第25話

 石造りの城壁は高く、重厚だった。その壁は幾星霜の時を経てなお、頑健で偉大だった。いかなる攻撃も遮断するであろうこの城壁に、街は守られていた。また街門には衛兵が立ち、外敵の侵入を警戒していた。街門の上には物見やぐらがあり、そこでは哨戒の者が交代で警備をしている。近頃増えつつある魔物による騒ぎに、彼らは気を配っていた。街門は東西南北にひとつずつ設けられていた。それは街の中心から見た四方であり、その中心には天高く聳える剣を思わせる尖塔と、それを囲むように造形された繊細でかつ威容を誇る建物、王城が存在した。
 そう、ここは王都イリアスである。
「王都……ここが……」
 街門をくぐったところで、サリナが呟いた。彼女の胸には、複雑な思いが去来していた。
「こんな気持ちで来ることになるなんて、思わなかったな」
 やや俯いてそう言ったサリナに、セリオルは胸を痛めた。本来、サリナが王都を訪れるのは、役人登用試験の際が初めてになるはずだった。彼女の夢を知りながらエルンストのことを黙っていたことに、彼は今更ながら自責の念を抱いた。
「サリナ――」
 呼びかけた声に振り返ったサリナは、しかし笑顔だった。セリオルは驚き、やや戸惑った。
「行きましょう、セリオルさん。お父さん、助けなきゃ」
 サリナは前を向いて足を踏み出した。憧れの王都。彼女の夢を叶えるはずだった街。そして、彼女の運命を翻弄することになった街である。尖塔の頂点に太陽の光が煌き、セリオルの目を眩ませた。
「ええ。行きましょう」
 目の上に手を翳し、もう一方の手でブリジットの手綱を握って、彼はサリナとアイリーンの後を追う。
 スピンフォワード兄弟は、それぞれで微妙に異なる思いで街門をくぐった。
 カインの頭の中では、フェリオの竜王褒章受章が最も大きな部分を占めていた。そういう意味で、彼にとって王都への到着は喜ばしいことだった。しかし他方で、当然ながらエルンストやゼノアのことがその喜びに影を落とした。エルンストを助けてやらなければという気持ち、そしてゼノアを、幻獣研究所を制圧したいという気持ちが、彼の心を乱した。
 一方、フェリオの胸中もまた複雑だった。彼にとっては竜王褒章のことが半分程度で、残りの半分を幻獣研究所の件が占めていた。そんな自分の感情を彼は冷静に分析し、把握していた。彼にとって、自分の功績を認められることや自分が栄誉を得ることで、兄が喜ぶことが最大の望みだった。そしてもうひとつ、全く別の無視しようのない感情が存在することを、彼は知っていた。彼は自分の前を歩く少女の背中を見つめる。
 いずれにせよ、兄弟はふたりとも複雑な心境で王都の地を踏んだ。サリナが口にした言葉は、そんな彼らの胸中を少しだけ乱した。
「何にも言わないんだな、兄さん」
 真っ直ぐにサリナの背中を見つめて、フェリオがこぼした。兄がどんな気持ちでいるかはわかっていた。
「俺だってな、フェリオ、空気を読めるんだぞ」
「もうその発言が読めてないよ、空気」
 主を代弁するかのようにルカが楽しげにひと声啼き、エメリヒが呆れたように首を振った。
 クロイスは感情の昂ぶりを覚えていた。イロの手綱を握る手に、知らぬうちに力が入っていた。
 王都である。東ヴェルニッツを渡って数日。彼はとうとうこの煌びやかな都に到着した。サリナたちに同行して正解だったと、彼は旅路を振り返った。自分ひとりだったらもっと苦労しただろう。それは道中に遭遇した魔物との戦闘のこともだったが、それ以上に旅慣れたスピンフォワード兄弟による行軍や野営の手はずや、どんな場面でも明晰な判断力で最短経路を選択できるセリオル、そして傷を負ってもすぐに回復できるサリナの魔法という安心感が大きかった。彼は道すがらに獣を狩っては皮をなめす際に、ほとんど周囲を警戒しないでよかった。
 王城までは彼らについていこうと、クロイスは決めていた。彼にはひとつの計画があった。それを実行したら、サリナたちとは別れる。そして仕事探しを始めるのだ。ここまでに獲得した毛皮や骨材などの戦利品のうち、いくらかを分けてもらおう。まずはそれを売って、仕事が見つかるまでの食いつなぎとするのだ。サリナたちが言っていた幻獣研究所というのは厄介そうな相手のようだったが、彼らなら心配要らないだろうとクロイスは考えていた。
