第179話

 地の底で巨大な生物が蠢いているような、足元を揺るがす不気味な震動。みるみるうちに銀華山の山体の温度が上がっていく。急激な環境の変化に、山に棲む魔物たちも混乱しているようだった。もはや銀華山の代名詞であった白く凍てついた姿は無く、赤茶けた山肌が露わになり、荒涼とした景色がセリオルの眼前に広がっていた。
「霜寒の冷たき氷河に抱かれし、かの冷厳なる氷の棺よ――ブリザラ!」
 マナが呪文を通して形を成し、氷塊の魔法が発動する。ガルーダのマナを得て強化された魔法。巨大な氷柱が生まれ、銀灰の魔法銃に飛ぶ。紺碧の光を吸収し、アシュラウルのマナに祝福されたアズールガンが、その氷結の力を増幅させる。
 フェリオはトリガーを引いた。銀灰の魔法銃から、強烈な水のマナが放出される。
 紺碧の光が飛ぶ。それは火口からあふれ出し、じわじわと山肌を流れ来る溶岩の流れに衝突した。
 溶岩は、まるで生き物ででもあるかのようにのたうつ。水のマナは暴れる灼熱を抑え、その熱を奪っていく。セリオルは連続して氷塊の魔法を詠唱した。フェリオはそれを受け、増幅させて放ち続ける。冷やしても冷やしても、溶岩は後から後から襲いかかってくる。消耗戦であることはわかりきっていたが、セリオルはエーテルを飲みながら、詠唱を続ける。
 銀華山が孕む溶岩は、止め処なく流れ出している。セリオル、フェリオ、カイン、アーネス、クロイス、シスララの6人は、それぞれの持ち場へと散り、アシミレイトの力を使って麓への被害を食い止めていた。ただしカイン、アーネス、シスララの3人は溶岩を急速に冷ます術を持たないので、山肌に穴を開けたり溝を作ったりして、溶岩の流れを食い止める、あるいはその流れる方向を変える等の手段をとらざるを得なかった。
「かーーー。大変だなこりゃあ」
 ラムウのマナを使って溶岩の前に大穴を開け、そこに一時的にではあるが滞留させ、その間に溢れ出た溶岩を比較的被害が小さいと思われる方向へ流すための堤を作るという作業を行っていた。カインの雷のマナでは容易に可能な作業ではなく、彼はマナを大きく消費して疲労していた。
「こういうのはアーネスなんかは得意そうだけどな……あとサリナか」
 たぶんシスララも苦戦してるだろうな、とは言葉に出さなかった。やれやれと毒づいて、彼は腕を上げる。
「ったくよ。こんな時にどこに行きやがったんだ、ギルの野郎は!」
 溶岩が発する厄介な熱気に舌打ちをしながら、カインはマナを放出する。

 噴火の衝撃が祠を揺らす。しかしその大きな揺れも意識に入り込んでこないほど、サリナは混乱し、怒り、そして悲しんでいた。
「そう睨むなよ、サリナ」
 真紅の光を纏い、拳をこちらへ向けて構えながら、ギルはそう言った。睨んでいるつもりはなかった。しかしサリナの目には複雑な感情が入り乱れ、彼女の視線は否が応でも鋭くなっていた。
「最初から、これが狙いだったんですか」
 声が震えないように堪えるのに精一杯だった。
「これって?」
 ギルの声は軽い。その調子は、これまで交わしてきた言葉と変わらなかった。
「とぼけないで、ください……」
 意図したわけではないが、声に鋭さが混じる。サリナにもわからないのだ。批難すればいいのか、怒りをぶちまければいいのか、わからない。
「私たちは、これまでに3回、塵魔と戦いました」
「ああ、知ってるぜ。クラーケンとキュクレインと、アトモスだろ」
 肯定の言葉を口にするのも億劫で、サリナはそのまま続ける。
「私は、知っています。塵魔が何のために生まれたのか。いえ……何のために、造られたのか」
「ま、失敗作だけどな」
 あまりにあっけらかんとして、ギルはそう言った。失敗作。それはこれまでサリナが出会った塵魔たちが、必ず否定してきた言葉だ。自分たちは失敗作などではない。その力で、ゼノアの役に立つことのできる存在だと、彼らは主張した。
「ギルさん――いえ、ギルガメッシュ!」
 ざわざわと荒い波を立てる心に突き動かされるように、サリナは叫ぶ。感情を抑制しようとしても、上手くいかなかった。
「あなたもここへ、イフリートの力を奪うために来たんでしょう!? 神晶碑を破壊するために来たんだ!」
