第2話

 小鳥の鳴き声が聞こえる。風に木々の葉が揺れる音。子どもたちがわいわい騒ぎながら登校する声。遠くには朝市の賑やかな喧噪。早朝である。
 高い位置に設けられた窓には木の桟が縦に嵌められていて、差し込む朝陽を何本もの光線に分けていた。板張りの床に差し込むその光が、くっきりと明暗を刻む。
 静謐。
 破ったのは男だった。
 正座の状態から一瞬にして自分に肉迫する男を、しかしサリナは目を閉じたままで避けてみせた。その勢いで立ち上がり、目を開いて構えを取る。武術の師が彼女と寸分違わぬ構えで目の前に立っている。
「……まあ正直言って、今さらお前に試すことなんか無いんだけど」
「けじめなんです、けじめ。いいからちゃんとして下さい」
「はいはい」
 今朝早くに訪ねてきた一番弟子に、ローガン・ファンロンは歯を磨きながら応対した。彼は随分早い訪問に驚いたが、いつも通りに会話しようとした。しかしサリナの様子はかなり切迫しているようだった。そして真剣だった。
 事情を聞いて、彼は納得した。生き別れた父。幻獣研究所からの解放。そのために薬屋のセリオルと共に旅に出ること。セリオルは父の弟子だったこと。18歳の誕生日に真実を告げるようにと、父からセリオルに言づけられていたこと。
 そしてサリナはこう言ったのだ。ファンロン流武闘術の師範代認定を受けたいと。
 ファンロン流武闘術は、貫手、棒術、節棍術を三位一体とする、武術の一流派である。総本山は氷と雪に閉ざされた厳しき鉱山、銀華山に存在する。ローガンはその本家の末弟子として師範の認定を受け、フェイロンに道場を開いたのだった。
 ファンロン流は実戦を旨とする武闘術だが、ローガンは自分の道場では護身術程度の内容しか教えないのが通常だった。魔物も出ず、平和なこの村ではそのくらいで十分だったからだ。
 だがサリナは違った。身の安全のためにと習い始めたが、1年で他のどの生徒よりも優れた武闘家になっていた。彼女の才能は別格だった。ローガンは元より、本家の連中でもここまでの才覚ある者はそういないのではと思われた。
 端的に言って、サリナの実力はローガンに匹敵していた。例えばこの近郊の魔物は既に相手にならない。先日、遠出しての稽古で大型の狼の魔物を一撃で急所を突いて気絶させたのには鳥肌が立った。いや、匹敵するどころか、もはや俺ですら――
「油断しましたね、師匠」
 気付いたら床に仰向けで寝ていた。眼前にサリナの拳。考え事をしながら相手にできる奴じゃなかった――そう痛感した。
「師範代、認定でーす」
 バンザイと共に、彼はそう告げた。

 道場の中央に正座するサリナ。その前にローガンはふたつの物を持って座った。サリナは両目を閉じている。
「ファンロン流武闘術師範、ローガン・ファンロンの名において、サリナ・ハートメイヤーよ。貴殿の実力を認め、ファンロン流武闘術師範代と認定する」
「ありがとうございます」
 証書を受け取り、サリナは深く礼をした。その前にローガンはもうひとつの、箱を置いた。サリナが顔を上げる。箱は細長く、黒地に金の装飾の施されたものだ。ゆっくりと、ローガンはその蓋を外した。
 中に入っていたのは1本の棒だった。上下3分の1の箇所に切れ込みが入っている。光沢のある黒い棒。
「黒星鉄を加工した棍だ。三節棍に変形させて使うこともできる。銘は黒鳳棍。俺からの餞別だ」
「うう。ありがとうございます」
「うん。がんばってこい」
「うう。ししょう〜〜〜」
 正座で礼をしたまま涙を流す愛弟子の頭を、ローガンはそっと撫でてやった。

「彼女には、辛い話だったでしょうか」
「それはわからんが、一晩中悩み抜いていたのは確かじゃな」
 仄赤い光を放つリストレインの箱を囲むようにして、ダリウ、エレノア、セリオルの3人がテーブルについていた。セリオルの心境は複雑だった。自らの師でもあるサリナの父を救出するのは自分の使命だと、そう覚悟してこれまで生きてきた。これからの旅に危険は伴うだろうが、全力でサリナを守ると決めていた。
 しかし、孫娘を送り出すこの老夫婦の気持ちを考えると、彼はやり切れない思いに苛まれるのだ。思えばこのふたりこそ不幸だ――セリオルは彼らが同情を望まないとは知りつつも、そう考えずにはいられなかった。
 苦労して育て上げた一人息子は王都で天才と呼ばれ、その頭角をめきめきと現した。やがて自慢の息子は結婚し、娘をもうけ、幸福の絶頂にあった。老夫婦はたまに会う息子夫婦を祝福し、孫娘を可愛がった。だが――
 10年前、真実を告げた時のふたりの様子を、彼は忘れられなかった。あの悲痛な慟哭を。運命を呪う叫びを。
「大丈夫ですよ、サリナは」
 エレノアの声にセリオルは我に返った。紅茶はいつの間にか冷めていた。
「ああ見えて、あの子は心をしっかりと持った強い子です。本当にいい子に育ってくれた」
「そうじゃな」
 俯いていると、セリオルは思っていた。老夫婦は俯いているはずだと。それは見当違いも良いところだった。ふたりは、微笑んでさえいた。この家族には敵わないな……セリオルは自分の考えの浅さを恥じた。
 足音がして、玄関のドアがバタンと開いた。息を切らせたサリナがいた。
「セリオルさん、行きましょう!」
 彼女の瞳には、強い光が現れていた。

挿絵