第177話

 額に1対、太い角が生えていること以外は、普通の人間のように見えた。かなり大柄だが、街ですれ違っても幻獣だと気づくことは無いだろう。
 炎の幻獣、瑪瑙の座。猛々しき炎の権化、炎神イフリート。その名は、サリナも聞いたことがあった。創世神話にはあまり詳しくないほうだが、イフリートは有名な幻獣だった。
 幻獣神フェニックスの側近として知られるイフリートは、燃え盛る炎を操る神。その力は激しく、強力で、しかし彼は幻獣たちの中でも、特に心優しい存在として親しまれる存在である。
「ほら始めるぞ、サリナ」
 不思議な心持で、サリナはイフリートと対峙した。
 緊張はしなかった。イフリートの話し方が砕けたものだからだろうか。目の前でファンロン流の構えを取り、拳を自分に向けるイフリートと向かい合っても、サリナには恐ろしいという感情は湧かなかった。
 無論、イフリートは強いだろう。これまで戦ってきた瑪瑙の座の幻獣たちや、それと同等の力を持つ幻魔たち。いずれも強力で、サリナたちはいつもかろうじての勝利を収めてきた。
 これから行うのは、稽古だ。いつものような命を懸けた戦いではない。だがその認識が、サリナが今落ち着いていられることと関係が無いことを、彼女は自覚していた。
 ここでイフリートに認められなければ、奥義の体得は成らないだろう。それはゼノアの思惑から外れ、彼の裏を掻いてやりたいと願うサリナにとって、痛恨だ。だから彼女は、どうあってもこのイフリートの試練を乗り越えなければならない。
 しかしそのことに関してのプレッシャーが、不思議と感じられなかった。
「はい、よろしくお願いします」
「おう」
 イフリートはマナの光を消した。マナは使わないとの意思表示のように、サリナには思えた。もっとも、ここでイフリートだけが――どういう理屈でかは不明だが――マナを使うことが出来たら、どう考えても不公平だ。
 サリナとイフリートは、同じ構えを取っていた。ファンロン流武闘術、天の型。サリナも得意とする、攻撃のための型だ。
「かかってこい、サリナ。お前の力を見せろ」
「……はい!」
 目的は定かではない。ただ、サリナは直観的に、全力でイフリートと戦うことが必要だと確信した。単なる力試しなのか、あるいは力無き者に奥義を授かることは出来ないとの意思表示なのか、どちらとも取れたが、どちらでもよかった。
 石の床を蹴る。イフリートに急速接近しながら、サリナは炎神の身体を観察していた。
 体格差が大きい。だがそれはいつものことだった。サリナは小柄で、常に自分より身体の大きな者を相手にしてきた。だから彼女は自然と、腕や脚の長さが物を言わない場所――相手の懐に、一瞬で飛び込む術を身に付けた。
 イフリートに肉迫するほんの僅かな時間で、サリナはいくつかのことを考え、それと同時に想定されるイフリートの動きを視界の中に描いた。そこでふと、彼女は思い当たった。
 人形ほどの大きさから、一瞬で大人の男の体格へと変化した。イフリートは、自らの身体の形状を自在に変えられるのだろうか。もしそうだとしたら、彼の今現在のリーチを意識して懐に飛び込もうとすることは、無意味だろうか。
 だがその考えを、サリナはすぐに掻き消した。考えても仕方が無い。それにイフリートは、ファンロン流を見守る神でもある。その道に外れるような小ずるい真似はしないだろう。
 果たしてイフリートは、サリナの考えたとおりの戦い方をした。
 懐に飛び込まれまいと、イフリートは身体を捻った。直線的に接近サリナの攻撃をいなすつもりだ。それを察知し、サリナはどんと強く床を蹴った。彼女のしなやかなバネが、その動きを可能にした。
 身体を捻ると同時に回転させ、遠心力を利用した反撃を繰り出そうとしたイフリートは、視界の端で起きたその異常な出来事に背筋を凍らせた。
