第176話

 神域と呼ぶのだと、イェジンは教えてくれた。武術の神、開祖ツァンルンに教えを施した神がおられる地のことだ。その地へ足を踏み入れることが出来るのは、最高師範と彼に認められた者のみだという。したがってサリナは、イェジンとふたりのみで神域へ向かって出発した。
 イェジンの足取りはゆったりとしていた。昨日、彼から教えを受けた時のことを、サリナは反芻する。
「わしは心の蔵を患っておってな……ルァンたちのように、組み手をして教えることはできん」
 聞けば、イェジンは長年の過酷な修練が祟り、数年前から病の床に臥せっているのだった。常人であれば立ち動くことも困難であるほどの、重い病。そんな状態でなお矍鑠としていられるのは、やはり氣の力によるところが大きいとのことだった。
「急ごしらえじゃが……」
 そう前置きして、イェジンはサリナの前に立った。
「神へのお目通りに適うだけの力を付けてもらうぞ。氣を操る能力をな」
「は、はい」
 イェジンは、特に構えを取りはしなかった。身体の後ろへ腕を回し、腰のあたりで手を結んでいるだけだった。だが、サリナは気圧されぬよう全力で踏ん張らなければならなかった。
 圧倒的な氣の圧力が、サリナを襲った。ユンファがくず折れた時のものとは比べ物にならない、それはまさに最高師範の名に相応しい、恐るべき圧の氣だった。
「対抗せよ、サリナ!」
 薄黄色の激しい光を放ちながら、イェジンは命じた。
「わしの氣に対抗してみせよ、サリナ! 命の炎を燃やすのじゃ!」
「く、くう……」
 風ではない。だがまるで突風に押されるかのように、サリナの身体はずるずると後ろへ下がった。イェジンの生命の力、プラナが巻き起こす嵐がごとき圧力。
「解き放て、サリナ! おぬしの氣を、見せてみよ!」
「う、うう……」
 じりじりと押され、サリナの額に汗が浮かぶ。
 サリナは心臓を意識した。命の源である心の蔵。イェジンは、そこを病んでいるという。おそらくそれは、氣を操る能力にとっては、致命的な病であるはずだ。
 氣の力は命の力。命の宿る心臓は、氣の放出によって多大な負担を強いられる。当然そんなことは、イェジンは先刻ご承知だろう。その上で彼は、サリナのために己の命を削ろうとしてくれている。
 どくん、とサリナの心臓が脈を打つ。
 心が燃える。イェジンの思いが伝わってくる。命の炎が迸る。イェジン、ファンロンの皆、仲間たち、これまでに出会った世界の人々。その全員に助けられて、自分は今、ここにいる。
 修得しなければならない、ファンロンの奥義を。そして高めなければならない、ゼノアと戦うための力を。
「うあああああああああ!!」
 喉も裂けよとばかりに、サリナは咆哮した。
 イェジンは目を見開いた。
 叫びとともに解放されたサリナの氣。それは光が爆発したかのような勢いで、イェジンの氣を押し返し始めた。
「ぐ……これはまた、なんという才能じゃ」
 まるで堰を切った濁流のようにあふれ出すサリナの氣の、イェジンは驚きを隠さない。ファンロン流の最高師範としてこの地に腰を据えてから随分経つが、これほどの才能の持ち主を彼は知らなかった。
「ローガンのやつめ、恐るべき子を育てたものよ」
 老師範の口元が小さく綻びる。
 若き才能の発する強烈な氣の力に対抗しつつ、イェジンは脳裏に、在りし日の思い出を描いていた。ローガンと肩を並べて技を競ったあの日々。ふたりは若く、夢と野望に胸を膨らませていた。
「ふふ……じゃが、まだまだじゃ」
 瞬間、イェジンは氣の放出を止めた。留めるものが無くなり、サリナの氣が一気に最高師範へ迫る。
 だがイェジンを飲み込むと思われたサリナの氣は、何者も捕らえることなく道場の壁に激突した。
 何が起こったのかわからず、サリナは唖然としていた。
「ほい」
「えっ!?」
 振り向いた時には遅かった。そこにはイェジンがいた。老師範はサリナの喉もとに、その手刀を差し出していた。
「勝負あり、じゃな?」
「……参りました」
