第187話
かつて、大きな戦争があった。 狂える皇王、パスゲア・フォン・ヴァルドーが世界を相手どり、仕掛けた大戦。後に統一戦争と呼ばれることになったその戦争は、ヴァルドー皇国対イリアス王国という最終決戦によって幕を閉じた。 戦争を終結させたのは、イリアス王国の勇王、ウィルム・フォン・イリアスだった。彼は自ら剣を取り、戦地へと赴き、6将軍と共にその絶大なる力で次々と勝利を収めた。 歴史書によれば、ウィルム王国は開戦当初、劣勢を強いられていた。周辺諸国を次々に併合し、その戦力を倍々に増していったヴァルドー皇国の前に、平和を旨としたイリアス王国の軍は歯が立たなかったという。 イリアス王国が息を吹き返したのは、ある出来事がきっかけだった。 国王ウィルムと、その配下の6人の将軍たち。武勇において並ぶ者無きその7人に、神の導きがあった。 マナの輝きに満ちた、エリュス・イリアの守護神たち。マナと世界樹の危機に、彼らは人間に手を貸すことを決めた。神は人の前に降臨し、かくしてイリアス王国は神の力を手に入れた。 輝ける光の戦士。世界を照らす希望の光となったウィルムたちは、狂皇パスゲアの圧倒的な戦力を撥ね退け、彼の野望を打ち砕いた。こうして世界は平和を取り戻し、その後今日に至るまで、エリュス・イリアは統一国家イリアスによって統治されることとなった。 「な……なんてことだ……」 自らの抱く畏れに、フランツは戸惑った。 神に選ばれし、マナの戦士。伝説の中にだけ存在したはずの彼らが、今、フランツの眼前でその力を揮っていた。 「聖嵐・ピュリファイジャンプ!」 純白のマナの光輪が広がる。その中心に流星のように降り立ったのは、シスララだった。セラフィウムの鎧を纏い、彼女は群がる不死者たちを一撃で浄化した。聖なるマナに中てられ、アンデッドは塵に還った。 瑪瑙の座の幻獣との鍛錬で、サリナたちはそれぞれの属性ごと、その能力に特化した力を身に付けるに至っていた。彼らは幻獣たちから、その力の名を授かった。聖嵐――聖の幻獣の力を示す言葉だ。 「雷燐・サンダービースト!」 獣ノ箱から解き放たれた炎の獣が、ラムウの雷を与えられて紫電へと変化した。雷獣と化した銀華山の魔物たちは、剣や槍、槌などを振りまわして襲いかかるスケルトンたちを蹴散らした。 「氷紋・ミリオンアロー!」 シヴァのマナとシスララによって付与された聖のマナ、ふたつのマナを得た無数の氷の矢が、実体を持たぬ怨念の塊であるホーントの群れを一掃する。魔物はおぞましい悲鳴を上げながら、氷と聖の嵐の前に為す術も無く砕け散った。 敵を倒し、3人は振り返った。 「ぐっ……う……」 地に伏して呻くのはフェリオだった。何らかの攻撃で肩を撃ち抜かれ、銃が握れないようだった。銀灰に輝くアズールガンが傍らに転がっている。 「蒼穹の盾よ! 逞しき大地のマナで我らを守りなさい!」 アストラルボルトが琥珀の光を纏い、巨大な光の盾となる。マナの盾は、フェリオに向けられた追撃を防いだ。巨大な爪によるマナの斬撃が光の盾にぶつかり、不協和音を響かせる。」 「くっ……なんて重さ……!」 腕が痺れるほどの衝撃に、アーネスは歯を食いしばる。 「天の光、降り注ぐ地の生命を、あまねく潤す恵緑の陽よ――ケアルラ!」 その隙に、サリナはフェリオの治療を行った。敵の嵐のような攻撃に、回復のための時間もなかなか取ることが出来ずにいたのだった。 「風韻・ウィンドスパイラル!」 振られた若木の杖の先端から、激しい竜巻が生まれる。風の刃によって形成された竜巻が、敵の巨体に向かって大蛇のように突進する。 だがガルーダのマナを使ったその激しい攻撃は、敵の恐るべき咆哮によって掻き消された。巨獣が放ったブレスは恐るべき威力を持ち、ガルーダのマナを完全に消し飛ばしてしまった。 