第34話

 地の幻獣の恐るべき咆哮に、サリナは身体が痺れるようだった。大地の底から湧き上がるような、力強く逞しい咆哮だった。大気が震え、サリナたちは幻獣の秘める力の片鱗を見た。
「幻獣、なんという力だ!」
 アーネスは盾と剣を構えて叫んだ。目の前には、かつて対峙したことのない存在がいた。エリュス・イリアで神と呼ばれるもの。神々しきマナを放つ、幻の獣。
 アーサーは地を蹴った。美しい翼がはためき、その身を包む琥珀に煌くマナが流れるように溢れる。
 素早く、サリナたちは散開した。幻獣の突進は虚空を進むのみだった。
「アシミレイトが、出来ないのに!」
 サリナはひとまず防御の魔法と守護の魔法を詠唱した。風の峡谷でのヴァルファーレとの戦いで、物理的な攻撃とマナによる攻撃の両方に注意が必要だと、彼女は学んでいた。
「幻獣には物理的な攻撃は効きません。アーネス、マナでの攻撃は出来ますか?」
 詠唱に備えてマナを練り上げながら、セリオルが叫ぶ。彼もマナを奪う攻撃を受けないよう、全身を緊張させていた。
 アーネスは頷き、剣と盾を収めてベルを取り出した。サリナとカイン以外は、その繊細な装飾の美しいベルを見て、目を丸くした。
「来たれ風の風水術、音波の力!」
 たおやかなベルの音が響く。美しいその調べは、しかし空気を切り裂く音速の波となってアーサーを襲った。アーサーは迅速な動きでそれを回避したが、音波は後ろの壁を簡単に破壊した。セリオルとフェリオは感心したような声を上げ、クロイスは青ざめた。
「偽物があれ使ってこなくて良かった……」
 クロイスはフェリオのもとへ走った。彼にはマナによる攻撃方法が無かったが、ある考えがあった。
「フェリオ!」
 名を呼ぶ声に、フェリオは顔を向けた。クロイスがこちらへ走って来る。その後ろへ飛来するものを見て、フェリオは顔色を変えた。
「クロイス、危ない、後ろ!」
 言われて、クロイスは振り返った。錐のように尖った岩がいくつか、空中を自分に迫りつつあった。アーサーの姿が見える。その目が怪しく光っている。奔出する地のマナの光。
「うわっ」
 クロイスは走る方向を直角に変えた。岩の錐は今しがたまで彼の走っていた先の床を穿った。砕ける岩の欠片が飛び散る。
「こ、こえええええ」
 クロイスは顔が引き攣るのを自覚した。フェリオが駆け寄ってくる。アーサーに向けて、セリオルの魔法が放たれた。幻獣はそれを訳も無く回避してみせる。
「大丈夫か?」
「あ、ああ。ひやっとした」
 フェリオの手を借りて、クロイスは立ち上がった。膝が擦りむけていた。
「フェリオ、マナストーンの爆弾はまだあるか?」
「ああ、少しだけどな」
 フェリオは爆弾を取り出した。石ころ大の大きさの球体が4つ。
「幻獣にはマナの攻撃しか効かないって、ほんとか」
「ああ。ヴァルファーレと戦った時がそうだった。あの時はアシミレイトして戦ったけど、今回はきついな。魔法が扱えない俺たちには」
「爆弾はどうしたら爆発するんだ? さっき弾丸でも爆発してたな」
「強い衝撃が起爆剤になる。炎のマナストーンを刺激するんだ。俺の弾丸とか、君の矢でも出来ると思う」
 フェリオは爆弾をふたつ、クロイスに手渡した。ふたりがアーサーと戦う手立ては、今はこれだけだった。ふたりは頷き合い、仲間たちを支援するべく走り出した。
 攻撃の要はセリオル、カイン、アーネスの3人だった。黒魔法、青魔法、風水術が代わる代わるアーサーを襲う。しかしアーサーは動きが速く、また咆哮によってマナを無力化することも出来たので、なかなかダメージを与えられずにいた。