「んー……」
 拳を構えたまま、ギルは少し目を泳がせた。どう答えるべきか思案しているような様子だ。
「そうだとしたら、どうする?」
「止めます」
「ほほう?」
 にやりと嬉しそうに、ギルは笑った。その笑みの意味がわからず、サリナは困惑する。
「うん、そうだぜ。俺はイフリートの力を奪うために来た」
 あっさりと認めた。灼熱する怒りと漆黒の失望が、サリナの心を塗り潰す。
[やっぱり、そうなんですね」
 声が震える。感情が爆発しそうだ。
「ああ、そうだ」
「……わかりました」
 仲間だと思っていた。ほんの数日だったが、その中で信頼関係が築けてきたと思っていた。彼の強さに憧れを抱いた。カインとふざけ合う姿に安心した。そして何より、彼の氣の力のことを知りたいと願った。力になってほしかった。
 それは一方的な願いだったことを、サリナは理解していた。ギルとそんな話をしたわけではない。この先も行動を共にしようと約束したわけでもない。サリナが勝手に想像し、期待したことだった。
 だからこのやりきれない思いをぶつける先を、サリナは見つけられなかった。どう主張すればいいのかもわからない。表現のしようも無かった。
 天の型。その構えを取るサリナの傍らで、イフリートが呟くように訊ねる。
「塵魔とは何だ?」
 確信だけを、炎神は訊いた。ギルの目的はわかった。使う力もわかった。その正体だけが、彼にはわからなかった。
「人工の幻獣です。正確には、その失敗作らしいですけど……瑪瑙の座の幻獣と、同等の力を持っています」
「さっき感じた妙な奴は、あいつか。おっそろしいことをするのう、人間は」
「……ごめんなさい」
「で、お前たちはあいつを造った人間と戦っとるんじゃな」
「はい」
「ふうむ」
 呻いて、イフリートはその大きな手をサリナの頭に載せた。
「ほれ」
「うわっ!?」
 ずん、と衝撃が来た。身体の中心から突き上げられるような奔流。驚いたが、その直後にサリナは理解した。
「これは……プラナ?」
「うむ。俺のを分けた。さっきだいぶ消耗しただろ」
 そう言ったイフリートは、幻獣には似つかわしくなく、少し息が上がっているように見えた。それだけサリナに分け与えたプラナが多かったのか。
「やれ、サリナ。お前の力で、あの不遜な男をぶっ飛ばせ」
「……はい」
 サリナは氣を解放した。薄黄色の光が生まれる。帯状につながった美しい光が、サリナの周りで遊ぶように踊る。
「お、そっちでやるのか? いいぜ」
 応じるように、ギルはマナの光を消し、すぐにプラナの光を放った。ギルは笑っている。滲んだ涙を振り払い、サリナはギルを睨んだ。
 ギルは強い。そのことを、サリナはよくわかっていた。サリナが散々苦労してなんとか退けた相手を、ギルはいともたやすく撃破した。格闘戦において、彼はサリナたち一行の誰よりも強いかもしれない。
 だがサリナとて、そう易々と引き下がるつもりはない。ギルの域に到達しているかどうかは不明だが、イェジンとイフリートから指南を受けたばかりだ。普通は、指南を受けたからといってそれがすぐ、実力に結びつくものではない。だがサリナは例外だった。彼女は、己を満たすプラナが、刻一刻と増していくのを実感していた。
 薄黄色の光を纏い、両者は対峙する。
 仕掛けたのは同時だった。
 その衝撃に、重厚な造りの祠が揺れた。
 氣を解放したサリナとギル。ふたりは恐るべき速度で攻防を繰り返した。サリナが突きを出せばギルが腕で防ぎ、ギルが蹴りを放てばサリナが膝で受ける。互いに1歩も引かぬ、息つく間も無い、それは猛攻と猛攻だった。
 激しく散るプラナの光。サリナの叫びが、ギルの吼え声が響く。
 氣の力で宙を蹴る。ギルも同じだった。空中で激突し、ふたりのプラナが発光する。もう何度目になるかわからない震動が、イフリートの御座を揺るがした。
 その揺れの中、冷静に、イフリートは観察していた。
 サリナとギルガメッシュ。ふたりは今、驚くほど強力なプラナをその身体から奔出させ、そしてそれを身に纏って戦っている。
