第208話
エリュス・イリアには、ひとつの神話がある。神である幻獣たちによって世界が生まれ、やがて人間の手に委ねられて栄えるに至るまでの歴史の物語である。 サリナたちが暮らす世界、エリュス・イリア。それを創造したのは幻獣の中の幻獣、幻獣神と呼ばれる炎の鳥、フェニックスである。人間の世界はフェニックスによって創造され、人間自体の母もやはりフェニックスであった。またフェニックスは、他の全ての幻獣をも生み出した母なる神である。かの神は炎の幻獣、玉髄の座。あらゆる命を司る、神聖なる最高神。 しかし、歴史にはそのフェニックスによって生み出されたどの幻獣にも当てはまらない、つまりマナではないのにあまりに強力で奇妙な力が存在する。 狂皇パスゲアである。 統一戦争の記録によれば、パスゲアは尋常ならざる力を有し、その類稀なる戦闘能力と戦術眼、兵法によって各国を侵略、エリュス・イリア全土の征服と、全てのマナの占有を図ったとされる。 しかしその記述には、いくつも矛盾があった。例えばかつてのヴァルドー皇国の皇帝とはいえ、一個人が持つにはあまりに常識外れの力を、パスゲアは持っていた。だが幻獣たちの力は勇王ウィルムと6将軍の許にあった。唯一の例外は闇の幻獣たちだったが、彼らはその戦を静観していたと歴史には記されている。 またヴァルドー皇国が征服した国は、残ったイリアス王国を除いたほとんど全ての国家であったという。いかにヴァルドーが優れた軍事力を持っていたとはいえ、群雄割拠の時代を生き抜いていた列強たちが、そう易々と敗れるものだろうか。中には国土を拡げるヴァルドーに対抗するため、複数の国が同盟を結んだこともあったはずだ。しかしそのあたりの経緯について、現存する歴史は何も語らない。 更に、なぜ幻獣たちはイリアス王国と他の僅かな数国が残されるまで、ウィルムたちに力を貸さなかったのか。パスゲアがマナを占有しようとしていることは、世界を監視する幻獣たちであれば早期に察知出来たはずである。しかし神々は、土壇場になるまでその力を人間に与えることをしなかった。 400年の間、これらの奇妙な疑問点について歴史学者も考古学者もマナの研究者たちも、誰ひとりとして言及しなかった。なぜなら歴史とは勝者が語るものだからであり、疑問を差し挟んだところで意味が無かったからだ。ヴァルドーの強さはパスゲアの希代の戦上手が所以であり、それを疑ったところで何も発展しない。また世界で広く信仰される幻獣神教によって、幻獣たちの行いは全て正しく、誤るのは人間であると断定する教えが人々の間に浸透していたからである。 その400年の呪縛に光明をもたらしたのが、セリオル・ラックスターとゼノア・ジークムンドだった。 彼らはナッシュラーグ自治区、ヴァルドー皇家出身。狂皇パスゲアの血を引く者として初めて、イリアス王国の軍事機関に潜入した。身分を偽り、素性を隠して。それを行えるだけの才覚と胆力を持つ天才が同時期にふたりも生まれたことが、ヴァルドーの血筋にとって奇跡的な幸運だった。 ヴァルドーは統一戦争での敗北以来ずっと、復権を目指していた。カステル将軍による毒抜きの時代を耐え、策謀によって舞い戻った支配者の座に対する民衆の反発に耐え、イリアス王国からの属国扱いに耐え、彼らはヴァルドー皇国の復活とエリュス・イリア全土の制覇を目論んでいた。 しかし彼らの牙は既に抜かれてしまっていた。旧ヴァルドー皇国はイリアス王国が最も危険視するエリアであり、それはカステルの時代を経ても変わることは無かった。ヴァルドーの血筋が再び領主に就いたことでその警戒は当然ながら一層高まった。表向きは数ある自治区の中のひとつとして扱われながらも、事あるごとにイリアスはナッシュラーグを国の中心から遠ざけようとした。 その関係は、やがてナッシュラーグ自治区の領民たちのイリアス不審へと繋がっていった。それまでは比較的大人しくイリアスに従っていたナッシュラーグだったが、ここに来て表立った抵抗を見せるようになった。領民の不満を盾にして、王国からの通達や指示を無視し始めた。その要因のひとつには、国の中枢に近いところへセリオルとゼノアを送り込むことに成功したという事実と、そのふたりによる内部工作に対する期待もあった。 かくして若きふたりの天才は、祖国の期待を背負って幻獣研究所へとやって来た。 セリオル・ラックスター。本名をセリオル・ラ・ヴィト・フォン・ヴァルドー。ヴァルドー皇家のひとつ、ラ・メルト家の出身である。ラ・メルト家は5つあるヴァルドー皇家の中で、もっとも多くの優れた学者が輩出した家系だ。セリオルはその家にあって、歴代最高の頭脳を持つと称えられた神童だった。 ゼノア・ジークムンド。