第191話

 その朝、リナ・ルーインは清々しい光の中で目覚めた。
 美しい飴色の光を浴び、リナは良い気分で部屋の窓を開けた。カーテンが風に揺れる。瑞々しい緑の香りが鼻腔をくすぐる。
「ん〜〜〜〜〜っ」
 ぐっと伸びをしする。心なしか体調も良いように思えた。昨日までとは何かが違う――そんな感覚があった。
 着替えをし、身支度を整えて階下へ向かう。そこには両親と兄がいて、既に朝食が始まっていた。
「おはよう、リナ」
「おはよう!」
 自宅から徒歩で15分のところに、リナの通う学校はある。ナッシュラーグ東地区の高等学園。リナは17歳で、その学校の上から2番目の学年に当たる。
「お、朝から元気だな?」
 いつものようにからかい半分の兄には肩をすくめて見せるが、自然と笑みがこぼれていた。
「うん、なんだか体調が良いの」
「なんだ、リナもか」
 父のその言葉に軽く首を傾げながら、リナは母が焼いたパンを口に運ぶ。かぐわしい小麦の香りも、いつもよりも強いような気がした。
「お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもそうなのよ」
 そう言いながら、母はリナの前に温めたミルクを置いてくれた。蜂蜜を垂らした甘いミルク。毎朝これを飲むのが、リナの日課だ。ふーふーと吹いて冷まし、少しずつ飲む。驚くほど、味が濃い。目を丸くして、リナはカップを見つめた。
 ここのところ疲れやすく、食べ物の味も薄くしか感じ取れないような、妙な感覚が常につきまとっていた。それが今朝は、一気に吹き飛んでしまっていた。
「最近、みんな調子が悪かったじゃない? 私たちだけじゃなくて、ご近所もそう言ってたし」
「野菜も穀物も、動物たちもあまり元気が無かったもんな……何なんだろうなあ」
 エリュス・イリアのマナバランスのことなど考えたことも無いリナたち家族にとって、今朝の状態は不思議としか言いようが無かった。地下の神晶碑に結界が張られ、ナッシュラーグのマナが安定したことなど、彼らには知る由も無い。
「そういえば昨日の南地区での陥没事故、何かわかった?」
 兄が話題を変えた。だが父も母も、もちろんリナも、その件についての続報は知らなかった。
 朝食を摂り、リナは家を出た。朝の光が心地良い。
 街にもひとの姿が多かった。近頃はあまり外出しないひとが増えていたが、それも今朝は違っていた。視界も昨日よりクリアに見える気がした。
「おはよー!」
 通学路で友だちと合流する。いつも同じ時間に集まってくる、いつもの学友たち。彼女らの顔色も、昨日までより良いようだった。
 学校に着くまで、いつもどおりの他愛も無い会話を交わす。クラスの誰かの恋愛のこと、目前に迫る試験のこと、将来の夢――そんなことを笑いながら話しつつ、彼女たちは学び舎へ向かう。
 学校が近くなったころ、リナはふと、空を見上げた。こんな気分の良い朝は、空もきっときれいなはずだ。そんなことを何とはなしに思いながら、特に意味も無く見た空だった。
 青く澄んだ空に、ぽっかりと穴が開いていた。
「……ん?」
 大きな穴、に見えた。空の高いところに、大きな穴があった。
「ねえ、あれって何だろ」
「ん?」
 友人の袖を引く。リナの指差す上空を見上げ、友人たちもぽかんと口を開けた。
 ――彼女たちの日常は、そこで終わった。

「状況は!?」
 切迫した声でアーネスが叫ぶ。素早く鎧を身に付けた彼女は今、セレスタデーゲンをリストレインの鞘に納め、腰に提げたところだった。
「街の中、いたるところに大きなマナ……小さいのもたくさん出てます!」