「へへ……。イロ、いよいよだな」
 自分を見上げる主に、イロは頬を摺り寄せた。クロイスはくすぐったがるように笑った。彼は前を行く4人を見つめた。凄い連中だった。もう少しだけ、いろんな話をしてもよかったかもしれない。
 5人は街門近くのチョコボ厩舎に、それぞれのチョコボを預けた。驚いたことに、王都の厩舎は預かるチョコボの数に限りはあるものの、その料金はきわめて安価だった。
 世界最大の都市である城下町は、これまで訪れたどの街よりも広大で活気があり、そして豊かそうだった。サリナは物珍しさにきょろきょろしながら歩くので、しょっちゅう人にぶつかった。
「サリナ、気をつけないとまた財布を失くしますよ」
「は、はい」
 おのぼりさん丸出しだったことも自覚して、サリナはひとり赤面した。彼らと同じような荷物を担いだ旅人らしきひとたちも多いが、サリナのようにきょろきょろしてばかりなのはほとんどいなかった。
「言われてるぜ、クロイス」
 セリオルの声を聞き止めたカインが、にやにやしながら肘でクロイスを小突いた。クロイスは途端にむくれてそっぽを向いた。
「うっせーよ」
「ひゃひゃひゃ」
 子どものようなことをしている兄に苦笑いして、フェリオが止めに入る。
「兄さん、あんまりいじめるなよ」
「お。なんだいフェリオくん。クロイスに情が湧いたかね」
「ああ、そうなんだ。だから俺に免じて許してやってくれ」
「な、なんだよ情が湧いたって。俺は動物じゃねーぞ!」
「ひひひ。まあいいじゃねーの。仲良くしたまえよ君たち」
「変なこと言い出したのはお前だろ!」
 カインは右腕でクロイス、左腕でフェリオに肩を組むようにしてからからと笑った。クロイスはふたりに比べてかなり小柄なのでバランスが悪い。そのやりとりに振り返ったサリナとセリオルは、アンバランスな組み合わせながら楽しげな3人に、自分たちの気持ちも軽くなるような気がした。
「私、王都に入って緊張してたけど。セリオルさん、これまでどおり楽しくいきましょうね」
「ええ、そうですね。重く考えてもいいことはありませんから。まずは宿をとって、作戦を練らなければ」

 幻獣研究所時代、セリオルは王都の下宿に滞在していた。研究所員の多くは官舎のようなところを住まいをしていたが、セリオルは自分の個人的な研究や読書の時間などを重視したため、そういったところには入らずに自分で部屋を借りて住んでいたのだった。
 その頃の大家夫婦が経営している宿だと、セリオルは“騎士の剣亭”の前で仲間たちに説明した。彼が宿を探す道すがら、街の人々になにごとか尋ねていたのは道案内のためではなく、その大家の所在を調べるためだったらしい。
「それにしても……随分仰々しくつくりましたね」
 宿は見るからに大きく、その順調な経営ぶりを窺わせたが、それよりも真っ先に目に付くのは入り口に設けられた神殿風の装飾である。大理石風の石柱がずらりと並び、その上に同じ石でつくられたらしい何かの紋章入りの大屋根もどき。脇は2体の騎士像が高々と剣を掲げて固めている。
「まあ、王都に観光に来るひとには受けるんだろうな」
「ちょ、ちょっとこわい」
 セリオルの次にフェリオが続き、サリナがなんとなく身を縮めて進んだ。騎士像の前でそのポーズを真似ようとするカインを殴って宿に引きずり込んだのはクロイスだった。
 ユンランの“海原の鯨亭”やリプトバーグの“豊穣の麦穂亭”とは違い、この“騎士の剣亭”は入り口からすぐに食堂のホールというつくりではなかった。はじめに広い待ち合いと受付があり、そこで部屋を指定されて鍵を受け取る。食堂等の施設は宿の奥にあるということだった。従業員は小綺麗な制服を身に付けていた。サリナたちは中を見回してぽかんとした。
「お、おい、なあ、たけえんじゃねえのかここ」
「う、うん、そうだよね、どうなんだろ」
