第178話

 ばたばたばたばたと、サリナは走った。とにかく脱出しなければ。獅子王の階に戻って、皆に報せないと。あ、でもそれはさっきイェジンさんが行ったからいいのかな……。でもとにかく、逃げないと!
 といったようなことを考えながら走っていくサリナの背中に、イフリートは声を掛ける。
「おーい」
「はい!?」
 場違いにのんびりしたイフリートの声に違和感を覚えながらも、サリナは一応振り返る。瑪瑙の座の幻獣の言葉だ。無視はできない。
「そんなに慌ててどこ行くんだ」
「え、どこって……みんなのところです!」
 そんなことを言っている間にも大地は――いや、銀華山は鳴動を続けている。地下の深いところから伝わって来る震動は、そこに秘められた力の強さを物語っているようだ。
「あいつらなら心配いらんと思うけどのう」
「で、でも!」
「いや要するにな」
 イフリートの視線が、自分からすっと外れる。大いに混乱しながらも、サリナはその視線を追った。
「え……?」
 闖入者がいた。
 真っ赤な髪。同じ色の瞳。赤と黒の2色で構成される、派手な服装。左右の腰に差された1対のトンファーに、背中から腰にかけていくつも差された武器。彼はのんびりと、祠の内部を見渡していた。
「ギルさん……どうして?」
「ん?」
 今こちらの存在に気がついたかのように、ギルはこちらを見た。その目は笑っている。
「おーサリナ」
 片手を挙げるギルに、サリナはなんとなく会釈を返す。だが彼女の思考は、まるでこの銀華山のように揺れていた。なぜギルが、ここにいる?
「どうしてって?」
「え、あの……どうしてここに?」
 こんな問答をしている場合ではない。火山が噴火して溶岩や火山弾が発生したら、獅子王の階にいる皆はもちろん、麓の村、マリも危険だ。すでにこの震動は麓でも感知されているだろう。急いで下山し、避難を手伝わなくては。やや冷静さを取り戻した脳が、サリナにそう警告する。
「おー」
 対してギルは泰然としている。その差に、サリナは彼女にしては珍しく、苛立ちを覚えた。
「あの、ごめんなさい。私、行かないと!」
「おっと」
「え?」
 何が起きたのか、サリナにはすぐに理解出来なかった。
 ギルの横を走り抜けようとしたサリナの胴に、ギルの腕が巻きついていた。彼の腕はそれほど太くはないが、その力の強さは驚くほどだった。サリナの身体は軽々と持ち上げられ、放り投げられた。
「ちょっと、ギルさん!」
「行かせねえよ?」
 信じられない思いで、サリナはギルを見る。行かせないと、彼はそう言ったのか。
「ギルさん……冗談は、やめてください」
 立ち上がり、サリナは拳を構えた。なぜなら、ギルがそうしていたからだ。
「どいてください、ギルさん」
「はっはっは」
 構えを解きはせず、ギルは笑った。からからとした笑いは、いつものギルと変わらないように見えた。
「俺さあ」
 楽しそうな口調で、ギルは語った。本当に心の底から楽しいようだった。この状況を悦んでいるのか、それともサリナと拳を交えることが嬉しいのか。いずれにせよ彼の言動に、サリナは不気味さを感じていた。
「ファンロン流の総本山を目指してるって言ってたじゃん」
 サリナは返事をしなかった。する気にならなかった。ギルが何を考えているのか、わからなかったからだ。じっと、サリナはギルを見つめる。
「あれ、半分ほんとで、半分ウソなんだよな」
 心臓の鼓動が大きくなっていく。ギルが何を言おうとしているのかはわからない。だが、サリナは確信した。この後彼は、聞きたくないことを口にする。恐らくはサリナにとって、サリナたちにとって、きわめて歓迎しない内容を。
「俺のほんとの目的は……お前だよ、イフリート」
 後ろにいる炎神を振り返るのを、サリナは堪えた。一瞬でも、ギルから目を離すのは危険だ。彼女の本能と、これまでに積んできた経験とが、そう叫んでいた。
「ふん」
 イフリートは落ち着いていた。不愉快だったが、それだけで心を乱すような未熟者では、彼はなかった。
「何じゃ、お前。どっから来た」
「んー、そうだな」
 耳の奥で血液が暴れている。だというのに、頭から血が失せていくような感覚がある。肺が、横隔膜が、心臓が、制御不可能な馬のように暴れている。握っていないと、拳まで震えてしまいそうだ。