 武道着に着替え、左の手の甲にリストレインを装備する。サラマンダーとイフリートのクリスタルが光を受け、きらりと光っている。その中に潜む2柱の炎の幻獣が、その気炎を吐いているかのような獰猛な光。
「急いで参りましょう! ソレイユ、準備はいい?」
 甲高い声で飛竜が返事をし、シスララの肩に乗った。シスララの槍、シュヴァルツクーゼがソレイユに共鳴するかのように、その刃を煌かせている。
 3人は部屋を飛び出した。それと向かいの部屋の男性陣が飛び出して来るのが、ほぼ同時だった。
「はっはっは。ったく忙しいこった。バカやってる暇もねえな!」
「終わってからいくらでもすればいいでしょ?」
「お、いいの? 飲み歩いちゃっていいの?」
「ダメに決まってるじゃない」
「何だよそりゃおい、クロイスこら、なんとか言ってやれよ!」
「苦しくなったからって俺に振るんじゃねーよバカ!」
「だぁれがバカだコラ!」
「お前に決まってんだろバカすけ!」
「おっ、てめえなんだそれ新しいやつ颯爽と繰り出して来やがって!」
「発展ってもんを知ってんだよ俺はお前と違って!」
「おーおー大層な物言いだなぁおい、発展途上のお子様がよぉ?」
「……あんたたち、出ずに寝とく?」
「はい、ごめんなさい」
「はぁ。やれやれだ……」
「全くです。気を引き締めてくださいよ、皆」
「気合は十分です!」
「頑張りましょう、みなさん!」
 そんな風にドタバタと騒ぎながら宿から飛び出したサリナたちは、街の様子に愕然とした。
 空に開いた大きな穴。そこから、次々に魔物が降りてきていた。人々は恐怖と混乱に逃げ惑い、家々の窓や扉はしっかりと閉められる。
「大きなマナは1、2、3、4……7つ! その周りに小さなマナが群れている感じです!」
 目を閉じ、街中のマナを感知したサリナが報告した。それを受け、セリオルが指示を出す。
「大きなものならサリナでなくとも皆も感じ取れるでしょう。ひとまず散開して、各個撃破といきましょう。憲兵たちや城の兵たちも出てくるでしょうから、協力して戦ってください!」
「了解!」
 今朝のこと。サリナたちはナッシュラーグの宿、黄昏の風車亭で朝食を摂っていた。
 初めは、小さな感覚だった。サリナの感覚に引っかかるマナの反応があった。多少強いマナの影響を受けた動物や鳥が近くにいる時に感じる程度のものだったので、サリナも気にしなかった。
 だがパンを食べ、スープを飲んでいるうちに、その感覚が強くなっていった。そしてサリナが危険だと判断するに至った時、ナッシュラーグの街に同様の大きさの反応が多数、一挙に出現したのだった。
 急いで朝食を口に詰め込み、サリナたちは準備を整えた。すぐに出撃しなければならない。
 短い時間で、考えることはいくつもあった。
 ゼノアが思ったよりも早く来たのか。だとしたらなぜ、ナッシュラーグの街に魔物を――ゼノアの仕業だとしたら、あのインフリンジの力で呼び出した魔物に違いない――放つのか。ここは彼にとっても故郷だ。徒に街を破壊する理由は思い当たらなかった。
 いずれにせよ、サリナたちは大きなマナを持つ魔物の許へ散った。考えるのは後だ。まずは敵を排除し、安全を確保しなければならない。
 カインがスペクタクルズ・フライを飛ばした。街の四方に散らばっての戦闘になる。その連絡係りとしての役割と、加えてプリマビスタへの緊急連絡用だ。合計10匹。スペクタクルズ・フライはどこにでも棲息している魔物で、カインは常時獣ノ箱に補充をしている。
「とりあえず飛空艇の連中にも助けを頼んどく!」
「わかりました。サリナ、モグを呼んでおいてください!」
「はい!」
