第193話

 旧皇都、ナッシュラーグ。現在は風車の都と呼ばれるその巨大な都のそこかしこで、戦闘によって発生した煙が上がっている。民家は破壊され、人々は逃げ惑う。
 フランツ・ウィンドホルンはナッシュラーグ憲兵の重装備を身につけ、市民の避難誘導に奔走していた。どこから黒い魔物が現われるかわからない状況なので、避難場所の指定に少々手間取ってしまい、避難誘導に遅れが出た。結局、どこから魔物が来るかわからないのであれば、市内で最も大きく頑強な建物にするのが最適だという意見が通り、憲兵詰所が選ばれた。
 襲いかかってくる魔物を警棒で叩き伏せつつ、フランツは走る。逃げ遅れた市民、特に子どもや老人が取り残されていてはまずい。
 彼が担当することになったのは南地区だった。田園や牧草地が多く、力仕事に従事する者が少ない。そのため、老人を抱える世帯が多い地区だ。
 憲兵詰所での時間を浪費しただけの対策会議を反芻し、その苛立ちの味を思い返す。こんなことをしている間にも市民は危機に晒されている――フランツのその主張は、まとまらぬ統制の下で先走って動いても混乱を来たすだけだという憲兵長の意見に一蹴された。
 そんなことより、多少の混乱を生んででも市民の命を優先すべきだろう……
 彼らの行動が遅れたために失われた命が、もしかしたらあるかも知れない。その苦い推測が、フランツの心臓を締め付ける。
 黒い魔物との戦闘を繰り返しながら、フランツは救助活動を続けた。
 そして小高い丘の斜面を利用して造られた果樹園に出た時、彼はそれを目撃した。
 それは、巨大な甲羅だった。
 陸亀、と呼ばれる種類の魔物がある。本来は水棲生物である亀が魔物化し、陸上のみでの棲息が可能になった魔物である。総じて巨体であり、その分厚い甲羅に覆われた身体は防御力が高く、そして重量のある足での踏みつけや、巨大な牙を振るっての攻撃などは強力である。
 そしてその陸亀の一族の中で、最もその名の知られた種が――
「ア……アダマンタイマイ……!」
 人里に現れたという記録はほとんど無いが、その魔物の強力さはよく知られている。比較的水辺を好み、普段の性質は温厚である。人間を見かけても、理由も無く襲いかかってくるということは無い。
 だがひとたびその怒りに火が点けば、手が付けられなくなるほど恐ろしい魔物だ。
 フランツもその姿を目の当たりにしたのは初めてだった。だが、話に聞いたことはあった。
 かつてナッシュラーグ憲兵の一団が、たった1頭のアダマンタイマイに全滅させられたことがあったからだ。
 その記録を閲覧したことがあったフランツは今、目の前に現れた巨大な陸亀の姿に戦いた。幸い、彼はまだ斜面の上のほうにいたので、アダマンタイマイの視界に入ってはいない。まずは助けを呼びに行かなければ――あの魔物が暴れ出したら、彼の手には到底負えない。
 だが彼の心配は、杞憂に終わった。
 ズドン……という凄まじい音と共に、アダマンタイマイの巨体が浮き上がった。
 目を見開き、フランツはその現象に見入った。
 薄黄色の閃光が閃くと同時に、陸亀が真後ろに飛んだ。非常な重量のあるその身体が、ふわりと浮かんで飛んだ。
 それは、棍による一撃だった。漆黒の身に黄金と白銀の炎が燃えるような意匠の棍に薄黄色の光が伝導し、黄金と白銀が眩く輝いている。
「サ、サリナ……」
 真紅の武道着を纏った少女は光を放ちながら、巨大な陸亀を翻弄していた。その身の丈の差は、優に10倍はあるだろうか。常識的に考えて、サリナの攻撃でアダマンタイマイが宙に浮くなど、ありえないことだった。
 だが氣の力を纏ったサリナの攻撃に、常識など通用するはずも無い。攻撃を受けるアダマンタイマイも、現れたこの小さな人間の力がこれほど自分を圧倒するという事実を、いまだに信じられないでいた。