 ひとの姿を取っているとはいえ、その力はイフリート自身に匹敵するという。一体どうやって生み出されたのかは知らないが、もしもさきほどのサリナの弁が事実で、さらにもしも、イフリートとほぼ同じ能力を持っているとしたら――
 ギルガメッシュがプラナを扱う力も、彼と同等であるということになる。
 実際には、今ここにいるイフリートとギルガメッシュとでは、その力に差があるだろう。恐らく、プラナを使った戦闘では、自分のほうが強い。イフリートはそう確信していた。
 なぜなら、プラナの扱いには修練が必要だからだ。
 イフリートはずっと修練を続けてきた。他の幻獣たちから、少々奇異な目で見られるほどに。
 幻獣は神。彼らは不老であり、基本的には不死だ。彼らの力は世界樹の力であり、このマナで祝福された世界を支える力だ。そのため、幻獣の力は強大である。
 そのためか、幻獣は自身の力を現状以上に向上させようとしない。その発想が無い。一般的にもそれは知られている――というより、幻獣がいわゆる”修行”のようなことをするなどと、普通の人々は想像すらしないだろう。幻獣は世界を見守る存在であり、絶対的な神なのだ。そしてその認識は正しい。
 だがイフリートは違う。彼は修行をする幻獣だった。
 さきほど彼を見た時の、サリナの驚き。自分の姿にも驚いただろうが、イェジンが自分に対して使った“鍛錬”や“研鑚”といった言葉にも、彼女は驚いたことだろう。
 イフリートはプラナの修行を積んできた。それも、気の遠くなるほど長い時間をかけて。彼は人間にプラナの極意を授け、授けられたツァンルンはファンロン流を開いた。以来、彼は武術の神としてこの銀華山に居を据え、自身も修練を続けてきた。
 その積み重ねが、ギルガメッシュには無い。これは決定的な差だった。大昔のイフリートと同じだけの力をもっているとしても、プラナに関する技術だけは別だ。
 だがそれにしても、とイフリートは考えずにはいられない。
 それにしても、ギルガメッシュと同等に渡り合うサリナの実力には、舌を巻く。ほんの数分前、彼はサリナと拳を交えていた。そのほんの数分前から更に、サリナは強くなったように見える。驚くべきことだった。こんなにも速いのか、人間の成長速度とは。
 その時、ひとつの言葉がイフリートの脳裏に瞬いた。
 それはかつて、聞いた言葉だった。幻獣神フェニックスの口から、全ての幻獣が聞いた言葉。
 不意によみがえって来たその言葉が、不思議な確信を持ってサリナに重なっていく。
「――”運命の子”、か」
 イフリートの呟きをかき消すように、サリナとギルガメッシュが激突する。
「はははは!」
 大きな笑い声。ギルのものだった。宙を何度か蹴って床に降りたサリナは、同時に着地したギルの哄笑に顔を顰める。
 やはり強い。自分は全力で戦っているが、ギルにはまだ余裕があるように感じる。それが地力の差なのか、氣を扱う能力の差なのかはわからないが。
「はは。楽しいなあ、サリナ!」
 ギルが発したその言葉は、サリナの鼓膜を震わせた。しかし鼓膜から先、脳に到達するころには、意味を失っていた。
 いや。むしろ瞬時に理解した脳が、その音が伝わって来るのを拒んだというべきか。
「何、言ってるの……」
 自分の声ではないような声が、喉の奥から絞り出された。艶を失い、ひび割れた声。外に出すまいと懸命に閉じようとする喉をこじ開け、無理矢理姿を現そうとする凶暴な声だった。
「何言ってるの! 私が、私がどんな気持ちで、今ここにいると思ってるの!?」
「お、おお?」
 虚を突かれ、ギルは戸惑った。サリナがこんなに怒るとは思わなかった。彼はただ、サリナと拳を交えることが出来て、嬉しいだけだった。ただそれを、素直に表現しただけだった。
 人間って、よくわかんねえなあ。そう胸中で呟いた。
 その瞬間、激烈な一撃が彼を襲った。
 何が起きたか認識出来なかった。サリナの顔が見えた気がしたが、本当に見たかどうかわからなかった。とにかく彼は吹き飛ばされ、祠の柱に激突して床に転がった。柱に大きな亀裂が入る。
「ごっ……は……」
 重大なダメージ。それだけはわかった。痛みで身体が動かない。どこか壊れたか。そんな気がするが、よくわからない。
