第181話

「燃え盛る業火のマナ宿らせし、エリュス・イリアの守り手たらん瑪瑙の座、炎神イフリートの御名により、千古不易の神域たれ!」
 サリナの両手から、マナの光線が生まれる。光線は折れ曲がりながらひとつの形を作っていく。強固な多面体。神晶碑を守る結界が形成されていく。
 イフリートが守護する炎の神晶碑は、あの大広間の奥の部屋にあった。例によってモグがあっさりと神晶碑の結界を解き、そこにサリナが新たな結界を張ったのだった。イフリートが指示する通りにやるだけで、カインたちが言っていたように簡単だった。
「これでいいのかな?」
「クポ。おっけークポ」
 こっくり頷くモグの可愛らしさに顔が綻ぶ。頭をぽんぽんとしてやると、モグは不思議そうにこちらを見上げてきた。
 その時、ひときわ大きな揺れがイフリートの御座を襲った。
「わっ!?」
「おお、まずいな」
 本当にそう思っているのかと言いたくなるほどのんびりした口調のイフリートの声が、頭の中に響く。
「外に出ろ、サリナ」
「は、はい!」
「ク、クポ!」
 祠の外は、灼熱地獄の様相を呈していた。
 熱せられた火口付近では、恐るべき熱量を抱いた溶岩がとぐろを巻いている。植物は元からほとんど存在していないので、雪と氷が姿を消した今の銀華山は、さながら怒りに震える巨人のようだった。
 あまりの光景に、サリナは言葉を失った。
 ぽかんと開いた口から、熱い空気が入ってくる。至近距離の溶岩に熱せられ、大気もまた、怒りに満ちていた。灼熱は空へと立ち昇り、雷鳴を轟かせる黒雲を呼んでいた。
 背中が粟立つ。絶望に似た恐怖が、サリナを襲った。
 サリナは地面を蹴って駆け出した。一刻も早く戻らなくては。ギルと戦ってなんているべきではなかった。仲間たちは、ファンロンのみんなは、大丈夫だろうか。
「待て待て、止まれ」
 聞こえたのは、やはりイフリートの声だった。炎神の声に、サリナは反射的に立ち止まる。モグがその後ろから、ふよふよと近づいてくる。
「でも!」
「心配するな。お前の仲間たちは無事だ」
「え?」
 そうしないといけない理由は無いが、サリナは手て両耳を塞いだ。そのほうがイフリートの声がよく聞こえる気がした。
「言っただろ、俺にはこの山で起きてるこたぁ、全部見えてる」
「あ」
 そうだった。イフリートは、炎の集局点である――そのことはもはや疑いようが無い。これだけ炎のマナを吐き出す火山なのだから――この山のことは、全てお見通しなのだ。彼は変なもの、つまり塵魔であるギルガメッシュが侵入していることも、気づいていた。
「あいつらシヴァやらガルーダやらの力を使って、雪崩を止めたぞ。なかなかやる」
「よ、よかった……」
 思わずへたり込むが、その直後に気づいた。大丈夫に決まっていた。セリオルたちが何もせず、噴火や雪崩に飲み込まれるなど、考えられない。
 サリナは素早く立ち上がった。今すべきことがあった。
 揺れは続いていた。さきほどの大きな揺れからずっと、この巨大な山が震えている。
「イフリートさん!」
「おう」
 意図はすぐに伝わった。というよりは、イフリートも同じ考えだったのだろう。真紅の光が散り、アシミレイトが解除される。一旦クリスタルに戻ったイフリートは、すぐに幻獣の姿で顕現した。真紅の光が再び煌く。
 サリナとイフリートとモグは、そろって火口の手前まで進んだ。
 傍らに立つイフリートを、サリナはそろりと見上げた。
 真紅の光を纏う神。まさしく、イフリートの威容はその言葉がぴたりと当てはまった。恐ろしげではあるが、同時に神々しくもある容貌。大柄で引き締まった身体。天を衝くように伸びる、捩れた角。深い臙脂の衣。
 威風堂々。胸の前で腕を組み、炎の神は静かに、火口で猛る溶岩を見つめる。
 おもむろに、イフリートは腕組みを解いた。両手の平を火口へ向ける。
「ふん!」
 野太い掛け声と共に、イフリートは両手からマナを放った。いや、サリナにはそう見えたが、それはマナを放ったわけではなかった。
 それはマナではなく、イフリートの力だった。瑪瑙の座の幻獣の、神の力だ。