 一方のサリナは、違和感を覚えていた。
 アダマンタイマイ。あまり魔物のことには詳しくないサリナでも、その名を知っていた魔物だ。巨大な陸亀。以前に戦ったものとは、その強さは全く異なっていた。身体の大きさ、力の強さ、攻撃の鋭さ。どれを取っても、恐らく一級品の魔物だろう。
 だが、それでももはやサリナの足止めになるレベルではなかった。
 サリナは強くなった。ファンロンでの修行の成果は、彼女の実力を飛躍的に向上させていた。金華山からナッシュラーグへ向かうまでのプリマビスタ船内でも、サリナはルァンたちとの稽古を続けた。彼女の感覚は研ぎ澄まされ、そのマナとプラナを操る技術は更なる高みに達していた。
 そのことに、ゼノアは気づいていないのだろうか。
 これまでのゼノアとの攻防を、サリナは思い返す。
 幻獣研究所の秘匿研究施設、ハイドライト。そこでマナの光となって消えたカスバロ・ダークライズのことを指してゼノアが口にしたのは、“サリナ、君の共鳴度を上げる役には立ったかな?”という言葉だった。そしてその後ゼノアは、自分がカスバロをハイドライトに遣わしたことも認めた。
 ゼノアは、己の部下の命さえも使って、サリナの共鳴度を上げようとしていた。
 あの狂える天才がカスバロの命をどう思っていたかはなんとも言えないが、彼がサリナの共鳴度を上げることに執心だったことは確かだろう。
 そうだというのに、この魔物の手ごたえの無さはどうだ。
 確かに強い魔物には違い無い。並みの戦士であれば苦戦するだろう。だがサリナたちのレベルで、この程度の魔物に単騎で手こずるなとということを、ゼノアは想定しただろうか。
 棍の強烈な一撃をアダマンタイマイの腹に叩き込みつつ、サリナは自問する。
 おかしい。どう考えても腑に落ちない。
 ゼノアがこの広いナッシュラーグの各所に魔物を配置したことには、理由があるはずだ。それもサリナたちの人数とぴったり同じ、7箇所に。
 予想されるのは、やはりサリナたちの戦力の分散。あるいは時間稼ぎ。それに加えて、サリナの共鳴度も高めることが出来れば理想だろう。
 セリオルやフェリオなら、もう気づいているだろうか。サリナは自分の頭の巡りの悪さ――あのふたりの天才と比べれば、という意味だが――に歯がゆさを感じながらも考える。戦力の分散、時間稼ぎ。だとしたらゼノアには、サリナたちに邪魔されずにこの街で行いたいことが、ある。
 だとすれば、やはりおかしい。この程度の魔物では、サリナたちから時間を奪うことは出来ないはずだ。
「はっ!」
 鳳龍棍が唸る。光の粒が舞い、巨大な陸亀の甲羅が破壊された。地響きを立てながら、アダマンタイマイが沈黙する。
「ゼノア……何を考えてるんだろ……」
 清潔な白衣に、色の抜けた真っ白い髪。そして狂気を宿した、赤い瞳。色素が薄く青白い頬に冷たい笑みを浮かべ、正体不明の力とマナを操るあの研究者の姿を思い返し、サリナは背筋を凍らせる。目には見えない不気味さが、サリナの感覚を侵していく。
「おーい、サリナー!」
 呼ばれた声に卒然として、サリナは顔を上げた。果樹園の間から、フランツが走り出てきた。
 息せき切って、興奮した様子のフランツは言った。
「す、すごいなサリナ! あのアダマンタイマイを、あっさり倒しちまった!」
「は、はぁ……」
 ぽかんと口を開けて、サリナは頬を紅潮させているフランツを見た。少年のように瞳を輝かせ、憲兵はサリナと見つめていた。
 地下水路でも皇家の墓でも同じような戦い方をしていたんだけど……
 とは言わず、サリナはフランツの褒め口上にただ恐縮してしまうのだった。
「いや、凄いのは昨日からわかってたけど……ここまでとは!」
「えへへ……それほどでも……」