本名はゼノア・ル・エシル・フォン・ヴァルドー。出身はル・エギル家。ラ・メルトは真逆で、多くの武道家を生み出した家である。ゼノアはその中では出来損ないと見做されたが、セリオルと関わるうちに学問に対する類稀なる才能を見せるようになった、ル・エギル史上最大の奇児であった。 ラ・メルトとル・エギル。他にフランツが所属するレ・キュリオ家、パスゲアを生んだロ・レント家、そして一族のほとんどが女性である女系の家、リ・ミューズ家。5つの家によってヴァルドー皇家は構成され、各代の最も優れた人物が皇帝の座に就く。今代の皇帝ガルド・カサンドル・パスゲア・フォン・ヴァルドーは戴冠式にて現在の名を名乗ることとなったが、元の名はガルド・ラ・メルト・フォン・ヴァルドー。ラ・メルトの家名を名乗ることを許された家長であり、セリオルの実父である。 セリオルとゼノアは幻獣研究所に身を置き、王国のマナ技術の最も重要な研究のひとつに携わることになった。彼らはその仕事を通じて自らを成長させ、また同時に王国の技術や知識を祖国へ持ち帰ろうと考えていた。 しかし、セリオルに変化の時が訪れる。 ある日、彼は師であるエルンスト・ハートメイヤーの蔵書に目を通していた。師の持つ書籍の数は膨大だったが、セリオルはヴァルドーの復権のため、寝る間も惜しんで師の持つ無数の本から少しでも知識を得ようと貪欲だった。その日もエルンストの書庫へ入らせてもらい、新たな知識を得るための本を物色していた。 セリオルが脚立に乗って本棚を見ていた時、地震が起きた。大きな揺れではなかったが、不安定な足場にいたセリオルは転倒してしまった。床に腰をしたたかにぶつけ、彼は悶絶した。 その時、彼のすぐそばに落ちた本があった。 題名も著者名もかすれて見えなくなった、古い本だった。開いてみると、かろうじて「歴史」や「神話」という言葉を読み取ることが出来た。既に世界の歴史について詳細に学んでいたセリオルにとってはそれほど興味を惹かれるものではなかったが、腰の痛みが落ち着くまで身動きも出来ず、またかすれた文字を推測していくパズルのような楽しみも僅かにあったため、彼はその本を読んでいった。 どうやらそれは、歴史に語られる英雄譚や戦争史などを、著者の解釈を通して語るもののようだった。読み進めるうち、セリオルはある言葉に出会う。 ――魔神、エデン。 ヴァルドーの血筋において、“エデン”とは特別な意味を持つ言葉である。すなわち、狂皇パスゲアの超常的な力のことを指す。その詳細についてはカステルの時代に失われてしまったが、現在におけるまでヴァルドーにおいて、“エデン”とは常に神聖な、崇拝の対象だった。幻獣神教の浸透によって人々の信仰は幻獣に向かったが、それとは異なる次元の価値観として、“エデン”はその神性を存続している。“エデン”を再び手に入れることが出来れば、ヴァルドーによるイリアス打倒は夢ではなくなるだろう。 そのエデンに、“魔神”という言葉が冠されていた。 セリオルは興奮を禁じえなかった。それまでエデンという言葉自体をナッシュラーグの外で目にすることも耳にすることも一切無かった。それはヴァルドーにだけ伝わる概念のようなもののはずだった。しかしその古文書によれば、エデンとは神の名であるようだったのだ。 更に興味深かったのは、そこにはフェニックスやバハムートといった現代に伝わる幻獣も、エデンと同様に神として扱われていた点だった――幻獣神教の教えと同じに。セリオルは推測した。もしかしたら、エデンも幻獣だったのではないか? ウィルム王たちと同じように、パスゲアも幻獣エデンの力を借りていたのでは? 背筋を駆け上がる興奮に身を任せるようにして、セリオルは考察を重ねた。 伝承の中には、エデンという名の幻獣は存在しない。しかし古文書によれば、エデンは魔神と呼ばれるほど凶悪な存在であり、最高神フェニックスと対立関係にあったらしい。それほど重要な存在が、統一戦争における狂皇パスゲアの伝説までに歴史に登場しないのはなぜなのか。もしかするとエデンの他にも忘れ去られた神がいて、エデンを破壊したのだろうか。エデンはパスゲアを使って復活しようとしたが、フェニックスたちによって妨げられた――それが人間たちにとっての統一戦争だったのか。しかしそれにしてもエデンの名がヴァルドー以外に一切伝わっていないのが腑に落ちない。 そういえば、と思い付いた内容に、セリオルは戦慄した。 幻獣神教が興ったのは統一戦争終結後とされている。勇王ウィルムに力を貸した幻獣たちの神懸った力が信仰の対象となったことは容易に想像できた。しかしその後、エデンの名は歴史から消えることになる……。 