第31話

「地の束縛断ち切る我は、翼持つ者――レビテト!」
 長い落下の途中、サリナは咄嗟に浮揚の魔法を詠唱した。3人の身体が浮遊感に包まれる。落下速度がやや緩まったが、まだ危険は回避されていない。
「くそ!」
 サリナの詠唱と同時に、カインは獣ノ箱をひとつ解き放った。
「ダウニーウール・ラム!」
 青白い炎が放たれた。炎は巨大な雄羊の姿をとって、カインたちよりも先に降下していき、眼前に迫った地面に到達した。雄羊はそこに留まり、背中をカインたちに向けて落下を受け止めようとしている。
「来たれ風の風水術、突風の力!」
 叫んだのはアーネスだった。彼女は1対のベルを取り出していた。アーネスがそれを振ると、美しい音色とともに凄まじい突風が吹き荒れた。風は地面に向かって放たれ、サリナたち3人の落下速度は相対的に和らげられた。
 こうして3人は雄羊の背に柔らかく落ち、無事に地面に降り立った。雄羊は霞のように消えた。
「あ、危なかったー!」
 サリナはへたり込んだ。どっと汗が噴き出る。心臓が早鐘のようだった。
「いやいやいや」
 言いながら、カインも座り込んだ。両脚を投げ出して、両手を身体の後ろにつく。彼はサリナのほうへ顔を向けて、
「さすがに焦ったな。はっはっは」
 愉快そうに笑った。こんな時でもすぐに笑うことのできるカインに、サリナは元気付けられた。つられてサリナも笑う。緊迫感が急速に解きほぐされた。
「すまない」
 低い調子で、アーネスの声が聞こえた。声のほうを向くと、騎士隊長は左腕を右手で掴み、自分の身体を抱くようにして口惜しそうな表情を浮かべていた。
「あん?」
 何言ってんだ、という調子でカイン。アーネスは唇を噛んだ。
「私の油断がこの事態を招いた。取り返しのつかないことになった――すまない」
 その深刻そうなアーネスの口調を、笑い飛ばしたのはカインだった。
「あんた、なんつー顔してんだよ。ほんっとおカタイねえ」
「全然大丈夫ですよ、アーネスさん。よくあるんです、こういうこと」
 アーネスは困惑した。責任を問われるものと思っていた。だがカインもサリナもそんな様子は見せず、アーネスの言葉をただ可笑しそうに笑っている。
「それよりあんた、さっきの力は何だよ? 来たれ、とかつって」
「あ、そうそう! 私も気になってたんです。あれって、風水術ですよね?」
「あ、ああ、そうだ」
 サリナが感嘆の声を上げた。カインは話についていけず、置いてけぼりを食った。
「なあ、風水術って何だよ?」
 カインの問いかけには、サリナが答えた。どこか得意げである。
「風水術は、自然のマナを引き出すことで自然現象を操る力です。いろんなことが出来るんですけど、中にはセリオルさんの黒魔法に匹敵するものもあるんですよ!」
「へえ〜! あんた剣だけじゃなくてそんな力も使えるのか。すげーじゃん!」
「風水術は魔法とは違って、その場その場で引き出せるマナが違うんです。自然の力を使うからですね。だからまだ体系立てられてないんですけど、今注目の最新のマナ技術なんです!」
「ほほう。よく知ってるなあサリナ。そういうのはセリオルの役目だと思ってたけど」
「へへ。何を隠そう、セリオルさんから教わりました」
「やっぱりか! はっはっは」
「えへへへ」
 アーネスは戸惑った。サリナとカインに、彼女を責める様子は微塵も見えなかった。
「貴殿ら、私を責めないのか? この事態を招いたのは、私だというのに」
「き、き、きでん! きでんっておい! うははは」
「か、カインさん、失礼ですよ!」
 可笑しそうに笑うカインに、アーネスは怒りの感情も湧いてこなかった。目の前にいるのは、これまでの騎士としての彼女の常識からは、もはや理解出来ない種類の人間だった。
 ひとしきり笑って、カインはアーネスのほうを向いた。悪戯っぽく光る瞳。
「あんたはカタすぎんだよ。こういうとこに来てるんだ。事故とかトラブルは起こって当たり前だ。それをいちいち誰の責任だとか言ってる前に、次に打つ手を考えるのが俺たちだ。わかる?」
