第35話

 学究街区にある美しい白亜の建物が、王立高等学院である。初めて王都を訪れた者が王城と見紛うことも多いという、重厚な佇まいでありながら気品に満ちた建物。白を基調とした制服に身を包んだ生徒たちが出入りする。
 サリナはその学校の長い廊下を歩いていた。隣にフェリオとふたりの教師の姿がある。廊下には太陽の光が窓から差し込んでいる。広い校舎の中の、長い廊下。サリナは緊張に覆われながらそこを歩いている。
「しかし嬉しいよ、君たちが入ってくれて」
 教師用の法衣を纏った長身の男性が言った。編入生として職員室へ挨拶に行った時、彼はクリストフ・ベルトラムと名乗った。フェリオが在籍することになる、物理学部の教師である。紳士的な佇まいの、いかにも学者風の風貌だった。
「竜王褒章を受章した、あのフェリオくんが我が教室に入ってくれるとはね」
 試練の迷宮攻略から数日。フェリオの話は既に王都中に広がっていた。若くして最高の栄誉を手にした蒸気機関技師。そしてその彼が、物理学――蒸気機関の研究には欠かせない学問――の専門的な修得を目指して、王立高等学院に編入するとの噂である。
「君が入ってくれることで、教室の士気も上がるだろう。皆への良い刺激となることは間違い無い。楽しみだよ、実に」
 子どものように純粋にそんなことを言うクリストフに、フェリオは苦笑した。
「僕が竜王褒章を授かることが出来たのは、偶然の産物ですよ。たまたま発見した鉱石がそういう特性を持っていたというだけで」
「いやいやいやいや、何を言ってるんだい」
 思わず立ち止まって、クリストフは大きな身振りを交えて熱弁を振るった。
「発見出来たこと自体は偶然だとしても、それは幾度も幾度も繰り返した発掘の賜物だろう? それはもはや偶然ではなくて、発見されるべくして発見された、いわば君によって発見される運命だったということだよ。そう、すなわち必然さ。君の論文は拝読したよ。素晴らしい熱意と情熱、そして探究心! お世話になったお兄さんの名前なんだろう、カインナイトの“カイン”は? 実に素晴らしい。素晴らしい研究者だよ、君は!」
 頬を紅潮させすらして、クリストフは興奮した口調だった。フェリオはその様子にぽかんとしてしまった。隣りでサリナも同じ顔をしていた。
「うちのサリナさんだって負けてはいなくてよ」
 きりりと冷えた水のような清冽な声で、サリナの教室を受け持つ女性教師が言葉を差し挟んだ。彼女は名をカルラ・フェルレルと言った。切れ長の目で髪をひっつめにした美人で、女性にしては長身である。教師用の法衣がよく似合う、知的な美女だった。
「18歳にして白魔法の初級術を全て修めた才媛なのだから。それに、役人登用試験を受けるための基本的な知識分野の修得も終えているのよ。育ててくれたおじい様とおばあ様に恩返しをするための努力……素晴らしいわ。編入後の教室では他の生徒たちはまだ白魔法の理論構築を学び始めたところだから、習熟者として皆を手助けしてあげてね」
 冷静そうに見えたカルラも、サリナのことをうっとりと夢見るような瞳で語った。サリナとフェリオは、やはりその様子にぽかんとしていた。このひとたちは、なぜこんなにも自分たちを褒め称えるんだろう?