 アーサーとて自らを襲う攻撃を回避しているばかりではなかった。彼はしばしば咆哮を上げ、その音圧で相手の動きを奪った。そこに岩の錐が飛来する。錐は周囲にいくらでもある石材から生成された。地のマナの力か、石はアーサーの意のままに動き、セリオルたちを苦しめた。
 仲間を襲う錐を、サリナはことごとく黒鳳棍で迎撃した。彼女は風となって縦横無尽に走り、アーサーの攻撃を無効化した。戦局は膠着状態に陥ったように見えた。
「くそ……」
 息を切らせて、カインは膝をから力が抜けそうになるのをなんとかこらえた。マナの減少が著しい。汗が流れ落ちる。
 アーサーがひときわ大きく咆哮した。これまではひとりひとりに向けられたが、今、幻獣は天を仰ぐかのような姿で声を轟かせ、それは音の津波となってカインたちに襲いかかった。
「この力……!」
 動きを奪われるばかりか、その場から吹き飛ばされそうになる。アーネスはそれには負けまいと、なんとかその場に留まるべく両膝に力を込めた。しかし少しずつ、彼女は姿勢を下げ、ついに膝をついた。
 渾身の力で踏み止まるアーネスに、土砂のような土と石の塊が降り注いだ。これまでのアーサーによる攻撃で砕け散った石材と、その下にあった土だった。マナを注がれた土砂は龍のようにうねりながらアーネスを襲う。
 我が身に迫る危機にアーネスが盾を掲げるより早く、真紅の風が舞い込んだ。
 脅威の身体能力だった。騎士として王国を守る職に就い5年、その前の見習い時代が3年。合計8年間の経験の中で、ここまで迅く、力強く、鋭敏な身のこなしをする者は見たことが無かった。アーネス自身も含め、王都にて隊長を務める他の3人の騎士たちと比べても、目の前の少女の動きは図抜けていた。
「大丈夫ですか、アーネスさん」
 降りかかった土砂の全てを、少女は棍と拳、そして脚とで打ち払った。まさに旋風。ひらりと舞う武闘着の裾は、風に舞い上げられた木の葉が静かに大地へ戻って来たかのようだった。
「あ、ああ……」
 ここまでの戦闘で何度か目にしてはいたが、目の前で膨大な土塊を払った様は、アーネスの度肝を抜いた。背を向けて立つ少女の姿は、しゃがんだ姿勢で見上げているためか、実際よりも大きく見えた。
「アーネス、攻撃を! マナ消費の少ないあなたが鍵です!」
 セリオルはエーテルを飲み、カインにも同じ薬を投げ渡していた。薬の残りにも限りがある。ここへたどり着くまでの度重なる戦闘で、マナの枯渇も体力の消耗も、限界点に近づきつつあった。
 アーネスはセリオルへ頷き、立ち上がってベルを構えた。
 しかしアーサーもただ待ってはいない。再び石の錐が生成され、サリナたちへと飛来する。
「青魔法の肆・スパイダーウェブ!」
 錐を放った隙を突いて、カインが魔法を発動した。現れた蜘蛛の糸がアーサーに絡みついた。地の幻獣の脚は粘着質の糸で石畳に貼り付き、素早い動きは出来なくなった。
「ぐあっ」
 代償に、カインは錐での攻撃を受けてしまった。まともにではなかったが、脚に鋭い裂傷が入った。鮮血が噴き出す。
「カインさん!」
 サリナは素早く回復の魔法を詠唱した。傷が癒えていく。
「来たれ地の風水術、彫塑の力!」
 土を削る風水術が放たれた。動きの鈍った幻獣を、その力は捕らえた。幻獣の身を土煙の刃が削る。大地の獅子はその攻撃に、思わず苦痛の声を漏らした。
「零厘の凍てつく水に慈悲は無し――ブリザド!」
 怯んだアーサーに、鋭い氷柱が飛来する。氷の魔法も大きなダメージを与えることに成功した。幻獣が膝を折る。