 にやにや顔のカインに、アーネスは返す言葉が無かった。確かに彼の言うとおりだった。今この場で自分がどう責任を取るかという議論をしても、事態は何も改善しない。今考えるべきは、この状況を効率的に打破する方法だった。
「サリナなんて、リプトバーグで財布盗まれたんだぜ。路銀の大半が入ったやつ。しかも、あのクロイスに。くく。笑っちまうよなー」
「か、か、カインさん! 私あの時、ほんとに落ち込んだんですからね!」
「はっはっは。わかったわかった。ま、あん時も結局全部上手くいったんだ。クロイスも心入れ替えて、協力してくれてるしな。ま、あいつの場合は仕事始めるのと王様に直談判するのが目的だったんだろうけど」
「でも今は、ここに来てくれてます。クロイスがいなかったらバッファリオンももっと苦労したかもしれないし、クロイスがいてくれて良かったですよね」
「まーな。何よりあいつ、おもしれーし。くくく」
「あはは。ひどいなあカインさん」
 そんな会話をしているふたりに、アーネスは気が抜けてしまった。状況は決して楽観出来るものではなく、むしろどうやって元の場所に復帰するのか、手立てが見当たらず絶望的である。
 もしかしたら、と彼女は考えた。国王たちの前で見せた、あの胆力。そしてこの状況でも気楽に笑っていられる、その理由。それはもしかしたら――
「貴殿ら、この状況でどうしてそんなに、笑っていられるのだ?」
 アーネスは尋ねてみた。ある種の予測を持ちながら。
「あん?」
 カインとサリナは顔を見合わせた。ふたりはすぐに返事をした。
「だって、上にセリオルさんたちがいますから」
「こんなことぐらいで参っちまうんだったら、幻獣研究所をぶっ潰そうなんて思わねーよ」
 やはり、とアーネスは納得した。彼らのこの胆の据わりぶりには、ふたつの根拠があった。ひとつは仲間に対する信頼。仲間がいるから大丈夫だ、彼が言うのだから問題ない。そういう信頼関係が、彼らにはあるらしい。
 そしてもうひとつは、覚悟だった。恐らく、この目の前にいる小柄な少女がその中心にいる。父が幻獣研究所に幽閉されていると、彼女は語った。小さな身体で、誰よりも強い覚悟をこの少女は持っていた。国王の目の前で話す彼女を見て、アーネスは心を打たれた。本来であれば国王の前で狼藉を働く不届き者を、彼女は制圧して罰しなければならない。しかしあの時、彼女は動くことが出来なかった。少女に宿る強い力が、彼女の身体を縛り付けた。
 その少女を支えるのが、彼女の仲間たちなのだろうとアーネスは考えた。エルンストの弟子でゼノアの同輩、かつて神童と呼ばれた希代の天才、セリオル・ラックスター。両親をゼノアの謀略によって失い、ふたりきりの兄弟で努力を重ね、生きてきたカイン・スピンフォワードとフェリオ・スピンフォワード。穀倉の街リプトバーグの貧民街で苦しい生活を送り、サリナたちと行動すればそれを解決出来ると考えたのであろう、クロイス・クルート。まだ出会って短い彼らのことを、アーネスはそう見ていた。それぞれの思いを胸に、彼らはゼノア・ジークムンドを打倒するために行動している。それは計り知れない危険を伴う行為だが、強固な覚悟のものとに、彼らはそれを目指すのだろう。
 信頼と覚悟。ふたつの強い力が結びつけるサリナたちを前に、アーネスは自分の器の小ささを思い知った。何かが起こると、誰の責任かを追及し、処罰を決めることに染まりすぎていた。そんなことよりも重要な、目的を果たすために取るべき手立てを考えることを後回しにして。目指すべき目標と、それに対する覚悟が無かったのだろうと、彼女はひとり内省した。史上初の女性騎士隊長と持て囃されたことに満足して、彼女はそこで向上することを自分で止めてしまっていたのかもしれない。
 沈黙したアーネスをよそに、サリナとカインはこれからどう行動するかを話し合っていた。まずは仲間たちと合流することが先決だが、そのためにどうするか?