 モグがいれば、プリマビスタに敵が現れた際にもすぐに駆けつけることができる。レオンやダグら、プリマビスタの戦闘員は強い。数人を残しておけば、すぐに壊滅激打撃を受けるということも無いだろう。
 いくつかの行動指針のみを共有して、サリナたちは散った。

 シスララは街の西に向かった。彼女よりマナ感知に優れたソレイユを先行させる。空色の飛竜は迅速に飛び、強いマナを持つ魔物を探した。
 街は阿鼻叫喚の様相を呈していた。出現した魔物の数は多かった。当然、一般の人々は普段、魔物との接点など無い。突如空から現れた黒き魔物たちの姿に、彼らはただ逃げ惑う。
 シスララの美しき槍の一閃が、黒き魔物の一体を切り裂いた。彼女に感謝の言葉を向ける男に柔らかな微笑みを返しながら、彼女は走る。走りながらも、槍は閃光となって魔物を捉えていく。その美しい竜騎士の姿に、恐怖に戦いていた人々から、徐々に歓声が上がり始める。
 そこへ、ソレイユの甲高い声が響いた。
「あっちですね!」
 シスララは地面を蹴った。高く高く跳躍する。竜騎士特有の優れた脚力で、彼女は空へと舞い上がる。
 アシミレイトは控えたいところだ。この後、ゼノアの率いるより強力な敵の戦いが予感される。
 サリナとセリオルによると、ゼノアや黒騎士の気配はまだ無いとのことだった。いや、そもそもこの魔物の軍団がゼノアの手の者と決まったわけではないが――と考えて、シスララはかぶりを振った。これに、ゼノアが関わっていないはずが無い。ゼノアが迫っているというこの時、このタイミングでの異常事態。これが偶然であるわけがなかった。
「黒い魔物……セリオルさんのお話のとおりですね」
 ゼノアが闇から呼びだす魔物。かつて、王都での戦いでゼノアが呼び出したという魔物の特徴と、ナッシュラーグに出現した魔物のそれは一致していた。
 黒き魔物の群れを薙ぎ払いつつ、シスララはそこへ到着した。
「……ひどい臭い」
 そこにいたのは、悪臭を放つ魔物だった。
 不気味な深緑の体表。巨大な丸い身体の下部には無数の鋭く長い牙の生えた口。胴体は無く、口の下からすぐ脚が生えている。10本ほどある脚というよりは触手に近いそれは太く、うねり動いている。口の上に鼻や目は存在せず、丸い身体の外縁から、脚よりは細く、先端に眼球のようなものがついた触手が何本も生えている。
 醜く、気味の悪い魔物。
 食虫植物がマナの影響で魔物化した、悪臭の化身。
 その名を、モルボルといった。
 ソレイユがシスララの肩へ戻ってくる。民家の屋根の上から、竜騎士はモルボルを見下ろしている。魔物のほうも、どうやらシスララに気づいたようだった。こちらを見上げ――見えているのかどうかははなはだ疑わしいが――、威嚇の姿勢を取っている。
「あまり戦いたくない相手ですれど……ソレイユ、行くわよ!」
 相棒の返事を聞きながら、シスララは扇を取り出した。軽やかなステップがマナの力を生み、シスララを包む。
「花天の舞・ライブラジグ!」
 敵の情報を分析する力を得て、シスララは作戦を立てる。
 植物性の魔物。弱点は炎。見かけによらず、触手による素早い攻撃を繰り出してくる可能性がある。
「艶花の舞・フレイムサンバ!」
 炎の属性を自分とソレイユとに付与し、シスララは屋根から跳躍した。手始めの一撃。上空から急降下する竜騎士の特技、ジャンプ。
 モルボルはその動きに反応し、触手を伸ばした。太い触手は強烈な膂力を秘め、空から舞い降りる流星を撃墜すべく攻撃を仕掛ける。
 その触手を、ソレイユが迎撃した。炎の力を得た飛竜は、その強靭な翼に炎を乗せ、モルボルの触手を切り裂いた。魔物の口から悲鳴が上がる。