 恐怖ではない。ギルが恐ろしいという感覚は、微塵も無かった。
 サリナが感じていたのは――怒りと、悔しさだった。
 その光を、サリナは知っていた。よく、知っていた。
「どっから来たかって訊かれたら……そうだな、試験管の中、かな?」
 炎の幻獣、瑪瑙の座。猛る火炎の化身、炎神イフリート。彼は人間の姿に化けることが出来た。額の角以外は、まるで人間と同じだ。見分けを付けるのは――難しい。
 ざわざわと、ギルの髪が揺れている。光の中で、それは揺れている。
 真紅に煌めく、炎のマナの、光の中で。
「……何者だ、お前」
「おー、俺か」
 嬉しそうに笑いながら、ギルは答える。その答えを、サリナは聞きたくなかった。断じて、聞きたくなかった。
「俺は、ギルガメッシュ。イフリート、お前と同じ力を持つ者」
「なんで……どうして!」
 そう感じるのは、サリナの勝手だろうか。彼女の我がまま、あるいはエゴだろうか。だが彼女には、どうすることも出来なかった。胸を埋め尽くす理不尽な感覚に、抗うことは出来なかった。
「……俺は、人間によって生み出された。世界のマナを、奪い尽くすために」
「どうしてなの! ギルさんっ!!」
「どうしてって、サリナ、俺は最初っからそうなんだぜ? 俺は生まれた時からそうなんだ――俺は、塵魔なんだ」

 セリオルたちは焦っていた。獅子王の階の宿坊、その大きなテーブルに、銀華山の地図を広げて覗きこんでいる。
「地図から推察すると、こことここ、この2か所が鍵になりそうですね」
「この地図が正確だったら、だけどな……」
「古い地図ですからね……」
 セリオルとフェリオの言葉に、ルァンが相槌を打った。
 彼らは異変が起きてすぐに行動していた。セリオルの指示の下、最も効率的に噴火の被害を抑える方法を検討していた。
 彼らだけでは、出来ることは限られている。だが、既に状況は変わっていた。
 クロイスはリストレインを見つめて言う。
「にしても、なんでいきなりマナが使えるようになったんだろな」
「なぜでしょう」
 純白の光を湛える2つのクリスタルから、カーバンクルとセラフィウムの意志が感じられるようだった。光を確認し、シスララはリストレインを髪に留める。彼女のリストレインは、美しい髪留め型だ。
「この地震と関係していることは間違いとは思うけど」
 アーネスが断言するのには根拠があった。山の鳴動が始まったのと同時に、彼らのリストレインが光を放ったのだ。そしてこれまで感じ取ることの出来なかった炎のマナを、アーネスは感知した。風水士として、それは疑う余地の無い確信だった。
 彼らはすぐに決断した。自分たちが、これから起こるであろう噴火の被害を食い止めなければならない。サリナのことも心配だったが、彼女のリストレインとクリスタルも復活しているはずだ。アシミレイトして炎の力を使うことが出来るサリナは、一行の中ではクロイスの次に、噴火によるダメージを受けにくいはずだった。
 彼らが立てた作戦はこうだ。
 まず山の地図を元に、流れ出した溶岩が通る可能性が最も高そうな地点を絞る。そこにクロイスを配置する。シヴァのマナを使って溶岩を食い止める。、そして次点の場所に、セリオルとフェリオ。氷の魔法をアシュラウルのマナを使って増幅し、同じく溶岩を止める。残る場所には、カイン、アーネス、シスララをそれぞれ配置し、瑪瑙の座の幻獣の力で対応する。かなりざっくりした作戦だが、急に発生した緊急事態だ。これで行くしか無かった。
 ユンファとフーヤは既に麓へ向かった。ふたりはマリの村の避難を手伝う役目だ。不気味な地震に、マリの人々は不安に思っているだろう。ルァンは山を知る者として、セリオルたちと共に作戦を立案していた。
「ん?」
 けたたましい足音が聞こえた。そしてセリオルたちが視線を向けるより早く、食堂の扉が開かれた。
「た、大変、じゃ!」
「お?」
 カインが椅子にもたれて頭の後ろで手を組んだまま、ぼんやりと口を開いた。扉を開けたのは、汗だくになったイェジンだった。
「ぜえっ、ぜえっ」
「うひゃひゃ」
 泰然自若としていたはずのイェジンの慌てた様子に、カインは笑いを遠慮しない。
「どした、じいさん」
「ぜえっ、どうしたも、こうしたも、ぜえっ、無い!」
「噴火のことか?」