 とクロイスとサリナがこそこそやりだしたところへ、受付の男性が部屋の鍵を差し出した。すぐに部屋へと案内しようとする男性に、セリオルが声を掛ける。
「失礼、アルベルト・ハイランド氏はいらっしゃいますか?」
「あ、はい。オーナーに御用でいらっしゃいますか?」
 昔の下宿の名を出して、セリオルはかつてそこに住んでいた者だと説明した。彼は自らの名を出さないことを不自然に思われないよう、巧みに話を展開して従業員を納得させた。その意図に気づいたのは、どうやらサリナだけだった。
 しばらくして、事務所からオーナーらしき人物が現れた。白と黒のきちっとした正装で、髪もきちっと撫でつけ、口ひげもきちっと整えた初老で長身痩躯の男性だった。彼はセリオルを見て驚いたようだった。
「私の名を呼ばないでください、アルベルトさん」
 機先を制するかたちで、セリオルが告げた。懐かしさに顔を綻ばせて口を開きかけていたアルベルトは、セリオルの力のこもったまなざしにそのまま口を閉ざした。ひと息飲み込んで、アルベルトは再び口を開いた。
「ああ、申し訳ありません。いや、お懐かしい」
「ご無沙汰しています」
 アルベルトに促されて、セリオルを先頭にして一行は廊下を進んだ。階段を上がり、2階の部屋へと通される。その間、誰も言葉を発しなかった。
 部屋に入り、鍵を掛けて荷物を置き、ようやくセリオルはアルベルトと向き合った。ふたりは固く握手を交わした。
「先ほどは不躾に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、こちらこそセリオルさんのご事情を失念して、ついお名前を叫びそうになってしまって。面目ありません」
 そんなふたりの会話に、黙っていたクロイスが割り込んだ。
「なあ、なんでセリオルの名前を呼んじゃいけねえんだよ?」
 彼は事情が飲み込めないのが不満らしかった。その声にはっとしたように、セリオルは彼を振り返った。短い沈黙。
「大丈夫だよ」
 破ったのはサリナだった。彼女は楽しそうな表情を浮かべていた。
「クロイスは私たちのことをしゃべったりしないよ。大丈夫」
「はあ? 何言ってんだお前?」
 未だ状況の理解できないクロイスは、サリナの言葉の意味がわからなかった。アルベルトを含む他の皆はそれがわかっているようだったので、彼は苛立った。
「いいでしょう」
 少しの沈黙の後、セリオルはクロイスに向き合った。部屋の椅子に後ろ向きに座っていたクロイスの正面に、セリオルも椅子を置いて座った。ふたりの間には小さなテーブルが挟まれるかたちとなった。サリナはセリオルのそば、スピンフォワード兄弟はテーブルからやや離れたところでベッドに腰掛けている。アルベルトは部屋の扉の前に立ったままだった。
 静かな口調で、セリオルはこれまでのことをクロイスに語った。エインズワース大橋の宿泊所でサリナが話した、父を助けることの意味。幻獣研究所とゼノアの忌まわしい研究のこと。自分の過去、そしてスピンフォワード兄弟の両親。部屋の外に聞き耳を立てている者がいることを警戒してでもいるかのように、セリオルの声は低く、静かだった。
「私は、ここでは少々名を知られているんです。そして私の居場所が、ゼノアに知られるのはすこぶるまずい。そういうことです」
 クロイスはその話の全てを黙って聞いていた。セリオルが言葉を切り、口を閉ざしてしばらくしても、彼は何も言わなかった。
 しばらくして、クロイスはようやく口を開いた。口元に小さな笑みが浮かんでいた。
「いいのかよ、そんな話を俺にして。俺は金を稼ぐためにここに来たんだぜ。今の話、あんたらの敵に売るかもよ」
 その言葉に、彼らは激昂するだろうかと、クロイスは考えていた。言いながら、頬を冷や汗がひと筋流れるのを感じた。彼にとって、これはある意味で賭けだった。
「悪ぶらなくていいのに」
 予想に反して、サリナは明るい口調でそう言った。続いて、カインとフェリオのふたりが笑い出した。最後にセリオルが苦笑した。クロイスはまたしても状況が飲み込めなくなった。
「な、な、なんだよっ」
「お前さ、ほんと馬鹿だよなあ」
「なんだよ!」