 鋭い閃光と共に、シスララの急降下攻撃が炸裂した。モルボルの脚の1本が千切れ飛ぶ。魔物は痛みと怒りに狂おしい叫びを上げ、シスララを叩き潰そうを触手を持ち上げた。
「醜き者よ、闇の底へと帰りなさい!」
 気勢を上げるシスララに同調して、ソレイユが鳴く。シスララは跳躍し、モルボルは触手を振り下ろした。

 北西へ向かったのはクロイスだった。持ち前の素早さで、強力な魔物の出現現場へ迅速に駆けつける。
「あの野郎のだな、やっぱ」
 空中を浮遊する黒い魔物を矢で射落としながら、クロイスは呟いた。ゼノアが闇から呼ぶ魔物。インフリンジ――彼に協力するという闇の幻獣たちのマナを使った技術。王都での決戦の際、彼はゼノアが闇の中から魔物を呼び出すのを目撃している。
「急がねえと」
 ゼノアに対する怒りが、少しずつ大きくなっていく。両親の死の原因を作った男。エリュス・イリアの至るところでろくでも無いことを起こし、世界中に迷惑をかけて回る男。リプトバーグで暮らす弟たちのことを思うと、クロイスは怒りを覚えずにはいられない。
 翼を持ち、空を舞う魔物が多い。少しでも開けた視界を得るため、彼は民家の屋根伝いに走る。走りながら矢を放つ。マナストーンのマナを宿らせた炎や氷の矢が黒き魔物を撃ち落していく。
 やがて、開けた場所へ出た。
 そここそが、彼の担当するべき魔物が出現した場所だった。
「うげ」
 その魔物を目にして、クロイスは思った。
 めんどくせえ。
 それは、鉄の塊のようだった。巨大な鋼鉄の鎧が動き出したかのような、無骨な姿。クロイスの身の丈の数倍はあろうかという巨躯。そしてその手にはやはり巨大な、ぎらりとした凶悪な輝きを宿すむき出しの大剣を握っている。
 頑強なる鋼鉄の魔物、鉄巨人。
 中身を持たぬ空洞の鎧でありながら、その力は凄まじく、動きは鈍重ながらその一撃は重い。クロイスの軽い身体で受ければ、致命的なダメージを受けることは間違い無いだろう。
「ま、関係ねーけど」
 要は受けなければ良いのだ。サリナの神がかった動きの陰でいまひとつ目立たないが、彼は一行の中で2番目に素早い戦士だ。敵の攻撃をかわし切る自信はある。
「先手必勝だぜ」
 彼独自のマナを練り上げ、ロクスリーの弓に矢を6本番える。狩人の技、弓技。標的の死角から放たれるその矢は、抜群の貫通力を誇り、敵を葬り去る。
「弓技・サイドワインダー!」
 放たれた矢は3本ずつ左右に分かれて飛んだ。強力なマナを宿した矢は弧を描き、鉄巨人へと飛ぶ。
 空間を切り裂いた矢は、しかし命中することはなかった。
 命中の直前、マナの接近に気づいた鉄巨人が、その巨大な剣を振った。恐るべき速度の剣は分厚い壁となって、クロイスの矢を叩き落したのだった。
 矢が飛んで来た方向を、鉄巨人は見た。背後の上方から飛来したように思えた矢の放たれた許に、凶悪な殺気が向けられる。
 だが、そこに影は無かった。
 そしてそっちへ意識を向けた瞬間、魔物の背には既に鋭い斬撃が加えられていた。
 高速で回転する盗賊刀が、鉄巨人の背中の装甲を切り裂いた。盗賊刀は魔物の背を駆け上がり、宙を舞ってクロイスの許へと帰った。
「裏技・シフトブレイク」
 盗賊刀の柄を握り、クロイスは鋼鉄の巨人を見上げる。
 金属の軋む音を立てながら、鉄巨人がこちらへ向き直る。生身の魔物であれば、怒りの咆哮でも上げただろうか。マナの力によって動く無機物――アルカナ族である鉄巨人は、声を発することは無いようだった。
「捕えられやしねーよ、図体だけじゃな」
 盗賊刀を構え、クロイスは相手を挑発する。鉄巨人はゆっくりと剣を構えた。巨大な魔物と小柄な少年。その対比に不安を感じていた住人たちは今、魔物に向かって跳躍した少年に、全ての希望を託した。