 ファンロン流のお辞儀をし、サリナは負けを認めた。
 その後、イェジンは種明かしをしてくれた。
 氣の力は、何も放出したり身に纏ったりするだけではないと、彼は語った。氣を上手く操れば、常人には絶対にできない動きをすることも可能になる。
 その手ほどきを、サリナは受けた。
 氣を脚に集中させ、宙を駆ける。あるいは水面の上を走り抜ける。腕や脚を引くこと無く突きや蹴りを繰り出す。真っ直ぐ走っていると見せかけておいて、無挙動でその進行方向を変える。あるいは半身分左右にずれた軌道に移る。いずれも相対する敵の虚を突く動きだ。
 イェジンがサリナの氣の放出から逃れてサリナの背後に立ったのは、何のことは無い、ただ氣の奔流の上の空中を駆けて来ただけだった。
 サリナの吸収は速かった。驚きべき速度で、彼女は氣の操り方を身に付けていった。あるいはマナの扱いと似ているのかもしれないと、イェジンは推察した。サリナには豊かなマナの才能があり、それがプラナを操る感覚を学ぶことの一助となっているのかもしれなかった。
 そのまま夜まで、サリナはイェジンの稽古をみっちり受けた。氣を扱うには体力が必要だった。そのため普段からは考えられない量の食事を、彼女は摂った。仲間たちがぽかんと口を開けて眺めるほどで、それに気づいて彼女は大変に赤面した。
 神域へ向かう道は険しかった。頂き近くなので当然だったが、その上魔物も多く出現した。だがサリナに対抗しうる力持つ者は無く、多少の傷を負いながらも、サリナはそのことごとくを撃退した。
 道中、イェジンは様々な話をしてくれた。
 サリナの師、ローガンがかつて、イェジンと共に修行した仲であったこと。イェジンが最高師範を継ぎ、ローガンは彼を支える師範となったこと。やがて後続の師範に総本山を守る役を譲り、ローガン自身は山を下りてフェイロンに道場を開いたこと。
 フェイロンがあるハイナン島は、ツァンルンの出身地だった。サリナは知らなかったが、確かにツァンルンという名の響きはハイナンのものだ。そのため、ファンロン流総本山を守る者たちは皆、元の名を捨て、ハイナン様式の新たな名を名乗るのだということだった。ユンファ、フーヤ、ルァンも皆、元は別の名だったのだ。
 そしてイェジンは、現在のファンロン流がこれほどまでに他者の来訪を拒む理由も話してくれた。
 ファンロン流は、かつて開かれた武術だった。総本山へも多くの入門希望者が訪れ、そのほぼ全員が何の試験も課されずに入門を許されていた。
 そうしてツァンルンによる開闢から200年以上の月日が流れ、それは起きた。
 統一戦争に敗れたヴァルドー皇国。その血を引く者が、身分を偽ってファンロンに入門した。彼はめきめきと頭角を現し、厳しい修行の末に師範の座に上り詰めた。
 彼は山を下り、ローガンのように地方道場を開くことを希望した。ファンロンの戒律では、氣の力は総本山以外で教えてはならぬとされていた。氣の力は強力だが、使い方を誤れば命に関わるものだ。徒に広めることを、ファンロンは良しとしなかった。
 だが彼は、己の地方道場で氣の使い方を教えた。そして彼の許で学んだのは、イリアス王国に恨みを持つヴァルドーの血筋の者たちだった。
 学校で学ぶ歴史では、200年前の内乱は、各地の地方領主たちが結託し、一斉に蜂起したのだと教わる。サリナもそのように認識していた。だがイェジンの語る歴史は、それとは少し、様相を異にしていた。
 内乱は、ファンロンの門下の者によって起こされたのだと、イェジンは語った。
 地方道場を開いた男は、時の領主に持ちかけた。イリアス王家に反旗を翻し、再びヴァルドーの威光を世界に知らしめることを。そのために世界の地方領主――当時はまだ貴族としては扱われていなかった――たちと結託することを。
 そして勃発して内乱で、男の指揮したファンロン流の一軍は華々しい戦果を挙げた。イリアス王国はファンロンの見知らぬ力、つまり氣の力に手を焼き、人海戦術で無理矢理押さえ込むしかなかった。その一戦でイリアスが受けた打撃は、他のどの戦いよりも大きかったという。
