第185話

 ナッシュラーグ自治区、首都ナッシュラーグ。首都イリアスと同様、街の中心に美しい城が聳える都。“皇城”と呼ばれる城には、領主でありヴァルドー皇家の末裔でもある者たちが暮らしている。
 風車の都と呼ばれる街は、海と山とに挟まれた地理的条件により、止むことの無い風が吹いている。その風力を、ナッシュラーグの人々は生活に活かしてきた。
 街の至る所に風車小屋が建設され、その風車の生み出す力によって民は治水と工業とを行ってきた。いつしか風車は都の代名詞となり、シンボルとなっていった。
 風車によって汲み上げられた地下水は農業や工業、生活用水に使われ、それを流すための川が近くに無いこの都では、排水は元の地下へと戻すという手段が取られた。排水は建造された地下水路を巡り、地下水脈へと合流して海まで運ばれた。
「……撒いたか?」
 クロイスは走って来た通路の様子を窺った。憲兵の姿は無い。どうやら事なきを得たようだ。
「みんな、あのボンクラどもは撒い――」
「誰がボンクラだ?」
「おわあっ!?」
 仲間たちに報告しようと戻りかけたクロイスの目の前に、その男は立っていた。
 ナッシュラーグ自治区、憲兵団の服装。簡易的な金属の鎧に、切れ味を持たない警棒という出で立ちだ。
「てて、てめえっ。一体どっから湧いて出やがった!?」
 自分を指さして唾を飛ばす少年に、男は溜め息をつきながら警棒を向ける。
「この水路、明かりが灯ってるだろ?」
「は?」
 突然の問いかけに困惑し、クロイスはたじろいだ。確かにこの地下水路には、マナストーンによるものと思われる明かりが灯されている。
「何のための明かりだと思う?」
「し、知るかよそんなこと!」
「だろうなあ」
 ぐい、と男は、クロイスの目のすぐ近くまで警棒を押し出した。
「つまりお前たちは、余所者ってことだ。この都の住民に、水路の明かりのことを知らない奴なんていない」
「う……だ、だから何だってんだよ!」
「余所者のお前は知らないだろうから、教えてやるよ。この水路に無断で立ち入った者はな、牢屋にぶちこまれることになってる」
「……はあ?」
 あまりに理解不能な言葉にクロイスが呆然としたところに、男の警棒が振り上げられる。
「大人しくお縄につくんだな」
 クロイスは応えず、腰の短剣に手を伸ばした。面倒なことになったが、ここで捕えられるわけにはいかない。この憲兵を昏倒させて仲間たちのところへ戻るしかない。クロイスの目が、狩人のそれへと変わる――
「待って下さい、クロイス!」
「あ?」
 握りかけた短剣の柄から手を離し、クロイスは声のした方へ顔を向けた。憲兵の男も同じだった。仲間たちが血相を変えて駆け寄って来る。
 珍しく走る一行の先頭にいたセリオルが、息が切れるのにも構わず声を出す。
「――フ、フランツ!」
「……セリオル、か?」
「……はあ?」
 クロイスの間の抜けた声が、地下水路に響く。

 フランツ・ウィンドホルン。憲兵は自らそう名乗り、付け加えるようにこう言った。
「俺とセリオルは、ま……幼馴染ってやつだ」
「フランツとは子どもの頃、ずっと一緒に遊んでいた仲だったんです」
 セリオルとフランツのふたりは並んで歩きながら、そう説明した。
「セリオルさんの子ども時代……」
 口に出してみて、その現実感の無さにサリナはひとり、声を堪えて笑った。
「で、その憲兵さんは幼馴染なら見逃してくれってわけ?」
 モグを呼んで鎧を装備したアーネスが、皮肉交じりの声で茶化す。フランツは動揺も見せず、面倒そうに答えた。
「セリオルは考え無しに行動するやつじゃない。俺はその理由を知りたいと思っただけだ」
「へえ〜? けっこう融通利かせてくれるのね」
 面白がっている声を出すアーネスに、フランツの不機嫌そうな顔が向けられる。