 普段はセリオルら、自分と同じくらいのレベルの者たちと話すばかりだ。ここまで褒められることが少ないサリナは、フランツの興奮した様子に面食らいながらも、やはり嬉しくて照れてしまった。
 それが、隙を生んだ。
 フランツの目に走った警戒の色を見止めた時には、その攻撃はサリナに向けて振り下ろされていた。
「危ない!」
 瞬時に、サリナは振り返った。だがすでに、それはサリナの眼前まで迫っていた。
 ――そこに舞い込んだのは、鮮やかな橙色の風だった。
「はあっ!」
 裂帛の気合と共に繰り出されたのは、氣の力の乗った強烈な一撃だった。
 サリナに向けて叩きつけようとされていたアダマンタイマイの足は、その一撃に押し返された。重い音を立てて、陸亀の足が地面を踏む。
「油断しちゃダメじゃん、サリナ!」
 魔物を睨みつけながら背中でそう言ったのは、橙色の道着に身を包んだ少女だった。ファンロン流武闘術の紋章が刺繍された武道着。華奢に見えるその腕には不釣合いに大きくごつい、1対のトンファー。総本山での稽古の時には使っていなかったその武器を、彼女は愛用するようだった。
「ユンファ!」
「お待たせ! カインさんの虫が来たから、みんな飛んで来たよ!」
 言いながら、ユンファは空を指差した。見上げるとそこには、翼を持つ黒き魔物を次々に撃破していく白き竜、ファ・ラクの姿があった。どうやら竜の戦士の背中に乗って、ユンファたちは文字通り飛んで来たらしい。他の仲間たちの許にも、ルァンやアリスたちが駆けつけていることだろう。
「それにしても……これ、何?」
 不気味さを感じていることを隠さず、ユンファはサリナに問うた。彼女に並んで立ち、サリナは答える。
「たぶん、ゼノアが呼んだ魔物だと思う」
「うん。でも、普通の魔物じゃないよね」
 ユンファがそう言ったのは、倒れたはずのアダマンタイマイが復活したから、ではなかった。
 巨大な陸亀のその身体が、闇に侵食されていたからだ。
「うん……私は詳しくはわかんないけど、たぶんインフリンジっていう技術だと思う」
「インフリンジ?」
 闇のマナの特性である“侵食”を使ったマナ技術で、魔物の強化や空間侵食、つまり瞬間移動のようなことを可能にする技術だと、サリナは簡単に説明した。彼女も門外漢なのであまり詳しくはないが、白魔導師としてマナ理論の基礎については知っている。インフリンジがどれだけ高度な技術であるかを、サリナは推測の域は出ないながら、理解していた。
「そっか……そのインフリンジっていうので、こいつは蘇ったんだね」
「そうだと思う。それにたぶん、さっきまでより強くなってる」
「そっか。よおーし、腕が鳴るね!」
 くるりとトンファーを回して構え、ユンファはこんな状況でありながらどこか楽しそうにそう言った。ルァンやフーヤには敵わないかもしれないが、彼女も相当な手練だ。それにここはファンロン流総本山と比べれば、格段に空気が濃い。ユンファの頼もしさに安堵しながら、サリナはアダマンタイマイと再び対峙する。
 わけがわからないこんな時も、仲間と一緒なら心が落ち着く。
 闇の力を得て明らかにマナを増大した魔物と相対しながらも、サリナはそれを実感していた。
「後ろは任せろ! 俺もちょっとは役に立ってみせる!」
 警棒で黒き魔物の1体を叩き伏せたフランツが、サリナたちに向かって叫んだ。彼も彼なりに、自分に出来ることを果たそうと必死だ。
 黒き闇のマナを漂わせるアダマンタイマイに、サリナは棍を向ける。
 ユンファはサリナと同じ、ファンロン流武闘術天の型の使い手だ。自分と同じ武術を使う者と共に戦うのは、かつてローガンと行った野外訓練以来。不謹慎だとはわきまえつつも、サリナはそのことに喜びを感じずにはいられなかった。
「いこう、ユンファ!」
「うん!」
 ファンロンの少女たちと巨大な闇の陸亀の戦い。その第二幕が、始まる。