 その幻獣の足元へ、フェリオの爆弾が転がった。弾丸と矢が飛ぶ。爆弾は正確に撃ち抜かれた。炎と風の竜巻のような爆発。石の床が破壊される。粉塵が舞った。
「どうだ!」
「ちょっとは効いたか?」
 アーサーから離れた左右の位置で、フェリオとクロイスがそれぞれの武器を構えていた。爆発は凄まじく、その威力はアーサーの力を奪い去ったようだった。しばらく、粉塵の奥では何も動く気配が無かった。
「俺、さっきのやつラーニング出来たみてえだ」
 脚の傷が癒えたカインは、立ち上がりながらそう言った。
「ラーニング?」
 一緒に立ち上がって、サリナは尋ねた。初めて聞く言葉だった。
「青魔法だよ、青魔法。あの幻獣が使ったさっきの石の錐みたいなやつ。あれ、俺使えるようになったぜ」
「え! すごい!」
 カインは胸を張って見せた。
「気を付けてください。アーサーのマナは消えていません」
 セリオルが警告の言葉を口にした。彼の目は鋭かった。サリナたちはアーサーのいた方へさっと顔を向けた。粉塵は収まりつつあった。
 咆哮が響いた。これまでのどれよりも大きく、強い咆哮だった。身体が痺れる。吹き飛ばされそうになる。
「くそ、これなんとかなんねえのかよ!」
 クロイスが毒づくが、誰も何も答えなかった。それぞれに苦しい表情である。
「みんな、防御してください! マナが膨れ上がってます!」
「んなこと言っても、この状況じゃ……!」
 そう言ったカインに、圧倒的な量の土の奔流が襲いかかった。粉塵は晴れ、アーサーの姿が見えた。獅子はその身を震わせてマナを放出していた。琥珀に輝く地の力。それが塊となってそれぞれに迫る。
 一瞬だった。大咆哮に続く攻撃で、サリナたちは全員床に倒れ伏した。身体には重く、大地の力がのしかかっている。仲間たちのうめき声だけが聞こえる。
「よくやった、と言っておこう」
 アーサーの声は静かだった。あれほどの攻撃をした者の声とは思えないほどに。
「だが、やはり幻獣の力を借りずして、私を退けることは出来なかったな」
 どこか落胆の色を含んだ声だった。サリナは土の中で拳を握り締めた。静かだった。
「青魔法の弐・震天!」
 カインの声が響いた。サリナたちを押し込めた土の塊が崩壊する。それは土の下から放たれた、カインの魔法だった。土塊を攻撃し、その強度を奪っていく青魔法。サリナにのしかかる土塊も、少し強度が落ちたようだった。サリナは全身の力を込めて立ち上がった。
「うたかたの火炎よ現れ燃え盛れ――ファイア!」
「青魔法の壱・マイティブロウ!」
「来たれ風の風水術、突風の力!」
 セリオル、カイン、アーネスが全力で攻撃を仕掛けていた。3人ともぼろぼろだった。しかし攻撃の手は緩まない。アーサーは回避を続けた。さすがにさきほどの攻撃の直後、咆哮する力は無いようだった。
 逃げながら、アーサーは岩の錐を生成した。マナによる攻撃を連発する3人に、その矛先が向けられる。
「愚者よ見よ、その目が映すは我の残り香――ブリンク!」
 カインがさきほど受けたダメージは、防御や守護の魔法があっても甚大だった。二度とあんな傷を仲間には負わせまいと、サリナは幻影の魔法を詠唱した。身体に重なるようにして幻の姿が現れる。
「錐は気にしなくて大丈夫です! 幻が受けてくれます!」
 その言葉に、3人の術者は更に苛烈な攻撃を続けた。銀の拳が、火球が、音波がアーサーを襲う。幻獣は動きを鈍らせた。
 そこへまたしても爆弾が転がってきた。弾丸と矢。大爆発が起こる。2度目の会心撃だった。