「感謝しろよ」
「ええ、ありがとう」
 進みながら、サリナたちはフランツと情報交換をした。サリナはそのやり取りから、いくつかの事実を知ることになった。
 この地下水路は、セリオルたちが子どものころから立ち入り禁止の場所だった。水路の明かりは、その立ち入り禁止の場所に忍び込んだ者を素早く発見し、捕えるために設置された。
 意外なことに、セリオルも幼いころはそれなりに悪戯小僧だったらしく、フランツやゼノアと連れ立って地下水路に忍び込み、時々大人に見つかってはこっぴどく叱られていたのだそうだ。
 そう、予想していたことではあったが、セリオルはゼノアとも幼馴染の関係だった。フランツを含めた3人は仲が良く、サリナたちからゼノアのことを聞いた時のフランツの表情は、厳しく引き締められていた。
 ナッシュラーグの現状は、セリオルが暮らしていたころと大きく変わってはいないようだった。閉鎖的なこの自治区は自らの情報を外に出さないが、それと同じくらい頑なに、外の情報を得ることもしなかった。セルジューク大陸では普及しつつあり、また各地の自治区でも知られるようになってきた蒸気機関についても、ナッシュラーグではほぼ知られていないようだった。
 フランツはフェリオが見せたいくつかの機械装置に大層驚いた。フェリオの持ち物は蒸気機関技術やマナ技術を使ったものの中でも最先端の道具ばかりだが、その構造の簡易的な説明についてですら、フランツの驚きぶりは大変なものだった。
「遅れてるな、ナッシュラーグは……」
 自治区という体裁を取ってはいるものの、エリュス・イリアは統一国家イリアスによって統治される世界だ。その中にあって、ナッシュラーグだけがあらゆる情報を謝絶し、進歩を止めてしまっている。フランツは口惜しさに顔をしかめる。
「それにしても、ゼノアはまたなんでそんなことをしたんだろうな」
 サリナたちにとって意外だったのは、かつてのゼノアは今日のような凶行に走る男ではなかったということだ。そんな要素は微塵も無かったと、フランツは語った。
 かつてのゼノアは気弱で大人しく、いつもセリオルとフランツの後をついて回るような子どもだった。セリオルと同じくらい頭が良く、勉強も出来たが、セリオル以上に運動音痴で、戦いや争いという言葉とは最も縁遠い存在だったと言うのだ。
「わかりません。ただ、マキナの大枯渇を惹起したのがゼノアであることは確かです。あれほどの災害を起こし、人命を軽んじて世界に弓を引こうとする者を……かつての友であろうと、許すわけにはいかない」
「……そうだな」
 決然としたセリオルとは対照的に、フランツの声には哀しさが漂っていた。
「あの、そういえばセリオルさん」
 セリオルとフランツの会話が終わったところに、サリナが言葉を挟んだ。兄が振り返る。
「ここ、どうして立ち入り禁止なんですか?」
「ああ、理由はいくつかありますよ」
 歩きながら、セリオルは人差し指から順に、指を立てていく。
「ひとつ、不衛生である。不衛生な場所への立ち入りは、疫病を生む可能性があります。そのため水路を巡回する憲兵たちは、出た後に全身の消毒を義務付けられています」
 地下水路はひんやりとして薄暗い。だが静かではなく、水が流れる音に混じって、どこからか獣の声のようなものが聞こえてくる。サリナたちが入るのに使ったような格子戸状の蓋の付近に、野良犬でもいるのかもしれない。
「ふたつ、地下水路はナッシュラーグの全ての家庭――もちろん、領主である“皇家”にも繋がっています。そのため、賊の侵入路にもなりえる」
 シスララの肩で、ソレイユが顔を上げる。賢しい飛竜は小さく啼いた。シスララにはすぐにわかった。それは、ソレイユからの警戒の合図だ。
