第3話

 エリュス・イリア世界地図の右下の端に近いところに、いくつかの細長い島が列をなして並んでいる。それらを総称してハイナン諸島と呼び、諸島の中で最も大きな島をハイナン島と言った。ハイナン島にはふたつの村がある。フェイロンとユンラン。北東から南西に延びる島の、フェイロンは中央よりやや北東、ユンランは南西の端のあたりに位置している。
 フェイロンには山があるため林業が発達し、ユンランには海があるため漁業が発展した。そのためふたつの村の間には街道が設けられ、騎鳥車の定期便が往来して交易を支えることとなる。
 ハイナン島には大陸から見れば珍しい文化が育まれていた。例えば衣服。大陸では庶民の服装は麻や木綿を織ったものが通常で、裕福な者たちでも絹を使って肌触りを良くしたものを使うのがせいぜいだ。しかしハイナンでは天然資源が多く染物の技術も発達しているため、一般市民が絹織物や染物を身に付けるのが普通になっている。そのデザインは男女を問わず丈の長い上衣に、男性はゆったりしたズボン風の下衣、女性はぴったりした下衣というスタイルが多い。これが大陸の人々から大いにもてはやされ、輸出品や土産物として島の経済を潤している。同様に木や土でできた建築物や刺身等の食べ物も大陸からの旅行者を喜ばせた。
 ハイナン島は農業、林業、漁業とともに、観光業にも優れた島である。そのため、騎鳥車は交易だけでなく、旅行者や観光客の足としての役割も担っていた。
 フェイロンからユンランへ向かう騎鳥車に、サリナとセリオルの姿があった。他にも何人かの乗客がいる。幌の出口付近に座った大陸からの観光客らしき老夫婦が、孫への土産だろうか、フェイロン特産の木彫りの人形を取り出して何か話している。その姿をなんとなく見ながら、サリナは昨夜のことを思い出していた。