 しかし幻獣は、その攻撃を甘んじて受けはしなかった。爆弾が見えた瞬間に、地を蹴って大きく回避行動をしていたのだった。爆弾を投げたふたりは大きく舌打ちをした。
「良かろう、渾身の一撃を見舞ってやろう」
 これまでに放ったマナが再び集結するかのように、アーサーに向けて周囲からマナの渦が起こった。同時に錐が放たれる。アーサーは咆哮することなく、じっと天を仰いでマナの集まるのを待つ。
 そうはさせじと、セリオル、カイン、アーネスの3人が術を連続で発動する。岩の錐は3人に向けて次々と飛来したが、それらはサリナ、フェリオ、クロイスの3人がことごとく迎撃した。迎撃役の3人は何度か攻撃を受けてしまったが、サリナが魔法で生み出した幻が身代わりとなった。
 術者3人は怒涛の攻撃を続けたが、セリオル、カインと続けてマナが枯渇した。エーテルも底をつく。ふたりは全身を覆う脱力感に、立っていることも出来なくなった。
「ちくしょう、打つ手なしか」
「こんなことなら、中級魔法も修得しておけば良かったですね……魔力吸収の魔法があればこうはならなかった」
 マナの消費が少ないアーネスは攻撃を続けたが、アーサーのマナは散らない。
 そしてついに、その瞬間が訪れた。
「さあ、備えたまえ。ソイル・エンゲージメント」
 土砂の姿をしたマナの塊が放出された。それは土砂の津波となってサリナたちに襲いかかった。絶望的な威力で、津波は全てを飲み込んだ。
 闇に塗りつぶされた意識の中で、サリナは仲間たちのことを思った。みんなこの土の津波に飲み込まれてしまった。アーサーのマナは、実体を持つ土となって覆いかぶさっていた。このままでは呼吸が出来なくなるのも時間の問題だった。身体に受けたダメージも大きい。指先ひとつ動かすことが出来ない。
 ここで全滅の憂き目に遭うのか――想像して、サリナは悔しさと申し訳無さで胸が張り裂けそうになった。父を助け出すための旅。そのために国王の協力を得ようと、挑んだ試練。その中で、仲間たちが命の危機に晒されている。
 これまでにも幾度も危機はあった。しかしそのたび、幻獣たちの力を借りてサリナたちは乗り越えてくることが出来た。いざとなれば幻獣の力を使えば、なんとかなる。そんな甘い考えが、どこかにあったのかもしれないと、サリナは考えた。それはとんでもない間違いだった。立ち向かおうとしていたのは、幻獣たちの中でも最高峰の力を持つという、玉髄の座の幻獣とともにある男である。サラマンダーたちでも、太刀打ち出来るかどうかはわからない相手だった。自分の力が足りなければ、こうして仲間が危険に晒される。
「私が、私が頑張らないといけないんだ」
 サリナは身体中に力を込めた。押し込められた土砂は、やはり限りなく重い。力を込めようと、身体は動かなかった。黒鳳棍を握ったままの手が冷たい。サリナは閉じたままの目から涙が溢れ出すのを感じた。なんとかしたい、このままでは嫌だという気持ちが、少女の小さな身体全てを支配した。
 どれだけの時間が経ったか、既にサリナにはわからなかった。ふと、サリナは遥か遠くに、あたたかなマナを感じた。大きく、全てを包み込むようにあたたかなマナ。それが大河のような雄大な流れとなって、彼女に向かって来た。きらきらと輝く、美しい光の粒。マナはサリナを包み込んだ。土の下にいるはずだったが、サリナは空に浮いているような感覚を覚えた。
 気づくと、サリナは土の上に立っていた。仲間たちの姿は無い。獅子の姿をした幻獣が、こちらをじっと見つめていた。
 サリナは足を踏み出した。全身を包むマナの光が、足を進めるごとに、次第に赤へ、真紅へとその色を変えていった。右手に携えた黒鳳棍が、真紅に染まる。