「山が、ぜえっ、ふん……え?」
 きょとんとしたイェジンの顔に、カインがますます笑う。そこへすかさず、アーネスの肘が食い込んだ。
「ぶあっ」
「失礼でしょ! イェジン師は私たちに、危機を報せに来てくださったのに」
「う、うむ……しかし、既に対応しておったのか。さすがじゃ」
 胸を撫で下ろし、イェジンは手近な椅子に腰を下ろした。呼吸が荒い。
「ぐっ」
 心臓のあたりを押さえるイェジンを見て、ルァンが部屋を飛び出して行った。シスララが駆け寄り、最高師範の背中をさする。
「大丈夫ですか、イェジン様」
「な、なに、大したことでは、ないよ」
「そうは見えないですよ」
 言いながら、アーネスはそれを取り出した。しゃらん、と美しい音色。エリュス・イリアのマナを操る、風水のベルだ。
「来たれ水の風水術、湧水の力!」
 本来はこの雪山に満ちていたらしい水のマナ。その癒しの力を、彼女は呼び出した。
 とぷん、と柔らかな水音と共に、イェジンの身体を大きな水玉が包む。驚いた様子だったイェジンも、すぐにその水がもたらす癒しの力に、心地良さそうに目を細めた。
「イェジン師!」
 鋭い声は、ミンリィのものだった。イェジンの身辺の世話を任される彼女は、水と薬らしきものをその手に持って食堂へ入って来た。
「おお、ミンリィ」
「ご無理をなさらないでください!」
「ああ、すまぬ」
 湧水の力によって体力を回復したものの、イェジンは大人しく、ミンリィの手渡す薬を飲んだ。どうやら最高師範は心臓を患っているらしいと、セリオルたちは推察した。だから昨日、サリナに激しい稽古をつけはしなかったのだろう。サリナは言わなかったが、稽古の後の様子を見ればそれは明らかだった。
「それでどうじゃ、皆の衆」
 呼吸の落ち着いたイェジンは、対応の準備を進めるセリオルたちに向かって問いかけた。作業の邪魔をしない、絶妙なタイミングだった。
「どう、とは?」
「マナじゃよ。使えるようになったかの?」
 問い返したフェリオに、イェジンは元の通りの落ち着いた声音で続けた。フェリオはにやりと笑って、それに答える。
「ええ、まったく問題無く。しかも全員、ここへ来る以前より力が増していました」
「ほお……」
 感心した様子のイェジンに、フェリオは続ける。
「それがこの地で修練を行ったためか、あるいはこの地に満ちるプラナが我々に影響したのか、それはよくわかりませんが……いずれにせよ、俺たちは更に強くなることが出来た。その結果だけがあれば、ひとまず良しです」
「うむ……すまぬな、マナのことにはとんと疎いゆえ」
「あなたが詫びることではないですよ」
 イェジンは立ち上がり、セリオルたちの準備に参加した。まず考えなければならないことがあった。彼は作戦の概要を聞き、それを口にした。
「溶岩や火山弾の対応の前に、やらねばならんことがある」
「と、おっしゃいますと?」
 セリオルの問い返しに、イェジンは低い声で答えた。
「雪崩と、雪解け水じゃよ」
「ああ」
 という軽い相槌に、イェジンは意外そうな顔を向ける。セリオルは安心しろとでも言うように、クロイスを示してみせた。
「それについては大丈夫です。彼が対応しますよ」
「……君、ひとりでか?」
「あんだよ、なんか文句あんのかよ」
 ブスッとした顔を向けるクロイスに、イェジンは戸惑いを隠さない。銀華山は大きな山だ。何と言っても、このエリュス・イリアで第2位の標高を誇る高山である。少年ひとりの力、あるいはマナで、どうにか出来るものではないはずだ。
「み、みんな! 大変よ!」
 バタンと大きな音を立てて、再び扉が開け放たれた。イェジンの無事を確認して彼の荷物をまとめに戻った、ミンリィだった。視線が彼女に集まる。
「今すぐ逃げて!」
「どうしました、ミンリィさん」
 落ち着いて、と手ぶりで示しながら、ルァンが問う。だがその時間すらもどかしいか、ミンリィは咳き込むように続けた。
「雪崩よ! 上で発生したわ! すぐここまで来る!」
「なに!?」
 予想以上に早い。それだけ火山のマナが、溶岩が活性化しているということか。舌打ちをしながら、イェジンは椅子を蹴倒して立ち上がった。急いでここから離れなければ。雪崩が大規模だった場合、いかに彼らと言えど無事では済まない。
「ほら出番ですよ、クロイス」