 恐るべき運動神経だった。サリナは石の床を蹴って、進行方向を直角に曲げた。あまりに強引な方向転換だが、彼女の足首にも脚の腱にも、負担はほとんどかかっていない。
 既に回転を開始していたイフリートはその瞬間、サリナにちょうど背中を向けることになってしまった。
 サリナは跳躍した。相手が人間と同じだと想定すれば、それは最も効果的に相手を行動不能に至らしめる攻撃だった。すなわち、がら空きの背中に飛び膝蹴りを叩き込む。
「ぬうん!」
 だがさすがに、ファンロンの神はそう易々と致命の一撃を受けてはくれなかった。
 イフリートは回転を止めた。驚くべき膝の柔軟性で、始めかけた回転にブレーキをかけた。その関節は、まるで緩衝材ででもあるかのように、生まれかけた遠心力を吸収し、ゼロに戻した。
 イフリートは腕を突き出した。鋭く迫るサリナの膝を、横へいなすためだった。
 サリナは全身の反射神経を総動員した。空中で身体を捻る。同時に膝を伸ばす。瞬時にリーチを増したサリナの脚は、緩く回転しながらイフリートの腕に着地した。
 それは蹴りではなかった。イフリートはぐっと沈んでくるようなサリナの体重を感じつつ、その脚を絡めと老と腕を回した。
 だがその一瞬前、サリナはイフリートの腕を蹴って跳躍していた。高い。驚くべき跳躍力だった。あんな無理な体勢から、よくもこれほど跳んでみせたものだ。場違いとは思いつつも、イフリートは胸中で感嘆する。
「いきます!」
「こい!」
 対峙する二者は、同時に氣を解放した。
 爆発的に光が広がる。薄黄色の煌きを纏い、サリナは空中を蹴った。
 イェジンは我が目を疑った。
 昨日、教えたばかりだった。その時にサリナは、あれほど力強く、宙を駆けることが出来ただろうか。
「ぐおっ……」
 思わず漏れたその声を、イフリートは他人のもののように聞いていた。それが自分の声であると正しく認識するまで、少しの時間を要した。
 サリナのかかとが、イフリートの分厚い胸板にめり込んでいた。
 着地したサリナは、すぐに追撃をしかけた。幻獣が鳩尾を攻撃されて苦しむ姿は珍しかったが、そんなことを考えている暇は無かった。
 隙のできた脚を狙う。態勢を低くして、サリナは攻撃を仕掛けた。
 だがさすがに、武術の神はその追撃を座して受けはしなかった。
 予備動作も無しに、イフリートは垂直に跳んだ。サリナの回し蹴りは空を切った。
「せい!」
 鋭い声と共に、炎神の拳が繰り出される。神は宙を蹴り、その推進力も得て突きを放ったのだった。回し蹴りからの姿勢を立て直す前に、その危険な拳はサリナに迫った。
 まるで燃え盛る業火の塊が迫ってくるようだった。もちろんイフリートは今、炎のマナを纏ってはいない。それはサリナの錯覚だったが、その拳の持つ威力がそう感じさせた。
「ううっ……!」
 回避はできなかった。だからサリナは、両腕で防御した。
 腕に伝わった衝撃は、すぐに身体へと響いてきた。内臓を揺さぶられるような強烈な一撃。まともに喰らっていたら、肋骨か胸骨を砕かれただろう。そこまでの致命的なダメージはかろうじて回避出来たが、サリナは石の床に叩き付けれた。
 床が反射した衝撃が、サリナの肺から空気を搾り出す。その痛みに奥歯を食いしばりながら、サリナはすぐに起き上がった。
「おお、やるのう」
 楽しむような調子のイフリートに、サリナは再び構えを取る。お互い、受けたダメージは同じくらいだろうか。
 一瞬の攻防だった。だがそれだけで、最高師範であるイェジンは、身震いするほどの興奮を覚えていた。