 セリオルから聞いた幻獣の話を、サリナは思い返した。幻獣は神であり、マナを司る存在。それゆえ彼らは、エリュス=イリアにおいて、物理的な干渉を行うことは出来ない。マナの力を使って超常現象を起こすことは出来るが、破壊にせよ再生にせよ、彼らはエリュス=イリアを操作できない。
 だがそれは裏を返せば、マナを使って何でも出来るということだ。マナの力で風を起こし、マナの力で水を生む。マナの力で雷雲を生成し、マナの力で火炎を燃やすのだ。
 イフリートは、銀華山の炎のマナを操作した。この山が持つ圧倒的な量のマナ。しかしそのマナには、意志が無い。そのためイフリートの制御に屈しまいとすることは無かった。さほどの時間も要さずに、イフリートは猛り狂っていた溶岩をなだめた。場違いではあったが、サリナは猛獣を手なずけるカインを連想した。
 溶岩の勢いが弱まる。それに従って、おどろおどろしく渦を巻いていた黒雲も晴れていった。
「クポ〜。さすが瑪瑙の座の幻獣クポ、すごいクポ〜」
 短い腕を振ってかろうじて拍手をしながら、モグが踊る。サリナはほっと安堵の息を漏らしてモグを見遣り、微笑んだ。

「おや?」
 セリオルは空を見上げた。雲が晴れていく。山の震動が止まった。
「サリナ……やりましたね」
 山頂での出来事を推し量り、セリオルはアシミレイトを解いた。翠緑の光が弾けて消える。
「そうみたいだな」
 タッグを組んで溶岩に対応していたフェリオも、同じくアシミレイトを解除した。ふたりとも、息が乱れている。さすがにマナの消耗も、肉体の疲労も激しかった。
 ふたりはそれでも、急いで獅子王の階へ戻った。仲間たちの状態が気になった。
 体力に難のあるセリオルに合わせて戻ると、既に仲間たちは集合していた。さすがに事態を飲み込むのが早い。
 獅子王の階の広場で、セリオルたちとファンロンの者たちは山を見渡した。ここは山のかなり高いところに位置しているため、下の様子はよく見えた。噴火の影響か、視界を遮るはずの雲も綺麗さっぱり消えていた。
「あれま……」
 とだけ呟いて、カインは後の言葉を忘れた。他の面々もほとんど同じような反応だった。
 とはいえその変化は、当然ではあった。雪と氷が消え去り、赤茶けた山肌が見えている。分厚い氷の鎧を脱いだその姿は、まるで違う山だった。
 そして下のほうに小さく見えるのが、見事に壊れたあの罠の数々だった。ファンロンの門にたどり着くまでに散々苦労をされたあの罠だ。氷の山肌に固定されていた罠が、その土台の消失と共に全て台無しになっていた。
「カイン、溶岩は大丈夫でしたか?」
 山の観察を終え、彼らは宿坊へ戻りがてら互いに報告し合った。
「ああ、結構苦労したけどな、大丈夫だ」
 頷き、セリオルはアーネスとシスララの顔を向ける。
「ふたりのほうは?」
「ええ、大丈夫よ」
「はい、問題ありません」
 アーネスに比べればシスララのほうが苦労しただろう。彼女の幻獣たちの力は、迫り来る溶岩を止める、もしくは進行方向を変えるといったようなことには向いていない。実際、シスララの整った顔には、疲労の色が少々濃い。
「シスララ」
「はい?」
 それに気づいたセリオルは、シスララに瓶を2本、手渡した。
「飲んでおいてください」
「これは?」
「ハイポーションとハイエーテルです。体力とマナを回復できますよ」
 そう言って微笑むセリオルの顔を、シスララは直視できずに俯いた。
「あ、ありがとうございます……」
「おいおいおいおい〜」
 すかさず茶々を入れたのはカインだった。
「俺も結構苦労したって言ったんだけどな〜。ほらここ、溶岩でちょっと火傷しちまってさあ。いてえなあいてえなあ。疲れたな〜」
「カ、カイン……」
 うりうりうり、と顔を近づけてくる赤毛の男に、セリオルは顔を真っ赤にする。うるさいカインの言わんとしていることに気づいたのだ。シスララはというと、とっくに耳まで赤くなっていた。
「ア、アーネス、なんとかしてください!」
 たまらずセリオルは助けを求めるが、視線を動かした先で、金髪の騎士隊長は意地悪な表情を浮かべていた。
「あら、今回ばかりは私もカインと同意見ね。シスララばっかり贔屓して……やあねえ?」
「ひ、贔屓だなんて、そんなっ」