だがそこに隙が生まれた。 「炎舞・火炎龍!」 自らのマナとイフリートのマナを融合させ、サリナはその身に纏って突撃した。それはまさに、火炎の龍と呼ぶべき攻撃だった。真紅のマナが怒れる龍のようにうねり、敵の横腹にその牙を突き立てる。鳳龍棍が真紅と金銀の光を散らしながら荒れ狂う。 怒りの咆哮が上がる。サリナは暴れる巨体になぎ払われ、太い尾による一撃を受けて吹き飛んだ。受け身を取り、仲間たちの許へ素早く戻る。全身の骨が砕けそうな一撃に、膝が笑う。 「来たれ水のマナ、湧水の力!」 風水のベルが鳴り、水の球がサリナを包む。痛みが引いていく。 1箇所に集まり、サリナたちはその魔物と対峙した。 四足の巨体。頭部から尾にかけて走る、禍々しいたてがみ。長く伸びた凶悪な牙、そして鋭い眼光。頭部にはねじ曲がった2本の角。その身を覆う青紫の毛皮には縞が入り、邪悪なマナが滴り落ちるように満ち満ちている。漂う気配はまさしく魔物。魔なる物、その名は―― 「これが……終わりの獣、ベヒーモス……」 サリナの声には絶望が滲んでいた。圧倒的な膂力とマナを誇る、終わりの獣。かつては狂皇パスゲアも使役したという、恐るべき魔獣。 それは今、サリナたちの前に立ちふさがり、牙の間から興奮した息を吐き出して嗤っている。サリナは棍を握る手に力を篭めた。いかに強大な敵であろうと、負けるわけにはいかない。こんなところで止まっている場合ではないのだ。 魔獣ベヒーモスは、皇家の墓の最深部でサリナたちを待ち構えていた。そのマナの凶悪さから、間違い無くブラッド・レディバグによって生み出された魔物だと、セリオルは断定した。そのマナの種類は、確かにあのイビルソーサラーやブラッド・アントリオンと共通するものがあった。 皇家の墓。ヴァルドー皇家、ひいてはナッシュラーグの領民にとって聖なる地であるその場所の最奥に、パスゲアの墓はあった。広い石室の奥に巨大な石碑が屹立し、その足元に同じく巨大な墓石が鎮座していた。 偉大なる父パスゲア・フォン・ヴァルドー、ここに眠る―― 墓石にはそんなありきたりな言葉が彫り込まれ、石碑には旧ヴァルドー皇国の国家が刻まれていた。装飾は意外なことに質素だったが、パスゲアの性質が表れたかのごとく力強く巨大なオベリスクが6本、墓石の周囲に配置されていた。 パスゲアの墓は静謐に満ち、しかしその静謐がかえって不気味さを醸し出していた。この場所にだけは魔物がいなかった。それはまるで、自らよりさらに凶悪な何かを恐れて近づかない、魔物たちの本能による行動のように見えた。 サリナたちはパスゲアの墓に触れるのを避け、その石碑の裏に回り込んだ。 果たしてそこには、かつてセリオルが見たという力のマナの紋様があった。 アシュラウルのマナが注がれ、紋様は力を得た。 驚くべきことに、動いたのは壁ではなかった。さきほどの通路と同じように、壁が動いてその先へ続く道が現れるのだろうと考えていたサリナたちは意表を突かれた。 動いたのは、パスゲアの墓石だった。 巨大な墓石が浮き上がり、その下に棺の形をした窪みと、更に地下へ潜るための階段が現れたのだった。 サリナたちは戦慄した。全員が、竦んだように動けなくなった。 そこにあった、棺の形の窪み。それが意味するところを、サリナたちは想像した。いや、想像し切ることは出来なかった。 棺形の窪み。つまりそれは、棺を安置するものであるはずだ。しかしそこに棺は無く、ぽっかりとした穴だけが、間抜けに口を開けていた。 パスゲア・フォン・ヴァルドー。かつて世界を混乱と闘争の災禍に陥れ、人外の力で多くの命を奪った男。その男の棺が、そこには無かった。 否が応にも鼓動が速まる。 「どういうこと……?」 その答えをわかっていながら、サリナは疑問を口にせずにはいられなかった。