 ばしゃばしゃと、水を蹴る音。サリナたちは素早く武器を構えた。全身の毛が逆立つような、ぴりっとした緊張が走る。
「みっつ――ここには、出口から侵入した魔物が出る」
「セリオル、そういうことは先に言ってくれ……」
 襲いかかって来たのはアクアン族の魔物だった。もとは魚介類だった生物が、マナの影響を受けて変異したものたち。鋭い牙を持つ巨大な魚や強靭な力で鞭のような脚を振るう蛸、全身が刃のように変形しヒトデなど、おそましく凶悪な魔物たち。
 だが当然、サリナたちの敵ではなかった。鳳龍棍が舞い、セレスタデーゲンが切り裂き、ダークが閃き、シュヴァルツクーゼが貫き、グランドスコルピオンが唸り、アズールガンが火を噴き、若木の杖が輝いた。その人間離れした戦いぶりに、フランツは唖然として立ちすくんだ。彼がいつも手こずる魔物も、サリナの三節棍による一撃でいとも容易く沈黙した。
 カインは嬉々として、地下水路の魔物たちを獣ノ箱に収めていった。銀華山ではほとんど出番が無かった彼の特殊能力だが、この後に待ちうけるであろうゼノアとの戦いには、必ず役に立つはずだった。
 マナの消費を極力抑えるため、セリオル以外は武器のみを使って戦った。それでも魔物を撃破するには十分すぎる火力があり、道中の戦闘において苦労するということは無かった。
 中でも、金華山での修行を経たサリナの攻撃力は格別だった。ほとんどの魔物をただの一撃で仕留め、その早業に仲間たちですら舌を巻いた。
「行き止まりか……」
 その壁を目にして、フェリオは呟いた。振り返ると、セリオルとフランツの顔がある。
「なあ」
 そのフランツが問いかけの声を発した。
「さっきからどこに向かってるんだ? 地上に出るなら反対だぜ」
「聞かなくてもわかってるんでしょう?」
 フェリオの前の壁を見つめたまま、傍らのセリオルが問い返す。やれやれという風に嘆息し、フランツは口を開いた。
「皇家の墓、か……」
「ご明察」
 言いながら、セリオルは足を前に進めた。怪訝そうな顔をしながら、フェリオが場所を譲る。
「“皇家の墓”……?」
 問うように復唱したサリナを振り返し、フランツが答える。
「皇城の地下にある墓地さ。歴代の皇家――カステルの血筋を除いた、ヴァルドーの末裔の皇家たちが埋葬されてる墓だ」
「この水路は、その墓地にも繋がってるんですね」
「というより、皇家の墓の先に皇城があるんだ」
「……あれ、ということは」
 少し考え、サリナは前にいるセリオルに問いかける。
「あの、もしかして、皇家の墓を抜けて、皇城を行くんですか?」
「いやいや、さすがにそうではないですよ」
 そう答えて笑いながら、セリオルはフェリオのほうへ顔を向ける。
「フェリオ、ここにアシュラウルのマナを」
「え?」
 驚き、フェリオはセリオルの指し示す箇所へ目を遣った。
「これは……」
 それは、これまでにも何度か見たものだった。幻獣のマナを注ぐことで何らかの効果を発揮する装置。普通に探しても見つかりそうもない場所にあって、それをセリオルがほんの数秒で発見したというのには違和感がある。
「セリオル、知ってたのか?」
「ええ、まあ、昔ね」
「悪戯小僧時代に?」
 苦笑し、黒髪の魔導師は頷く。
「アシュラウル、頼む」
 フェリオが呼びかけると、リストレインに装着されている銀灰のクリスタルが輝きを放った。その眩さに、フランツが驚きの声を上げる。
「うわっ、な、なんだ?」
「あ、そっか」
 そういえば、という風に手を打ったのはサリナだった。近頃、仲間たち以外にも幻獣やアシミレイトを見せることが多くなってきているので、感覚が少しおかしくなっている。
 力の幻獣、碧玉の座。雄々しき大狼、アシュラウルがその姿を現した。突然のことに、フランツが尻もちをつく。