 アーネスは立ち上がった。剣と盾を組み合わせて腰に佩く。音が鳴らぬようにと固定していた風水のベルも、反対側の腰にいつでも取り出せるように提げた。鎧がかちゃりと音を立てる。涼やかに響く、ベルの音。
「行こう。彼らも最深部を目指して進むのだろう? 我々もそこを目指して歩くのが最も早い」
「お? なんだなんだ、やる気になったか」
「あ、ちょっと、待ってください!」
 ふたりが慌てて立ち上がり、アーネスに続いた。

 サリナ、カイン、アーネスの3人が落ちていった空洞を、3人はしばらく見つめていた。
「なんということだ……こんなところで、サリナ!」
 セリオルは両目を固く閉じ、絶望に打ちひしがれていた。床についた両手は、何度もその石でできた床を殴った。彼の両拳からは血が滲んだ。
 クロイスはそんなセリオルを見かねた。励ましになるとは思えなかったが、言葉を掛けずにはいられなかった。
「なあ、セリオル、大丈夫だって。あいつら、こんなことぐらいでくたばりゃしねーよ」
「当たり前でしょう!」
 意に反して、返ってきたのはセリオルの激昂した声だった。いつも冷静沈着な一行の頭脳は、今は激情に駆られて落ち着きを失っていた。セリオルは声を掛けたクロイスを振り向き、睨むようにして見た。その烈しい声と表情に、クロイスはびくりとして凍り付いた。
「サリナは、優れた白魔導師です! 防御の魔法も、浮揚の魔法も使える。こんなことぐらい、難なく対処してみせますよ!」
 セリオルの言葉は、その口調と大きく矛盾していた。しかしそれを指摘することは、クロイスには出来なかった。
「それにカインもいます。あの騎士隊長もいます! 彼らだって相当の使い手だ。こんなことで、こんなことでどうにかなるはずがない!」
 息を吸い込むことすら忘れてそう吼えるセリオルの、胸倉を掴む手があった。その手は長身のセリオルをぐいと起こし、無理やり立ち上がらせた。
「冷静になれ、セリオル」
 自分の顔の高さにあるセリオルの胸倉を力任せに掴んで、フェリオはそう言った。セリオルはそのフェリオを睨み付けた。
「私は冷静です! その手を放しなさい!」
 怒鳴るセリオルを、フェリオは有無を言わせぬ力で壁際まで押し、石の壁に叩きつけるようにしてぶつけた。衝撃に、セリオルの息が一瞬止まる。
「な、なにを――!」
「今のあんたのどこが冷静なんだ!」
 さきほどのセリオルの数倍大きな声で、フェリオは怒鳴り付けた。部屋の石が震えるほどの声だった。その咆哮に、セリオルの意識が僅かに覚醒する。
「フェ、フェリオ」
「サリナが落ちて、心配なのはわかる。でもあんたがするべきなのは、落ちていった3人をどうやって助けるかを考えることじゃないのか! 3人は間違いなく無事だ。サリナは、あんたにそんなにうろたえてほしくないはずだ。考えろよ、セリオル! いつもみたいに冷静に、この状況をどうやって打破するのか!」
「し、しかし、3人が無事だという根拠は――」
「さっきあんたが自分で言ってただろう! サリナには白魔法、兄さんには青魔法と獣ノ箱があるんだ。その力でこれまでも、どんな場面でもこなしてきただろう! あんたは、皆の力を信じてないのか! それでもサリナの兄貴なのか!」
 セリオルは沈黙した。驚いた顔から、徐々に険しい表情へと変わっていく。それは誰に対してでもなく、自分を責める表情だった。
 無音の時が流れ、セリオルは表情を緩めた。張り詰めていた全身の力を抜き、両目を閉じる。フェリオはセリオルから手を放した。セリオルは大きく息を吸い込んで、そして吐き出した。静かに目を開く。
「フェリオ、ここに来るまでにサリナが口にした、最深部までの距離と方角を覚えていますか? それをどこで言ったかも」
「ああ」
 ふたりは木のテーブルを挟んで話し始めた。セリオルは冷静さを取り戻していた。クロイスは恐る恐るテーブルに近づいた。
「クロイス」
 セリオルがこちらを見ずに名を呼んだ。クロイスは動きを止めて固まった。テーブルにたどり着く少し手前だった。
「さっきはすみませんでした。見苦しいところを」
「お、おう。全然平気だぜ。びびってなんかないぜ。はっはっは」
「……なんかちょっと、カインに似てきましたね」
「なっ! ばば、馬鹿言うんじゃねえよ! 一緒にするな!」
