第188話
べきべきと恐ろしい音を上げて、石の床が砕ける。身体中の骨がめきめきと軋む音が聞こえる。まるで空が落ちてきたかのような凄まじい衝撃。アストラルボルトで防御しているはずだが、腕の感覚は一瞬で消え失せた。 「ぐっ……は……」 内臓にまで響くほどの衝撃に、息が詰まる。咄嗟に騎士の紋章を使って助かった。反応がほんの少しでも遅れていれば、全身の骨が砕けていたかもしれない。 「アーネスさん!」 サリナが素早く近づき、アーネスをベヒーモスから遠ざけた。 「大丈夫ですか、アーネスさん!」 素早く回復の魔法を詠唱し、サリナはアーネスが受けたダメージを軽減する。その間、セリオルとクロイスによる遠距離攻撃の嵐がベヒーモスに襲いかかった。 「ごめん、油断した……ありがとう、サリナ」 「いえ。でも、凄い攻撃でしたね……」 魔獣のほうを見る。腕のひと振りで、怪物はガルーダとシヴァのマナを振り払った。霧散するマナの光の粒の向こうで、その口が不敵な笑みを浮かべる。 「ぐふふ」 鋭い牙の隙間から洩れる嗤いが、サリナたちの神経を逆撫でする。 その巨体から邪悪なマナを漲らせ、ベヒーモスはサリナたちの前に立ちはだかった。あろうことか、終わりの獣は2本足で立っていた。頭部から尾にかけて生えていた鋭いたてがみが硬質化し、巨大な剣のようになったものをその手に握っている。さきほどまでの4つ足で戦っていた時よりも、更に強大な力を感じさせる。 「やれやれ、困ったものだ」 まるで悪戯をした子どもに向けるような口調でそう言い、ベヒーモスは嘆息した。 「あまり無意味な抵抗をするものではないぞ。戦士なら潔く敗れて死ね」 「お前が戦士を語るな」 銀灰のマナ弾がベヒーモスの肩に命中する。それをうるさそうに手で払い、魔獣は剣を構えた。 「仕方がない。もう少し遊んでぶっ!?」 爆炎に側頭部を強打され、魔獣は口上の途中で顔面を歪ませてよろめいた。強烈な真紅の光が、ベヒーモスの頭部を撃ち抜いた。 サリナはその脚に強力なマナを纏わせ、着地した。ベヒーモスが肩膝をつく。 怒りに燃える瞳で、魔物はサリナを睨みつけた。攻撃をされたこともだが、台詞を途中で邪魔をされ、その上あろうことか膝をついてしまった、そのことが獣のプライドに傷を付けた。 「貴様……」 全身の毛を逆立たせ、サリナを呪う怒りを吐き出しながら、魔獣は剣を構えた。ぎらりと凶悪な光を反射させ、刃がサリナを映す。 それ以上言葉を発さず、ベヒーモスはサリナに突進した。 予備動作無しの急速な接近だった。しかしサリナは、巨獣の一撃をひらりと回避した。 怒りの咆哮を上げながら、ベヒーモスは剣を振り回す。風を起こすほどの恐るべき速度。 「花莚の舞・ボックスステップ!」 煌めくマナの力が舞う。光がサリナを包み、彼女の身のこなしを向上させた。回避の力を増す効果のある、シスララの舞だ。 ベヒーモスの連続攻撃を回避しながら、サリナは火炎を飛ばす。イフリートの炎が獣に襲いかかる。だが魔獣の剣は炎を切り裂き、サリナに迫ろうとする。 そこに、氷の矢と風の刃が飛来した。サリナに夢中になっていたベヒーモスの胴体に、マナの嵐が襲いかかった。サリナの攻撃をサポートすべく、仲間たちの攻撃が放たれたのだ。怒りの咆哮が上がる。 自分の2倍はあるベヒーモスの巨躯に、サリナは恐れもせずに立ち向かう。アーネスが傷つけられたことが、サリナの怒りに火を付けた。 サリナとカイン、アーネスの3人が接近戦を仕掛ける。ベヒーモスはその巨大な筋肉を稼働させ、巨体に似合わぬ俊敏さを見せた。 立ち上がったことで、魔獣の能力は明らかに向上していた。四つ足だった時と比べて、攻撃力、防御力、俊敏性、魔力、全てにおいて上回っていた。さきほどまででもアーネスの守りの力を全て注いでなんとかしのげるくらいだった攻撃が、更にその苛烈さを増したのだ。 加えて、こちらの攻撃でのダメージがほとんど無いようだった。サリナが側頭部に入れた一撃は、不意打ちであったために衝撃を与えられたに過ぎなかった。