誰かがそれに明確に答えることを恐ろしいと思いながら、口にしないと不安に押し潰されてしまいそうだった。 しばらくは誰も口を開かず、沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、セリオルだった。 「……誰かが、棺を――パスゲアの遺体を、運び出した。そうとしか考えられませんね」 ズキン、と痛みが走るような錯覚を覚え、サリナは胸を押さえた。 嫌な汗が背中を伝う。その不快感に顔をしかめ、サリナはまるでその場の空気が薄くなってしまったかのように喘いだ。 「ここで考えててもしょうがない。先に進もう」 冷静なひと言で仲間たちを動かしたのはフェリオだった。何とも言えない不安を胸に抱えたまま、サリナたちは地下へと続く階段を下りた そこに待ち受けていたのが、魔獣ベヒーモスだった。 その荒々しい息遣いに、サリナたちは全身の毛を逆立てた。すぐに、彼らはアシミレイトした。7色の光が、地下墓地の薄寒い不気味さの中に煌めいた。い サリナは瞬時に理解した。さきほど感じたマナの正体は、これだ。 魔獣は不遜にも、そこにあった巨大な玉座に腰かけていた。四足で動く者でありながら、その態度はまるで人間のようだった。 今、ベヒーモスはサリナたちと対峙しながら、不敵な笑みを浮かべている。獣の顔でありながら、それは実に雄弁に、こちらに対する嘲笑を映していた。 「フフフ……」 低く唸るようなその嗤いは、サリナたちの精神を無遠慮に揺さぶる。こんな場所に、なぜこれほどまで強力な魔物が巣食っているのか。恐らく少し先にあるであろう力の集局点。そこを守護するはずの幻獣オーディンは、何をしているのか。いや、あるいは―― なぜ、何もしないのか。 サリナたちがそのことに思い至るまで、さしたる時間はかからなかった。 「大したマナではないな……ゼノア様は随分、お前たちを買っていらしたが」 その名に、サリナたちは動揺を隠せなかった。 ゼノア・ジークムンド。やはりここでも、その忌むべき名が出てきた。サリナたちの、考えられうる中でも最も悪い展開だった。 「やはり……貴様は、ゼノアの手の者か」 剣の切っ先を真っ直ぐに突き付け、アーネスが問う。その声に、魔獣は気を害したようだった。怒りの気配が膨れ上がる。 「カスの分際で、ゼノア様を呼び捨てか。思い上がるな」 「貴様こそな、犬ころ。ゼノアに良いように使われて捨てられる、哀れな野良犬よ」 「……死ね」 膨大なマナが放たれる。ベヒーモスの怒りは、恐るべきマナの咆哮となって放たれた。 「蒼穹の盾よ! 逞しき大地のマナで我らを守りなさい!」 光の盾が広がる。サリナたちは瞬時にその後ろに隠れ、アーネスの防御をサポートすべくマナを送った。怒りのブレスが霧散する。 身の毛もよだつほどの怒りの声が上がる。怒髪天を衝く勢いで、巨獣が突進してくる。その牙、その爪、その尾、その全身に、禍々しいマナが宿っている。 アーネスは光の盾を解除し、剣を抜いた。真っ向から、彼女は魔獣の爪を受け止めた。セレスタデーゲンと魔獣の爪がぶつかり合い、激しい火花を散らす。恐ろしいことに、精霊銀で強化された剣に対して、ベヒーモスの爪はその強度において引けを取らなかった。その一撃の重さに、アーネスの足元の石が割れる。 身体中の骨が軋む音を聞きながら、アーネスは歯を食いしばって耐える。騎士は怒っていた。ベヒーモスに対してというよりは、その後ろにいるゼノアに対して。自分の生まれ故郷にある集局点に異常を来すことをわかっていて、ブラッド・レディバグを放ったゼノアに対して、彼女は怒りをたぎらせた。 魔獣のマナと騎士のマナが拮抗し、地下墓地が揺れる。 「ぬうううううううううっ!」 「ああああああああっ!」 アーネスが渾身の力を篭めて1歩を踏み出す。