「がふっ……ぐあ?」
 上手く声を出せない。人間の身体の構造上の問題か。ギルはこの身体について詳しくなかった。だから自分に何が起きたのか、わからなかった。
 大きく、へこんでいた。粘土を親指で押したように、へこんでいた。
 ギルの胸部が、へこんでいた。
「うご……」
 身体が動かない。これはだめだ。ギルはすぐ判断した。気を抜いたのがミスだった。
「ギルさん……ギル、さん……」
 傍らで、サリナが泣いている。かろうじて生きている目で、ギルはそれを見た。サリナはもはや、プラナの光を纏ってはいなかった。顔をくしゃくしゃにして、崩れるようにして、彼女は泣いている。
 なんで、泣いてるんだ……? 彼には理解できなかった。
 理解できないから、彼は訊くことにした。
「サリナ、さがれ!」
 イフリートの警告。怒りと悲しみと、どこへも持っていけない思いに翻弄されたサリナは、すぐには反応できなかった。
 声を発する間も無く、サリナは吹き飛ばされた。ギルが発した爆風――正確には、マナの爆発的な高まりによって。
「な、なに……?」
「俺の力を使え、サリナ」
「え?」
 言い置いて返事も待たず、イフリートはマナの光へと姿を変えた。その真紅の光の中から、球状のクリスタルが現れる。クリスタルはふわりと飛び、左手首に装着された、サリナのリストレインへと吸い込まれた。
 顔を上げる。真紅の光はサリナの視線の先にも存在した。
 恐ろしげないでたちだった。目を引くのは真紅のマント。人間の姿だった時に着ていたあの赤と黒の服がそのまま鎧になったような、奇抜な装備。それぞれに武器を持つ6本の腕。そして、鮮やかな真紅の髪。悪魔のような、おどろおどろしい形相。
 炎の塵魔、ギルガメッシュ。
「ははは。まさかこのカッコを見られちまうとはなあ」
 人間の姿で受けたダメージが大きすぎたため、ということか。どこか冷めた頭でそんなことを考えながら、サリナは立ち上がった。広間の隅には、一応持って来ていた鳳龍棍が置いてある。それを、サリナはわざとゆっくり歩いて取りに行った。ギルガメッシュは、邪魔してはこなかった。
 元の場所に戻る。そして、サリナは叫んだ。
「輝け! 私のアシミレイト!」
 爆発的に、真紅の光が膨張する。炎を連想させる、激しい光。その光の中から、炎神イフリートの幻影が現れる。
 ギルガメッシュにも負けぬ、恐ろしげな風貌。群青色と黒の間のような深い色の髪。額からはねじ曲がった2本の角。隆々と発達した肉体は、タイタンのものにも劣らない。大きく露出した赤銅色の肌は硬質で、深い臙脂の布を纏っている。そして何よりも特徴的なのは、肉食の猛獣を連想させる顔のつくりだった。
 炎神の咆哮が上がる。リストレインが変形する。
 サリナの身体を、不定形金属の鎧が覆っていく。真紅に煌めく魔法の鎧。サラマンダーのものよりも多くの面積を覆うその鎧から、サリナへ圧倒的な量のマナが送られてくる。銀華山に来る前とは、かなり感触が違った。単に融合した幻獣が異なるからか――いや、それだけとは思えないほどの一体感だった。
 プラナの修行の影響か、あるいはまた共鳴度が上昇したのか。そう考えかけて、サリナは後者を否定した。マナの修行は行っていないのだ。おそらくこれは、この空気の薄い環境でプラナの修行を積んだことの副産物だろう。理屈はわからないが、そうとしか思えなかった。
「今度はこっちでやろうぜ、サリナ」
 全てを破壊する火炎のような、災厄を連想させる声。だがその口調は、いつものギルのものと変わり無かった。戦いを楽しむような、軽い調子。
 頭を振る。相手は塵魔だ。しかもここには、自分しかいない。いつも共に戦ってくれる仲間たちは今、噴火の対応のために奔走しているだろう。ギルガメッシュは、自分が食い止めなければならない。恐らくこの近くにあるはずの神晶碑を、守らなくては。
 サリナはギルガメッシュを見上げた。巨体というほどではない。だが強烈な威圧感を感じる。奥歯を食いしばる。怒りも悲しみも消えない。だが、彼女は棍を構えた。構えなければならなかった。