじゃないよ」
「……ええ、そうね」
 年下のフェリオに自分の考えを見透かされたのは癪だったが、アーネスは素直に同意した。この賢い少年の言葉は、どこか自分を安心させるものがあった。
「ですが、確証がありません」
 セリオルの言葉が、再び仲間たちの注意を引き戻す。
「マナとプラナの同時発動……私も文献に覚えがありません。正直、どんなことが起こるかわからない。最悪の場合、サリナの身体や生命に深刻なダメージが発生する可能性もある」
「そのとおりじゃ」
 イェジンは重々しく同意した。
「ツァンルンの記録にも、氣と幻獣の力を同時に行使したという記載は無い」
「……私」
 サリナの声だった。これまで仲間たちやイェジンの言葉を黙って聞いていたサリナが、強い意志を感じさせる声で言った。
「私、試してみます」
「サリナ!」
 セリオルの厳しい声が飛ぶ。サリナの身を案ずるがゆえの、激しい声だった。サリナはその剣幕にびくりとしながらも、決然とした表情で兄を見つめ返す。
「だって、これまでと同じようにしてても、ゼノアに勝てるかわからないよ。ゼノアの知ってる力だけだと、もしかしたら全部裏をかかれるかもしれないよ。ここに来たのも、ゼノアの知らない力を身に付けるためだよ。それに――」
 言葉を切って、サリナは兄を、仲間たちを見た。信頼と友情とが、その微笑には満ちていた。
「私には、みんながいるもん。もし、危ないことになりそうだったら、止めてくれるみんなが……そうだよね?」
「サリナ……」
 セリオルは呆然としていた。サリナの意志の強さを、自分たちへの信頼を、改めて見せ付けられた。返す言葉が出てこなかった。
 ぽん、と後ろから、彼の肩に置かれた手があった。カインの手だ。
「こりゃあさ、認めねえわけにはいかねえんじゃねえ? お兄ちゃんとしてもよ」
 その言葉に目を閉じ、セリオルは小さく嘆息した。そしてその瞼が上げられた時、彼の瞳にはサリナにの負けないくらい、強い光が宿っていた。
「わかりました。ただし、何か起きた時には私たちが力ずくでも止めます。その時近くにいる誰かが、必ず。いいですね、サリナ、みんな」
 仲間たちがそれぞれに受諾の言葉を返す。そのひとりひとりの返事を確認し、最後にセリオルはサリナを見た。
「うん、ありがとう、セリオルさん!」
「まったく、君の強情さには呆れるとしか言いようがありませんね」
「えへへ」
「ああああああのあのあの」
 ようやく口を挟めるといった風にうろたえた声を発したのは、なんとルァンだった。彼がさきほどから妙におたおたしていることには気づいていたが、イェジンは敢えて触れなかった。それよりサリナたちの意志のほうが重要だったからだ。
「まあ、お前たちがそう言うのであれば、わしはそれ以上何も言わん。サリナ、ここで存分に修行をし、しっかり奥義を持ち帰るといい」
「はい、ありがとうございます!」
「あのあのあのちょっとイェジン師、ちょっと!」
「ええい何じゃうるさいやつじゃな」
「いやいやいやいや」
 生唾をひとつ飲み込み、ルァンは続ける。
「サリナさんがツァンルン大師と同じく幻獣の力を使えると、なぜご存知だったのです? 私たちも聞いてはいませんでしたよ」
「あれ、そういえば」
 ごく自然な流れでイェジンとの会話が成り立っていたので、サリナも気づかなかった。そういえばなぜ、イェジンは知っていたのだろう。
「知っとるわけないじゃろう」
「え、でもさっき」
「そういう話の流れじゃったから合わせただけじゃ。細かいことにいちいちこだわるでない。お前の悪い癖じゃぞ、ルァン」
「ええーーー細かいですか今の!?」
 ルァンの必死の抗議を簡単に無視して、イェジンは続ける。
「喜ばしいことではないか。開祖ツァンルンと同じ力を持つ者が、この総本山を訪れたのじゃ。それも、類稀なる才を持ってな。我らとしては、全霊を以って協力せねばなるまい」
「でも――」
 口を挟んだのはユンファだ。問いかけるようなイェジンの眼差しを受けながら、ユンファはサリナに質問する。
「幻獣が人間に力を貸してるってことは……サリナたち、何かものすごいことに巻き込まれるんじゃ?」
「う、うん、まあ」
 仲間たちの間で視線を交わらせ、致し方あるまいとの意思確認をした上で、サリナは話した。
 サリナのこと、仲間たちのこと、幻獣のこと、そしてゼノアのこと。これまでに知ったことをかいつまんで説明し、エリュス・イリアが置かれている現状を話した。ファンロンの者たちは言葉を失った。短い沈黙が落ち、口を開いたのはやはりイェジンだった
「明日、この上にある銀華山の火口へゆこう、サリナ」
「火口、ですか?」
「うむ」
 腕を組み、イェジンは続けた。彼は嬉しそうだった。サリナという逸材の出会えたことがか、あるいは世界を襲う危機に武術家としての闘志が震えたのか。いずれにせよ彼は、言葉をこう結んだ。
「我らファンロン流の全てを持ってゆくのだ、サリナ。そしてその力を、ゼノアとかいう者を撃破するのに使いなさい。銀華山の火口には、ツァンルンに教えを施された、武術の神がいらっしゃる。その教えを受けるのじゃ、サリナ」