「国王様直々のご推薦というのは、やはり凄いな」
「ええ。私たちの探求の道を照らす、期待の星ね」
 教師たちはそんな会話をしながら廊下を歩いた。サリナとフェリオは、教師たちが自分たちに寄せる期待の正体を推測した。優秀な学生が教室に入ったことによる、白魔法学や物理学の発展、もしくは後継世代の隆盛を祈願しているのだろう。
 それを思って、サリナは胸が痛んだ。自分にそんな思いを寄せてくれることを嬉しく思いながらも、自分たちの在籍が仮初のものであることが、いつか教師たちを落胆させてしまうだとうと考えて。傍らを見ると、フェリオも僅かに目を伏せているようだった。
 廊下は長く、教室へはまだ到着しない。サリナは教師たちと他愛無い内容の会話をしながら、さきほどの学院長室でのやり取りを思い返していた。

 国王からの書状をじっと見つめる学院長の顔は険しかった。
 フリーデグント・フォン・ディングフェルダー学院長は、かつてこの学院を国王と同期で卒業した人物で、今も国王との親交が深い。国王が王族や貴族、騎士たちを招いて行うパーティなどに招待されることも多く、貴族の中でも優れた人物でないと務めることの出来ない高等学院学院長という職に永く腰を据える、教育界の巨人である。
 眼鏡の位置をくいと直して、学院長は口を開いた。
「事前に国王から通達がありました。国王直々の紹介状を携えた若者がふたり、高等学院に編入を希望して来ると」
 口調は丁寧だったが、学院長の目には鋭い洞察力が宿っていた。その目はサリナとフェリオを貫いた。
 国王の紹介状は本物だった。然るべき手続きを経て発行された紹介状で、国王の印も捺されている。その書類自体に、疑わしき点は何ひとつ無い。自分たちの身分は十分に保証されている。
 だがサリナは不安だった。紹介状自体は正しきものだが、そこに書かれているサリナの経歴は嘘八百だったからだ。
 対して、フェリオの経歴は嘘偽りの無い真実が記されている。ゼノアの目に留まってはいけないサリナと違って、フェリオは既に有名人である。経歴を詐称することに、何の意味も無かった。
「サリナ・ユリマキさん」
 偽名である。確実にゼノアの目に留まってしまうハートメイヤー姓を名乗るわけにはいかなかった。名を呼ばれたサリナは、さっと姿勢を正した。
「あ、はい」
「白魔法学部、フェルレル教室への編入をご希望と」
「はい」
「目的は、中上級白魔法の修得、研究……」
「はい、そうです」
「あなたのことを、疑うわけではないのですが――」
 言葉を切って、学院長はサリナを見つめた。腰掛けていたソファから立ち上がる。学院長の瞳は深い青で、ユンランから船で渡った海の色を思わせた。
「私自身も、念のために確認させてください。あなたが修めているという、白魔法の腕を」
 その言葉に、サリナは無言で頷いた。フェリオがサリナから少し離れる。サリナは目を閉じ、詠唱するためにマナを練った。
「愚者よ見よ――」
 その呪文に、学院長は小さく、ほうと感嘆の声を漏らした。サリナの周りに幾何学的な紋様や魔法文字が浮かび、回転して円陣となる。
「その目が映すは我の残り香――ブリンク」
 円陣は瞬間的に開き、すぐに収束してサリナの身に溶け込んだ。同時にサリナの身体に重なるようにして、幻のサリナの姿が現れる。術を掛けられた者への物理的な攻撃を身代わりとなって受けてくれる幻を生み出す、幻影の魔法。
「ブリンク……初級白魔法の中で最も難易度の高い魔法」
 そう呟く学院長に、サリナは頷いた。学院長はゆったりとした拍手をサリナに贈った。
「いいでしょう、十分です。国王の言葉は嘘ではないようだ」
「ありがとうございます」
 少しばかり心を痛めながら、サリナは礼を述べた。その表情は明るくはなく、学院長は僅かに訝しく思った。しかしサリナの隣りのフェリオが何の動揺もしていないようだったので、学院長は自分の思い過ごしだろうと考えた。
「では、フェリオ・スピンフォワードさん。あなたは自らを証明する術を持っていますか?」
 学院長の言葉に、フェリオは迷い無く制服の上着の下から竜王褒章のメダルを取り出した。勇ましい竜王の姿が彫られた、白銀に輝くメダル。
「必要であれば、蒸気機関の新しい排熱装置に関しての理論をお話しします」
 学院長はゆっくりとかぶりを振った。首を振ったその顔には、笑みが浮かんでいた。
「必要ありません。そのメダルだけで十分です」
 メダルは制服の下にしまわれた。メダルが収まったところを、フェリオは制服の上から手で押さえた。