 アーサーが咆哮した。動きを縛る強力な咆哮。しかし今、サリナはその威力を微塵も感じなかった。足を運ぶことに、彼女は何の抵抗も受けなかった。
 サリナは駆けた。幻獣へ向かって、一直線に。岩の錐や土砂の龍が襲い来たが、棍の一振りで全ては無に帰した。簡単に、彼女はアーサーに接近した。
 真紅に染まった黒鳳棍が、力強い踏み込みとともに突き出された。そのひと突きは、サリナの纏った全てのマナを乗せた攻撃となってアーサーを貫いた。圧倒的な量のマナを受けて、アーサーは吹き飛んだ。土の上に転がって、幻獣は動かなくなった。
 サリナはその場でうつ伏せに倒れ込んだ。マナは散り、彼女の意識も途切れた。
 弱々しく、アーサーは立ち上がった。息も絶え絶えの様子で、彼はサリナのもとへと歩いた。
 横たわったサリナは、ただの小柄な少女だった。彼が与えた度重なる試練に、全身ぼろぼろだった。アーサーはその、意識を失って両目を閉じた無垢な少女に、顔を近づけた。
「見事だ、サリナ・ハートメイヤー。運命の子、解放者よ」
 少女の身体を包むように、アーサーは横たわった。身体の下の土が分解されていく。素早く広がった分解の波は、広間に流れた全ての土を消し去った。その下敷きになっていたセリオルたちの姿が現れる。アーサーは分解した土のマナを、サリナたち全員に分け与えた。これで少しは早く意識を取り戻すはずである。
 サリナが覚醒すると、既に仲間たちは全員目を覚ましていた。サリナは仰向けに寝かされた姿勢で、目の前にはセリオルとカインの顔があった。
「目が覚めましたか、サリナ」
 状況が掴めず、サリナは困惑した。
「あ、はい、あの」
 とりあえず身体を起こす。頭を動かすと、少しくらくらした。カインが、サリナが目を覚ましたと大声で仲間たちに知らせた。皆がそれぞれにやって来る。そこにはアーサーの姿もあった。
「大丈夫か、サリナ」
「まだ起きねえほうがいいんじゃねーの?」
 サリナを心配する言葉を口にする仲間たちに、サリナは微笑んで見せた。身体は重かったが、立てないほどではなかった。
「大丈夫です、ご心配おかけしました」
 立ち上がって、サリナはぺこりを頭を下げた。その様子に、仲間たちは小さく笑った。サリナはなぜ笑われたのかわからず、きょろきょろした。
「サリナ、貴殿がアーサーを倒したそうだな」
「ええ?」
 アーネスの言葉に、サリナは本格的に混乱した。土の中で意識を失って自分の無力を噛み締めて後、彼女の記憶は途切れていた。
「なんだ、違うのか? アーサーはそう言っていたが」
 アーネスは振り返ってアーサーを見た。幻獣はその場に横たわり、何食わぬ顔であくびをしている。
「まあ、覚えていないのも無理は無い。まぐれみたいなものだ、あれは」
「なんだこいつ、こんな気だるい感じなのか」
 クロイスが驚いたような呆れたような声で言った。アーサーはその言葉にも何も反応しなかった。
「ごめんなさい、ほんと全然覚えてないです……」
 申し訳なさそうに言うサリナだったが、仲間たちはそれほど気にはしていなかったので、またしても笑いが起こった。サリナは頭を掻いた。
「ともあれ」
 アーサーが立ち上がった。美しい翼がふわりと揺れる。琥珀色の光の粒子が舞った。
「君たちは私の試練を乗り越えた。国王の元へ戻るとしよう」
「え? いやいや、水晶は?」
 クロイスが慌てて言った。アーサーはまた小さくあくびをして、こともなげに言った。
「ああ、あれはブラフだ。幻獣の試練を受けて来いなんて、ヴリトラも言うわけにはいかないだろう」