 フェリオは頭を抱えた。頭痛がする気がした。
「クロイス、君に頼みがあります」
「ん、なんだ。俺はサリナの言ってたことなんて覚えてねーぞ」
「ええ。さっき開いたそこの穴、どれくらい深いか見てください」
「ん?」
 言われて、クロイスは穴を覗き込んだ。あまり明るくない空洞の先に、この部屋の外と同じ迷宮の壁か床らしき、石畳が見える。空洞は真っ直ぐに伸びているわけではないらしく、どれだけ目を凝らしてもサリナたちの姿は見えなかった。試しにそのあたりにあった石畳の欠片を落としてみたが、単なる竪穴ではないためだろう、音が返ってくることは無かった。クロイスは目を細めて仔細に観察した。狩りで鍛えられた距離感を測る能力が役立った。
「はっきりとはわかんねえけど、たぶん城で王様の部屋から下りて来た時ぐらいの距離だな」
「わかりました。ありがとうございます。助かりました」
 セリオルとフェリオのふたりはテーブルにそのあたりにあった布を広げた。どうやらここに至るまでにサリナが口にした言葉から、水晶の在り処を推測しようとしているようだった。迷宮の大きさと、穴から確認できる迷宮の底と思われる場所までの距離、そしてサリナの言葉を思い返すことで、巨大な立体である迷宮のどこに水晶があるかを割り出そうと言うのだ。クロイスにはそんなことが出来るとは想像もつかなかったが、このふたりがやろうと言うのだから出来るのだろうと、彼はそう考えた。
 ふたりが協力して頭を絞っている間、クロイスは魔物が現れた時に備えて武器を調えた。矢の数を確認し、弦の張りを確かめる。少しだけ緩んでいたので、手早く張り直した。続いて短剣を抜き、切れ味を確かめた。少し刃こぼれをしている。迷宮を出たら、王都の店で買い換えたほうがいいかもしれない。
 そうやって時間を潰しながら、クロイスはセリオルとフェリオのことを考えていた。
 これまでの旅で、彼はこのふたりのことをまだあまり理解出来ていないと感じていた。フェリオに対して、彼は苦手意識があった。それは恐らく、リプトバーグでフェリオの作戦に乗せられたために財布を掏ったことが露見したことが理由だった。ただ、フェリオには温かな優しさがあることもクロイスは気づいていた。彼は兄弟の最年長としてこれまで弟たちを養ってきたが、フェリオはどことなく、自分にとって兄のように接してくれている存在なのかもしれないと感じ、少しずつ親しみを抱き始めていた。
 セリオルのことも、クロイスは少し苦手だった。常に明晰な頭脳で仲間たちを導く彼だが、クロイスはそんな天才的に頭の良いセリオルが、少しだけ怖かった。何か失敗をすると厳しく叱られるのではという懸念があった。
 だがさきほどのセリオルの様子を見て、クロイスは安心していた。いつも完璧に見えたセリオルにも、人間らしい感情的なところがあったからだ。貧民外の荒んだ環境に身を晒してきた彼には、ひととの距離を測りながら接する術が染み付いていた。もっとセリオルに対しても近づいてもいいのかもしれないと、彼は思った。
「大体の見当は付きましたね」
「たぶん間違いないな」
 布を畳み、セリオルとフェリオはテーブルから離れた。
「行くぞ、クロイス」
 声を掛けられ、クロイスは返事をして立ち上がった。
「行くって、水晶のとこへか? サリナたちは?」
 弓、矢、短剣を素早く身に付けながら、クロイスは尋ねた。セリオルが布をくるくると巻きながら答えた。
「落ちたところからここへ戻って来れる可能性は低い。サリナたちも、恐らく水晶の在り処へ向かうはずです。合流するとしたら、そこでしょう」
 クロイスは思った。やはりセリオルは、サリナたちの力を信じている。それはきっと、サリナたちのほうでも同じだろう。セリオルとフェリオのことを信じて、最深部へと向かうはずだ。
 ま、そんなことわかってたけどな。クロイスは短剣を鞘へ戻し、胸中で呟いた。彼とて、サリナやカインの能力はよく知っている。彼らがこんなことで参るふたりではないことはわかっていた。
「行きましょうか」
 セリオルは確信を持って扉を開いた。進むべき道の目当ては付いていた。
 サリナ、カイン、アーネスと、セリオル、フェリオ、クロイス。6人が3人ずつに分かれて、水晶の存在する最深部を目指す道を辿り始めた。

挿絵