じり、と魔獣が後ずさった。その隙を逃がさず、アーネスは剣を振り上げた。ベヒーモスの腕が撥ね上げられる。 「ぬうっ……」 その強烈なマナの光に、ベヒーモスが瞬間、たじろぐ。アーネスはゆっくりと剣を構え、足を進める。 「貴様は……」 琥珀の光が強まる。タイタンのマナが大地を揺らす。 「貴様は、何のために、ここに来た」 低くも凛として響く騎士隊長の声に、しかし魔獣は答えない。大いなる獣はうすら笑いのような表情を浮かべ、アーネスを挑発するように腕を動かす。 「貴様等は……」 騎士。それは王国の剣にして、王国の盾。その責務は王国民の暮らしを守ることであり、その重責ゆえに彼らは、貴族と同等の地位と処遇を約束されている。アーネスにとって、民の苦しみを予想しながらそれを実行するゼノアの行いは、断じて許せるものではなかった。 「貴様等は、エリュス・イリアを何だと思っているのだ!」 琥珀の騎士が床を蹴る。そのあまりの勢いに、石畳に亀裂が入った。 「ふん」 鼻を鳴らし、ベヒーモスはアーネスの問いを言下に斬り捨てた。 セレスタデーゲンが、タイタンの神聖なるマナを宿らせて琥珀に輝く。大地の力を秘めた騎士の剣が、邪悪なる魔獣に迫る。 風の刃が飛来し、氷の矢が飛んだ。ガルーダとシヴァのマナだと、アーネスはすぐに気付いた。仲間たちの援護だ。アーネスの攻撃が成功しやすくなるよう、彼らはベヒーモスの注意を逸らそうとしている。 純白の光を纏った流星が飛んだ。甲高い声を上げながら、ソレイユは勇敢に、自分の何倍も大きな獣に突進した。聖霊セラフィウムのマナが、聖竜王に力を与えていた。ソレイユは光の尾を引きながら乱舞し、ベヒーモスの視界を撹乱する。 サリナとカインのふたりが、アーネスを追い越して駆けた。ソレイユと入れ替わりに、ふたりの戦士の素早い連続攻撃が仕掛けられる。ベヒーモスはそれに対応するが、さすがの魔獣も、瑪瑙の座の力を持つふたりを同時に捌き切ることは出来ず、いくつかの攻撃がその脚や胴に決まっていった。 「ぐおっ……があっ!」 魔獣の呻き。真紅と紫紺の光が素早く離れる。 「アーネスさん!」 「行け! アーネス!」 「はあああああああっ!」 アーネスは飛び出した。その身体に、後ろから銀灰の光が注ぐ。フェリオの援護だ。地のマナを増幅させる力のマナ。アーネスの光が強まる。 だん、と激しい踏み込みの直後、琥珀の軌跡が魔獣を切り裂いた。 「地昂・グランドブレイヴァー!」 それは美しくも凄惨な連撃だった。瞬時に煌めいた4本の光。琥珀に輝くセレスタデーゲンが、隙を見せたベヒーモスの巨体を傷つける。魔獣の悲鳴が上がる。 そして止めの一撃が放たれた。 地王タイタンのマナによって、光の剣が巨大化した。その恐るべき力を秘めた刃が、魔獣の頭に向けて容赦無く振り下ろされる。ベヒーモスの身の丈ほどもある刃が、古より伝わる強大な獣を切り裂いた。 巨獣の断末魔が上がる。ガラン、と音を立てて、ベヒーモスの角が1本、落ちた。それは切断されたというより、根元で砕けたという表現のほうがしっくりとくる壊れ方をしていた。 地響きを立てて、ベヒーモスは地に伏した。巨大な力を放ったアーネスは息を切らせ、立ち上がる。目の前には、魔獣が倒れている。 動かないその姿を、アーネスは見つめた。哀しき獣。ゼノアのブラッド・レディバグによって、何らかの獣が依り代にされたのだろう。偽りの使命を与えられ、獣はその忠実な僕となった。 剣を鞘に納める。キン、と涼やかな音。踵を返し、アーネスは仲間たちの下へ戻ろうと―― 「アーネス、危ない!」 その警告が耳に入るか入らないか、それもわからぬ瞬間の出来事だった。魔獣を振り返ろうと身を捻ったところに、おぞましい咆哮と共に巨大な力が彼女に叩きつけられた。 |