「な、な、なんじゃそりゃー!」
 クロイスとカインのふたりが声を合わせてそんなことを言った。アーサーがあくびをして、呆然としているサリナたちを尻目にたてがみを揺すった。すると足元に大きな魔法文字と円陣が現れ、琥珀色の光を放った。視界が光に包まれる。
 一瞬のホワイトアウトの後、サリナたちは謁見の間にいた。光の溢れる謁見の間。瞬間、サリナは自分がどこにいるのかわからず、きょとんとしてあたりを見回した。玉座にヴリトラ国王がいた。驚きのあまり、思わず変な声が出てしまった。
「アーサーの試練を超えたか。見事だ」
「ここ、国王様!」
 汚れてぼろぼろの服装だったが、ひとまずサリナたちはその場でひざまずいた。アーサーは王のもとへ歩いて行った。
「彼らの力は本物だったぞ、ヴリトラ。特にサリナ・ハートメイヤーは見上げたものだった」
「そうか。よくやってくれた、アーサー」
 国王は立ち上がり、段を下りてサリナたちへ近づいた。鷹揚な声が心地良く響く。
「顔を上げよ。立つが良い」
 その言葉に、サリナたちはさっと立ち上がった。国王は顔に笑みを浮かべていた。
「驚いただろう。アーサーがいて、水晶など無かったとあっては」
 その言葉に、アーネスを除いた全員が頷いた。アーネスは敬礼の姿勢をとっていた。
「実を言うと、そち等の話が真実であることは最初からわかっていたのだ」
「なにー!」
 堪え切れず、カインが叫んだ。相手が国王であることはもう忘れてしまっていた。これくらいのことで国王が怒ることは無いとわかっているセリオルとフェリオは溜め息をついただけだったが、サリナとクロイスは慌てた。アーネスも溜め息をついた。
「俺たちは一体何のために試練を受けたんですか?」
 カインが口にした疑問には、その場の全員が同感だという顔をした。国王はその反応を楽しむように髯を触っている。
「あれはアーサーの提案でな」
「アーサーの?」
 サリナはアーサーの方へ顔を向けた。地の幻獣は、玉座の脇に横たわってあくびをしている。
「アーサーは統一戦争以来の歴代国王と王政を見守る存在として、城の地下に居を構えていたのだ。国王は戴冠式の後、アーサーと対面してその秘密を継ぐ。そして王国が危機に面した時、それを救うための人材を試すためにアーサーが造ったのが、あの試練の迷宮だ」
 サリナたちは言葉を失った。驚くべき事実を耳にしたためもあったが、そのような秘密を自分たちに明かす国王に驚いたこともあった。
「ということはアーサーが、私たちの話が真実であると国王様に告げたのですか?」
 セリオルが質問した。彼には事の全容が大まかに見えてきていた。
「その通りだ」
 身を翻して、国王は玉座へ戻った。深く腰を下ろし、頬杖をつく。相変わらず、ヴリトラの顔には楽しんでいるかのような笑みが浮かんでいる。
「そち等がそこで幻獣たちを現した時、私は意識下でアーサーと会話していた。その時既に、そち等の話が真実であることはわかっていた。おそらくそち等の連れて来た幻獣たちも、私の後ろにアーサーがいることをわかっていただろう。試練はそち等の話が真実であるかを見極めるためではなく、そち等が幻獣の助けが絶えた時にどこまで闘えるかを見るために与えた」
「あいつら、何も言わなかったじゃねえか」
「まあでも、わかってたんだろうな。幻獣同士のことだし、アシュラウルたちにとっては物理的な距離なんて意味が無い」
 スピンフォワード兄弟がそんな会話を交わした。その言葉に、サリナも納得した。恐らくサラマンダーたちも、サリナたちが試練を受ける必要があると判断したのだろう。