「フェリオさんの目的は、物理学の専門的な知識を修めること、ですね。物理学部、ベルトラム教室への編入」
 フリーデグント学院長は紹介状に今一度目を通し、そしてその手を下ろした。
 学院長は考えていた。国王から直々の紹介による編入など、前例の無いことだった。通常、編入には当然のことながら試験が課される。しかしこのふたりは、その試験さえも免除されての編入だという。理由は、国王がその実力を既に試したからということだった。
 学院の同期として、国王が非凡な人物であったことを、フリーデグントはよく知っていた。賢王と呼ばれるのも伊達ではない。
 しかし、とフリーデグントは考えた。国王の紹介があれば何の苦労も無く高等学院に編入出来るとなれば、それは公正な教育・研究を侵害する原因となるのではないか。
 それに、とフリーデグントは推測する。同じ時期に国王からの紹介がふたり。聞くところによると、職業訓練校にもひとり、国王からの紹介で編入する者がいるという。前例の無かったことが、同時に3件も発生している。こんな偶然が起こりうるだろうか。
 国王の書状には、国王の周辺のみで構成される鳳翼殿が、国益に有用な人材の発掘を始めたとあった。フェリオはちょうどその時期に竜王褒章受章があったため国王の紹介を受けることとなり、サリナと職業訓練校に編入するクロイスという少年は、鳳翼殿が地方で発見した逸材なのだという。
 フリーデグントは思案したが、答えはひとつだった。彼はヴリトラ国王をよく知っている。聡明で、賢明な人物である。紹介状が国王による発行であることに、疑いは無かった。にわかには信じがたい現象であったとしても、ヴリトラの行いに過ちは起こらないように、フリーデグントには思えた。これまでの統治においても、国王のひと声で方向性の変わった法案がいくつもあったが、それらは結果を見れば全て良い成果を生んでいた。
「では、職員室へ行きましょうか。あなたちを受け持つことになる教師を紹介します」
 サリナたちの先に立って、学院長は廊下へ出た。

 薄い緊張に全身を鎧われつつ、サリナは足を進めた。彼女が属することになる教室まで、もう間もなくだった。
 王立高等学院。エリュス・イリア全土から優秀な学生が集まる学校である。その運営はほとんどが国費でまかなわれているため、生徒の保護者らの負担は小さい。そのため地方の貧しい街や村からも進学を希望する者が多く、その中には役人登用試験を目指す者も多い。
 サリナは役人登用試験を目指すにあたって、学校には通うまいと決めていた。学費の負担は小さいとは言え、祖父や祖母にそれを負わせることはしたくなかったからだ。勉強は自分でも出来た。彼女にとって、それ以上は望むべきではなかった。
 しかしサリナにも、学園生活への憧れはあった。一時はダリウとエレノアの勧めで、高等学院や登用試験の専門学校の案内を取り寄せたこともある。そこには美しい校舎や、そこで学ぶ学生たちの華やかで楽しげな様子が描かれていた。
 フェイロンから王都へ進学する者はほとんどいなかったので、友人たちと進学についての話をすることは無く、彼女は自分の部屋でひとり、目にすることの無い学園生活への夢を馳せた。
 思いがけぬ形で高等学院へ通うことが出来るようになって、サリナはやはり嬉しかった。勉強は楽しいだろう。彼女は学ぶことが好きだった。それにもしかしたら、友だちもできるかもしれない。
 サリナは頭を振った。考えてはいけない。何のためにこの学校へ入り込んだのか、その理由を忘れてはいけない。重大な使命のためなのだから。父の命がかかっているのだから。
「気負うなよ、サリナ」
 フェリオの小さな声が耳に飛び込んできて、はっとした。並んで歩きながら、フェリオはサリナのほうを見ていた。
「エルンストさんのことがあるけど、今大事なのはこの学校に溶け込むことだ。自然体で、ここで学べることを楽しもう」
 フェリオの言葉はサリナの心に沁み込んでいった。緊張がほぐれ、心が軽くなるようだった。
「うん、ありがとう、フェリオ」
 フェリオは頷いて、先へ歩いていった。サリナは自分の教室に到着していた。
「どうぞ、サリナ。ここが私の教室、フェルレル教室よ」
 木製の扉を示して、カルラが紹介した。扉には“白魔法学部呪文構成研究課 フェルレル教室”とあった。
 カルラ教師は扉を開いた。中は広い教室で、ざっと20名ほどの学生たちが席を並べていた。その全員の視線が、開かれた教室の入り口へ注がれる。サリナはさきほどまでとは違う種類の緊張を覚えた。カルラの後ろについて、教壇まで進む。