 椅子を蹴って、クロイスはカインに向かって立ち上がった。カインは枕を抱え、ぽふぽふと叩きながら言った。
「お前が今でも俺らを金づるにしようとしてんだったら、今までいくらでもチャンスがあっただろ」
「う」
「なんでそれをしてねえ? その上、なんで今ここにいる?」
「うぐ……」
「君の行動は、君の言葉に対していつも矛盾してるんだよ」
 カインとフェリオのにやにや笑いから、クロイスは顔を背けた。なぜかわからないが悔しかった。
 顔を背けた先には、セリオルの顔があった。先ほどまでの重い表情とは違って、彼の顔は手の焼ける弟でも見るかのような表情になっていた。
「クロイス、あなたの気持ちが、さっきの言葉ではっきりわかりましたよ」
「な、何がだよ! 俺は別に――」
「私たち、仲間だもんね、クロイス」
「う……」
 クロイスは顔のやり場を無くした。どこを向いても自分に対してのにやにや笑いが待っていた。仕方なく、彼は後ろを向き、椅子本来の座り方に戻った。
 両親の死以来、彼は弟たちを食わせるためにずっとひとりで闘ってきた。彼にとって、仲間という言葉は縁遠いもののはずだった。だがどうやら、そうではなくなったらしい。
「おやおや、泣いちゃったかいお子ちゃまクロイスくん」
「ば、馬鹿か! 泣いてなんかいねえよ! なんで俺が泣くんだよ!」
 背中を向けていてもわかった。絶対あいつら、俺に向かってにやにやしてやがる。
 部屋の隅を向いて動かなくなったクロイスに、サリナが静かな声で話しかける。
「ねえ、クロイス」
「あんだよ」
 クロイスの声はぶっきらぼうだ。サリナはくすりと笑って、椅子の上で両脚を抱えた。その膝に顎を載せる。
「私たちね、幻獣研究所に入り込まないといけないの」
「そ、そうかよ、大変だな」
「少しでもたくさん、戦力がほしいの」
「そ、そうか、た、大変だな」
「もし、クロイスさえ良ければだけど――貸してくれないかな、クロイスの力」
「う」
 喉を詰まらせたような声を出して、クロイスは沈黙した。彼はやはり、状況が理解できなかった。なんで何気なく質問しただけだったのに、こんなことになるんだ? なんで俺、こんなに追い込まれてるんだ?
 しかしいくら考えても答えは出なかった。もしかしたらリプトバーグでサリナの財布を盗んだ時に、全てが決まっていたのかもしれなかった。そう思うと、あの時あのずしりとした財布を手にしたことを喜んだ自分を責めたいような、褒めたいような、なんとも言えない気持ちになるのだった。
「もちろん、クロイスにはニルスくんやソフィーちゃんやロニくんのために、早くお金を稼がないといけないのはわかってる。でも、もうちょっとなんだ。もうちょっとで、お父さんを助け出せるかもしれない。あと少しだけ、私にクロイスの時間を貸してくれないかな?」
 卑怯だと、クロイスは思った。こういう言葉を男のセリオルではなく、女のサリナに言わせるところがだ。こんな言い方をされて断ったら、後でどんなことを言われるかわかったものではない。しかも他に何人も聞いている中でである。
 クロイスはセリオルやフェリオの冷静さを羨ましく思った。彼らはいつも、客観的に事態を見てどう行動するべきか判断しているように見えた。自分にもその能力が欲しかったと、彼は今願ってもどうにもならないことを願った。
「もちろん、お礼はするつもり。私たちの旅に、もうそんなにお金は必要じゃないはずだから。収穫祭の賞金も随分余ってるし。だから――」
「あーーーーもう、わかったよ! わかったわかった!」
 耐えかねて、クロイスは立ち上がって振り返った。突然の大声にぽかんとしているサリナの顔が憎らしい。その前にあるセリオルの笑みも、視界の隅に映るスピンフォワード兄弟の意地の悪いにやにやも腹立たしかった。
「そんなに言うなら貸してやるよ! 危なっかしくて見てられねえしよ、お前らなんか!」
「くく。リプトバーグじゃ俺に歯が立たなかったくせに」
「うるせー!」
 怒鳴りながら、クロイスはどうしようもなく自覚していた。あの時、盗みをするなと諭された時から。俺はどうしようもなく、この連中に惹かれてたんだな。

挿絵