「ともかく、そち等は見事試練を乗り越えて見せた。その力量を、余は賞賛しよう。見るに、我が王国の筆頭騎士隊長ですら限界を迎えるほどの試練だったようであるしな」
 アーネスが顔を伏せた。彼女は口惜しそうな顔をしていた。
「申し訳ありません、国王様。監視役であるはずの私自身が、自分の身を守ることだけで精一杯でした」
 その言葉に、王はにやりと唇を上げた。我が意を得たりという表情だった。
「どうだった、アーネス。彼らの力は」
 問われて、アーネスは顔を上げた。決然とした表情で、彼女は口を開いた。
「迷宮の中で、私は何度も彼らに助けられました。彼らの力は本物です。私が保証致します。王国騎士団や神殿騎士団に入れば、すぐに隊長となれるだけの力を全員が持っています」
 国王は頷いた。王は立ち上がり、錫杖を振った。サリナの元にあった獅子の装飾が、ひとりでに錫杖へと戻っていった。
「サリナ・ハートメイヤー、セリオル・ラックスター、カイン・スピンフォワード、フェリオ・スピンフォワード、クロイス・クルート。そち等5人に、余の名において幻獣研究所の調査を命ずる。気取られぬよう、十分に留意して調査せよ。そのために必要な支援は、惜しみなくすることを約束する」
 国王の言葉に、サリナたちは深く頭を下げた。心からの感謝の言葉が口を衝いて出た。エルンストを救出するための、力強い後ろ盾が出来た瞬間だった。
「これを返そう」
 アーサーの声だった。彼がたてがみを振ると、サリナたちの前に再び魔法文字と円陣が現れ、次いで迷宮の入り口に置いてきたリストレインが姿を現した。サリナたちは駆け寄り、それぞれの元の位置へリストレインを装備した。
「これがあるとやっぱ安心するな」
 クロイスの言葉にフェリオが頷く。
「ああ、しっくり来る」
 サリナも同じ思いだった。色を取り戻し、真紅に煌くリストレインとクリスタル。その中で、サラマンダーの瞳が輝いたように思えた。彼はサリナに、黙っててごめんねとでも言いたいようだった。
「アーネス」
 国王が騎士隊長の名を呼んだ。アーネスは最敬礼の姿勢をとる。
「これを持て」
 国王は、その手に細長い金属製の箱を持っていた。重厚なつくりで、細やかな装飾が施されている。
「国王様、これは……?」
「開けてみよ」
 アーネスがゆっくりと封を解くと、隙間から光が漏れ出した。琥珀色の光だった。
 箱の中には、琥珀色の不思議な金属で出来た、騎士剣の鞘が収められていた。光はすぐに止んだが、その鞘の持つ神秘的な雰囲気に、アーネスは心を奪われた。
 アーサーがひと吼えした。地の底から響くような声とともに、アーサーは光に包まれた。やがて光は収縮し、そこには琥珀色の小さな球体、クリスタルがあった。
 クリスタルは宙を飛び、アーネスの持つ鞘に開いた3つの穴のうちのひとつに収まった。
「こりゃ、リストレインか?」
「ええ、王国が保管するという、地のリストレインでしょう」
 自分の後ろで聞こえるカインやセリオルの声に、アーネスは緊張した。リストレイン。サリナたちから何度か聞いた言葉だった。どうやら幻獣に関する物らしいと、アーネスはその言葉を認識していた。そして鞘の持つ神秘的な煌きは、たった今サリナたちが身に付けた物と酷似していた。
「触れてみよ、アーネス」
 国王の言葉の真意を量りかねるアーネスだったが、サリナたちは違うようだった。彼らは驚きの声を上げた。
 命じられ、アーネスは琥珀色の鞘に触れた。鞘は仄かに、琥珀色の光を放った。

挿絵