 以来、ファンロンは入門者を厳しく選定するようになった。同じ過ちを繰り返さぬために、総本山の門へ到達出来る者をまず絞った。更に門まで到達した者に、徒弟、師範代、師範と試練を与え、それぞれが入門希望者を見極めることとした。
 サリナは身を引き締めた。そんな歴史を経て課された試練を通じて、イェジンは、ルァンたちは自分を認めてくれた。その上開祖ツァンルンに教えを授けた武術の神に会い、ファンロンの全てを持っていけとまで言ってくれた。そのことに心の底からの感謝を覚えると同時に、必ず力を身に付けなければという使命感もまた、彼女の胸に生まれたのだった。
「ふう、ようやく着いたのう」
 やれやれという表情のイェジンに続いて、サリナもその場へ到達した。
 そこは、銀華山の頂上だった。広い平地の奥に、どうやら切り立った崖があるようだ。いや、サリナはそれを崖だと思ったが、近づいてみるとそうではなかった。それは火口だった。かつて銀華山が活火山だった時の名残だ。
 そして火口の向こう、縁をぐるりと周りこんだ先に、建物があった。
「あそこじゃ」
「はい」
 それは祠のようだった。サリナはそれを見て、違和感を覚えた。
 何らかの建造物があるだろうと予測はしていた。そしてごく自然に、それは恐らくハイナン様式の建造物であろうと思っていた。
 しかしそこにあったのは、大陸様式の祠だった。いや、より厳密に言うならば、はるか遠い時代から存在する大陸の様式だった。石造りで重厚な装飾の施された祠。
 そう、それはサリナたちがこれまでにいくつも目にしてきた、遺跡の類であるように見えた。銀と青の間のような、奇妙な色の石。
「これは……」
 その威圧的な雰囲気に、サリナは緊張を感じる。
「ゆくぞ。この奥に、神がいらっしゃる」
「は、はいっ」
 重そうに見えた扉は、意外にもすんなりと開いた。分厚い石の扉だったが、ほとんど重さを感じない。何か不思議な力が働いていることを、サリナは確信した。
 サリナは考えていた。この感じ、覚えがある。どこかで似たような感覚を味わった気がする。しかしそれがどこでだったか、彼女はすぐには思い出せなかった。
 祠の中は静謐に包まれていた。ふたりの足音だけが静かに響く。
 魔物はいない。さすがに神の住処だけあって、内部は神聖は雰囲気に包まれていた。
 ところどころ、天井には穴が開いていた。そこから太陽の光が降り注ぎ、内部は明るい。石の柱や壁は、不思議な光沢を持っていた。
 それほど広くはなかった。入ってすぐに広間があり、柱がずらりと並ぶ間をまっすぐに進んだ。イェジンの先導はきびきびとしていた。柱の間を進んだ奥の扉に、彼は手を掛けた。
 扉は音も無く開いた。
 その先は、さらに広い空間になっていた。だが何も無い。どうやって天井を支えているのかわからないが、とにかくその場所には柱も無く、ただ広大な空間があった。扉の対面、広間の奥に石段があり、数段上がったところに玉座のようなものが見える。
「あれ……?」
 その空間を、サリナはぐるりと見渡した。だが何も見つからなかった。
「どうした?」
 イェジンに問われ、サリナはまごつく。
「あ、あの……神様は、いらっしゃらないんですか?」
「いや、いらっしゃるよ。たぶんな」
「た、たぶん?」
 それには応えず、イェジンはにやりと笑って歩を進める。サリナは慌てて追いかけた。
 広間の中央あたりで、イェジンは足を止めた。背中にぶつかりそうになるのをかろうじて堪え、サリナはもう一度あたりを見回した。やはり何もいない。
 その時、イェジンが大声を張り上げた。
「イェジン・ファンロンにございます!」
「ほわあっ!?」
 思わず仰天した声を上げてしまい、サリナはおたおたと腕を振った。恥ずかしさに顔が熱くなるが、イェジンはこちらを見てはいなかった。
「お姿をお見せください、神よ!」
 張り上げられたイェジンの声は、広間の隅々にまで届いた。石の壁に反響し、羽虫の音のような鈍い共鳴音が響く。