ウィルム王と6将軍、そして宰相リヴ・フォン・カンナビヒはエデンやパスゲアの力を追究する者が現れぬよう、幻獣神教を使って統一国家イリアスの全国民の記憶を改変しようとしたのではないだろうか。 いや、とセリオルはかぶりを振った。荒唐無稽に思えた。 だが――だがもし、その突飛な仮説が真実を捉えていたとしたら、世界の常識はひっくり返ることになる。エデンのこともそれ以外の様々な矛盾も、全て説明することができるように思えた。例えば魔神エデンが神懸った強大な力を持っていたため、列強諸国は同盟を組んでも太刀打ちできなかったのかもしれない。エデンはパスゲアに取りついてエリュス・イリアに力を振るったが、幻獣たちはエリュス・イリアに直接干渉することはできないため、ウィルムたちを見出すまでに時間を要したのかもしれない。 興奮に腰の痛みも忘れ、セリオルは素早くその場を片付けてエルンストの書庫を出た。懐には例の古文書を忍ばせた。 誰かに意見を聞きたかった。しかしエデンはヴァルドーの最大の秘密のひとつだ。他の者、それも王国の中枢に近い軍事研究所の者たちにエデンについて話すわけにはいかなかった。だが研究者の性として、己の立てた仮説が正しいという前提で物事を判断してしまい、その検証に対しても盲目になってしまうことが多いこともわかっていた。 だから彼は、意見を求めた。 彼の親友であり従兄弟でもあった男――ゼノア・ジークムンドに。 それからふたりは夢中になって仮説の裏付けを始めた。ヴァルドー再興のための鍵となるエデンの復活も、もしかすると叶えられるかもしれない。当然、表立って行うわけにはいかなかった。彼らは通常の仕事の合間を縫って頭を突き合わせ、例の古文書を中心に証拠集めと検証を繰り返した。毎日が興奮と発見の連続だった。ヴァルドー皇家として、そして研究者として、彼らは得難い充実感の中にあった。 ……しかし。 調査が進むに連れて、セリオルはあることに気づき始めた。エデンの無慈悲な破壊性と残虐性、そして人間としてのパスゲアの存在感の希薄さである。 パスゲアは今でこそ狂皇と呼ばれているが、生来の気質はその呼び名とは程遠いものだったようだった。ナッシュラーグの皇城に保管されていたパスゲアについての資料は、かの狂皇は寛大で優しく、民を愛し、教育と芸術に重きを置く平和主義者だったと語っていた。それは後の皇家がパスゲアを神格化するために遺した欺瞞であるとセリオルは考えていたが、幻獣研究所の蔵書の中にも、それらしきことが窺える記述がいくつもあったのだ。 一方、パスゲアによる世界侵略の行動に慈悲深き聖者の姿は微塵も見えなかった。彼の取った行動は全てが効率的に他国を破滅させる侵略行為であり、戦力の配置や使用した兵器、選択した作戦の細部に至るまで、一切の容赦は感じられなかった。かつてのヴァルドー皇国に攻め込まれた国々にとって、パスゲアはまさに悪魔だっただろう。 このふたつの事実の間に横たわる大きな溝が、セリオルの胸中に疑念を生じさせた。 パスゲアの人間性――あるいは人格を、エデンが奪い去ったのだとしたら? 魔神と呼ばれ、少なくとも穏やかな存在であるという想像は出来ない神、あるいは幻獣。ここまでの調べで、パスゲアに憑依――おそらくアシミレイトだろう――したエデンを、勇王ウィルムと6将軍が撃破するのに手こずった可能性が高いこともわかっていた。闇属性を除く全ての幻獣たちの力を結集しても容易には打ち破れなかった存在。それだけの力を持っているのなら、パスゲアという人間の人格を破壊出来たとしても不思議ではない。 だとするならば……そのエデンの復活に繋がるような研究を、自分はするべきなのか? それ以降、セリオルのエデンに対する関心は急速に薄れていった。同時に、自分の属するヴァルドー皇家そのものや、ヴァルドーの再興に懸ける思いといったものも色褪せてしまった。いやむしろヴァルドーの復権などさせない方が良いのだ。魔神の傀儡となっただけの男を神格化し、それを偶像のように崇め奉る皇家の者たちが、彼には愚かに思えた。それに皇家の者たちは、自分やゼノアが到達した真実を受け入れはしないだろう。 ここで手を引こう。そしてこの先の人生を、ヴァルドーやエデンの復活などという馬鹿げた妄執から家族を、ナッシュラーグを解放することに心血を注ぐべきだ。セリオルはゼノアにそう持ち掛けた。ゼノアもそれを承服し、ふたりによるエデン研究は終わりを迎えた。 ――はずだった。 暖炉で薪が爆ぜている。燃え尽きて残り少なくなった薪を、カインが補充した。視線は下の方へ向けられてる。クロイスが頭を掻いた。明かされたいくつかの事実に仲間たちの理解が追い付くための時間を少し置いて、セリオルは続けた。 |