「わーってるよ」
 セリオルに言われて椅子から立ち上がり、クロイスはリストレイン――紺碧色の短剣をその手に握る。
「その目で見てな、じいさん!」
 そう言い放って、クロイスは宿坊を飛び出した。イェジンは呆然としてその背を見送る。
「だ、大丈夫なのか、彼は」
「ええ、問題ありません」
 セリオルの声には微塵の不安も感じられない。それだけ、あの少年を信頼しているということか。彼は一体、どれほどの力を持つというのだ。
「見物に行こうぜ」
「そうね」
 カインとアーネスがそう言葉を交わして立ち上がった。他の者たちもそれに続く。
「私もまだ、信じられませんが……」
 傍らに立った弟子がそう切り出すのを、イェジンは聞いた。ルァンは部屋を出て行くセリオルたちを、じっと見つめていた。
「彼らの言葉や行動は、信頼に値するものだと思います。その力も。これまで一体、どれだけの戦いを経てきたのか――あのサリナさんを見てもそうですが、私には想像もつきません」
「……うむ」
 確かにその通りだった。イェジンはほとんどサリナだけしか見ていないが、彼女の強さ、その戦う力の練度から推察すれば、彼女の仲間たちも相当の手練であるに違いない。それも、彼の知らぬマナを使った戦闘においては、特に。
「見てみましょうイェジン師。彼らが行使する、幻獣の力を」
「うむ」
 イェジンとルァン、そしてミンリィの3人は、宿坊を出た。山頂のほうを見上げる。
 雪崩は、もうすぐそこまで迫っていた。
 怒涛の勢いで迫る膨大な量の雪と氷に、背筋が凍る。セリオルたちはと見てみると、彼らは恐ろしいことに、何ひとつ構えることなく雪崩を見上げていた。その少し前に、クロイスがいる。
 そして彼らは、それを目撃した。
「弾けろ! 俺のアシミレイト!」
 少年の叫び声と共に、光が溢れ出した。美しい紺碧の光。
 その光に、ファンロンの3人は目を奪われた。氣の光と似ていた。だが少し違う。身体の内から発されるあの薄黄色の光とは異なり、クロイスが生んだ紺碧の光は、まるで周囲から集まって輝いているように見えた。
「きれい……」
「うむ……」
 ミンリィの呟きに頷きながら、イェジンはその光景を見つめた。
 ――それは、信じがたい力だった。
 美しい紺碧の鎧を纏った少年は、右手に変わった形状の武器を持っていた。2本の短剣を柄元で合わせたような武器だ。彼はそれを、迫りくる雪崩に向かって大きくひと振りした。
 紺碧の光線が生まれ、雪崩に向かって飛んだ。クロイスが盗賊刀を振ると光線は生まれ、次から次へと雪崩に向かって飛んでいく。
 そして襲いかかる怒涛の雪塊に命中した光線は、驚くべき効果を発揮した。
 命中箇所から広範囲に、凍てつく氷の嵐が巻き起こった。それは大気の熱と大地の熱を奪い、解かされて流れた大量の雪を一気に固めていった。ものの数秒で、雪崩は止まった。
「なんと……」
 言葉を失い、イェジンはそれを見つめた。恐ろしい破壊力を持つはずの雪の悪魔が、あっという間に沈黙して眠ったのだ。
「さて」
 だが、真に驚くべきはここからだった。
「渦巻け! 私のアシミレイト!」
 今度は翠緑の光が生まれた。セリオルはガルーダの鎧を纏い、クロイスの隣りにふわりと舞い降りた。
「素晴らしい力ですね、瑪瑙の座のアシミレイトは」
「だろ?」
 そう短く言葉を交わし、ふたりはそれぞれの武器を振った。
 イェジンたちはあんぐりと口を開けた。
 それはまさに、神の力だった。
 瑪瑙の座と、彼らは言った。それはあの、イフリートの位階だ。ファンロンの神、炎の神。彼らが敬愛する、強き神だ。
 セリオルたちが見せたのは、その神の力だった。
 山が、浮いた。
 そう、錯覚するほとだった。
 ぽこんと、まるで冗談のような音を立てて、銀華山に覆いかぶさっていた雪と氷が、その山肌から剥がれて浮き上がった。クロイスが水のマナを、そしてセリオルが風のマナを操って起こした現象だった。剥がされた雪と氷は、竜巻のような強風に運ばれ、山の向こうの海に落とされた。
「な、何という力だ……」
 何十年ぶりだろうか。イェジンは、尻もちをついていた、まさに度肝を抜く力。紺碧と翠緑のふたりはその後、ほんの数分程度で、銀華山の氷河をほとんどすべて、海へと運んでしまったのだった。