 そこは、薄暗い部屋だった。
 狭い部屋ではない。だが窓という窓に鋼鉄の板を打ちつけたその部屋は、まるで太陽の光を忌み嫌ってでもいるかのように、不気味な雰囲気を漂わせていた。
 明かりはただひとつ、部屋の天井付近に備えられたマナストーンの照明のみ。その光量も、今はかなり絞られている。
 手元を見るのも覚束ないような環境であるが、彼の作業には何らの支障も来たさない。
「ふふ……」
 口から漏れる笑みを自制できず、彼は喜びに浸りながら作業を続けている。
 彼にしか出来ないこと。世界の真実に辿り着いた彼だけが達成出来る、その仕事。それは彼に与えられた天命。この広い世界で彼だけが、エリュス・イリアを生かし続ける術を知っている。
 外では、どうやら魔物たちが暴れている。彼が呼んだ魔物だ。今朝、突如として現れたその魔物の群れに、この街は大混乱に陥っているだろう。それも彼の計画の内だ。混乱は大きければ大きいほど良い。それだけ彼が、この作業に没頭出来る時間が増えるのだから。
「ふふふ……」
 ああ、それにしても、と彼は考えずにはいられない。まるで精密機械ででもあるかのように、意識の外でも動きそうに思える彼の手は、別のことを思考していても止まることは無い。
 あらゆることが、彼の意のままに進んでいる。彼の計画を邪魔しようと――その計画の理由も目的も、そもそも彼が何をしようとしているのかすら知らない愚か者どもが暗躍している――する者たちなど、全て彼の掌の上だ。せいぜい踊って舞って、知らぬ間に彼の計画の助けをするがいい。
 ――瞼を閉じると、その姿が浮かんでくる。
 サリナ。立派に成長してくれた。力もマナも氣も、全て手に入れて、彼の前に彼女は立つだろう。その瞬間が待ち遠しい。
 先日、目にしたサリナの姿は、彼にこう語りかけてきた。

“あと少しだよ”

 背筋を這い上がる興奮を抑えようと、彼は奮闘する。ようやく、彼の願いが叶う時が来た。あと1歩、この街で起きることが、サリナを彼の理想へと昇華させるだろう。
 そしてもうひとつの鍵。それは既に彼の手の中――今、この目の前に横たわっている。
「素晴らしい……」
 そのマナを前にして、彼の心は震えていた。永劫の時を経てなお、そのマナは彼の期待する禍々しさと根源的な力強さを失ってはいなかった。
 この処置が終われば、これは彼の理想のための鍵として完成する。
「素晴らしいよ……さすがは魔神に見初められし男だ」
 400年。その年月が人体を崩壊させるに十分すぎることは、言及するまでも無い。古い墓地には遺体がミイラ化されて安置されていることもある。特に生前、高貴な身分だった者をミイラ化させるという風習が、かつては存在していた。
 腐敗、もしくは白骨化した遺体は当然のことながら、ミイラであっても生前の面影を残すことは極端に少ない。よほど奇跡的な条件が重なった例であっても、生前と全く同様の姿で現存するということは起こりえない。
 ――はずだった。
「これも魔神の加護というわけか……いや、加護という表現はおかしいのかな?」
 それは、400年の時を超えて、現存する遺体だった。生前と全く同じ姿。血色は失われているが、髪の1本すらも傷んでいない。その肉体だけでなく纏った衣服すらも、たった今織り上がったばかりであるかのように美しかった。
「ねえ……パスゲア・フォン・ヴァルドー」
 その異常な遺体を前に愉悦に浸る男の背後に、細い光が差した。カチャリと、扉の開く音。
「ああ……もう少しで終わるよ、アルタナ」
 メイドの姿をした女性は、小さな声で返事をして頷いた。光を映さないその瞳に向かって、彼は言う。
「もうじき君の出番が来る。準備をしておいてくれるかい」
 顔を上げず、アルタナは答える。愛して止まない、彼に向かって。
「はい……ゼノア様」