「どちらにおられますか、神よ!」
「うっさいのう」
 とその声は、どういうわけか足元から聞こえてきた。
「えっ」
 驚いて、サリナは数歩後ずさった。
 そこには、小さな小さな、人形のようなものがいた。
「おお、そんなところにおわしましたか」
「おわしましたわ。さっさと見つけんかい」
 赤い人形だった。サリナの掌くらいの大きさだろうか。赤い装束に赤い髪、赤い目。何から何まで赤いが、肌だけは白い。額の左右から1対の短い角が生えている。その人形は腕を組み、偉そうな態度でこちらを見上げていた。
「えっ……あの、イェジンさん」
「うむ?」
 どうした、という顔でイェジンがこちらを見る。まさかと思いながらも、しかし半ば確信しながら、サリナは訊ねた。
「あの、このおに……じゃなくてこの方が、神様でいらっしゃるんですか?」
「うむ」
「よう、初めて見る顔だな」
 信じられない思いで、サリナは人形――もとい、神に顔を近づける。
「は、初めまして、神様」
「あ、お前あれだろ、信じてないだろ?」
「え、あ、いえ、いえいえいえ、そんなことはっ」
 慌てて顔の前でぶんぶんと手を振るが、神は白い目をこちらへ向けてくる。
 ツァンルンに武術の教えを施した、武術の神。そう聞いていたサリナは、当然のように厳しい姿の神を想像していた。今目の前――いや顔の前にいるのは、まるで少年のような姿をした、小さな人形だ。人形にしか見えない。
「ふん、まあいい。初めて俺に会うやつは、だいたいそういう顔をするんだ。なあイェジン」
「はっはっは。いやはや、もう忘れてしまいましたわ、そのような昔のことは」
「てめえいい度胸してやがるな。俺と会った時のことを忘れただと?」
「はっはっは。それはそうと神よ、今日も鍛錬をされていたのですか」
「おう、まあな。ちっこくなってりゃあここも広くなるからな」
「御身の変わらぬご研鑽ぶり、感服いたします」
「うるせえ、思ってもないこと言うな」
「あああ、あのあのあの」
 会話に入るタイミングが掴めずにまごついていたサリナは、意を決して割り込んだ。イェジンと神の顔がこちらを向く。サリナは神と話していた時の中途半端な中腰のような姿勢でふたりの視線を受け、慌てた。
「あの、神様」
「あん?」
 ごくりと唾を飲み込んで、サリナは訊ねた。
「私、サリナと申します。今日は、お願いがあって参りました」
「ああ、知ってる知ってる」
「え?」
 ぽかんとして、サリナは小さな神を見た。ぷらぷらと手を振って、神は答える。
「この山で起きてるこたぁ、全部見えてんのよ。お前が来たことも、奥義を身に付けたがってることも、それに何か変なのが入り込んでることもな」
「へ、変なの?」
「おう、まあ気にすんな、まだ大したこっちゃねえ。それより――」
 言葉を切って、神はサリナに身体の正面を向けた。
「よっ」
 声を掛けると同時に、それは起こった。
 炎のようなものが巻き起こった。渦を巻いて立ち昇る。サリナは驚いて後ずさり、素早く立ち上がった。何か危険な予感がした。
 炎はすぐに消えた。煙などは残らなかった。何かが燃えたわけではなく、神の不思議な力が起こした現象であるようだった。
 そして炎が消えたその場所に、神はいた。
「さ、始めるか、サリナ」
「え……」
 そこにいたのは、もはや人形ではなかった。大柄な男性の姿をした、立派な武術家がそこに立っていた。背の丈はフーヤと同じくらいだろうか。横幅はフーヤほど無いが、しかし押し上げられた武道着が、胸板の厚さを物語っていた。
 だがサリナが最も驚いたのは、大きくなったその姿にではなかった。
 それは、見慣れた光だった。何度も何度も見てきた光だった。
「そんな、どうしてここに……」
「ふっふっふ。不思議か、サリナ。マナを禁じられたこの地に、俺がいることが」
 真紅の光。竜巻のように渦巻く、それは鮮烈なマナの光だった。
「改めて名乗ろう、サリナよ。俺はイフリート。炎の幻獣、瑪瑙の座。荒ぶる炎の権化、炎神イフリートだ!」