「皆さん、今日からフェルレル教室へ編入する、新たな学究の徒を紹介します」
 やや大げさなカルラの口上に、サリナは背筋を伸ばした。自分を静かに見つめる20人の瞳が痛いように思える。
「サリナ・ユリマキさんです」
 カルラ教師は左手でサリナを示した。サリナは背筋を伸ばしたまま、口を開く。
「サリナ・ユリマキです。皆さんについていけるように頑張ります。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げるサリナを、しばしの静寂が覆った。不安に思ったサリナが顔を上げようとした、その時だった。
 喝采の拍手が教室に満ち溢れた。次いで、ようこそ、歓迎するといった言葉が飛び交った。サリナが顔を上げると、クラスメイトたちは皆笑顔でサリナを見ていた。サリナはほっと息を吐き出した。
「では、サリナ。前から3列目、左から3番目の席へどうぞ」
 サリナは返事をして、指示された席へ向かった。そこはサリナより少し長い髪の、女子生徒の隣りの席だった。
「よろしくね、サリナ。私、カミーラ。カミーラ・アウリン」
 カミーラと名乗った女子生徒は、明るい調子でそう声を掛けてきた。親しみに満ちた声だった。
「あ、よろしくお願いします、カミーラさん」
 椅子に座りながら、サリナは頭を下げた。その様子に、カミーラは吹き出した。
「ちょっとやめてよ、カミーラでいいよ」
「あ、え、あの、うん。よ、よろしくね、カミーラ」
「うん、よろしく!」
 にこりと微笑むカミーラに安心しながら、サリナは腰を下ろした。
「ねえねえ、私今18歳なんだけど、サリナは? 同じくらいだよね?」
 カミーラはサリナに興味津々な様子で、目を輝かせて質問してきた。早速親しくしてくれる生徒がいたことに、サリナは嬉しさを感じた。
「あ、うん、私も18歳。同じだね」
 微笑んで答えるサリナに、カミーラも微笑みを返した。
「これから仲良くしようね、サリナ」
「うん、ありがとう。えへへ」
 授業を始めるとカルラが号令をかけた。サリナへの紹介も兼ねて図書館へ移動して、白魔法修得の訓練をするとのことだった。図書館には魔法書が多く取り揃えられており、隣りには魔法の訓練が出来る修法堂があるとのことだった。
 サリナはカミーラと並んで移動した。移動の途中、サリナはクラスメイトたちから様々な質問を投げかけられた。出身地や年齢、これまでの経歴などがその主なものだった。経歴については多少の嘘をつかなければならず、やや心が痛んだが、その他のことについては真実をそのまま話した。セリオルからもそのように指示されていた。
「国王様直々のご紹介があったんでしょ? サリナって凄いのね!」
 元気の良い声でそう言うカミーラに、サリナは苦笑いしながら答えた。どう反応していいか困る言葉だった。
「もう初級は修得してるんでしょ? 中級の修得を始めるの? 私にも教えてね、お願い!」
「う、うん、いいよ。私の知ってることでよかったら」
「よいよい! よいよ、サリナちゃん!」
 そんなことをしている間に、図書館へ到着した。
 図書館はまた広く、まさに広大な書庫だった。高い天井のてっぺんまである書棚に、ぎっしりと学術書が詰まっている。そんな書棚がいくつも並んでいた。テーブルや個人用の机も多く設けられていて、蒸気機関による照明で照らされている。
「すごい……」
 圧倒的な知の宝庫に、サリナは茫然とした。この建物に収められた知識を全て修得するには、どれだけの時間がかかるだろう。そんなことを考えて、頭がくらくらした。
「ほらほらサリナ、本さがそ!」
 カミーラがサリナの背中を押した。バランスを崩しそうになりながら、サリナは足を運んだ。
 カミーラの目当ての本は簡単に見つかった。『初級白魔法・呪文解法』というわかりやすい表題の本だった。
 一方サリナはどんな本が自分の役に立つのかがわからず、カミーラに相談しながら探し歩いた。しかしなかなか見つからず、結局司書に頼って探してもらうことにした。
「サリナ、やっぱりすごい本を読むのねえ」
「そ、そうかなあ」
 サリナが読むべき本は、魔法学の棚の高い位置にあった。司書が梯子を使って取ってきてくれた本は2冊。『中級白魔法・マナの祝福と生命の喜び』と『中級黒魔法・マナの繁栄と躍動する力』。サリナはセリオルの喜ぶ顔を思い浮かべて、微笑んだ。この本を借りて帰ったら、セリオルさん喜ぶだろうなあ。
 サリナの学園生活は、このようにして始まった。

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