「贔屓……」
 シスララは頬に手を当てて、贔屓という言葉を繰り返している。
「……俺なんか、質問してもくれなかった」
 そしてもうひとりの仲間、クロイス・クルート少年は、頬を膨らませて口を尖らせている。
「そ、それは、クロイスの力を信じていたからですよ!」
「おっ、なんだそうか。それを早く言ってくれよな〜」
「あら、私たちの力は信じてくれていなかったの?」
「そーだそーだ、クロイスばっかりずりいぞ」
「それは皆の幻獣は溶岩を冷ますことが出来ないから……ってわかって言ってるでしょうふたりとも!」
「ふふふ」
「ひゃひゃひゃ」
「くっ……! ほらシスララも、いつまでそうしているんです」
「えっ……ダメですか?」
「い、いや、ダメというわけでは……」
「んまっ、セリオルったら、罪なひと」
「悪い男だねえ〜」
「もう勘弁してください……」
「まあ、自業自得だな」
 にやにやした顔のフェリオにトドメの一撃をもらい、セリオルはがっくりとうなだれた。
「あはは。仲いいですね〜」
 愉快そうに笑うファンロン衆を代表して、ユンファがそう言った。ルァン、フーヤ、ミンリィが笑う。
「うむうむ。仲良きことは、美しきかな」
 からからと笑いながらそんな言葉を口にし、イェジンは顔をやや上へ向けた。
 と、その視界に、不思議な光が飛び込んでくる。
「お?」
 黄色い光だった。薄黄色の光。見覚えがある光だが、それが空中の高いところにあるのは妙だった。なんじゃろうなと見つめていると、光は次第に大きくなっていった。
 つまり、落ちてきた。
「――ぅぅぅぅううああああああああああああっ!?!?!?」
「ほおおおおおおおおおおおっ?!!??!?」
 突然の奇声に周囲が固まる中、激しい音を立ててそれは降ってきた。間一髪、イェジンは衝突を避けた。危ないところだった。
 もうもうと土ぼこりを上げて、サリナはなんとか着地に成功していた。ぎりぎりだった。
「……サ、サリナ?」
「め、めちゃくちゃですよおおおお!」
 突如立ち上がって叫ぶサリナにびくりと飛び退ったフェリオは、サリナの身体から薄黄色の光が消えていくのを見た。氣の、プラナの光だ。
「失敗したらどうするつもりだったんですか、もう!」
 誰もいない虚空に向かって怒鳴るサリナに、フェリオは戦く。その脇ではアーネスがイェジンに手を貸して、立ち上がるのを手伝っていた。老師は突然のことに息を切らせている。
「サリナ!」
 セリオルたちが駆け寄ってくる。それに気づき、サリナは怒鳴るのを止めた。顔をこちらへ向ける。
「あ……フェ、フェリオ」
 やっと気づいたように自分の名を呼ぶサリナに、フェリオは頭を抱えて嘆息する。
「サリナ……びっくりしたぞ」
「ご、ごめん」
 慌てたように手を振るサリナに、フェリオは苦笑を向ける。セリオルたちが近くに来た。
「サリナ、どこから来たんです?」
 状況を飲み込めない様子のセリオルたちを見て、サリナは僅かに混乱した。しかしそれは自分が急に現れたためだと思い当たり、説明するために彼女は口を開いた。
「あ、あの、イフリートさんの祠から……」
「イフリート?」
 フェリオのオウム返しに、サリナは目をぱちくりさせた。しかしすぐに気づいた。そうだ、仲間たちはまだ、武術の神が幻獣イフリートだったということを知らないのだった。その経緯を、サリナはかいつまんで話した。仲間たちは驚いたが、噴火したこの山のことを考えれば納得するのは容易だった。これほど炎の集局点としてふさわしい場所も無いだろう。
「にしても、空から降ってきたように見えたぞ」
 クロイスの指摘に、サリナは頷く。
「うん、あの、山を下りてくる時間がもったいないって、イフリートさんが言って……マナを出して、吹き飛ばされました」
「え……」
 さすがに言葉を失う一同の前で、サリナはなぜか照れたように笑う。
「氣の力でなんとかしろ! って……えへへ」
「なんでそこでえへへなんだ」
 呆れたように言うフェリオに、サリナはぽかんとした顔を向けて失笑を買った。さきほどの虚空への叫びは、どうやらリストレインに収まったイフリートとの会話だったらしい。
「サリナ、戻って来たということは――」