 ある意味恐ろしいほどだった。サリナの研ぎ澄まされた戦闘感覚が伝わってくるようだ。総本山へ来てすぐの頃より、はるかに強くなったように思える。だがそれは恐らく、この空気の薄い環境への適応度合いが影響しているはずだった。
 イェジンは確信する。つまりサリナは、地上では今と同じくらいの、凄まじく優れた身体能力を発揮していたのだ。山の環境に身体の適応が進んだことで、彼女本来の強さが戻ったのだろう。そこに、彼が教えた氣の力が合わさった。
 それにしても、これほど優れた才能が存在したとは。彼女は、まだ僅か18歳だ。たったの18年しか人生を歩んでいない。その中でファンロン流に費やされた時間は、もっと少ないだろう。
 ひとつの予感が、あるいは期待が、イェジンの胸に生まれる。サリナなら、やってくれるかもしれない。かつてファンロンの誰も成し遂げることの出来なかった、あの修練を。
 サリナとイフリートは激しい攻防を繰り広げている。あんなに楽しそうに戦うイフリートを、イェジンは初めて見た。
 かつて、イェジンもイフリートの稽古を受けた。奥義を継承する時のことだ。幻獣でありながらひとの姿を取り、マナを使わずに武術で戦うイフリート。そのことに驚きながらも、イェジンはこの実に人間くさい神を敬愛していた。
 同時に、イェジンは運命の巡り合わせをも感じていた。
 幻獣たちと共に戦い、世界に仇なす者を止めようとしているサリナたち。恐らく彼女らに、イフリートの力は必要だろう。神もそのことに気づいているはずだ。この山は炎神の御座。ここで起きることは全て、イフリートの知るところなのだから。
「ふっふっふっ……はっはっはっはっは!」
 再び距離を取って拳を向かい合わせながら、イフリートは大笑した。
「楽しい! 実に楽しい! なあ、サリナ!」
「ふふ……はい!」
 ふたりの戦いは激しさを増していく。サリナの氣の扱いは見事としか言いようが無かった。
 始祖であるイフリートにも劣らぬ練度。宙を蹴って自在に舞い踊り、彼女はイフリートと拳を交え、蹴りを交差させる。
 リーチの差をまるで感じさせない俊敏な動き。場合によっては適切に地の型を取り入れてイフリートの攻撃を防ぐ。生来の才能、ローガンの教え、そして彼女自身の強さへの渇望。それらが彼女を、これほどの高みに導いたのだろう。
「……む?」
 だがふたりの戦いを見るうち、イェジンはあることに気づいた。
 少しずつ、ほんの僅かにずつではあった。だがそれは、確実に出現していた。血の気が引くのを、イェジンは感じた。こんな時には、決して出現してはならないものだ。大変なことになる。すぐに止めなければ!
「か、神! イフリート様!」
「うっさい! 邪魔するな!」
 イフリートは気づいていない。なんたることだ。気づかぬまま、サリナとの戦いを愉しんでいる。えらいことだ。まずい。やばい。
「いいえ邪魔させて頂きます! というか、即刻稽古を中止してくだされ!」
「何言ってんだてめえ! 今いいとこだろが!」
 サリナにも止まる気配が無い。戦いの興奮に没入してしまったか。無理も無い、これほどの素晴らしい戦い……いやいやいやいや、そんなこと言ってる場合ではない。
「いいとこでもなんでも、やめてくだされ! すぐに!」
「黙れ! お前が連れてきたんだろ!」
「やかましい! すぐにやめんかい、この稽古オタク!」
「誰がオタクじゃくたばりぞこない!」
「うるさいさっさと気づかんかい! 出てしもうとる! 出てしもうとるんじゃ!」
「あぁん!?」
 ようやくイフリートの動きが止まる。さすがに異変に気づいたか、サリナも止まった。ふたりは着地し、なにごとかとイェジンを見る。
「あんたじゃあんた、すぐに鎮まってくだされ!」
「だからお前は何を言って……あ」
「あれ?」
 サリナも気づいた。さっきまでは激しい稽古の興奮で気づかなかったのか。イフリートは氣の光だけでなく、あの美しく赤い光をも、その身体から漏れ出させていた。