「な、な、な……!?」
 あまりのことに声も出ないフランツを、傍らのシスララが助け起こす。ソレイユが短く啼く。
「大丈夫ですよ、フランツさん。あの方は私たちを守って下さる存在――幻獣様ですから」
「あ、あれが、そうなのか……」
 アシュラウルは銀灰の光を放ちながら、その美しい毛並みを輝かせ、静かにフェリオと対峙している。その神々しさに、フランツは胸を打たれた。
 多くの人々にとって、幻獣とはほとんどおとぎ話の中の存在だ。一生の間にその姿を目にすることは無いに等しく、幸運にも目にすることが出来た者は幸福を手にすると言い伝えられるほど、その存在は稀有なものとして認識されている。
 フランツも、さきほどセリオルたちからゼノアやエリュス・イリアにまつわる現在の状況を聞かされたが、それは現実感を伴わぬ、架空の物語のように聞こえたのだった。
 実際、このナッシュラーグはかつての活気を失い、マナ失調症と思われる症状を訴える者も増えている。しかしその状況と、エリュス・イリアの存亡という大きすぎる話を結びつけて考えるには、フランツは幻獣やマナとの接点が少なすぎた。
 だが、こうして幻獣アシュラウルを目の前にした時、彼の意識は大きく変わった。ついさっきまでは、サリナたちに協力するのは、単にセリオルへの義理があったからにすぎなかった。だがアシュラウルの威光が、エリュス・イリアに迫る危機の存在を、フランツの精神に実体を伴った痛みとして伝えた。
「そうか……」
 呟き、フランツは立ち上がる。シスララは彼の決意を感じ取り、すっと後ろへ下がった。
「セリオル」
 背後から聞こえた親友の決然とした声に、セリオルは振り返った。
「俺も手伝う。いや、手伝わせてくれ。ゼノアのやつを止めるための闘い……俺も、黙ってはいられない」
「……こちらこそ、よろしく頼みます」
 セリオルの目は伏せられていた。彼の心にある逡巡を、サリナは感じ取った。親友であるとはいえ、フランツは今の闘いとは無関係だ。その彼を巻き込み、協力を願うことに、セリオルは抵抗を感じているに違い無かった。
 なぜならその協力とは、憲兵としての禁忌を侵してもらうことに他ならず、またこの先の大きな危険にも、フランツを晒すことになるからだ。水路の入り口からここまで、進むことを見逃してもらったこととはわけが違ってくる。
 だが、セリオルはそれ以上、何も言わなかった。フランツの協力を得る――つまり皇家の墓への侵入を見逃してもらわないことには、彼らの目的は達成されないからだ。
「後戻り、出来なくなるぜ」
 代わりに言ったのは、カインだった。彼はフランツの後ろに立ち、その背中に向けて、低い声でそう告げた。
「……覚悟の上だ。ここまで来て、この上セリオルとゼノアのことで、知らぬふりなんかできない。そんなことをして後悔するようなことになったら、その時俺は、今日の俺を嘲るだろうよ」
「おう、そうか。んじゃま、よろしくな」
「ああ、よろしく」
 言葉を交わす男たちの後ろで、アーネスがサリナとシスララに耳打ちをする。
「ね、こうなるようにセリオルが仕向けたんじゃないかなって思うの、私だけ?」
 どきりとして、ふたりはアーネスに顔を向ける。
「さ、さすがにそこまでのことはないんじゃ……」
「でも、セリオルさんですから……もしかしたら……」
「ま、そうだとしても問題無いか」
 そう言って小さく笑うアーネスに、サリナとシスララは少し引き攣ったような笑い顔を見せた。
 銀会の光が膨れ、アシュラウルはそのマナを紋様へと注いだ。水路が小刻みに震え、フェリオの前の壁が鈍く低い音を立てて動いていく。
「では、進みましょうか。この先が皇家の墓――そして、恐らく力の集局点がある場所です」