正面から向かい合っての攻防では、どういうわけか瑪瑙の座の幻獣たちのマナでさえ、ベヒーモスにダメージを与えられない。 「効かぬなあ」 そう言って獣は不敵に嗤う。 攻撃が通用しない相手に、サリナたちは攻めあぐねた。攻撃を続ければこちらのマナは消耗していく。しかし敵にはダメージが蓄積されない。サリナたちはそれでも次々に攻撃を仕掛けていくが、やがてそれは徒労感となってサリナたちに跳ね返り、着実に彼女たちの心身を疲弊させていった。 巨獣の咆哮が上がる。力持つ咆哮は衝撃波となり、サリナたちを吹き飛ばした。アーネスの防御も間に合わず、3人は石の壁に叩きつけられる。 「く……」 全身を襲うダメージに、サリナはかろうじて立ち上がった。続いてアーネス、カインも立ち上がる。サリナはすぐに回復の魔法を詠唱した。だがそれとてもちろん、マナを消費する。このままではじり貧だ。いずれこちらのマナが尽き、敗北するだろう。 「くそ。どうすりゃいいんだ」 「いつものことながら、厄介な敵ね……」 カインとアーネスの顔にも疲労の色が濃い。 「攻撃自体が効かないなんて……どうしたらいいんだろう……」 痛む右腕を押さえ、サリナは悔しさの奥歯を噛みしめながらベヒーモスの巨体を見上げる。疲れた様子も見せず、魔獣はこちらを睥睨している。 「威勢が良かったのは最初だけだったな。ゼノア様の叡智の前に、貴様らは結局為す術も無く敗れるわけだ」 魔獣の挑発的な言葉に、しかしサリナたちはどうすることも出来ない。怒りが湧き上がるが、それを超える絶望感が彼らを支配していた。この魔物を、どうすれば撃破出来るのか。 「……ふ」 それは、アーネスの口の端から洩れた笑いだった。敏感に聞き取ったベヒーモスが、琥珀の騎士へその目を向ける。 「今、笑ったか? 現状も理解出来ぬほどの無能なのか、貴様」 「それはお前のほうだろう」 その言葉の意図がわからず、サリナはアーネスを見る。傷を負ってぼろぼろの姿。その顔には、ベヒーモスを挑発し返そうとするような表情が浮かんでいる。 「何だと?」 「お前は知らぬのか、ゼノアがブラッド・レディバグや塵魔を放つことの目的を」 ベヒーモスは答えない。だが獣のその顔から、サリナは悟った。ベヒーモスは知っている。ブラッド・レディバグも塵魔も、ゼノアはサリナの共鳴度を上げるために放つという、その事実を。それはサリナたちがゼノア本人の口から聞いたことであり、恐らくはベヒーモスも気付いていることなのだろう。 「何だ、知っているのではないか」 「黙れ」 魔獣の声は怒りに震えている。アーネスが何を言おうとしているのかは、既に明らかだった。 「そう、ゼノアは貴様たち配下を――」 「それ以上の言葉は許さぬ!」 巨剣がなぎ払う。衝撃波がサリナたちに襲いかかる。アーネスの盾が輝き、それを防いだ。カインの雷獣が放たれる。ベヒーモスの尾の一撃がそれを消滅させる。サリナの火炎が飛び、魔獣の咆哮が迎撃する。その爆裂したマナの余韻の向こうから、アーネスが飛び出してくる。 その出現に、魔獣は虚を突かれたように固まった。 「貴様たちは捨て駒にされているんだ!」 放たれたのは、地のマナを纏った巨大な斬撃。鋭い岩の一撃が、魔獣の皮を切り裂こうと迫る。 だがそれも、ベヒーモスの残った1本の角によって防がれてしまった。 着地し、アーネスは敵と再び距離を取った。その時になって、サリナは気付いた。アーネスは時間を稼ごうとしているのだと。時間を稼ぎ、攻略の糸口を掴もうとしているのだ。攻撃が効かない敵を、どうやって撃破するのかを。 「ちっ……」 その舌打ちは、アーネスの痛恨が表れたものだった。時間稼ぎは失敗に終わった。ベヒーモスがさらに激昂するきっかけだけを与え、敵の弱点は未だ見えない。 自らの抱える矛盾に対する怒りか、あるいはそれを明るみのさらけ出したアーネスに対する恨みか。いずれにせよ、ベヒーモスは怒号を上げた。大地を震わせるほどの巨大な怒りが、赤熱した溶岩のように噴出する。 