「あ、やべえ」
「やばいから落ち着いてくだされ!」
「やばい?」
 赤い光。炎の光。炎の、マナの……光。
「あれ? マナ?」
「やべ、やべやべやべやべ……もう遅いか」
「な、何をしとるんですかあんたは!」
「うっさいのう、しょうがないじゃろう。ていうかあんたってお前……俺、神様なんだけど」
「こんなあほ神だとは思わなんだ」
「え、ちょっとイェジンお前、ひどくない?」
「あ、あの」
 いまひとつ状況の掴めないサリナが口を挟む。
「あの、なにがそんなにやばいんです?」
 すっかり稽古という雰囲気ではなくなってしまった。構えも緊張も解き、イフリートは腕組みをしている。
「うん……いやな、この山ってさ、使えなくしてるじゃん、マナ」
「あ、はい」
「あれさ、使えなくしてるの、俺なんだよね」
「はい」
 なんとなく予想はしていた。瑪瑙の座の幻獣なら、そのくらいのことは出来ても不思議ではない。
「悠長に話しとる場合ですか。すぐ皆に報せなければ!」
 そう叫びつつ、大慌てでイェジンは祠を飛び出していった。あの泰然とした老師が慌てふためくとは、一体何が起きるというのか。
「あいつも忙しないのう」
 他人事のように言いながら――実際、他人事なのかもしれないが――イフリートはイェジンの背中を見送る。サリナはどうしていいかわからず、とりあえず神の話の続きを待った。
「マナを封じた理由は、ふたつある」
「え、あ、はい」
 突然続いた言葉に驚きながら、サリナは続ける。
「ふたつ、ですか」
 マナはファンロンの教えには無い力だ。それが理由だろうかと、サリナは想像した。つまりマナを使えないこの場だからファンロンの総本山が据えられたのではなく、ファンロンの総本山を吸えるからイフリートがマナを禁じた。
「ここの環境は厳しいだろ。標高が高くて、酸素が薄い。人間には相当こたえるはずだ」
「はい。私もかなり苦戦しました……」
「まあお前は、もうだいぶ慣れたみたいだな」
「はい、一応……」
「厳しい環境に身を置くからこそ、本体備わっている命の力――プラナが育まれる。高山にも関わらず、育つはずの無い植物が育ってるのはそのためだ」
「命の力を引き出すための環境、なんですね」
「うむ」
 猛鷲の階で感じた違和感の正体は、それだったのか。命の力に満ちた山。その山が育てる植物や水。滋養が豊富で美味しい野菜が採れるのも納得だった。
「で、問題はもうひとつの理由だ」
「はい」
 イフリートは頭を掻いている。ばつが悪そうに。いたずらが見つかった子どものようで、サリナは少し笑った。
「この山、寒いだろ」
「え、はい。雪山ですから……」
「雪山にしたの、俺なんだよな」
「え?」
 イフリートが、銀華山を雪山にした……?
「ここ、元々は火山だったんだ、だいぶ昔な。一度大噴火して、そのあと少し落ち着いたらマグマも沈静化してきた。そうなるとこの高さだから一気に気温が下がって、雪も積もるようになった。今に近い環境が出来上がって、俺はそこに目をつけた」
「え……」
「俺は炎のマナを司ってるから、力を与えるのも奪うのも自在に出来る。つまり、俺がこの火山のマナを抑制したんだ」
「あの……ということは、まさか……」
「俺が抑制してるけど、万一どっかからマナの刺激があったら、この山、火山だから……」
「え、ええええ、えええええええっ!?」
「するよなあ……噴火」
「ええええええええええええええええええええっ!?」
「はっはっは。いやあ、やばいな」
 イフリートの笑いに呼応するように、不気味な震動が起きた。それはまるで、巨大な銀華山が寝返りを打とうとするかのような――何かの目覚めを感じさせる、大きな胎動だった。