 立ち上がり、息を整えたイェジンが、サリナに言葉を向ける。サリナはその問いかけに、満面の笑顔で応えた。
「はいっ、しっかり結界、張ってきました!」
「……結界?」
「え?」
 またしてもぽかんとした顔をするサリナに、イェジンもぽかんとした顔を向ける。
「神晶碑の結界のことですね」
 合いの手を入れたセリオルだったが、イェジンの不思議そうな顔は変わらない。サリナたちの旅のことは既に話したのだから、イェジンも神晶碑のことは理解しているはずだった。しかしこの老師は、セリオルたちの言葉をまるで飲み込まないようだった。
 いや、むしろこの顔は、何を的外れなことを――とでも言いたげだ。
「サリナ……おぬし、まさかとは思うが」
「え?」
 サリナの視線を戻し、イェジンはわなわなと震えている。その理由がわからず、サリナは緊張した。なんとなく、怒られそうな気配がする。
「祠から戻ったのじゃから、当然、きっちり修得してきたんじゃろうな?」
「……修得?」
 沈黙の後にサリナが首を傾げながら口にしたその言葉の響き、つまり修得って何のことですかという意図に、イェジンはがっくりと肩を落とした。
「おぬし……修めるために祠へ行ったのじゃろう……奥義を……」
「……あ」
 噴火やらギルのことやらで、すっかり忘れていた。そうだった。そもそもあの神域へ向かったのは、ファンロンの奥義、その全てを修得するためだった。
 サリナは聞いた。イフリートが頭の中で、やべえと呟くのを。
「ま、まあいいじゃないかイェジン、奥義はこれから教えるって」
 そう言いながら、炎神が姿を現した。真紅の光が溢れ、イフリートはクリスタルから元の姿へと顕現する。
「イフリート様、あんた一体、サリナの稽古もせずに何とされとったんじゃ……」
 もはや神に対する言葉遣いではなく、それは小言と化していたが、イフリートは特に気にはしないようだった。はっはっはと豪快に笑い、神は答える。
「いやあこっちも色々と大変だったんだぞ。塵魔とかいうよくわからんのが出てくるし」
「塵魔!?」
 サリナの仲間たちが声を揃える。その驚愕した様子に、イェジンたちも驚いた。
「サリナ、塵魔が出たの!?」
 問い詰めるような勢いのアーネスに、サリナは戸惑いながら頷いた。気は進まないが、説明しないわけにはいくまい。
「はい……実は、ギルさんが塵魔、だったんです」
「ギルが?」
 サリナは説明を続けた。ギルが祠にやってきたこと。やっきてすぐ、彼が自らの正体を明かしたこと。ギルは人間ではなく、ギルガメッシュという名で、炎の塵魔だったこと。イフリートの力を奪うのが目的だったこと。そしてサリナと戦った後、出現したモグに興をそがれたと言って、神晶碑にも手を出さずに去って行ったこと。
 仲間たちは、それぞれに複雑な表情を浮かべていた。中でもカインは、怒りとも哀しみとも取れる、激情に揺れる気配を宿していた。
「あの野郎……」
 ただそれだけを呟いて、カインは押し黙った。それ以上は続けられなかったのかもしれない。カインの気持ちが、サリナにはよくわかった。彼女が祠でギルにぶつけたのと同じような思いを、カインも抱えていることだろう。
「それで、イフリート様、サリナたちと共にゆかれるおつもりですか?」
 話が段落したところで、イェジンが問うた。サリナの仲間たちの視線も、イフリートに集まる。
「おう、そのつもりだ。どうやら、えらいことが起こってるらしいしな」
 セリオルたちから喝采が起きる。ここで瑪瑙の座の幻獣が増えるのは、大変ありがたいことだった。一方、ファンロンの者たちの反応は複雑だった。やはり守護神ともいうべきイフリートが不在となるのを歓迎は出来ないのだろう。
「かしこまりました。ではサリナ、今後の道中で必ず、イフリート様より教えをお受けするのじゃ。ファンロンの奥義――鳳凰演舞を、必ず修得せよ」
 イフリートは光となり、クリスタルへと姿を変えてリストレインへ戻った。イェジンはサリナに向き直り、その目をじっと見据えて、命を下す。
「はい、必ず!」
 サリナはそれに、ファンロン式の礼で応えた。必ず修得しますという、それは固い意志の表れだった。