「ぐ、くっ! おいおい、やべえぞこりゃあ!」 怒りに沸騰した魔獣の攻撃が、怒涛の津波となってサリナたちに襲いかかる。回避と防御を繰り返す。だが少しずつ、敵の攻撃がサリナたちをかすめる回数が増えていく。体力の限界も遠くない。 このままでは―― 「くそ!」 「クロイス! 突っ込むのは危険です!」 セリオルの制止も聞かず、クロイスは堪えかねて飛び出した。短剣ダークを組み合わせて盗賊刀にし、シヴァのマナを行き渡らせる。 クロイスはベヒーモスの戦い方をよく見ていた。 腕力に任せた巨剣での強力な斬撃。強靭な尾での打ち付けやなぎ払い。咆哮による掃射。主にこの3つが魔獣の武器だ。 そしてこの敵には、どういうわけか攻撃が効かない。 彼が思い出すのは、サリナによる不意打ちだった。あれは確かに効いていた。今、ベヒーモスの意識は眼前に立つ3人、すなわちサリナ、カイン、アーネスに向いている。クロイスとセリオルによる援護は問題にもならぬとばかり、無視されていた。 そこにクロイスは勝機を見た。 その不思議な現象に、セリオルは我が目を疑った。 クロイスの姿が瞬間、ぼやけた。そしてその直後、セリオルはクロイスを見失った。 見えなくなるほどの高速で動いたのかとも思ったが、さすがのクロイスもそこまでの素早さはあるまい。しかし事実、セリオルにはクロイスの姿を見止められなかった。 そして、更に不可解なことがあった。 「馬鹿な……クロイスのマナが、消えた……?」 氷の幻獣、瑪瑙の座。凍て付く氷を操りし、氷妃シヴァ。その冷厳にして強烈なマナが、この場から消え失せた。そんなはずは無いと考えながらも、セリオルにはやはり、そのマナを探知できなかった。 セリオルの混乱をよそに、クロイスは行動を完了する。 一瞬で膨れ上がった氷の強大なマナに、ベヒーモスは気付かなかった。 「ぬがっ!?」 突如走った衝撃に、魔獣の視界が揺れる。クロイスの強烈な一撃は、魔獣の延髄を的確に撃ち抜いていた。盗賊刀ダークを覆う氷のマナが、ベヒーモスに叩きこまれた。 「裏技・不意打ち」 セリオルはそれを、元の位置で見ていた。クロイスが以前にも使ったことのある技だった。今セリオルは、その技の仕組みをようやく理解した。 「あれは……クロイスの存在を、その場にいる者たちに強制的に忘れさせる……いや、認識させなくする技術、ですか……」 そんなことが可能なのか、と彼は自問せずにはいられない。だが目の前で起きた現象、そしてその効果が、セリオルの言葉が真実を捉えていることを示していた。 とはいえ恐らく、今まさに目と目を合わせて戦っている者には効果が無いはずだ。マナはそこまで万能ではない。あくまで自分に意識を向けていない者に、自分の接近を感じさせずに不意打ちを決め、通常よりも大きなダメージを与える。そういう技だろう。 というような分析をしてかしておらずか、ともかくアーネスはこれを好機と見た。 「こっちだ、薄汚い獣よ!」 「ぬう!」 挑発。背中に現れたクロイスに向きかけたベヒーモスの敵意を、アーネスは無理矢理自分に向けさせた。ベヒーモスが巨剣を振り上げる。 「聖嵐・ドラゴニカクルセイダー!」 純白の巨大な槍と化したシスララが、アーネスに向き合った魔獣の脇腹へ突撃した。先んじてソレイユがその牙と爪で攻撃し、そこをシスララが貫いた。 「がふっ……」 意識の外からの攻撃。無敵を誇ったベヒーモスの守りが、弱点を露呈した。 巨獣の脚がよろめく。だが膝をつきはしなかった。 そこへ、更なる強大な一撃が襲った。 ベヒーモスは何が起きたのか理解できなかった。ただ彼の中で、あの琥珀の騎士への強烈な敵対心が爆発的に膨れ上がった。その姿を目で追う。 ――いた。 怒りが腹でとぐろを巻く。白熱する怒りに、視界が狭まる。 だが彼は、立てなかった。 「が……ふ……」 氷。最初に認識出来たのは、それだった。 ベヒーモスは身体を見下ろした。そこにあったのは、巨大な氷の剣山だった。無数の太い氷柱。それが彼の身体を、貫いていた。 