「サリナ。私と共に、お父さんを助け出す気はありませんか?」
 自室の床に座って、サリナはセリオルの言葉を反芻していた。
 正直なところ、あまりの事態に頭がついていっていなかった。ついさっきまでいつも通りの日常があったはずの場所に、突然夢の中からやってきた怪物が居座ってしまったような感覚。サリナは怪物を自分の目で見て確認したものの、その存在を信じきれないでいた。
 サリナは自分の記憶を辿っていた。お父さんは、私が2歳の時に山で遭難して亡くなった……。お母さんは私を産んですぐ、体を壊して亡くなった……。私はおじいちゃんとおばあちゃんに育てられた……。昔からすぐ近くにセリオルさんがいて、なんでも教えてくれた……。アイナやユリンと遊んでて怪我した時も、迎えに来てくれたのはセリオルさんだった……。
 冷静に思い返してみると、不自然なほどセリオルは自分のそばにいた。病気をした時、入学式や卒業式、家族での旅行。記憶の節目にはかならずセリオルの姿がある。そしてその周囲に、彼の家族の影は無かった。彼はこう言った。自分は君の父の弟子であると。師から頼まれて、君を連れて逃げだしたのだと。確かに、これまでの記憶にあるセリオルの存在の不自然さと、彼の言ったことは辻褄が合う。ダリウやエレノアも同じ説明を彼女にした。セリオルはその強い責任感から、サリナを自分の手で守ろうと決意していたのだ。彼らの話に嘘は無いだろう。真実は目の前に突きつけられていた。
 でも……。
 膝を抱え、サリナは顔を伏せた。
 サリナの心の中で、いくつかの天秤が落ち着くべきポイントを見失ってぐらぐらと揺れていた。重りのほうもたくさんある。父、祖父と祖母、セリオル、友人たち、これまでの生活、王都で働く夢、自分の未来。
 父は王都の幻獣研究所にいるという。サリナはその施設を知っていた。確か国立の研究機関だ。そこに幽閉されているということは、父は何か悪いことに手を染めたのではないのか? その父を助け出すというのは、何かまずいことにならないのか? そんなことをして大丈夫だと、ダリウは、エレノアは、そしてセリオルは考えているのか? もしそれが実現できたとして、その先の未来はどうなるのか?
 そんな不安がある一方で、サリナはある確信をしてもいた。セリオルやダリウ、エレノアらが、自分に悪事の片棒を担がせるような真似をするはずが無い。だからこそあえて詳細な説明をせず、父が王都に囚われているという事実だけを自分に告げたのだと。それに彼らが信じている父が、過ちを犯したとは考えたくなかった。
 また同時に、真実を告げることで自分がどんな気持ちになるのかも、彼らは理解しているはずだとサリナは考えた。今頃階下のテーブルでは、3人が無言で、ただ自分が答えを出すのを待っていることだろう。ダリウやエレノアにしても、この事実を自分に告げるのは辛かったに違いない。父からの言づけとはいえ、それを隠し通すことはできたはずだ。それでもきちんと教えてくれたのは、彼らの優しさなのだ。いつか自分が真実を知った時、何もしなかったことを後悔しないために。自分で自分の進む道を選び取ることができるように。
 サリナは祖父と祖母、そしてセリオルの気持ちも想像した。自分の息子が、師が、不当な扱いを受けていることに対して、彼らがこれまで何の行動も取らなかった理由を考えた。性格的に、少なくともダリウが黙っていたはずが無い。彼にとって、家族は何よりも大切なものだ。例え世界が敵にまわろうと、彼は家族を守ろうとするだろう。それでも彼らが行動に出なかったのには、必ず深い理由がある。そしてその鍵は、おそらくこの目の前にある正体不明の金属と水晶だ。
 リストレイン――。セリオルはそう呼んだだろうか。そしてその穴に嵌っている真紅の水晶、クリスタル。自室へ戻ろうとしたサリナにダリウが持って行きなさいと手渡したこのふたつには、何か大きな秘密が隠されている。そしてそこに自分というピースが加わることで、このパズルは完成するのだ。
 リストレインとクリスタルから放たれる光は、まだ消えていなかった。小さなドラゴンの影が浮かんでいる。陽炎のようにゆらゆらと揺れている。サリナはその影に愛着を感じ始めていた。小動物のようで、なんとなくかわいらしい。赤い光とドラゴンの影を見つめていると、不思議と心が落ち着いた。頭の中でばらばらだった思いがまとまっていくのを、彼女は感じていた。
 自分を呼ぶ声が聞こえた気がしてはっとした。気がつくとドラゴンがこちらを向いている。それまで動かなかった影が、今はサリナを見つめるように姿勢を変えていた。サリナはその顔の部分に、自分に向けられたエメラルド色の瞳を見たような気がした。
 しかしそれはほんの一瞬のことで、リストレインもクリスタルも、光を失ってしまった。ひんやりと冷たい光沢を放つ、赤い金属の籠手と水晶があるだけだった。
 サリナは立ち上がった。目の前の真実に蓋をして、人生を悔いることはしたくなかった。

 甲高く、耳をつんざくようなチョコボの声が響き渡った。騎鳥車がガタンと音を立てて停止した。衝撃で乗客のうち何人かが床を転がった。
 考えごとをしながら、サリナはまどろんでいたようだった。昨夜あまり眠れなかったせいだろう。早朝の稽古の疲れもあった。そのせいで一瞬、反応が遅れた。既に幌から飛び出したらしいセリオルの、サリナを呼ぶ声が聞こえた。
 盗賊のようだった。10人くらいの若者が刃物を手にして、騎鳥車を取り囲んでいる。林が近く、フェイロンとユンランのほぼ中間地点と思われた。盗賊のうちのひとりだろう、男が地面に倒れている。その服が焦げていた。セリオルがやったようだ。
 仲間を倒されたことに逆上した盗賊たちが罵声を浴びせながら、セリオルを取り囲もうと輪を狭め始めた。息を殺してセリオルの背中を見つめていたサリナに、一瞬、セリオルが目だけで振り返った。幌を守れという指示に見えた。
 幌から降りようと身を乗り出した瞬間、首筋に衝撃が走った。硬い棒のようなもので殴られたようだ。幌の死角にもうひとり潜んでいたのだ。急な事態に余裕を失ったことを悔いるのと同時に、サリナは地面に落下した。目を見開いて自分を見るセリオルの姿が見えた。そして彼女の意識は、暗闇に消えた。

挿絵