「名付けて裏技・フイダマ」 唖然として、セリオルはそれを目撃した。 意識の外からの攻撃を、ベヒーモスは防げない。それを利用した、クロイスの会心の一撃だった。 クロイスが裏技と名付けたその技術は、まさにシーフの技術を持つ彼ならではのものだった。シスララの攻撃に敵の意識が向いた間に、クロイスはアーネスの背後へ移動していた。そしてそこから、全霊を篭めたマナの一撃を繰り出した。それは不意打ちの効果とだまし討ちの効果を相乗させたものだった。瞬間的な火力は、サリナのそれを遥かに超えるだろう。マナの扱いが苦手だったはずのクロイスの、そのとんでもなく強力な攻撃に、セリオルは心を震わせる。 ついに、ベヒーモスが膝をついた。 サリナがマナを高める。いや、カインはそう感じたが、それが勘違いだったとすぐに気付いた。 サリナが解放したのはマナではなく、プラナだった。薄黄色の光が溢れ出す。帯状に広がる光を纏い、サリナはこの好機に一気に攻撃を叩きこむべく、魔獣へと飛ぶ。 「えっ!?」 その膨大なマナを感知して、サリナは攻撃を中断した。 マナを放出したのは、ベヒーモスだった。 膝をつき、頭を垂れ、胴を氷の柱で貫かれていながら、魔獣は少しも諦めてはいなかった。その顔には怒りが満ち、その口からは呪詛の言葉が漏れ出でる。 「許さぬぞ……虫けらの分際で、ゼノア様の作品たる我をここまで傷つけるなど……」 その言葉に、サリナは戦慄した。命の瀬戸際に立たされてなお、魔獣はゼノアの手駒であることに何の疑問も抱いていない。その不気味さ、不自然さが、サリナの肌を粟立たせる。 「あれは、まさか……!」 そのマナの胎動に、セリオルは見覚えがあった。エル=ラーダ自治区の聖獣の森で遭遇した、ベヒーモスと同じくブラッド・レディバグに侵された魔物、イビルソーサラ―。あのトカゲの魔導師が放った黒魔法の奥義。ベヒーモスが練り上げようとしているマナの動きは、それとそっくりだった。 「まずい! 皆、守りを! 守りを固めるんです!」 セリオルの警告に、サリナたちはベヒーモスと距離を取った。白魔法、調合、マナの舞による守りが施される。アーネスも騎士の紋章を握った。 「シスララ!」 「はい!」 セリオルに呼ばれるより前に、シスララは既にセラフィウムとのアシミレイトを解除していた。対抗できるとしたら、あれしかない。 「響け、私のアシミレイト!」 地下墓地に純白の光が拡がる。カーバンクルの幻影が浮かび、シスララはその鎧を纏った。 カーバンクルのリバレート、ルビーの光。あらゆる魔法を跳ね返すその力が、今は必要だった。 「セ、セリオルさん、でもあれって……」 サリナの切迫した声。そしてセリオルもそれに気付いた。 ベヒーモスが練るマナ。それは黒魔法のものではなかった。サリナがこれまでに見たことが無い類の、それは不気味なマナだった。 「くくく……これで終わりだ」 ずん、と周囲の石を震わせて、魔獣が立ち上がる。傷ついた内臓のことにまるで気付かぬかのような力を孕んだ声で、終わりの獣は詠唱を開始した。 「星屑よ。天空の火と光芒が、無間の闇を焼き尽くし――」 「……そんな馬鹿な」 記憶の底に沈んでいた知識が、セリオルに向かって警鐘を鳴らす。かつて何かの書物で得た知識。この先の生涯で関わることも無かろうと、読み流した知識だった。 「虚空を喰らう禍神の――」 失われた魔法。かつて存在した、白、黒、青に続く第4の魔法。そのあまりに絶大な威力のため、王国によって使用を禁じられた魔法。それは操ってはならぬものを操り、世界の理を破綻させかねない魔法。やがてその魔法は、その存在したことだけが書物に残されることになった。歴史の彼方に葬られ、二度と蘇らぬように。 「新たな贄を生みたまえ――」 墓地が鳴動する。来てはならぬものが来る。その絶望的な予感に、セリオルは恐怖した。この聖なる地を、ゼノアは破壊し尽くす気か。 失われた、禁じられし魔法――時魔法。 「メテオ!!!!」 災厄の星屑が、現れる。 |